戦闘

 公時の心臓が早鐘のように鳴っている。周囲に公時たち以外に人の気配はなく静かだった。鼓動の音がやたらうるさく感じる。

 公時はデイダラと対峙していた。自分よりも遥かに大きい、文字通りの化け物だ。こんな相手と戦うことになるとは夢にも思っていなかった。

 ごくりと唾を飲み込む。ともすれば足が震え出しそうである。

 公時はゆっくりとアップライトに拳を構えた。その拳にはグローブがはめられている。

 空亡の言うおまじないとはこれのことだった。確かにデイダラの堅そうな身体を素手で殴れば、拳を痛めてしまいそうではある。もっとも公時の攻撃が通じるかは分からないが。

 お守り替わりにと持ってきていたが、こんな形で使うことになるとは思わなかった。


 ゴングはなかったが、闘いは既にもう始まっている。デイダラは両腕を下げて、ゆっくりと近づいて来た。よほど耐久力に自信があるのか、それとも何も考えていないのかノーガードだ。


 一撃でも貰ったら死ぬ可能性もある。元の世界では試合はおろか、こんな真剣勝負をしたことはなかった。初めてがいきなり命のやり取りとは、童貞を捨てるにしても程がある。

 攻撃を躱しつつ、何とか転ばせなければならない。

 普通に殴っても、それほどダメージは与えられないだろう。下手に懐に入り過ぎて掴まれてもアウトだ。こっちはボクシングのつもりでも、向こうは何でもありである。

 公時の身体能力にかかっていた。元の自分ではどれだけ練習しても身につかなかったが、この身体なら理想とするボクシングの動きが出来るかもしれない。

 脳内を色んな思考が巡っている。しかし、相手に先手を取らせずに動くことが肝心だった。


 公時は意を決すると、デイダラを中心に円を描くようなフットワークを刻み始めた。

 まずはアウトボクシングを主体に戦う。路地裏はリングよりも狭く、動ける範囲はかなり狭かった。追い込まれないように気をつける必要がある。

 公時は少し驚いていた。今までこんな軽やかにフットワークを使えたことがあるだろうか。自分が想像する動きを難なく行えるのだ。

 乗り物が変わると、こうも違うものなのか。今までとの違いに思わず苦笑いをした。


 しかしこれで不安の一つは消えた。

 公時は一定の距離を保ちつつ、速さで翻弄する。デイダラは周囲を素早く動く公時を、捉えきれていないようだ。


 初撃は公時からだった。背後に回り、ジャブを放つ。拳に堅い手応えが伝わってくる。分厚い筋肉に覆われているため、軽い打撃ではダメージは与えられないことが確認出来た。

 それでも攻撃を続ける。攻撃をしては離れ、またそれを繰り返す。倒すための攻撃ではなかった。


 度重なる攻撃に苛々したのだろうか。デイダラは両腕を広げて、公時を捕まえようと動いた。広げた両腕を公時目掛け、勢い良く交差させる。

 公時は素早く横にステップして躱す。攻撃を避けられ、デイダラの態勢が崩れて前のめりになった。無防備な頭部がさらけ出される。

 渾身のストレートを頭部に叩き込む。拳には確かな手応えが伝わった。

 そのまま倒れるかと思ったが、デイダラは足を踏み出して堪えた。それを見て、公時はバックステップで距離を取った。


 倒しきれるかと思ったが、想像以上の耐久力だ。太い首のせいで、簡単に脳が揺らされないのか。それとも脳そのものも小さいのかもしれない。

 ここで倒せなかったのは残念だが、収穫はあった。公時の打撃は全く効かないわけではない。そのことが分かっただけでも自信に繋がった。

 それに、ここまでは下準備だ。


 デイダラは上体を起こし、首を大きく鳴らした。顔中の血管が浮き出て、まさに怒りの形相である。

 公時はその様子にごくりと唾を飲んだ。何とも恐ろしくて、身体が震えそうになる。しかし、これからが本番なのだ。

 公時は構えを変えた。左手はこめかみ辺りに、右手は顎を防御するように位置し、デイダラと相対する。


 次の瞬間、デイダラは大きな足音を立て突進してきた。速さはそれほどでもないが、巨体が向かってくる様は迫力がある。

 突進しながら、デイダラは右腕を振り上げた。次の行動は振り下ろしてくるか、横薙ぎに払うかのどちらかだろう。どちらにせよ怒りに我を忘れた、力任せの攻撃だ。


 ここまでは空亡が提案した作戦通りだった。まずデイダラを怒らせ、単調な攻撃に導く。そしてここから先に必要なのは、覚悟と勇気だ。


 デイダラは振り上げた右腕を、予想通りそのまま振り下ろした。公時は恐怖を払いのけ、身体を前進させる。

 振り下ろされる拳をダッキングで躱し、デイダラの懐に入り込む。そして、すぐさま下から顎へと拳を突き刺した。

 鈍い音が響く。タイミング、威力共に申し分なかった。自らの突進の勢いも加わり、流石のデイダラも耐えきれず、前のめりに倒れる。

 地面に重い音が響き、土煙が舞った。


 公時は肩で息をしながら、地面に倒れたデイダラを見下ろす。背中にかいた汗の量が、どれほど恐ろしかったかを物語っていた。


「公時、やったね。なかなか上出来だよ」


 空亡の声に公時は振り返る。空亡は笑いながら、親指を立てた腕を突き出す。

 その声に応える余裕は公時にはなかった。上手くはいったが、失敗したら死ぬ可能性もあったのだ。精神的にも、かなり削られた。

 それでも自分の攻撃は悪鬼に通じたのだ。後二回、同じような恐怖を乗り越えないといけないが、希望は少し見えた気がする。

 病鬼はどんな様子だろうと見てみるが、別段焦った様子もなかった。腕を組んで平然としている。


 その時、デイダラの呻き声が下から聞こえた。意識までは奪えなかったようである。起き上がってきそうなので、公時は距離を取ろうとする。

 その時、公時はふとデイダラの姿に違和感を感じた。


「なんだ? こいつ……何か――」


 公時が言い終える前に、デイダラが起きざまに右腕を公時に向かって放つ。

 突然の行動に驚いたが、冷静に対応した。先程の攻防で、リーチは把握している。最小のバックステップで躱し、腕を引き戻す前に再び拳を叩き込む。上手くいけばもう一度倒せるはずだった。


 次の瞬間、公時の身体が吹き飛んだ。体重のある公時が宙を舞い、そのまま背中から地面に落ちた。衝撃で一瞬、息が出来なくなる。

 公時はすぐに身体を起こすが、何が起こったのか分からず混乱した。胸のあたりに痛みを感じる。当たる瞬間、後ろに跳んだことで衝撃を流すことが出来たが、もし直撃していたら意識を失っていたかもしれない。

 公時は胸を押さえながら起き上がる。骨は折れていないようだ。衝撃で唇を切ったが、この程度で済んだことはむしろ幸運だと言える。

 距離を測り間違えたのだろうか。予想より腕が伸びて攻撃を貰ってしまった。


 ひとまず落ち着いて気持ちを切り替えよう。公時は改めて構え、デイダラの様子を見る。

 デイダラもゆっくりと立ち上がった。公時は血を拭うことも忘れ、立ち上がるデイダラを呆然と見上げる。


 そう――文字通り見上げる形となったのだ。


 先程まで身長差はあったが、拳は頭に届く高さだった。しかし今のデイダラは、公時の倍近い身長になっている。

 ――身体が大きくなっている? そんな馬鹿なことがあるのだろうか。


「ははっ、驚いたかい? デイダラはね、倒される度に身体が大きくなるんだよ」


 病鬼が嬉々としながら言う。

 その言葉に公時は愕然とした。倒す度に大きくなると言うことは、仮にもう一度倒せたとしても、より大きくなると言うことだ。

 何より今の状況も最悪だった。この体格差では、もはやカウンターも合わせられない。かと言って通常の打撃では到底倒すことは出来ない。

 これは詰みではないのか。公時は絶望感に打ちのめされた。


「一ラウンド終了だよ」


 空亡の声が遠くから聞こえてきた。病鬼がデイダラに命じると、素直に彼女の元に歩いて行く。先程までの怒りはもう消えているようだった。

 公時も放心状態のまま、空亡の元に戻る。その歩みに力はない。


「おかえり、公時。本来ならセコンドとして椅子に座らせてあげたい所だけど、それも一回としてカウントされてしまうからね」


 空亡はいつもと変わらない様子で声をかけてくる。

 インターバルの間、公時は呆然として立ち尽くしていた。空亡があれこれと指示を出してくるが、ほとんど耳に入って来ない。

 頭の中は恐怖と、あと二回転んだら終わりという思いで一杯で、どうやって勝つかなど微塵も考えられなかった。

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