岩屋

 窓から射す陽の光に公時は起こされた。この世界で迎える二度目の朝だ。布団の上で朝を迎えられたのだから、初日とは雲泥の差がある。

 昨日は女媧たちと分かれた後、公時は空亡の家に向かった。家は木造二階建ての一軒家で、かなり古い建物のようだ。場所は公時と空亡が最初に出会った場所と、かなり近い所にあるらしい。

 部屋は各階に一つずつしかなかったので、公時は二階にある和室を使うことになった。昨日は流石に疲れ切っていたのか、布団に入ってすぐに眠ってしまったようだ。


 公時は布団から身を起こす。こちらの季節は分からないが、毛布一枚でも十分だった。寝る時に服を脱いで寝たため、下着だけの姿である。

 窓を開けて外を覗いてみると、相変わらず人気のない路地裏が広がっている。両隣と背後を高い建物に囲まれているため、かなり圧迫感があった。

 残念ながら目が覚めたら実は夢でした、ということはないらしい。


 公時は窓を閉めると、頭を掻きながら眠そうに欠伸をした。かなりの時間寝たようだが、今は一体何時ぐらいなのだろう。

 公時は携帯を取り、時間を見ようと画面を開く。ほとんど無意識の行動だった。

 直後にその行動が意味のないことだと気づき、公時は軽く舌打ちした。そもそもこの世界と時間は合っていないし、餓鬼との戦いの際に壊れたのか、時計は動いていなかったからだ。


「あれっ?」


 公時は画面を見てつい声が出てしまった。時間は十二時三十三分を示している。あの時は止まっていたと思ったが、直ったのだろうか。そうだとしても時計は合っていないはずなので、意味がないことには変わらないのだが。


 公時は携帯を床に置いて、布団の脇に視線を送った。そこには公時のショルダーバッグと着替えが置いてある。元々着ていたジャージに、新しいシャツと下着が丁寧に畳まれていた。寝ている間に空亡が準備したのだろうか。公時が脱ぎ散らかした服もなくなっていた。

 いつの間に部屋に入ったのだろう。空亡はあれで意外と世話好きで、几帳面な男のようだ。そういった点では案内人はぴったりの仕事かもしれない。


 公時はショルダーバッグを手元に引き寄せた。バッグの中にはグローブやバンテージなどのボクシング用品が入っている。

 バッグを開けると、公時はグローブを取り出した。パンチンググローブではなく、八オンスのボクシンググローブだ。マジックテープ式ではなく、紐で結ぶタイプのものだった。いつかプロになって試合に出れるようにと、お守りとしていつも入れていたのだ。

 を思い出して、心が少し痛くなった。

 しばらくグローブを見つめていた公時だったが、グローブを床に置くと改めてバッグの中を漁った。中から何かを掴むと、そのまま立ち上がる。


 公時は用意されていた服に着替えた。空亡と公時は体格がまるで違うが、どこにこんな着替えがあったのだろう。サイズがぴったりであることも少し気持ち悪い。

 着替えを終えると、公時は手に掴んでいた物――バンテージをポケットにしまった。床のグローブを拾い上げると、両方の紐を結んで繋げ首からぶら下げる。

 また昨日のように、悪鬼と戦うこともあるかもしれない。武器としてはあまり有用でないかもしれないが、お守りとして持ち歩こうと思ったのだ。


 着替えを終えると、公時は下の階に降りた。かなり古い建物のためか、歩くと床や階段が軋む。地震でもきたらすぐに崩れそうだった。

 下に降りると、何やら美味しそうな匂いがしてきた。公時は一階を見回してみる。


 一階には台所と小さな風呂がある。トイレは二階だ。空亡は風呂は狭いので、銭湯に行こうとしきりに主張していた。

 家具や電化製品は一通り揃っている。古いレトロ感のあるテレビもあったが、果たしてこの世界では何が映るのだろうか。居間の真ん中には炬燵があり、すぐ側には枕が置かれていた。元々二階は使っておらず、空亡は普段からここで寝ているらしい。

 炊飯器から蒸気が上がっている。他にも味噌汁の匂いもしてきた。昨日は食事もせずに寝てしまったので、空腹で腹が鳴る。

 空亡はというと、姿は見えなかった。どこかに出かけたのだろうか。


 それにしても空亡はいつからここに住んでいるのだろうか。出会って間もないせいもあるが、空亡について公時は良く知らない。どういった経緯でここに来たのかも分からないのだ。

 今度機会があったら聞いてみようと思った時、玄関の扉が開く音がした。


「おはよう、公時。今日もいい朝だね!」


 空亡は玄関で靴を脱いで部屋に上がった。服装は昨日と同じで、相変わらず帽子を被っている。


「気持ちのいい朝って、今何時なんだよ」

「ああ、公時の部屋に時計はなかったよね。居間にはあるんだよ」


 居間にある柱に掛け時計があった。時計は八時を指している。やはり携帯の時間は間違っているようだ。


「お、着替えは丁度良かったみたいだね。グローブなんか下げて、格好いいじゃないか。本当のボクサーみたいだよ」

「……お前はどこ行ってたんだ?」


 あまり突っ込まれるのは嫌だったので、空亡の指摘を公時は受け流した。


「ああ、僕はちょっとね。仕事をしてきたんだ」

「仕事って、案内人ってやつか? 他にも誰か案内しているのか?」

「僕は浮気はしないから安心してよ。今は君一筋だからさ」


 空亡の言葉に、公時は何か背筋がぞわぞわとした。


「公時と初めて出会った場所があるだろう。この世界に訪れる者は、必ずあそこに現れるんだ。いつもの癖というか、日課でね。習慣でつい見に行ってしまったのさ」

「なるほど……お前、毎日あそこで張っていたんだな」


 毎日あそこで待っていた割に、これまでに案内したのは二人目だ。あまり成果が上がっていないように思える。この世界にはあまり人が訪れないのだろうか。


「そんな刑事みたいなことはしていないよ。でもまあ不思議なことに、僕が声をかけると皆、無視するか気味悪がるか、怒るんだよね」

「ああ、そうだろうな。それは凄く分かる」


 空亡は心外といった感じだが、公時にはその人たちの気持ちがよく分かる。自分もそう思ったのだから、当たり前の反応に思えた。


「だからね。公時に出会えたことはとても嬉しかったよ。ああ、これが運命の出会いなんだなって」


 空亡はうっとりとした表情を浮かべた。公時としては勝手に運命を感じないで欲しいと思ったが、色々助けて貰ったことも事実だ。


「でもよ、ここに迷いこんだ奴ってどうするんだ? 仕事とか分からないままだと、悪鬼になるんじゃないのか?」

「仕事をやる必要があるのは、真名の姿になってからだからね。それに親切な村人は僕だけではないし、天岩屋はどの道を通っても、いつかは辿り着くようになってるんだよ」


 公時が現れた場所を入口として、そこから天岩屋まではいくつかルートはあるが、最終的には天岩屋に通じているらしい。あの建物は目立つし、気にはなるだろう。だが、昼の短い時間しか天照に会えないのでは、そのまま通り過ぎてしまわないだろうか。

 空亡に出会ってなかったら、自分はどうしていただろうと公時は考えた。


「さて、公時。これからまた天岩屋へ行こう」

「天岩屋? まだ何か用があるのか?」

「もちろんだよ。まあ、行けば分かるさ。途中で女媧も迎えに行こう。多分、まだ寝てるからね。ただその前に……」


 言いながら、空亡はちらちらと上目遣いに公時の方を見る。


「ご飯にする? お風呂にする? それとも……」

「飯にしようぜ」


 空亡が気分の悪くなることを言いそうだったので、公時は少し食い気味に答えた。





 それは路地裏の雰囲気に似つかわしくない建物だった。空亡の家が昭和なら、それは大正浪漫といった雰囲気で、タイムスリップをしたような錯覚を味わう。

 唐破風屋根の二階建て木像建築で、かなりの大きさだった。二階には建物を囲うように紅いぼんぼりが等間隔に並び、うっすらと建物を照らしている。夜になれば、より妖しく幻想的な雰囲気になるだろう。

 外観は空亡の家とは比較にならないぐらい豪華だ。入口には透し彫りで「百番」と書かれている。


 公時は建物の凄さに呆気に取られていた。先程から馬鹿みたいに口を開け、建物を眺めている。観光スポットなってもおかしくはない。この空間だけ時代が違っているようだった。

 ここに女媧が住んでいるという。建物が持つ妖しい色気は、主人を反映しているのかもしれない。


 空亡はというと、二階に向かって声を上げ女媧を呼んでいた。まるで子供が家の外から、友達を遊びに誘っているみたいだ。


「いないんじゃないのか?」

「いや、いるのは間違いないよ」


 その確信はなぜなのだろう。入口の扉は開いていた。


 公時は外から中を覗いてみた。

 玄関を上がった床には緋毛氈が敷かれ、来訪者を出迎えるように座布団が置かれている。普段は誰か座っているのだろうか。その背後には立派な絵が描かれた屏風が見えた。

 公時は入口に近づいて、玄関の中を見回す。


「うおっ!」


 誰もいないと油断していたので、公時は思わず声を上げる。

 玄関の脇に老婆が腰を掛けていたのだ。老婆は立派な白髪で、長い髪を後ろで束ねていた。顔に刻まれた深い皺に埋もれるように細い目をしている。簡素な着物姿をしており、杖に身体を預けるように座っていた。

 老婆は室内を覗く公時を見ると、鋭く睨みつけた。その眼光に、公時は少したじろいだ。気のせいか殺気を感じる。


「駄目だよ、公時。ここは客以外は入ってはいけないんだ」

「客? 誰の?」

「女媧に決まってるだろう。彼女と床を共にする、ね。そこにいるのは遣手婆さ。彼女は女媧の身の回りを世話しているんだよ」


 公時は老婆と目を合わさぬように様子を伺う。客を取るのであれば、もう少し愛想を身に着けた方がいいのではと公時は思った。

 老婆は公時たちには関心がなさそうに視線を外すと、俯いてじっと動かなくなった。目を閉じてまるで眠ってしまったかのようである。

 公時はこの老婆に女媧を呼んで貰おうかと考えたが、それを頼むことは気が引けた。


「……なんじゃ。うるさいと思うたら、やはり空亡に公時か」


 窓の開く音がして、上から女媧の声が聞こえてきた。

 二階の肘掛窓から女媧が身を乗り出している。さっきまで寝ていたのか、眠そうな顔だった。昨日までの服装とは違って着物を着ており、まるで花魁のような姿である。痴女から遊女になったかのような感じだが、これがここでの正装なのかもしれない。


「僕たちはこれから天岩屋に行くんだ。女媧も一緒に行こうよ」

「……ん、ああ。そうか……少し待っておれ」


 起き抜けで渋るかと思ったが、女媧は意外にもあっさり承諾した。


「婆や、着替えるからこちらに来てくれ」


 女媧の声はそれほど大きくはなかったが、老婆にはちゃんと聞こえたようだ。すっと立ち上がると廊下の奥に消えて行った。女媧も窓を閉め、室内に戻る。


 空亡と公時はその場で待つ。

 しばらくすると、二つの足音が二階から降りて来た。女媧と狼狽が姿を現わす。

 女媧は玄関で靴を履き外に出ると、両腕を上げ大きく伸びをした。先程の花魁姿から、初めて会った時の姿に戻っていた。


「婆や、儂はちと出かけてくる。留守を頼んだぞ」


 遣手婆は軽く頷くと、そのまま後ろに下がった。何も言わずに、玄関の引き戸を静かに閉じる。中から鍵をかける音がした。


「何か……怒らせちまったのか?」


 公時は女媧に近づき、小声で尋ねる。


「婆やか? いつもあんな感じだ。今日は機嫌が良かったぞ」

「あれで……そうなのか」


 機嫌が悪い時はどんな感じになるのか。想像するだけで公時は恐ろしさを覚えた。


「しかしお前、凄いとこに住んでるんだな……」

「そうかの? ここは儂の職場でもあるからの。それなりに見栄えは良くしておる」

「職場って……」


 それはつまり、そういう所ということなのか。


「さあさあ、二人とも。天岩屋に行こうか」


 空亡が急かすように二人の背中を押してくる。


「おいおい、あそこに何をしに行くんだよ? 仕事のことならもう聞いたじゃねえか」

「まあ、行けば分かるよ。今日は混むかもしれないから、早めに行こう」


 空亡はさっさと歩き出す。女媧も眠そうに欠伸しながら、黙って付いて行った。

 二人が行ってしまったので、公時も仕方なく後に続く。

 特に面白いことがあるわけでもない場所に、なぜこんなに行きたがるのか、公時には良く分からなかった。

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