調伏
路地裏の一角。のぼりに「ラーメン虎次郎」と書かれた屋台がある。禿げ上がった頭に鉢巻を巻いた、いかにもといった店主がこだわりのラーメンを提供している。味は美味いのだが、圧倒的な量が特徴だ。一般の人には完食することすらが難しい。
屋台の客は恰幅の良い女性が一人だけで、延々とラーメンを食べている。カウンターには女性が完食した丼がうず高く積み上げられていた。
「見ているこっちがもたれそうだな……」
公時は女性の食べっぷりを見て呟いた。時間は既に正午を過ぎた頃だ。食べ始めてから、何時間経ったのだろう。さっきまで痩せこけた餓鬼の姿をしていたことが、まるで嘘みたいだ。
自分では食事出来ない餓鬼に、ご飯を食べさせることは苦労した。空腹が満たされると餓鬼は元の姿を取り戻した。
元に戻ってからも、食事は止まらなかった。今までの分を取り戻すかの勢いだ。店主もこれだけの食べっぷりに嬉しそうにラーメンを作っている。お互いに取って絵良かったのだろう。
三人と一匹はその様子をじっと見守っていた。
「小気味のよい食べっぷりであるな」
腕に抱いた猫を撫でながら、眠そうに女媧が言った。
公時は女媧へ視線を送り、腕の中で眠る白黒の猫を不思議そうに見る。
この猫が伏儀だなんて、未だに信じられない。目の前で人から猫になる所を見ていたとはいえ、不可思議な光景だった。
伏儀は午前中と午後で、人から猫へと姿を変えるらしい。猫の姿になると猫そのものになるため、伏犠としての意識はなくなってしまう。そのせいで度々行方をくらまし、その都度女媧がわざわざ探しているのだそうだ。
餓鬼に襲われた時にいた猫も伏儀だったようだ。あの時、なぜ公時のことをずっと見ていたのだろう。
一応、助けてくれた恩人になるので、後でお礼をする必要があるだろう。人間の時にするのは嫌なので、猫のおやつでも探そうと思った。
「む、そろそろ頃合いかの」
食べ続けていた女性の変化に、女媧が気づいた。
それは不思議な現象だった。女性の身体から光の粒子のようなものが現れると、公時の方に流れて来たのだ。
「うわ、なんだこれ!?」
驚いて払いのけようとするが、粒子は手をすり抜けて、公時の身体に吸い込まれていった。それに伴うように、女性の姿は少しずつ薄れていく。粒子が全て吸い込まれると、女性の姿もなくなっていた。
「慌てるでない。特に害はない」
「害はないって……あいつ消えちまったぞ?」
公時は自分の身体のあちこちを触り、異常がないか確かめた。悪鬼になるんじゃないかと不安を感じたが、特に変化はなかった。
「調伏が完了したみたいだね。めでたしめでたし。一件落着だね」
空亡はパチパチと手を叩いている。
「めでたし、じゃないだろ! あいつ……死んじまったのか? それに何か光みたいなものが俺に入って……」
「公時、何を慌てているんだい? これでいいんだよ」
「調伏とは、悪鬼となった者を本来の姿に戻すことよ。そして悪鬼から人に戻った者は、浄化され消えるのだ。さきほどの現象は、調伏の証よ」
「消えるって……それでいいのかよ……」
せっかく救われたのに、消えるなんてあんまりではないか。何とも後味が悪い。
「悪鬼とはこの世界の病、悪鬼になることは罪なのじゃ。その咎は贖わなければならぬ。調伏はその咎から解放する行為よ。おぬしは彼女を救ったのだ」
「救ったって言われてもな……一体こいつは何をしたんだ?」
その罪とやらは、世界から消えなければならないほどのことなのか。
「そうだね。推測になるけど、彼女はきっと食べる事が仕事だったんじゃないかな。それを拒んだ結果、何も食べられない餓鬼になってしまった」
「食べなかった……たったそれだけで?」
「理不尽だと思うかい? この世界で皆、役割があるんだ。ラーメンを作ることも、道案内することも、誰かと寝ることも、何かを食べることも、この世界にとって等価値なんだよ」
どういった理由で彼女が食事を拒んだのかは分からないが、その代償として重過ぎないだろうか。
「憐れむのは良いが、躊躇うでないぞ。使命を果たさねば、おぬしも悪鬼に堕ちることになる」
女媧は真剣な表情で公時を見た。公時はごくりと唾を飲み込む。
空亡たちといると呑気な気になってしまうが、この世界は決して甘くないということだ。しかし、この二人もろくに使命を果たしていないように思えるが、悪鬼になったりしないのだろうか。
「……分かってるよ。とりあえずこれで、俺は仕事を果たしたことになるんだよな」
「うむ。餓鬼程度を調伏出来なければ、この先が思いやられる所であったぞ」
餓鬼程度と言うが、それなりに大変だった。他の悪鬼を調伏することがどれほど大変なのか、考えたくない。
「さて、今日の所は帰って寝るとするかの。さすがに眼が重いわ」
確かにもう昼を過ぎている。昨日から徹夜で全く寝ていない。公時も色んなことがあったせいで、疲れはかなり溜まっていた。
「そうだね。これからのことは、また明日にでも話そうか」
「これからのこと……?」
「悪鬼を調伏したといっても、まだ一体だけだよ。悪鬼の情報を集めて、探したり……ああ、明日から忙しくなるね」
空亡は何故か張り切っている。
「何でお前が忙しくなるんだよ」
「公時、冷たいじゃないか。僕は君の案内人だからに決まっているだろう」
「いや待て、だから何だよ!?」
「太陽が沈んでまた昇るように、これは自明の理だよ。僕の案内はね、君が全ての仕事を果たすまで終わらないんだ」
空亡の言葉に公時は一瞬目眩を覚えた。この世界にいる限り、空亡とずっと一緒にいることになるのだ。
「お前、ずっとつきまとうつもりか!?」
「つきまとうだなんて心外だな。ブーゲンビリアの花言葉を知っているかい? こんな気持ちは500年ぶりかもしれない」
空亡はうっとりとしており、公時の話など聞こえていないようだった。
恐らく公時が何と言おうが離れるつもりはないのだろう。短い付き合いだが、公時はそれだけは確信出来る。
「良いではないか。おぬしは鬼ヶ島に行けと言われ、一人で鬼退治しに行くつもりか?」
女媧は猫の喉を撫でながら言った。猫は気持ちが良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
確かに仲間はいた方がいいとは思うが、空亡は頼りになるのかという疑問はある。まだ犬や雉を仲間にした方が心強いような気がしなくもない。
「それに、おぬし。住む所もあるまい?」
公時はその言葉にはっとする。全く気が回ってなかったが、これからこの世界で生活していかなければならないのだ。ここに来たばかりの公時に、帰る家などあるはずがない。そもそも、この世界でも家を借りるものなのだろうか。
「女媧は――家とかあるのか?」
公時は我ながら変な質問だなと思った。
「もちろんじゃ。すまぬが、泊めてやることは出来ぬぞ?」
そういうつもりで言ったのではなかったが、断られると少し傷つく。
「公時はうちに来るといいよ。部屋も余ってるし、天岩屋も近くて便利な場所だよ」
天岩屋に近いことが便利なのか分からないが、このまま家がないのも困る。悔しいが今の所、この世界で頼れるのは空亡しかいなかった。
「世話になる……よろしく頼む」
「ああ、こちらこそ! 公時、改めてこの世界へようこそ」
ここに来てまだ一日しか経っていないが、公時には凄く長い時間に感じた。
この世界について、まだ謎だらけだった。考えることや、知らなくてはいけないこともたくさんあるだろう。厄介な仕事も果たさなければならない。
ただ、今はひとまず眠りたかった。
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