公時

「こやつは餓鬼という悪鬼よ」


 四人は餓鬼を囲うように立っていた。餓鬼は気絶したままずっと動かない。

 女媧が持ってきた懐中電灯は、伏儀と呼ばれた男が持っていた。相変わらず全裸だが、神妙な顔をしている。裸でいることに対して誰も突っ込まないので、黙っているしかなかった。

 真面目な場面のはずだが、どことなく緊張感がなくシュールな光景だ。


「餓鬼はおぬしが倒したのか?」

「ん、まあ。そうだな……」


 直樹は顔を逸らしつつ、頬を指で掻きながら答える。

 再会した時は興奮していて気が回らなかったが、二人から逃げ出した手前、今になって気まずさを感じていた。


「何だい、さっきのことを気にしているのかい? 逃げるは恥だが役に立つって言うじゃないか。僕らは全然気にしてないよ」

「何だそりゃ……馬鹿にしてんのか?」


 直樹は怒るより、むしろ感心した。この男のブレなさは、尊敬に値する。思いやりの言葉とかは、こいつの辞書にはないのだろうか。

 ただ、その変わらないやり取りに少なからず救われる。


「ままの意味で取るでない。どこぞの国の諺よ」


 本来の意味は、自分の戦う場所を選べという意味らしい。空亡がその意味で言ったとは思えないが。

 言いながら、女媧は直樹を見て、観察するように頭から足先までじろじろと視線を送った。


「な、何だよ?」


 何となく恥ずかしくなってたじろぐ。


「ふむ、見る限りでは悪鬼化はしていないようだの。伏儀よ、どうか?」

「はい。彼は悪鬼ではありません」


 伏儀はうやうやしく礼をしつつ答えた。口調がさっきまでとまるで違う。


「お前……さっきと随分様子が――」

「伏儀でございます。以後、お見知り置きを。先程は危なかったですね」


 伏儀は直樹の言葉を遮るように言うと、にこりと微笑む。

 その様子に直樹は鼻白んだ。さっきまであんなに時間軸が噛み合わなかった男が、まるで別人のようだ。


「こやつは儂の弟でな。伏犠という」

「は? 弟……!?」


 驚いたが、言われてみれば確かに顔立ちも似ていた。髪の色や露出度の高さなど共通点はある。しかし、姉弟揃ってこの世界にいるなど、あるのだろうか。


「こやつの眼は特別でな。悪鬼かどうかを見極めることが出来るのよ」

「眼って……見るだけで分かるのか?」

「はい。それと、彼のことはずっと見ておりましたので、間違いないかと」


 さっきもそんなことを言っていたが、何のことだろうか。いつどこで見ていたのか不気味だ。


「あ、そうだ。これは返すよ。ボクシング道具って意外と重いんだね」


 空亡は肩にかけていたショルダーバッグと――免許証を差し出した。受け取ろうと手を伸ばしかけるが、躊躇する。

 それを見た女媧が、直樹の目前に立つ。腰に両手を当て、踏ん反り返った。


「跪け。儂は見下ろされるのは好かぬ」

「はぁ? 何言って――」


 直樹が言葉を終える前に、女媧は直樹の急所に思い切り膝蹴りを見舞った。

 言葉にならない声が出た。直樹は両手で急所を抑えながら、地面に膝を着く。強制的に跪く形となる。


「お前何を……!」

「童貞のまま終わりたいのなら、そのままで良い。今度は潰してやるぞ?」


 苦悶の表情を浮かべつつ顔を上げる。身長差のため、二人の顔は同じぐらいの高さになった。


「聞け、公時。おぬしの真名のことだ」

「……もうその名前で呼ばないでくれ。真名が何だか分からないが、俺は公時じゃない」

「そうではない。おぬしは公時よ」

「は? だって俺は……」


 空亡の持つ免許証に視線を向ける。空亡は視線に気づくと、にっこりと笑った。


「聞くのだ、公時。真名というのは、おぬしが持っている本来の名なのだ」

「本来の……名?」

「そうじゃ。誰しもが真名を持っておる。向こうの世界では別の名と姿で存在するが、こちらの世界に来ると真名が持つ姿に成り変わる。この世界での姿が公時であり、おぬし自身であることに違いはないのだ」


 女媧の言っていることは難しくて、すぐには理解出来なかった。

 つまり、こちらの世界に来ると名前と姿が変わるということだろうか。そうだとしても、なぜそういうことになるのか全く分からない。

 公時という名前と姿が自分であると言われても、すぐには納得出来なかった。今までの自身とあまりにも違い過ぎるのだ。


「……姿が変わると、記憶も変わるのか?」

「いや、普通は記憶もそのまま引き継がれるよ。運転手は同じで、乗り物が変わるような感じと言えば分かりやすいかな」

「じゃあ、何で……」

「君の記憶について、思い出したことを聞いてもいいかな? それを聞けば、君の記憶が変わった原因が分かるかもしれない」


 あまり人に言いたくない話なので、直樹は躊躇った。その様子を見て女媧が声をかける。


「話したくなければ、無理に話さずとも良いのだぞ」


 直樹はしばらく考えた。話したくない気持ちもあったが、理由を知りたいという気持ちの方が強かった。

 意を決すると、直樹は本当の自分について話した。自分はプロボクサーではないこと。公時としての記憶が、自分がついた嘘から生まれたかもしれないことも。情けない自分自身をさらけ出すことは恥ずかしかったが、話し終えると案外すっきりとした気持ちになる。

 空亡たちは直樹の話を馬鹿にもせず、ちゃんと最後まで聞いてくれていた。


「なるほどね。おそらく記憶を変えたのは、君自身さ」

「な……俺が!?」


 予想外の言葉に直樹は驚いた。文字通りそんなことをした記憶はない。


「まあ聞きなよ。君の嘘はこうなりたいと思う願望だった。公時は見た目も強そうだし、君がなりたかった理想に近いと思わないかい? 君は公時に嘘の記憶を重ねて、別人になろうとしたんだ」

「いや、しかし……そんな都合よく記憶を変えたりできるものなのか?」

「真名の姿になる時、通常は時間をかけて変わっていくんだ。でも君の場合、ここに来てすぐに公時になったようだね。変化の過程が短すぎたせいで、君自身も混乱してしまった。その混乱に乗じて記憶をすり替えたんだ。もちろん無意識に行ったことだろうけどね」


 空亡の話は俄には信じられなかった。それほどまでに、自分は変わりたいと思っていたのか。


「俺が望んだってことなのか……」

「あまり自分を責めるな。偶然が重なって起こったことなのであろう」


 女媧の言葉に、直樹は涙が出そうになった。これ以上、恥ずかしい所は見せたくなかったので、顔を伏せぐっと堪える。


「しかしまあ、偽の記憶も薄っぺら過ぎて、すぐに剥がれちゃったってわけだね。それに嘘から出た真というか、公時になれて良かったじゃないか」

「空亡! おぬし……!」


 楽しそうに空亡は笑った。あまりにもデリカシーがない発言に、さすがの女媧も慌てたようだ。直樹の様子を不安そうに覗き込む。


「いや、そうハッキリ言われると、何かせいせいするな」


 直樹は顔を上げた。少し吹っ切れた顔だった。

 女媧は少し安堵した様子を見せた。何だかんだで、直樹のことを一番心配してくれていたのかもしれない。


「あ、もう一つ疑問があるんだが。記憶についてはそうだったとして、俺はその真名ってやつをどうやって知ったんだ?」

「公時、おぬしは今の自身について他に分かることはないのか?」

「は? どういうことだ?」

「公時と言う名前以外で、今の自身について分かることはないのかと聞いておるのだ」


 直樹は首を捻って考えてみる。しかし、公時に関しては名前以外は何も憶えていなかった。


「真名の姿になる時に、真名やそれにまつわる事が分かるんだ。記憶改変が起こった影響なのか、君の場合は名前以外、抜け落ちてしまったようだね」

「それって、大丈夫なのかよ……」

「今すぐに問題になることはないよ。まあ、のんびり思い出せばいいんじゃないかな」


 空亡は気楽な様子だ。不安ではあるが、分からないものはしょうがない。


「そう心配することはない。こやつの言う通り、焦らずとも大丈夫であろう」

「そんなもんなのか……そうだ、女媧。お前は俺の記憶が偽物だって気づいてたのか?」


 さっき女媧は記憶を思い出させようとしていた。確信を持ってやっていたように思える。


「天岩屋へ向かう途中、おぬしは彼女の名前を思い出せなかったであろう。あの時、少しおかしいと思った。確信したのは真名が分かった時よ。おぬしはここに来てから一度も、元の名で名乗らなかったからの」


 確かにこの世界に来たばかりであれば、元々の名を名乗る方が普通だろう。


「でも、無理やりというか……あんな風に思い出させなくても良かったんじゃ……」

「偽りの記憶も時が経てば、そちらが真実となりかねん。何かのきっかけで元の記憶を思い出した時、それを受け容れ難くなるであろう。下手をしたら心が壊れるやもしれぬ。それに、使命を放棄した場合、悪鬼になってしまうからの」

「そう言えば、さっきそんなこと言ってたな……」


 直樹は気絶したままの餓鬼に視線を送った。


「そうならぬうちに、思い出させたのじゃ。辛い思いをさせたかもしれぬが、許せよ」


 驚いたことに、女媧は優しい表情をしていた。金的を食らわしたり、跪けと言ったりときつい印象だが、根は優しい女性なのだろう。


「……別に謝らなくていいって」

「公時として、使命を果たすのだ。そうすれば今の姿で元の世界に戻ることも出来よう」

「この姿で……戻れる?」


 直樹は女媧の言葉を反芻した。


「ああ、いいじゃないか。公時として戻ることは、君にとって悪いことではないだろう」


 空亡は軽い感じで言うが、確かにその通りではある。

 今の直樹にとって、元の世界へ戻る動機が薄くなっていることは確かだ。直樹として帰りたいという気持ちはそこまでない。帰ったとしても変わらない現実を突きつけられるだけだ。

 もちろん、公時となって戻った場合の問題もあるし、今までの自分ではなくなるということに、抵抗がないわけではなかった。

 それでも今までと何かが変わるのは間違いない。


「どうじゃ、使命を果たす気になったかの?」

「……正直まだよく分かってないけどな。どちらにせよ、元の世界に戻るためには、仕事とやらをやらないといけないんだろ?」


 女媧の言うように、公時として元の世界に戻れる確証はない。しかし、このまま仕事をしなければ、悪鬼になってしまうのだ。さっきはそれでもいいと思ったが、餓鬼を目の当たりにした今、そんな考えは消え去っていた。


「ああ、これで僕も案内人としての仕事を続けられるんだね。ええと……これからはどっちの名前で呼んで欲しいかい?」

「こっちでは公時なんだろ? この姿で元の名前で呼ばれるのも変だし、それでいい」


 この姿で直樹と呼ばれることに違和感もあったし、直樹も公時という名を受け入れようと思った。


「うむ、公時よ。よう言った。わしから褒美をくれてやろう」


 女媧の次の行動は全くの予想外だった。女媧は公時の首に両腕を回すと、その豊かな胸に直樹の顔を引き寄せた。あまりの出来事に、抵抗する間すらなかった。

 記憶を取り戻した時よりも、頭が混乱する。


「なっ……何やってんだお前っ……!」

「何とは失敬な。もっと悦んで良いのだぞ。おぬしが使命を果たす気になったら、褒美をやろうと思っておった。童貞にはこの上ない幸福であろう」


 頬に柔らかな感触と温かい体温が感じられる。女媧が言うように、童貞の公時にとっては初めての体験だ。成人前の男の子として嬉しくないわけがないが、皆の前で抱きすくめられ、恥ずかしくもあった。


「ああ、女媧。ついに君の初めてを彼に捧げるんだね……良かったらお勧めの休憩場所があるんだ」


 空亡が祈るように手を合わせながら、はしゃいでいる。発言はおっさんのようだ。

 それを聞いて、女媧は慌てたようにぱっと腕をほどいた。何とも残念なことに、幸福な時間が終わりを告げる。


「おめでとうございます。これで私も安心して姉上の元を離れられます……」


 伏犠は心底嬉しいといった表情だった。


「何を言っておる! そう意味ではないぞ? 公時、お、おぬしも勘違いするでない!」

「お、おお……」


 女媧は顔を紅潮させながら言う。あんな大胆な行動をしておいて、急に慌てだす所が不思議だった。

 公時はというと、まだ心臓の鼓動が収まらなかった。こいつは天然の童貞殺しだ。あんなことをされたら、好きになってもおかしくはない。


「……とにかく、使命を果たすのだ。さすればおぬしの望む未来に繋がろう」

「あ、ああ……そうだな。とりあえず、一〇八分の一は達成したってことか」


 公時は立ち上がり、手で膝の汚れを払った。

 まずは一体目か。空亡の千人中二人に比べたら、大きな前進だろう。まだまだ長い道のりではあるが。


「何を言っておる。まだ調伏は済んでおらんぞ」

「え、こいつはもう倒したぜ?」


 公時はきょとんとした表情を浮かべる。


「公時、さっきの話を忘れたのかい? 調伏とは必ずしも相手を倒すことではないんだ」

「そういえば、そんなことを言ってたか……じゃあ、どうすればいいんだよ?」


 調伏とは何をすれば良いのか分からなかった。


「伏儀、説明せよ」


 女媧が伏儀に説明を促した。全裸の男はうやうやしく頷くと、


「はい。悪鬼と一口に言っても、それこそ悪鬼の数だけ種類があります。そして、それぞれ調伏の方法が異なるのです。例えばこの餓鬼の場合、調伏する方法は空腹を満たすことになります」

「空腹を満たす……?」

「餓鬼は自ら食事することが出来ないのです。手で食べ物に触れると燃え尽き、自ら口に入れると腐ってしまうのです」


 自ら食事することが出来ないなど、哀れに思えた。


「それだと何も食えないじゃねえか。どうすればいいんだ?」

「簡単なことです。餓鬼は唯一、他人から与えられた物は食べることが出来るのです」


 食事を与え、空腹が満たすことで調伏は完了するらしい。


「なるほど。飯を食わせればいいってことか」

「その通りです。ただ、これまでの空腹を満たすだけの食事となると、かなりの量が必要になるかと。そんな大量の食事をすぐに用意することは……」


 そう言われ、公時と女媧は顔を見合わせた。揃って空亡の方に顔を向ける。

 空亡は視線を受け、ぽんと手を叩く。


「ああ、なんだい。やっぱりお勧めの休憩所が知りたいのかい?」

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