悪鬼
あれからどれぐらい走ったのだろう。
周りは変わらない路地裏が続いており、どこにいるのかも分からなくなっていた。そもそもどこに向かえばいいのか、公時自身も分かっていない。
公時は走るのをやめ、立ち止まった。日もすっかり落ち、辺りは暗くなってきている。街灯もないため、もう少しすれば真っ暗な闇に包まれるだろう。
公時は周りを見渡すと、左手にある建物の方に向かって歩き出した。窓ガラスがあり、その前に立つ。
窓ガラスには、見たことがない男が映っていた。
公時はその場で座ると、壁に背中を預けた。そして唐突に大きな声で笑い出す。
誰もいない路地裏に、公時の笑い声が響く。その笑い声は、嘲りの色を含んでいるようだった。
ひとしきり笑った後、公時はうなだれるように頭を下げ、顔を両手で覆った。
公時の身体が小刻みに震える。顔を覆う指の間からは、涙が溢れていた。同時に嗚咽も漏れてくる。
どれぐらいの時間そうしていたのだろう。
公時は両手をだらりと下げると、顔を上に向けた。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。目も充血して赤い。
しばらくそのまま動かず、上を見上げていた。
付近に明かりもないため、周囲は暗闇に包まれている。辛うじて建物の隙間から見える空に、星の光が瞬いているばかりだ。月の姿は見えない。
周囲には人の気配もなく静かだ。静かすぎて、むしろ耳が痛かった。
見上げる空に変化はなく、時がただ流れていく。
名前も姿も、免許証のものが真実だった。山本直樹――それが本当の名前だ。
公時――直樹はここに来る前の自分について、ほとんど思い出していた。
直樹はプロボクサーなどではなかった。ボクシングをやっていたことは事実だが、世界を嘱望されるような特別な人物ではない。
ボクシングを始めたのは十七歳の頃だった。きっかけはよくある話で、中学校、高校といじめられていて、そんな自分を変えようとボクシングジムに通い始めたのだ。
しかし、その後はドラマや漫画のようにはいかなかった。才能もなく、二年が過ぎた今でもライセンスは取得出来ていない。最近はジムの会長からもう諦めた方がいいと言われた。親は何も言わないが、やめて欲しいと思っているはずだ。
変わろうとして、改めて自分には何もないということを知った。
直樹自身もどうしたいのか、分からなくなってきていた。心の中では既に諦めていたのかもしれない。それでも辞めなかったのは、すがるものがなくなることが怖かったからだろう。
プロを目指しているという言い訳。それを失うことは自分が本当に無価値になってしまうから。
さっきまでは束の間だが、夢の中にいるようだった。あんなに自信に満ちていたのは生まれて始めてだ。本当に公時であったら良かったのにと思う。
それは偽りだったのだが、その時の記憶について、直樹には心当たりがあった。
直樹はポケットに手を突っ込むと、中からスマホを取り出す。画面を開くと辺りがぱっと明るく照らされた。さっきまで暗かったので、眩しさに目を細める。
スマホの時計は十二時二十一分を示していた。こんなに暗いのに、まだお昼前なのかと思ったが、元の世界とこちらでは時間がずれているのかもしれない。
時間を知りたいわけではなく、確かめたいことがあったのだ。直樹はメッセージアプリのアイコンをタップし、アプリを起動させる。
登録された友だち一覧から目的の名前を探す。悲しいことに、登録数は少なかったのですぐに見つかった。
電波がなくても、履歴の確認だけであれば問題はなかった。女性の名前が書かれたトークルームを開く。さっきまで思い出せなかった、彼女だと思い込んでいた名前だ。
出会い系アプリを通じて知り合った女性だ。直樹が出会い系を始めたのも、初めは寂しさを紛らわすほんの暇潰しのつもりだった。
もちろん登録したプロフィールも全て偽りである。ボクサーという特殊性からなのか、興味を持って話しかけてくれる女性が何人かいた。その中で積極的に話しかけてくれた一人とお互いのIDを交換して、メッセージアプリでやり取りをするようになった。
それまでほとんど女性と話したことがなかったので、日々のやり取りは楽しかった。話していくうちに女性の気を引きたくなり、自分を大きく見せるような嘘をつくようになった。
直樹は履歴を見て思わず苦笑いをしてしまう。プロボクサーで将来を期待される選手であることや、それまでの試合内容や戦績。そこに書いてあることは、さっきまで本当だと思い込んでいた記憶と同じだったのだ。
さらに履歴を追っていくと、女性と会う約束をしていた。これまでも何回か会おうという話はあったが、会えば本当の自分がバレてしまうので、理由を付けて断ってきた。しかし、これ以上拒否し続けると、彼女との関係が切れてしまいそうで、それも怖かったのだ。
もしかするとそのことからも逃げたくて、この世界に迷い込んだのかと思えてくる。
やはり公時としての記憶は、この嘘が元になっているようだった。さっきまで直樹は公時という人間になりきっていたわけだが、そのことに対して何の疑いも持っていなかった。
しかし一体何だというのだろう。路地裏を抜けたら、姿も記憶も変わったというのか。
それに公時という名前には心当たりはなかった。出会い系で使っていた偽名とも違う。一体なぜ、自分はこの名前を名乗っていたのか。
後はこの姿だ。身長は元々高かったが、顔も体格もまるで違う。別の身体に記憶だけ移されたような感覚だ。
様々な疑問が渦巻いていた。しかし、それに答えてくれる人はいない。
思わずあの二人から逃げて来てしまったが、これからどうすればいいだろう。闇雲に走ったため、ここがどこかも分からくなっていた。
悪鬼を調伏することが仕事とのことだが、今はとてもそんなこと考えられなかった。もし仕事を果たさなければ、悪鬼とやらになるのだろうか。
それもいいのかもしれないと直樹は思った。全てを忘れて別の存在になれるのなら――
――ちゃりん。
そんなことを考えていると、鈴のような音がした。
場違いな音に驚いて、直樹は辺りを見渡した。しかし路地裏は暗く、何も見えない。
「そうだ、スマホの……」
スマホの機能にあるライトを点けると、左右に光を巡らせて周囲を探ってみる。
直樹は鼓動が早くなるのを感じた。まさか悪鬼というやつだろうか。空亡はすぐに襲って来ることはないと言っていたが、その言葉をそう簡単に信用出来るものではない。
また鈴の音がした。素早く音のする方にスマホを向ける。
「猫……?」
一匹の猫がそこにいた。明かりに照らされて、迷惑そうに瞳孔を細めている。
拍子抜けして、直樹は胸をなでおろす。
この世界にも猫がいるようだ。飼い猫なのか首輪をしている。毛の色は白黒で、尻尾が二つに分かれているのが特徴的である。
猫はその場で前足を揃えてちょこんと座った。分かれた尻尾を左右から身体に巻きつけている。そのままじっと直樹の方を見つめていた。
ご飯でも欲しいのだろうか。そうであれば相手を間違えている。こんな見た目の男が、猫用のおやつをいつも持ち歩いているわけがない。
直樹は何もないことを示すように猫に向かって首を振ったが、通じてないのか猫は全く動かなかった。
「期待されても困るんだが……」
困ったように直樹が肩をすくめた時だった。
猫は突然、身体をビクッとさせると、路地の奥に顔を向けた。直樹も釣られてそちらを見る。左側の路地だった。暗闇のため何も見えない。
猫は完全にそちら側に向き直り、背を反らして警戒態勢を取っていた。
道の先に何かがいるのだろうか。猫の様子にただならぬ気配を感じ、直樹は立ち上がった。明かりを路地の奥に向けてかざす。
「なんだ……こいつは!?」
直樹は闇の奥から現れた異形の者にぎょっとする。
それは醜悪な姿をしていた。ぱっと見は人のような姿だが、耳は尖り裂けた口からは牙が見える。背は女媧よりもさらに低い。肌は赤黒く、身体は痩せこけ肋が浮いており、何とも嫌悪感を抱かせる姿だ。
まるで小鬼のようだ。これが悪鬼なのだろうか。
空亡が言っていたような知性はとても感じられない。異形の化け物は涎を垂らし唸りながら、ゆっくりこちらに近づいて来た。
直樹は後ろに下がろうとするが、慌てたため足がもつれてしまう。思わず情けない悲鳴を上げ、両手をばたばたさせながら尻餅をつくように倒れる。
スマホが地面を転がった。倒れる時に手を放してしまったのだ。幸いにもライトが上を向いて落ちたので、辺りが暗闇に閉ざされることはなかった。
化物の姿が下から照らされ、一層恐ろしさを感じさせる。
倒れ込んだ公時の目前に小鬼が迫った。逃げようにも恐ろしさで金縛りにでもあったかのように、身体が全く動かなかい。
化物は笑みを浮かべながら、鋭い鉤爪のついた右腕を高く振りかざす。
殺される。そう思った時――
黒い小さな影が小鬼の顔に飛びかかった。小鬼は苦痛のような呻き声を上げながら、顔に飛びついた物を掴もうとする。影はその腕を素早く躱すと、跳躍して暗闇に消えた。
小鬼は顔を両手で抑えながら苦痛に呻いている。その顔には無数の引っかき傷が走っていた。
呆気に取られていた直樹だったが、すぐにはっとなって我に返る。今の出来事で少し恐怖が薄れたのか、身体は動くようになっていた。
直樹は立ち上がり、小鬼と向かい合う。
小鬼は怒りの形相で睨みつけてきた。やったのは直樹ではないが、小鬼にとって怒りをぶつける相手は誰でもいいようだ。
小鬼はすぐさま鋭い鉤爪を突き出してきた。
直樹は攻撃を素早く横に避け、がら空きの横顔に右拳を振り下ろす。ほとんど無意識の動きだった。
鈍い音がして、小鬼は地面を数回跳ねながら、暗闇の奥まで吹き飛ぶ。
直樹は自分がやったことに驚いていた。一連の動きもそうだが、とんでもない威力である。今まで感じたことがない、物凄い手応えだった。
直樹は右拳を見つめたまま立ちつくす。自分がやったことが信じられない様子だ。
「なんだぁ。やっぱりやれるじゃないかぁ」
ふいに間延びした声が響いた。声はさっきの小さな影が飛び去った方から聞こえてくる。
「誰だ!?」
声をかけるが反応はない。返事の代わりに、その人物は現れた。
スマホの明かりにぼんやりと照らされ、その姿が浮かび上がってくる。
長身の男だった。かなり猫背のためそう見えないが、背筋を伸ばせば公時より高いかもしれない。細身だが引き締まった身体をしている。髪は女媧のように、左右で白黒に分かれていた。顔立ちも整っており、かなりの美形だ。
しかし――直樹はこの世界には、やはり変なやつしかいないのだと思わざるを得なかった。
その男は全裸だったのだ。下着すら身につけていない。唯一、首輪のような物をしているだけだ。それすらも何かのプレイで使う道具に思えてしまう。
「おまっ……変態か!?」
「てっきり君が悪鬼になると思って見てたんだけど。別の奴が来ちゃったねぇ」
「はぁ? 悪鬼に……見てた?」
「あぁ、誰かって聞いてたんだっけ。僕は――」
その時、目の端に鈍い光が見えた。直樹は全裸の男を突き飛ばすと、自身も後方に跳躍する。
さっきの小鬼がまた襲いかかってきたのだ。あれだけ派手に吹き飛んで、よく起き上がってきたものだと感心する。
「あ、僕は変態じゃないよぉ」
小鬼を挟んで、男は直樹を非難するように言った。このテンポの遅さはなんだろう。とても苛々する。
「餓鬼に掴まれたら駄目だよぉ。触られた所が燃えるからぁ」
この小鬼は餓鬼と言うようだ。後、重要なことをさらっと言った気がする。
「そういうことは先に言えよ……!」
直樹は一気に餓鬼に詰め寄ると、すかさず左ジャブを打ち込んだ。さっきのダメージが抜けていないのか、小鬼の動きは鈍かった。
この体格差だと、ただのジャブも相当な威力となる。餓鬼はたまらず仰け反った。動きが止まった瞬間を直樹は見逃さない。
再び渾身の右を叩き込む。先程より強い力を込めた一撃だった。
餓鬼は勢いよく壁に激突した後、跳ね返って前のめりに倒れた。大の字となって倒れ、そのままピクリとも動かなくなる。餓鬼がぶつかった壁はめり込み、無数のひびが走っていた。
「うわぁ」
全裸の男は飛んでくる餓鬼を、予想外に素早い身のこなしで避けていた。動きより遅れて、今更ながら驚いた声を上げる。この男は雷のように音が遅れてやってくるのだろうか。
精神的に疲れており、直樹は突っ込む気すら起こらなかった。
「これで……大丈夫なのか?」
餓鬼を慎重に観察する。つまさきで小突いてみるが、反応はない。死んではいないようだが、動く気配はなかった。
ほっとして、直樹はその場でがっくりと腰を下ろした。地面から光が顔に当たり、一瞬びくっとする。さっき落としたスマホが転がっていたのだ。
直樹はスマホを拾い上げ、ロック画面を開いた。時計は先程と同じ時間を示している。画面にヒビとかは入っていないが、落とした際に壊れてしまったのだろうか。
「あれ、誰か来るみたいだよぉ」
全裸の男が耳に手を当てながら言う。
直樹には何も聞こえなかったが、しばらくすると確かに足音が近づいて来ることが分かった。しかも足音は一人ではない。音の近づく速度からも、音の主たちはどうやら走っているようだ。
直樹は再び立ち上がった。肉体的な疲れより、精神的にかなり疲弊している。もしまた悪鬼だとしたら戦えるだろうか。
足音が近づくにつれ、路地の奥が次第に明るく照らされてきた。
身体に緊張が走らせ身構える。悪鬼だと分かったら、先制で仕掛けるべきだろうか。
いよいよ足音の主が姿を現した途端、直樹は身体から力が抜けていくのを感じた。
「女媧……空亡?」
「おお、ここにおったか。無事だったようだの」
どこから持って来たのか、懐中電灯を持った女媧がそこにはいた。その後ろには空亡もおり、片手を上げてにっこりと微笑んでいる。
二人はゆっくりと歩いて近づいて来た。
「公時、こうしてまた会えて嬉しいよ。本当に凄く心配したんだ。この路地裏で人を探すことは、砂浜で砂金を探すことより難解なんだよ」
空亡は感動の再会といった面持ちだ。迷路みたいな路地裏で人を探すことは、確かに困難だろうと直樹は思った。
「よく見つけられたな……」
「なに、女の勘じゃ。随分と走らされはしたがの」
出会った頃に誰かを探していたはずだが、その時は勘が働かなかったのだろうか。
「む、こやつは……」
女媧が訝しむような表情をした。
「ん? ああ、餓鬼って奴なんだってな。襲って来たから、何とか……な」
「伏儀ではないか。おぬし、ここにおったのか」
女媧はの視線は足下に転がる餓鬼ではなく、直樹の背後にいる全裸の男に向けられている。
直樹が振り向くと、全裸の男はさっきまでとは打って変わった様子で、背筋をぴんと伸ばし、凛々しい表情を浮かべていた。
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