天照
公時、空亡、女媧の三人は路地裏を歩いていた。先頭を意気揚々と歩くのは空亡で、公時と女媧は並んで後ろを歩いていた。
空亡とは対照的に二人の足取りは重かった。
「いかん……吐くかもしれぬ」
女媧はうなだれ、弱々しく漏らした。気持ち悪そうに片手を口に当てている。
空亡がお勧めの店というのは、路地裏にある屋台のラーメン屋だった。この世界にも元の世界と同じ食べ物があることに少しほっとした。食べ物に限らず、基本的には元の世界にあるものは、こちらにも大体あるらしい。
違う世界ではあるが、ある程度は元の世界と環境が変わらないようだ。もっとも、空亡が話していたルールなど、現実離れした点もあるが。
ラーメンそのものは美味しかった。わりと好きな部類に入る。しかし量もさることながら脂が凄まじく、年齢が若く大食漢の公時でさえ、胃がもたれそうになるほどだった。細い身体でそれを完食し、平然としている空亡が不思議である。
「お前、大丈夫か……?」
「こやつを信じた儂が愚かだった……」
先程フォローしていたことをかなぐり捨てるような台詞だった。食事をして親睦を深めるどころか、少し溝が出来てしまったのかもしれない。
女媧はかなり無理をして食べていた。何とか完食したことが奇跡だろう。
「まあいいじゃないか。二人とも彼の仕事に貢献出来たんだ。君たちは良い行いをしたんだよ」
「貢献って言っても……あと何年かかるんだよ。いや、何十年か?」
彼の仕事はラーメンを食べて貰うこと。少なくとも今後百万杯以上のラーメンを提供しなければならないそうだ。一日に百杯として、全く休まず続けても三十年近くかかる。これもまた果てしない数字だった。
食事の際にもう一つ知ったことがあった。この世界にはお金が存在しないのだ。さっきの店主の場合は、ラーメンを食べて貰ったこと自体が対価ということになるらしい。女媧が残さずに食べたことも、店主の仕事を無駄にしないためなのかもしれない。
仕事の対価として、金銭が発生しないことは違和感があった。今までの生活からすると考えられない。皆、それでやる気が出るものなのだろうか。
それにしても空亡といいラーメン屋の主人といい、その仕事を聞く限りどれも達成が困難に思えるようなことばかりだ。まるでこの世界から出さないという意思を感じるほどだ。
公時にはどんな仕事が待っているのか、不安になってくる。
食事を終えた三人は天岩屋に向かっていた。
先程屋上から見えた白い塔のような建物を目指している。裏路地で構成された世界は、皆似たような光景で場所が分かりづらい。それでも空亡は迷うことなく進んでいった。一応、案内人というだけのことはあるのかもしれない。
かれこれ十分ぐらいは歩いただろうか。そこまで遠くには見えなかったので、そろそろ着くはずだろう。
「そういえば、女媧の仕事ってやつは何なんだ?」
ラーメン屋の店主のこともあったので、公時は何気なく聞いてみた。
「なんじゃ……おぬし、儂のことが知りたいのか?」
気持ち悪いのか、少し気分が悪そうだ。
「儂の使命は千人と夜を共にすることよ」
女媧はさらっと答えた。あまりに普通に言うので、公時は一瞬思考が停止してしまう。
「夜を……って! つまりは……そういうことなのか?」
「男女の営み以外、他に何かあるのか? 初心なやつよ。おぬし、もしや童貞かの?」
驚愕のためか、言葉が上手く出て来なかった。
この美貌を持って迫られたら、どんな男でもすぐに落ちるだろう。その仕事とやらの達成度はどのぐらいなのだろうか。
「へぇ、公時は童貞なのかい?」
会話を聞いていたのか、空亡は歩く速度を落として二人の間に割って入って来た。公時の肩にぽんと手を置き語りかける。
「実はね……女媧もまだ処女なんだ。純真無垢な二人同士、ここは一つどうかな」
「なっ!?」
空亡の軽さや、とんでもない提案のことより、別のことに驚いた。
この歩く痴女のような姿をした女媧が処女と言われて、誰が信じるというのだ。
「……何を不思議そうに見ておる。分かりやすいやつよ」
「いやだって……そんな格好をしているから……なあ?」
「人を見た目で判断するとは失礼なやつよ。使命だからと言って、誰とでも寝ると思うたか。一度も攻めたことのない兵士と、破られたことがない砦では意味が違うわ」
「俺は童貞じゃねえ。彼女だって――」
そう、元の世界に戻れば彼女がいるのだ。ただ彼女の名前が出て来なくなった。
急に何かの名前が思い出せなくなることはあるが、彼女の名前が思い出せないことに驚いた。色々あって疲れているのかもしれない。その時はそのことについて、あまり深く考えなかった。
急に言葉を切った公時を、女媧が探るように見ていたが、公時はその視線に気づかなかった。
「どうした童貞? 無礼に対する詫びの台詞でも考えていたのか」
「……そんなんじゃねえ。変なあだ名付けるなよ……ちょっと名前が出てこないだけだ」
「ほう、思い出せない程、たくさんの女がおったと。何とも悪い男よの」
「いや、そんなことは……っておい!」
女媧は公時を無視して、すたすたと前の方に行ってしまった。
何か怒らせてしまったのだろうか。元はと言えば空亡が変なことを言ったせいだ。その張本人はいつの間にか、少し離れた前を歩いていた。
女媧は空亡に追いつくと、何か声をかける。空亡もそれに対し答えていたが、内容は聞き取れなかった。文句でも言ったのかもしれない。
「公時、あそこを右に曲がればもう天岩屋に着くよ」
空亡が前方を指差して言った。
二人に追いつくように、公時も歩きを早める。身長があるため、すぐに追いつき二人に並ぶ。女媧は公時の方を見もしなかった。
若干の気まずさを残しつつも、三人は路地裏を進んだ。
言われた角を右に曲がると、奥の正面に建物が見えた。
相変わらず薄暗い路地裏を抜けると、少し開けた場所に出た。そこは四面を建物に囲まれた正方形の広場になっている。周りの建物と距離があるためか、陽当りが良く明るかった。それぞれの面から道が続いており、道が交差する中心に塔のような建物があった。
ずっと路地裏ばかり見てきたせいか、新鮮な光景だった。鬱蒼とした森を抜け、急にぽっかり開けた場所に出たらこんな感覚になるのかもしれない。
「ここが天岩屋だよ」
それは細長い建物だった。先端に行くにつれ、少しずつ細くなっていっている。公時たちの正面に小さな入口があり、その上の壁に石の看板がかけられていた。看板には天岩屋と文字が彫られている。
ここに王のような存在がいて、世界から出る方法を教えてくれるというのか。それにしては質素というか、もう少しそれっぽく出来なかったのだろうか。
「天照、いるかい?」
空亡は中に向かって声をかけた。公時も近づいて空亡の背中越しに中を覗いてみる。
入口には玄関のような小さなスペースがあり、その先は座敷になっていた。座敷はまるで小上がり和室のように少し段差になっている。建物の中はかなり狭く四畳半ほどしかない。天井はかなり低く、公時だと屈んでやっと入れるほどだ。まるで茶室のようである。
外観の大きさとは裏腹に、部屋はこれだけのようだった。
ぼんぼりのような照明に照らされた室内には一人の少女がいた。入口付近の座敷に十枚の座布団が置かれ、そこに少女が座っている。バランスを取ることが難しそうだなと、どうでもいい感想を抱く。
「やあ、久しぶり。君はいつもケサランパサランのように軽やかだね」
「空亡、あなたも相変わらずのようで何よりです。今日は何の御用でしょうか」
空亡という男は、相手をおちょくらないと気が済まない奴なのだろうか。この世界であればライセンス剥奪もないだろうから、一度殴ってみてもいいのかもしれない。
天照と言われた少女は女媧よりも小さかった。見た目は幼女、と言った方が正しいかもしれない。巫女服に身を包み、長い黒髪を三つ編みにしている。目が大きく、可愛らしい顔立ちだった。将来は間違いなく美人になるだろう。
「天照よ、久しぶりじゃな。元気にしておったか?」
女媧が声をかけると、一転して天照はぱっと笑顔になった。
「姉々! お久しぶりでございます」
「うむ。儂も間を開けてすまなかったの。どうじゃ、不足はないか?」
「お気遣い有り難き幸せにございます。いつも御前に良くして頂いております」
幼女は座布団に両手を付き、女媧に向かって深々とお辞儀をした。空亡に対してとは全く違う反応だった。
「姉々は相変わらずお美しい。いつか私も姉々のようになりたく思います」
「うむ。おぬしの将来は儂も楽しみにしておる」
女媧は優しく声をかけた。こんな痴女みたいにならず、今のまましっかりと階段を登っていって欲しいと公時は願った。
「天照よ、すまぬがこやつを視てやってくれるか。今日この世界に来たようでな」
尊敬の眼差しを向ける天照に、女媧は言った。
「まあ、そうなのですね。初めまして、私は天照と申します。ようこそいらっしゃいました」
女媧が公時を紹介すると、天照は公時を見て微笑んだ。ようこそと歓迎してくれているが、公時はここに望んで来た訳ではないので複雑な気持ちだった。
「岩屋を閉ざされなくて良かったね。彼女はこう見えて気難しいんだ」
天照は空亡を鋭く睨みつけた。この子が気難しいと言うより、単純に空亡が彼女に嫌われているだけではないかのか。
「この子が……この世界の王なのか?」
公時は拍子抜けした。少し間の抜けた声になっていたかもしれない。
何かの冗談に思える。この世界の王に例えられる存在が、こんな幼女なのだろうか。腹いせに一発殴ってやろうかとも思っていたが、こんないたいけな幼女にとても暴力は奮えない。
「こんな小さな女の子で驚いたかい?」
空亡の言葉はあまり耳に入って来なかった。想像と全く違っている。この世界の王などと言うから、もっと年老いた威厳のある男を想像していたのだ。
「空亡に何を言われたのか存じませんが、私はこの世界のいわゆる王ではありません。私はこちらに来た人たちに、仕事を教える役目を担っているのです」
天照は公時を見ながら言った。見た目は小さな女の子だが、随分としっかりとしている。
空亡が言っていたことは嘘ではなかったようだ。彼女がこの世界から出るための方法――仕事を教えてくれるようである。
「俺の……仕事ってやつを教えてくれるってことだよな。一体、俺は何をすればいいんだ?」
「はい。まずは……貴方の真名は――公時ですね」
「真名? 本名ってことなら合ってるぜ」
聞き慣れない言葉だった。真名とは何のことだろう。それよりまだ名乗っていなかった気がするが、なぜ公時の名前が分かったのか。
考えていると、女媧が会話に割って入って来た。
「天照、真名は誠か?」
「はい。何かおかしなことでもありましたか?」
「うむ。もう既に成っておったか。だとすると、ちと面倒なことになっておるのかもしれぬ」
何やら二人が話しているが、公時には全く理解出来なかった。
「そちらは後で良いとして、まずはこやつの使命を視てくれるか」
「承知致しました。では、視てみましょう」
天照は後ろを振り向くと、背後の棚に置いてある木箱を手に取った。
「公時様、こちらを逆さにして振って下さい」
「なんだこれ……おみくじか?」
公時は角柱の箱を渡された。箱の上に小さな穴が空いている。神社とかでよく見る御神籤箱のようだった。
「これを……振ればいいのか?」
天照は真剣な眼差しで公時を見つめ頷いた。
これに何の意味があるのだろう。占いでもしようと言うのなら勘弁して欲しいが、少女の表情があまりにも真剣だったので、公時は言われた通りにすることにした。
箱を逆さにして上下に勢い良く振ってみる。何回か振ると、穴から棒が飛び出した。
公時は棒を手に取った。中央に何やら数字が書いてあった。
「02……108?」
公時は書いてある数字を読み上げる。
その瞬間、天照と女媧に緊張が走った。空亡はと言うと、目を爛々と輝かせていた。
何か嫌な予感がする。空亡たちから伝わる反応が、その予感が間違っていないことを確信させる。
「この数字は……何なんだ?」
不安になって、恐る恐る聞いてみる。
「ああ、僕の思った通りだ。やはり君は記念すべき二人目だったんだね」
「……どういうことだよ?」
感激した表情で見つめてくる空亡に、公時たじろぐ。
「――公時様」
天照に呼ばれ、公時は彼女の方を見た。真剣な声だった。
「この数字は、貴方がこの世界で果たすべき仕事を示しています」
「だからそれは何なんだよ。俺は何をすりゃいいんだ?」
少し苛々して公時は言った。
これまで三人の使命とやらを聞いてきたが、みんな無茶なことばかりだった。この世界から絶対に出さないという、強い意志でもあるのではと思えるほどだ。
「一〇八体の悪鬼を調伏すること。それが公時様がこの世界から出る方法となります」
天照はまるでお告げを下すかのように言った。
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