探偵と夭折の天才作家 4/4
「お疲れ様と言うべきかな、まあ、この日記で最後だよ」
気づくと、資料らしきものは残り1枚になっていた。
友人はそれを、散らばった紙の上に置く。
最後の1枚には、わずか1文しかない。
・06-29, 2006 ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』、新書の『行動経済学』を買う。
何と言うことのない記述。少なくとも僕にはそう見える。
「このタイトルの小説……かな、これに何か秘密が?」
「いやそうじゃない、重要なのはこの、「新書の『行動経済学』」の方さ」
「単なる入門書じゃないか。何かあるようには思えないな」
「そう、入門書だよ。そして入門書の名前なのが、まさに重要なのさ。君は入門書を、いつ手に取る? その分野を熟知した後でかい?」
「そりゃ一番最初に取るよ」
「そうだろう。つまり、この分野の内容を拾い出したのが2006年6月、『虐殺器官』を投稿した後だったんだよ。作中には虐殺の文法という、行動経済学を踏まえたネタがあるだろう。その裏打ちが恐らく、初稿の時点では弱かった。投稿直後の読書でパーツが見つかり、改稿でその穴が埋まった。おそらくこんな所じゃないかな」
見ているものが違う、そう思わされた。
わずか一行から、これだけの論理を導けるとは。
「本当に書くべき長さはだから、単行本とはずいぶん違っていただろうね。まず初稿は、単行本の730枚よりかなり短かかった。「10日間で」は伝言ゲームで実際は「19日」。それ以前に書かれていた原稿も最低44枚分ある、この44枚はそう直さなくていい」
「なるほど、最高でも680枚という訳か。仮に3割が後で書き足されたとして……」
476枚を19日、つまり1日に25枚ほど。
これなら確かに、かなり現実的な量だ。
1日73枚を10日間続けるよりは。
「不可能じゃないペースだろう?」
「あ、ああ……」
「後は推論になるけど、このプロローグの出来はかなりいい。応募までの2年、ほそぼそと書き継いでもいたんじゃないかな。何百枚とは言わない。ここからほんの100枚あれば、1日20枚も書かなくて済む。いっそう現実的だ。他に何かあるかい?」
「い、いや……」
あっけにとられつつ、僕は複雑な思いだった。
数日前。友人はたぶん、この作家を知らなかった。
なのに友人は、その噂の実態を推理してみせた。
誰よりも入念に、作家のことを調べ上げて。
そのことに僕は、少しだけ嫉妬していた。
「……ねえ」
「うん?」
「その、僕が消えたとしてさ」
「失踪の相談かい?」
「いや、つまり人生を終えて、天に昇ったとして……君はこれに費やした位の手間でもって、弔ってくれるかな」
不意をつかれた、と言った沈黙。
それでも、5秒はかからなかったと思う。
「仮定の話に意味はないね」
珍しく間を置いた、少し言いかねた口調。
これはこれで、不思議と悪くはない気分だった。
「今回のこれは、まあちょっとした事件ではあったかな。さて、解いたとなるとお腹が減ったよ、君は今から何か買いに行くのかい。行くなら、パンと紅茶を買って来てくれ。いまちょうど切らしてもいるからね。この事件のあらましを書けば、代金の足し位にはなるだろう?」 (了)
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