探偵と夭折の天才作家 2/4
「初稿と単行本には恐らくかなり違いがある。そうでないと仮定するなら、つまり単行本の『虐殺器官』を10日間で書けるかと問うなら、非常に厳しいとしか言いようがないね。で、これが当時の小松左京賞の応募要項だ」
次に友人が持ち出したのは、サイト画面のコピーだ。
【第6回小松左京賞 応募要項】
【400字詰原稿用紙350枚以上800枚以下】
10日間でゼロから書いたなら、最低で1日35枚を書いたことになる。
「病院で執筆に専念して1日平均40枚の人間が、日中は勤めながらの35枚。しかもこれは最低条件だ。実際の原稿はもっと長かっただろうさ。まあ絶対に無理とは言わないがね。何かの間違いで人は空を飛ぶかも知れない、可能性だけは常に開かれている。完全に閉じられてはいない、てだけの話だけどね」
「じゃあ、最初の原稿を10日間で書いたと言うのは……」
まるきり、嘘ということなのだろうか。
「いや、ここからが複雑なことなのさ。何しろ作者は、ちょうど10日間で書いただなんて言ってないからね」
作者が「10日間で書いた」とは言っていない?
では、僕が見たあの記事は何だったのか。
「ちょっと待ってくれ、どういうことだい?」
あっけに取られる僕の前に、友人は乱雑に、新たな紙を4枚並べる。僕が読んだものを含む、いくつもの記事。その段組みから、複数の雑誌と見当がつく。
「図書館の本を切る訳にはいかない、コピーだけどね。こうして並べると、どうだい、何となく見えて来るだろう」
A:わずか1ヶ月足らずで書き上げられた作品
B:あと19日……1日あたり何枚書けばいいのかと考えた
C:会社勤めのかたわら、『虐殺器官』をわずか10日間ほどで一気に書き上げた
D:10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった
「……数字がバラバラじゃないか。4つ目の数字はたぶん、3つ目を参照したのだろうけど」
それにしては、記述が妙に具体的だ。数字以外では取材が入っているのだろうか。
「伝言ゲームさ」
友人はそう断言する。
「2つ目のインタビューまではいい、生前の作者が直接答えたかチェックしたはずだからね。一ヶ月未満と19日、特に矛盾はない。だが以後の3つ目と4つ目はね。正確に言えば3つ目の「10日間ほど」も、微妙な表現だが不正確とまでは言えない。何しろ、曖昧な表現だからね。だが4つ目の「10日間」、こいつは問題だ」
なるほど、だんだん見えてきた気がする。
「曖昧さが抜け落ちた、と言う事なのかな」
「たぶんね。10日間ほどと10日間じゃかなりの違いだ。10日間は10日間であって、7日でも14日でもないからね。もっとも、10日間ほど、の使い方にもよるが。ともあれ、これで噂は広まった」
「……いやでも、それだけじゃ弱いよ」
伝言ゲーム。それは確かにそうなのだろう。だが、それだけでは足りない気がする。このご時世、雑誌が広く読まれるとも考えづらい。噂が広まるには何かひと押し、欠けてはいないだろうか。
「僕がこの話を聞いたのは、そんなに小説を読まない人たちからだった。あの雑誌も単に、元の話と聞いて確かめる気になっただけだ。雑誌や文庫の記事だけじゃ、そこまで広まってるとは思えない」
「ネットと映画さ」
友人は断言する。
「この中で『AERA』の記事だけネットで読めるんだ。ほんの一部、抜粋だけだけどね、その記事の最後にこの記述があるのさ。わずか10日間で、てね」
新たに2枚。その1枚めの内容は、確かに最初僕の読んでいたあの号だった。抜粋で、末尾が変わってこそいるけれど。
2枚め、これは文庫の解説コピーを示しながら、友人は付け加える。
「もちろん、旧版の文庫解説の影響もあるだろうけどね。ただこの記述の解説は、『虐殺器官』新装版には入ってないんだ。新装版に切り替わったのは2014年8月。一方で、この作家の映画化が始まったのは2015年10月2日、『AERA』記事のネット公開は2015年の10月31日だ。タイミングとしてはだから、ネットの方の影響だよ」
あらためて、「ネットの方」のコピーを見る。
『10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった。転移発覚の翌月に肺の一部を切除し、約9カ月間抗がん剤治療を続け、寛解した06年5月に一気に書き上げた』
これを末尾に持って来られては、確かに印象に残ることだろう。
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