探偵と夭折の天才作家 3/4
「でも、本当に10日間で書き上げるほど速かった、てことは……」
「それは無いね」
今度のそれは、切り抜きではなかった。
日記形式の文章、どうやらブログの抜粋と思しい。
1・入院中は一日平均40枚の原稿を生産していました。最高で80枚。
2・入院中の今月は800枚も原稿書きました。映画も観に行けず辛い。
3・ここ一週間で『ハーモニー』第二部まで210枚を書いた。
「……さっきと同じ奴じゃないか」
「今度はもっと、数字に着目して欲しいね」
入院中に平均1日40枚、最高で80枚。一ヶ月では800枚。
通常、作家は1日に20枚書ければ相当早いほうだ。
やはりと言うべきか、尋常な早さではない。
「早いのは分かるけど」
「そう、確かに早い。さっきの対談でも出てきたし、速筆というのは有名だったようだ。その下地があったからこそ、「初稿を10日間で書き上げた」なんて噂も通る」
「この、執筆速度が嘘って可能性はないのかい?」
「ほとんどないね。大抵の場合、嘘ってのは辻褄に苦労するんだ。最初に嘘をひとつつく、すると2つ目以降はそれに沿って話をすることになる。一度でも忘れたらそこで終わりだ。嘘に嘘を積み重ねる、これには特殊な才能がいるんだよ」
「他人しか見ない日記なら、それもあるんじゃないか?」
ここで友人は、3つ目の記述を指差す。
「この内ひとつは、本来身内が見る類の日記なんだ。全体公開だから誰でも拾えたがね、当時は己の進退をほぼ自覚した状況だったはずだ。ねえ君、この作家はこういう時、わざわざ緻密な嘘を書くのかい?」
迫りくる結末を自覚した作家の、身内向けの日記。
この作家なら、果たしてどう考えただろう。
「……いや、書かないな」
それはたぶん、ほとんどの人間がそうなのだろうけど。
得たりと言わんばかりに、友人は続ける。
「つまり、10日間では不可能なんだ。ところが、何度も言うが、当の作家自身はそんなことを言っていない。ここに、今回の錯綜があったのさ。もう一度、4枚のこの紙を見てくれ」
A:わずか一ヶ月足らずで書き上げられた作品
B:あと19日……1日あたり何枚書けばいいのかと考えた
C:会社勤めのかたわら、『虐殺器官』をわずか10日間ほどで一気に書き上げた
D:10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった
「こちらでは具体的に19日。10日からほぼ倍だ。応募条件の350枚以上を19日なら、1日18枚と少しで済む。もっともこれは最低限の数字だね、後で説明するがもう少し多かったかも知れない」
「……いろいろと絡み合ってた、て訳か」
「事実と不正確と、伝言ゲームの仕業だね。作家の方に嘘があった訳じゃない。『虐殺器官』を短期間で書き上げたのは本当だろう、ただその期間で書き上げたのと、その期間で全部書いたのとはイコールじゃない」
「……まだ何かあるのかい?」
「プロトタイプだよ」
新たに示された紙束。と言っても、せいぜい十数枚だろうか。
「見てみてくれ」
「う、うん」
『Heavenscape』と題されたサイトのコピーは、明らかに小説の原稿だった。
日付は、2004年5月。
『虐殺器官』初稿の完成、2006年5月の2年前だ。
ただその分量は、いかにも長編に足りていない。
「未完だけどね」
「もう少し見てもいいかい?」
「ああ」
さっと見ながら、その原稿をめくる。
これはまさに、ほとんど作品のプロローグだった。
細部こそ違えど、『虐殺器官』冒頭と比べて大きな差は見られない。
ある一点を除いては。
「これ、名前の雰囲気がちょっと違うけど……」
「そう、固有名詞が違う。リトル・ジョンにギリアン・シード、これはゲーム『スナッチャー』の登場人物名だよ。このルーシャスは、作家が書いてた同人誌の主人公さ」
「二次創作、か……」
「この時点ではね」
『虐殺器官』冒頭と酷似したプロローグ。
これを転用したなら、確かに書くべき枚数は減るだろう。
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