第3話 エシオン

 竜車がゆっくりとを速度を落とすのを感じ、目的地が近いことを悟ったエシオン・ユーリィは浅い眠りから覚めて瞼を持ち上げた。朝早く市街地を郊外に向けて出立してから、かなりの時間が経っている。陽は傾き、既に夕暮れ時にさしかかっていた。

 「着きました」

 それ以上、御者は不要な言葉を発しなかった。何が逆鱗に触れるか分からないためだ。エシオンが客席から降りて竜車から離れると、それを見計らっていた御者は竜に鞭を入れ、逃げるように遠ざかっていった。

 厩舎に向かい小さくなる車輪の音を聞きながら、エシオンは目の前の建造物をしげしげと眺めた。長大で分厚い石造りの壁。黒鳶色をした木材を鉄で縁取った分厚い門。外壁の奥には広大な敷地と、白で色調が統一された巨大な本館が鎮座している。

 ユーリィ氏族の所有する保養施設のなかで最も古いもののひとつ。いつ見てもうんざりするほどの無駄な大きさを誇っていた。だが、荘厳な外観に反して夕影に照らされたそれは、今にも崩れ落ちそうな寂寥感を放っている。

 恐らくは気のせい。そう感じるのは、自分がそれを望んでいるから。

 ユーリィはカルマムルにおいて多大な功績を残した人物を祖とする、多数の使徒と神官を中核として形成された集団だった。神の奇跡の研究を主な生業としていたが、研究の過程で生み出された品、技術を売り払うことにより財を蓄え、また築いた富を使って議会での発言権を得るに至った。いまや同国内どころか国外にも絶大な権勢を誇る勢力となっている。

 エシオンが無造作に門へ近づく。仰け反りそうなほど背筋を伸ばして立っていた二人の門番が、さらに身体を強張らせながら大急ぎで門を開けた。

 敷地内に足を踏み入れる。舗装された道路が本館と別館までそれぞれ伸び、両脇に点在する花壇は庭師によって一分の隙もなく整えられていた。彼女の姿を目にした使用人たちは皆、仕事の手を休めて一様に腰を折る。

 施設の中も広い。天井は高く、足元の毛氈は床を踏みしめる感触すら吸い込むほど厚い。逃げるように両脇に避けていく使用人たちには一瞥もくれず、エシオンは通路の真ん中を堂々と歩いて入り口にほど近い多目的の会議室に足を踏み入れた。

 その場の空気が一変する。部屋の外まで聞こえていた世間話の声は止み、緊張が部屋中に充満していく様が見て取れた。例外は、この定期開催されている報告会を取り仕切る昔なじみの老人だけだった。進行役を務める彼の合図で全員が起立し、エシオンに向けて礼をとった。

 頂点に位置する神の性格と性質により差異はあるが、神の従僕にはおおむね三つの種別が存在していた。大多数を占める凡百の信徒。その適性から数々の奇跡を行使する権能を与えられた使徒。更にその中から極少数選ばれる、神の意図や意思をあまねく伝える役目を持った神官。神によって堅牢に構築された統治機構内での栄達を目指す信徒たちにとって、神官は取り入るべき対象だった。

 「遅れてすまなかったね」

 空いている手近な席につく。運悪く隣になってしまったマクディーアが過敏な反応を示したが、それを気にも留めずにエシオンは机の上の冊子を手に取った。今回の報告内容をまとめた資料だった。

 主催者が顔を出したことにより会が幕を開けた。一族に、ひいては国家に不利益──あるいは利益を──もたらす可能性のある国内外の監視対象について、各人が受け持った地域ごとに状況を報告する。

 おおよそは大した動きもない様子だったが、いくつか新しい名前が並んでいた。

 エリック・ミヘルス。ノースハイムの信徒。強請りに長けている。醜聞、犯罪の証拠を使って経営者を脅していくつか会社の乗っ取りを行う。カルマムル国内の犯罪組織と関係を深めている。もとは同国の公職の地位にあったため、国命、工作員である可能性が高い。

 ウェルナー・ホーク。元アムゼーの近衛隊士。二心を抱いた上官と連座して職を追われたあと、用心棒のような真似をして各地を渡り歩いている。現在はカルマムル国内の高利貸しに雇われており、ユネイアで首を斬られた死体が発見された事件に関与しているとされている。

 イリーナ、リーリャ、エヴァ、都度名前を変えており本名は不明。恐らく現在はイリアと名乗っている。見た目の年のころは十代後半から二十代前半。栗色の髪と鳶色の目。魅力的な外見をしたヒト種の女性であること以外に特筆すべき点はないが、彼女の周囲には失踪と不審死がつきまとう。発見された死体はいずれも惨殺されているものの凶器が見つからないためウルの信徒の可能性が高い。近隣で目撃されたとの情報あり。

 大きな事件は未発生だが、引き続き注意を怠ることなく任務を継続すべし。郵便物の検閲、廃棄物の検査は徹底すること。

 エシオンが退屈に耐えかねてあくびを漏らすが、咎める者はいない。いつものように滞りなく会は進んだ。

 自然と話題は別のものにすり替わる。監視任務には資金提供が行われているが、人手や情報網を必要とするものであるため、協力者の中でもそれらの差配に長けた人物に役目が割り振られることが多かった。各人とも生業で一財産を築いた者たちばかりだ。戦争こそ定期的に起きているものの、ここ数十年は国政も安定している。本題で大した話題が出ないせいか、今では近況の報告と情報交換が参加者たちの主な目的にすらなっていた。

 開業医のジョン。「今年は南の方で腐血病患者が増えているそうですよ」

 雑貨商のクラーク。「抗原の数を揃えておきますか。それもいいですが、魔道の媒体用の紙、玉、貴金属を用立てておきませんと」

 投資家のエルマン。「用意はできている。何しろ、これからの分野だ」

 機会の共有。利益の分配。誰も彼もがぎらついていた。富と地位をうずたかく積み上げ、神より恩寵を賜り高みへ上ろうとしていた。結構なことだ。命を賭けるのに相応しい。人生というものの精髄を学べるに違いない。

 エシオンはその様子を羨望の眼差しで見ていた。容姿、家格から才能に至るまで、国家運営における中核部品として設計された彼女は、何もかもがお膳立てされていた。生まれながらにして上り詰め、何も成すことができずにいた。彼らの熱量に敬意を覚えていた。

 幸福とは現在地と到達地点、あるいは到達予定地との差により生じると常々考えていた彼女は焦れていた。

 自分はいったい何に熱を上げればよいのか。

 何、など分かりきっている。しかし、自分の頭のすぐ上にあるのはひどく分厚い壁だ。だから事は慎重を要する。排除されないように上手く立ち回らなければならない。

 こんなところで油を売っている暇などなかった。しかし立場上、これから数日に渡って似たような会合に何度も参加しなければならない。

 考えるだけで気が滅入ってくる。そもそもゲインのやつが吹っ切れてさえしまえば話が早いというのに。そうなるよう色々と手を回しているのだが、いつまでたってもあの男は煮え切らない態度を取り続けている。

 浮かない気分を紛らわせるため、隣の相手に小声で話しかける。

 「調子はどうかね」

 マクディーアは緊張で顔を赤くし、手拭で汗をぬぐった。

 「その、おかげさまで」

 「それは何より」エシオンは大抵の男が魅力的に感じるであろう笑みを意識して浮かべた。「私の方はここのところ、とんと暇でね」

 マクディーアがそれと分かるほど狼狽する。面白くもない見世物にエシオンは手を振った。この国のみならず、近隣においてエシオンの素性を知る者はどこの誰もがこのような反応を示すが、この男はそれに輪をかけたような醜態を演じる。臆病が性根に染み付いていた。趣味ではなかったが、だからこそ目端が利くという一面もある。それ以外のものを大目に見るには十分な素養だった。

 「何か面白い話が聞きたいね」

 期待はしていなかったが、小心者は予想に反して一本の指を立てていた。

 「ひとり、興味をお持ちになりそうな、あ、相手がいました」

 エシオンは椅子の背もたれに寄りかかって手を組み、聞く姿勢を示した。マクディーアは体を硬直させ、しどろもどろに口を開く。

 「私の紹介した仕事を、完璧にこなし、その依頼人に手ひどい怪我を負わせました。いずれの神に属しているかは、その、不明ですが、かなりの加護を授かった信徒のようです」

 「さきほどは名前が上がらなかったようだが」かくいうエシオンもゲインの件については誰にも言っていない。

 「我々、この国に対しての敵意はないように見受けられましたので。その、どこかの組織に所属しているという可能性も、限りなく低いと判断しました」

 「私が興味をひかれそうだと判断した訳は?」

 「ひどく、むこう気が強いからです」

 思わず口元が綻んだ。確かに多少は無礼な方が好ましい。礼儀を伴ってさえいれば。

 「取り込めたのか?」

 マクディーアが目を伏せ、頭を下げる。

 「申し訳ございません。今頃はもう国外に出ているはずです」

 先ほど怪我をさせたと言っていた。

 「逃亡か?」

 「いいえ、そうではありません」

 熱が入ってきたのか次第に舌が回り始めるマクディーア。

 「その件の相手から仕事を斡旋してもらったようです。事情を伺ってみたところ、交渉が決裂した結果の正当防衛とのことでした。なにやら被害者側が庇っている様子でしたが、いささか過剰なものであったと推察されます」

 差し出された報告書を流し読みする。先ほどマクディーアが述べた経緯と、外見的特長が記載されていた。灰色の髪。灰色の瞳。十代の半ば。見目麗しい少年。

 少年の行動、言動、果たした仕事から、その人となりや背景を想像する。聡明だが、激しやすい。何かしら制約のにおいがする。確かに面白そうな人物ではあった。少し話をしてみたくなってすらいた。もしかすると友人になれるかもしれない。

 「ほう?」

 報告書の最後には、パオロ・カヤの隊商に護衛として参加、サルタナへ向かっている、とあった。奇妙な偶然だ。ゲインをねじ込んだものと同じ隊商だった。

 このような状況でなければ珍しいこともあるものだといった感想を抱くだけで済んだかもしれない。いまのように望まぬ苦労をさせられているのでなければ。まるで自分だけ蚊帳の外に置かれているような気分だった。自分がこれだけ世の中のつまらない部分を引き受けてやっているのだから、他の奴らはきっと楽しんでいるに違いない。

 エシオンが唐突に席を立つ。部屋中の会話が瞬時に途切れた。

 マクディーアは刑の執行を言い渡される直前の囚人のように青ざめていた。エシオンは微笑み、安心させるために穏やかな声で言った。

 「確かに面白かった。一族連中には私から君のことについてよく言っておこう」

 それが幸運か不幸かを判断できないでいる男を尻目に、エシオンはすべきことを考える。会合の日程を終えてから追いかけるつもりだったが、もうそんな気分ではなくなっていた。出立に遅れが生じていなければ隊商が発って数日は経過している。もたもたと準備している余裕はないだろう。一人で向かうのが合理的だ。そうに違いない。

 手招きをして部屋を出る。続けて出てきた司会役の老人が声をひそめて言った。

 「いかがいたしましたか?」

 「少し出かける。しばらくは戻らないかもしれん」

 信じられないといった顔の老人。エシオンは疑問を挟ませずに指示を出す。

 「以降の面倒な手続きや会議はうまいことやっておけ」

 抗議の代わりに眉根を寄せる老人に、エシオンは長衣の内から鍵束を取り出して渡した。はめていた指輪を外し、さらにその上に乗せる。

 「私の店と、別邸と、その金庫の鍵だ。中に入っているものは好きに使え。君の取り分も含めてな。指輪は代理の証明になる」

 老人の視線が自分の手の中のものとエシオンの顔とを行ったり来たりした。やがて恭しく頭を下げて部屋に戻ると、残っている者たちに解散を告げた。余禄でざっと人生が三度は送れるほどの報酬額。彼の孫の人生はそれなりに輝かしいものになるだろう。

 裾を翻したエシオンは大股で通路を歩きながら、これから遠出をするにあたって手配しなければならないものについて指折り数えた。旅の道具。不在の連絡。気まぐれの言い訳。

 そして期待で胸を膨らませた。どうか波乱と驚愕に満ち溢れたものになりますように。あわよくば、この世界がひっくり返りますように。

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