第12話 勧誘
外はすっかり日が暮れていた。
迎えに来た集落の住民に連れられて再びウィレットの家へと招かれ、もはや見慣れた家のドアを開ける。目に入ったのは、いつもの干からびた禿頭ではなかった。
そこで待っていたのは長い栗色の髪をした少女であり、体の前で手を揃え、二人の来訪を歓迎するように軽く腰を折っていた。
ゲインは思わずその場で硬直した。腹に何か重いものがたまり、その場に沈み込むような感覚に襲われた。
あの酷い有様からこんなに早く快復するとは思っていなかった。一晩くらい滞在を伸ばしたところで顔を合わせることなど無いと考えていた。
夜ごと夢で見るのと寸分変わらない顔貌。瓦礫の山、焼け焦げた石材、黒く変色した煉瓦が見える。
かどわかされ、無体な仕打ちを受け、今日、匪賊から助け出されたばかりの少女。住んでいた街が焼け落ち、路頭に迷ったせいで。
去来したのは、何故ウィレットの申し出を受けたのかという後悔と、今すぐにでもこの場から逃げだしたいという衝動と、そのような自らの下劣さに対する羞恥心と、とうとう来るべき時が来たかという諦念だった。
入り口を塞いだまま動かないゲインの尻がアシュレイによって蹴り飛ばされる。つんのめるようにして家の中へ入ることになった。
アシュレイがドアの縁に手をかけ、狭い室内を見渡す。「ウィレットさんはどちらに?」
「何か相談ごとがあるとのことで、他の方の家に。さあ、どうぞ」
招かれるままに席に着いた二人に対して、少女は折り目正しく自己紹介を行う。
「イリアと申します。このような粗末なものしかご用意できず、大変恐縮ですが」
テーブルの上には野菜くずと豆を煮込んだスープ、山菜や木の実に茸類をあしらったもの、小さなパンが並べられている。こんな場所では用意に苦労したであろう料理の数々。明け方からの強行軍で腹には何も入っていないはずで、目の前のそれらは湯気が立ち、いい匂いもしている。だが、ちっとも食欲が沸かなかった。
少女はたおやかに微笑んでいる。顔つきは僅かに幼さが残るが、質素な身なりの上からでも分かるほど丸みを帯びた体つきは十二分に女性を感じさせるものだった。テーブル上の燭台の蝋燭のみを光源とした室内において、闇から浮かび上がるようなその立ち姿はひどく幻惑的なものとしてゲインの目に映った。
まるで夢の続きを見ているような気分になる。これが現実であることを確かめるためにゲインは声を出してみた。
「もう、大丈夫なのかい?」
「はい。ご挨拶が遅くなり申し訳ありませんでした。すぐにでもお礼を申し上げるべきでしたのに」
イリアは儚く笑った。もしかすると──彼女は気付いていないのかもしれない。そう思い込もうとしてスプーンを手に取り、スープを口に運んだ。味がせず、飲み込めもしなかった。パンを齧っても同じで、精巧に外見を真似た粘土の塊を咀嚼しているような気がした。とてもではないが空とぼけてこの場をやり過ごそうという気にはなれなかった。
「お嬢さん、俺のことを覚えてるかい? 今日の話じゃないぜ」
駆り立てられるようにして吐き出されたゲインの問いかけに、イリアは表情を変えずに頷いた。
「はい。ゲイナー・アージェント様」
全身から力が抜ける。椅子の背もたれに寄りかかって天井を見上げた。年月で色の濃くなった梁の陰から黒焦げになった顔と手足が見える。
審判の時──ゲインは乾いた唇を舐め、声を絞り出すために深呼吸をした。自分でも意外なことに、腹は括れていた。
「どこで俺の名前を?」
「新聞で拝読しました。あまり好意的な書かれ方をされたものではありませんでしたが」
「そうだろうな。何しろ敵国だ」
アシュレイが割って入る。「顔見知り、ということか?」
「俺が焼いた街の生き残りさ」
一度だけ、アシュレイの視線が両者の間を行き来した。押し黙って腕を組み、なりゆきを見守るといった態度を取る。
「調子──を聞くのも野暮だな。あれから、そのままここへ?」
イリアが首肯した。怒りを表す様子は無い。「はい。行く宛てもありませんでしたので、避難する他の方々に紛れるようにして。皆様には非常に良くして頂きました」
「そりゃあ、なによりだ」
ゲインは自分の槍を差し出した。
「もう知っているかもしれないが、君の身にふりかかった不幸は何もかも俺が原因だ。今更言い訳はしない。こいつで好きなようにやってくれ。料理に使った包丁があるなら、それでもいい」
イリアはそれには見向きもしない。両手を体の前で重ねたまま、先ほどまでと同じように微笑んでいる。
「手を下す価値も無いっていうんなら、他のやつに頼んでもいい。別に隣のこいつに言ってくれても構わない。とにかく、きみにはその権利があって、俺はそうされても仕方ないほどのどうしようもない間抜け野郎で──」
「お優しいのですね」
イリアの放った一言で急所を抉られたとでもいうようにゲインは呻いた。歯を食いしばり、俯いて震える。
「なんで、そうなる」
「思ったことをそのまま口にしたのですが」
「これが、優しさなわけがあるか。俺はただ……ただ、赦しが欲しいだけだ。元居た安全な場所に逃げ帰りたいだけだ。自分がそんな真似をするのを許したくないだけだ」
「自らの行為がもたらす影響に慄くのは十分に"そう"なのですよ。それが事前、事後であるに関わらず」イリアはゆっくりと、諭すように続ける。「ああ、どうかお顔を上げてください。わたくしに限って言えば、貴方様がお気に病むことなど本当にないのですから」
「そんなわけが──」
「あるのですよ。今回のことを含め、私たちの間に起こったことに関して、私はなんら痛痒を感じていないのです」
「確か、両親を亡くしたと」
「作り話です」
ゲインが唖然として固まり、恐る恐るアシュレイの方へと顔を向けた。
「少なくとも僕には嘘が感じられなかった」
ゲインが出血しそうなほど強く頭を掻き毟った。「説明を……してくれないか。俺にはきみが何を言っているのかよく分からないんだが」
イリアが口元に手をやって考える素振りを見せる。「お食事の後にでも、と思っていたのですが」
「いますぐ、頼む。このままじゃ餓死しそうだ」
優雅な足取りでイリアが向かいに腰を下ろした。小首を傾げた、艶然とした佇まい。何故か既視感を覚える。すぐに思い至った。エシオンだ。
とんでもなく嫌な予感。
「住んでいた街が焼け落ちてここに流れ着いた、ご存知の通りこれは本当です。ほとんど成り行きによるものでしたが。その際に両親と死に別れた──これは嘘です。ここに溶け込むにあたって同情を買った方が都合がいいと思いましたので、そう演じました。次に元兵士の方々に攫われたことですが、これは嘘ではありません。まったくの偶然です。そう遠くないうちに姿をくらます必要がありましたので、これ幸いとなすがままでいました」
「姿をくらます?」
「もう長いことそうしてきました。各地を彷徨い、これはと思う方に声をかけ、追跡を躱すため痕跡を残さないように消える。大抵の場合は空振りで、そうでない場合の半分程度は拒否を示されます。あの方々は前者でした。面白そうな玩具はお持ちのようでしたが」
「声をかけるっていうのは──」
「転向のお誘いです」
事情が飲み込めてきた。とんだ道化を演じたことを理解したゲインは目の前がくらくらした。手のひらで顔を叩いて眩暈を追い払う。同時に、死刑の執行が先に延びたことで安堵も覚えていた。自分の下種具合に腹の底から笑いがこみ上がっていた。
「ああ……光栄にも俺はお眼鏡にかなったわけか」
「はい。アージェント様ほどの勇士であれば申し分などありません。ここで再びお会いできたのも天啓というものでしょう」
媚びるような上目遣い。先ほどまでの慎ましやかな令嬢といった雰囲気は消え失せていた。なんのことはない、彼女は参加者だったのだ。まったく肥溜めのような世界だった。何もかもがぐちゃぐちゃに入り混じっていて混乱と混沌に支配されている。
「ちなみに、何て神様だい?」
「ウル、と申します」
「初めて聞く名だ」
「そうでしょう。ここより遥か東で国を興した神ですが、国土などとうに無く、今はお隠れになっています。しかし、陣取り合戦で負けたからといってそれでゲームが終わるわけではありません」
信徒を各地に潜伏させて個体数を増やしながら勢力としての延命と拡大を図る。引き入れるのはそれなりの大駒。正面をきって戦えない以上、小駒を多少揃えたところで意味は無いとの判断。冴えたやり方──弱者にとっての、という但し書きのつく。
「熱心だな。頭が下がる思いだ」
「答えをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
受けたとしてもその末路は見えている。今まで以上に使われるだけだ。もう誰にも使われるつもりはなかった。自分の手綱を誰かに握らせるつもりはなかった。
「もちろん断る」
「そう仰ると思っていました」
暗がりの中で何かが蠢いた、そう思った次の瞬間にはゲインの体は拘束されていた。椅子とテーブルの陰から伸びてきた縄状のものに手足を縛られている。先端が口を開いて細長い舌を覗かせたのを見て、それが蛇を模したものであると分かった。影で出来たような深い黒色をした蛇。締め上げられ、ゲインの手から槍が落ちた。
一瞬の出来事だったというのにアシュレイの方は難を逃れていた。目にもとまらぬ早業でテーブルの上から燭台をかっさらい、座っていた椅子ごと後ろに倒れて蛇を躱していた。
溜息をついて、ゲインは星髄の回収を行う。「昼間のあれはあんただったのか」
部屋中の陰という陰から黒い獣が姿を見せる。巨大な牙を持つもの。幾重にも枝分かれした角を突き出したもの。前足が人の胴ほどの太さを持つもの。衝角を思わせる細長く尖った頭部をもつもの。それらに周囲を囲まれていた。
アシュレイは二本の蝋燭のうち片方をへし折り、床に落とす。乾ききった木製の床板に火が燃え移り、足元を強く照らした。獣どもがひるんだように距離をとる。
「はい。頃合を見て最後のひとりを脅しつけました。まさか誰かが助けに来るなどとは夢にも思っていませんでしたが──これも至尊の思し召しなのかもしれません」アシュレイへと視線を移す。「殺すつもりで襲ったにも関わらず、見事に凌がれてしまったのには驚きました。貴方もいかがですか?」
アシュレイが空いた手で短剣を抜いた。「興味はあるが、どうせ無駄に終わる。それに、あんたのやり口が気に食わない」
同族嫌悪という言葉が頭に浮かんだ。突きつけるのが刃かそうでないの違いでしかない。ゲインが肩を震わせて喉を鳴らすと、珍しくアシュレイが表情を歪めた。忍び笑いを遮るようにゲインの喉首に蛇の牙が押し当てられる。
「それでは再度お尋ねします。ウルに仕えるおつもりはありませんか?」
「断ったら?」
「私がここにいたという痕跡を消さなければなりません。また身を潜めるために。これまでそうしてきたように、今回も。それを踏まえた上でお答えください。それに、何もこれはアージェント様にとってまったく利のない話ではありません」
「例えば? 命を助けてもらえる以外に、何を?」
「貴方を苦悩から開放して差し上げることができます」
ゲインが嘲笑った。「どんな風に? 宗旨替えをした次の瞬間から俺は幸福感に包まれるのかい?」
「それを希望するのであれば、ウルは与えてくださることでしょう。ですがそれはきっとアージェント様にとって望まぬものであるはず。貴方は貴方の優しさ故に自らを焼きたがっている。そして小人であるが故に救いを求めてもいる。これを解決するのは時間です。ウルは少数を運用しなければならないという現在の戦略上、いずれの信徒に関しても活動の期限を定めていません。つまり──寿命の話です。二百年もすれば貴方の感じているその懊悩はある程度の納得の末に消え去ることでしょう。断言しても構いません。それこそ、男どもに体を好きに使われてもまったく何も感じなくなるくらいには精神、人格が磨耗します」
今まさに脅迫されているというのに不思議なことだが、相手の善意を感じた。彼女が与えられる限りの施しをしようとしているように思えた。
必要量の変換が終わる。ゲインは返答の代わりに奇跡の発現を行った。
ヂ、ヂ、という虫の鳴き声を大きくしたような、不快感を煽る音が拘束中のゲインの体から発生していた。
二度目ともあり、素早く反応したアシュレイは出入り口に向けて走った。そこへ黒い獣どもが殺到する。アシュレイは燭台ごと火を投げて道をこじ開けた。走りながら身を屈め、飛び、爪と牙と角を躱す。いくつか体を掠めて血が飛び散ったが、足は止まらない。扉に体当たりをし、家の外へと転がるように飛び出した。
それとほぼ同時に雷がウィレットの家を包み込んだ。完全には避けきれず、アシュレイも電撃のあおりを食らって地面に倒れ伏した。
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