第13話 焼却

 雷が止む。木が爆ぜ、焼ける音。白い煙が立ち上る。暫くして、民家の扉を開けてよろよろとゲインが出てきた。目に見える部分の皮膚はほぼ全てが自分の電撃で焼けただれていたが、負傷部分がうっすらと光を放ち、見る見るうちに元の正常な状態へと回復していった。槍を杖代わりに覚束ない足取りで倒れたままのアシュレイの傍まで寄り、腰にぶら下がっていた水筒を奪い取って中身を流し込んだ。自身の雷撃で灼けた喉を冷やす。

 それを何度か繰り返しているうちに、起き上がったアシュレイに横合いから腹を蹴り上げられた。

 「やるなら何か合図をしろ、くそ」

 蹴られた衝撃で飲んだばかりの水を戻す。再生中の体をなんとか腕で支えながら荒い息をつき、顔を上げ、ひとこと言ってやろうと口を開きかけたところで──目の前に生えてきた黒い獣の前足に面食らって喉が詰まった。

 「光を出せ!」

 アシュレイが前足を短剣で素早く断ち切りながら叫ぶ。ゲインは無我夢中で光導索を展開して周囲を旋回させた。夜の中でそこだけ穴が空いたように輝きが灯り、立体化した影の残骸が塵になって消えた。

 「仕損じたな、ぼんくらめ」アシュレイが吐き捨てる。

 「あれ以上やったら俺が死んでたよ」

 今しがた黒焦げになった家屋からイリアがゆっくりと姿を現した。優雅な足取り。感情の読めない穏やかな表情。雷撃で焼けたのか一糸すら身に纏っていない。しかし、その肌には火傷の跡が見られないどころか、賊どもにつけられたと思わしき痣すら残っていなかった。

 白い裸身に影が這い寄って表面を覆い、瞬く間に流れるような夜会服へと変じた。

 ぎちぎちという耳障りな音。それがいたるところから聞こえてくる。いつの間にか、周囲を黒い蠢く何かに取り囲まれている。包囲が狭まってくると、それが蟲の大群であることが分かった。節のある細く長い体と無数の足を蠢かし、鋭利な顎を開閉させながら這い寄ってきている。

 二人に近づこうとした蟲は光に照らされてことごとく霧散していくが、それでもまったく勢いは衰えず、波が寄せるように群がり、消え、再びどこからか現れる。あまりのおぞましさに思わず鳥肌が立った。

 「くそ、まったく気が滅入る光景だな」とんでもないものを引き当てたことを悟り、ゲインが頭を抱えて溜息をついた。

 「夜はあの女の世界というわけだ。この光はどれくらい維持できる?」

 空を見上げる。そこには赤と白、二つの月が煌々と輝いている。

 「朝までは、ちょっと持ちそうにないな」

 先ほどから光導索の展開に神気を消費し続けており、並行して星髄からの回収と変換を行っているため段々と酔いが回り始めてきている。

 「なら、攻めるか逃げるかのどちらかしかない」アシュレイがあっさりと言い放った。「これは押し返せないのか?」

 「いまやる」

 光球の数を増やし、移動の邪魔にならないよう頭の上あたりに高度を定めてイリアまで届くよう周回する半径を伸ばした。埃でも掃くように蟲が散らされ、耳障りな音が止む。

 消費した分を急いで回収する。変換。眩暈に襲われる。

 片膝をついたゲインを尻目にアシュレイが疾駆した。範囲を広げたせいで光の薄くなった個所から巨大な軟体動物が現れ、触手を伸ばして足を絡めとろうと狙うが、速度に緩急をつけて前後左右に動き回り、それを掠らせもしない。集落の外の山林に移動しようとするイリアに肉薄する。

 白刃が振るわれ、冷気が散る。イリアは手を掲げ、鉤爪のような形状に変形した袖でそれを受け止めていた。二人の姿が重なることで必然的に出来上がる影が牙を形どって伸びる。アシュレイは大きく下がり、避けざま、走りざまに幾度となく矢を放った。全て服の表面を滑って弾かれる。光に晒されたことによって薄皮のようにドレスの剥がれた個所や顔や胸元などの露出した部分を再度狙うが、それも難なく手で叩き落とされた。

 しつこく追いすがるアシュレイに対してイリアが反撃に転じる。夜会服の長い裾を突き破って、長く、鋭利な甲虫のハサミのようなものが現れる。前に出ようと大地を踏みしめた瞬間の足を狙ったもの──避けれないと判断したアシュレイは、ハサミが交差する直前に足を浮かして切断を免れる。地面の上を転がって追撃を避け、拾い上げた土を相手の顔を目掛けて放った。

 夜会服の袖を鳥の翼に変えたイリアはそれを目の前にかざして目潰しを防ぐ。羽が散り、視界が戻ると、既にアシュレイの姿はそこになかった。

 尋常でない速さでイリアの背後に回っていたアシュレイは、大きく開いたドレスの背中を狙って短剣を腰だめに構えていた。

 背中側のドレスの裾からぞろりと生え出た獣の角がそれを迎え撃った。アシュレイはそれを最小限の動きで迂回して指一本分ほどの見切りでかわし、両手で掴んだ短剣を踏み込む勢いのまま脇腹に押し込んだ。

 服を貫く感触、皮膚を貫く感触──金属にぶちあたったような感触。裂けた隙間から、黒く硬い何かが見えていた。

 アシュレイが飛び退って距離を取るのと、そこから棘のついた虫の前足が伸びたのは、ほぼ同時だった。

 とうとうイリアが木々の間に逃げ込んだ。ゲインは光導索の半径を伸ばすが、正円、楕円を描く軌道を設定しているため、光球が幹に当たっていくつも消滅する。大半を無駄に消費したせいで思わず焦りが出そうになったが、アシュレイの取った行動のせいですぐにそれどころではなくなった。まったくの躊躇なしに集落外の山林に飛び込み、イリアに食らいつこうとしている。

 あれもあれで大概いかれている。しかし正しい判断だった。少なくとも、あの化け物から目を離すのは得策ではない。

 援護をしなくてはならない。

 ゲインは変換が終わって生成された神気を更に光導索へと回した。樹頭よりやや上の高さを設定して周回させる。地面と距離がありすぎるし、何より木の葉で遮られて大した効果は発揮しないだろうが、それでも何も無いよりはましであるはずだった。木々の間を運よく通り抜けて周回を続ける光球を見つけ、同じ軌道上にいくつかを追加する。

 ゲインは決定打を加えるため、更に星髄を吸い上げた。既に立っていることすらできず、膝と手をついた状態でそれを行っている。霞む視界の中で顔の孔から垂れた血が地面に黒い染みを作った。激しくなる一方の動悸を押さえ込むように胸を握る。

 不意に、ゲインの視界と体が大きく揺らいだ。眩暈によるものではない。何かが頭に当たったことによる衝撃。ふんばることができず、思わず地面に倒れた。

 真っ先に考えたのは光源についてだった。首を動かして頭上を見上げる。光導索は解除されていない。ひとまず安堵して、倒れた原因を探した。

 すぐ側に拳に握りこめる程度の大きさをした石がいくつも転がっていた。そのうちのひとつに血がついている。頭部の衝撃を受けた箇所に手をやると、ぬるりとした感触があった。

 相手の頭の冴えに悪態がついて出る。確かにこれなら光で消えることはない。

 石つぶてが次々に降ってくる。光導索の円周の半径外や、森林の木陰、藪の中──光の届かない位置から、様々な生物を模した黒い物体がそれらを投擲している。腕で、脚で、口で咥えて。

 ゲインは自身の周囲に風を巻き起こした。石の軌道が逸れ、見当違いの方向にばらばらと落ちる。問題なく防げる──そう思った矢先、拳どころか頭大の岩石がすぐ近くに落ちて地面を揺らした。手を伸ばせば届きそうな位置にくぼみが出来ている。

 ゲインは全身を震わせ、ようやくのことで起き上がった。痙攣する太腿を拳で叩いて活を入れる。

 覚束ない足取りで歩く。肩口に岩が掠ってよろめき、また倒れた。

 再び起き上がろうと体に力を込め──唐突に、そこを誰かに引き起こされた。視線を向ける。ダンが、ゲインの腕を掴んで自分の首の後ろに回し、体を支えていた。

 「おい、大丈夫か?」

 ゲインは力なく頷いた。「何とかな……こっちはいい、ちょっと面倒なことになってるから、住人の避難を──」

 「大勢死んじまった」ダンが正面を向いたまま言った。光の加減で表情が見えない。「生き残りがいるかどうかは探してみないと分からない。いったい、何が起こってる。あの黒い化け物どもは何だ」

 ああ、成程ね。

 そういうことかと納得した。また姿をくらますための、痕跡の抹消。徹底的にやるつもりであることを悟った。端からこうするつもりだったのだ。ゲインは言うべき言葉が見つけられずに、すまん、とだけ呟いた。ダンは無言でゲインの体を引きずるようにして運び続ける。

 飛来して地面をえぐる岩の鈍い音に混じって、ばさばさという葉と葉の擦れる音がした。大きなものが倒れる音と、振動。一本の古木が群がった蟲に根元を削られ、切り倒されていた。中型の竜を模した影が、人の腕ほどの太さを持つ枝を選んで食いつき、へし折る。

 「あんただけでも逃げてくれ」

 ダンは言葉を発しなかった。泣き言も、恨み言もない。ゲインから手を離そうともしなかった。少しでも脅威から距離を取ろうと汗だくになりながら引きずり続けている。

 竜が首を振って器用に枝を投げた。並みの樹木程度はありそうな大きさ──それが回転しながら放物線を描き、二人の背中へと命中する。

 息がつまる。背中とあばらに走った痛みで目の前が白くなった。倒れ、地面の上を滑る。集中が途切れて奇跡の維持に失敗し、辺りを照らしていた光球が一斉に消え去った。

 うつ伏せに倒れたゲインは思わず逃げろと叫んだ。肺か喉がやられたのか、声にはならなかった。

 顔を動かして安否を確認する。

 ダンは既に死んでいた。影から生えてきた甲殻に覆われた巨大な脚によって、肩に回していた自分の腕ごと股下から頭にかけて縦に断ち切られていた。




 ***




 距離を詰めることが出来ない。

 目と鼻の先にはイリアがいる。薄笑いを浮かべながら走っている。アシュレイは木々の間を走り抜け接近しようと試みるが、行く手を遮るように地面の影に波紋が広がる。

 黒い魚が跳ねる。アシュレイは直角に進路を変更し、木漏れ日のように頭上から降り注ぐ光の中に逃げ込んだ。魚が塵になる。敵との距離が開く。遮蔽物が多すぎて矢を放つ機会さえない。

 イリアは木々と影を盾にして速度差を巧妙にごまかしながら逃げている。しかし、どこか遠くへ走り去ろうというのではなく、集落を中心にして外周に沿うように移動している。これは恐らく射程距離の問題だ。昼間に体感した通りであれば操ることができる影には距離的な制限がある。集落から離れないのはそういうことだ。この女がいま何をやっているかについて容易に想像がついた。だが、それを防ぐ手立てがなかった。

 埒が明かない。決め手が欠けている。そして、自身がそれを与えることは難しいと考えざるをえなかった。

 アシュレイは神気の残量を確認する。残りは少なく、雷撃からの回復で──あろうことか二回も──消耗していたこともあり、走り続けている今も目減りしていた。

 頭の中に逃走の二文字が浮かび上がる。奇跡を使っているせいで延々と吼え続けている狼がそれを拒否する。耳鳴りな激憤。この程度の相手などさっさと殺せと子供のように喚きたてている。

 そこに追い討ちをかけるように、期待とは正反対のものが訪れた。

 周囲を淡く照らしていた光球が一斉に消え去った。上方からの照明も同様に。光源のまったく存在しない、月の光すら届かない完全な闇が訪れる。

 アシュレイは即座に暗視を発現した。瞳孔が縦に裂け、虹彩が金色に輝く。

 周囲のあらゆる影が波打っていた。

 懐から素早く魔道書を取り出す。ゲインに返すふりをしてくすねていた何枚かのうちの一枚。紙面に記載されたとおりに微量の神気を流し込んで定められた文言を口にする。

 「閃槍」

 中心に貼り付けられた鋼板が煌いて封じられていた奇跡が復元し、炎の塊が出現した。イリアのいる位置に向けてそれを放つ。

 イリアが一瞬だけ目を見張った。走り、木の陰に逃げ込むのが見えた。

 炎が地面を舐める。その上を走りながら、アシュレイは更にもういちど魔道書を発動させた。

 影が鳴りを潜めたのを見て取ったアシュレイは、地を蹴って周りで一番大きな木の幹に足をつけ、そこを垂直に駆け上がった。

 大木の頂点に近づく。幹が細くなりすぎる前に樹を蹴り、反動をつけて横に跳んだ。体を丸め、頭をかばう。他の木々の枝葉を突き抜けるときに、肌が露出した部分にいくつもの傷が走った。

 着地点の付近では地面の上に浮かび上がった無数の口が待ち構えていた。口腔内には牙とも棘ともつかぬものが生え揃っている。アシュレイはそれに向けて三発目を放った。耐用の限界を迎え、魔道書が塵になって崩れ落ちる。

 炎が直撃して影が散る。着地し、衝撃と勢いを殺すために土の上を転がった。仰向けに倒れたまま、一度だけ大きく息を吸って呼吸を整える。

 周囲の影が揺らめいた。アシュレイは跳ね起きて逃げようとしたが、ほんの僅かに間に合わず、右のふくらはぎが切り裂かれた。裂かれた筋肉を再生させながら足を動かす。激痛で額に吹き出た汗が目に入った。

 痛みに反応して頭の中で咆哮が轟く。呼応して、アシュレイの怒りもぐつぐつと煮え滾った。間の抜けた狼はこんなときでも癇癪を控えようとはしない。

 ゲインの姿を探しながら、この状況下で連れて逃げることができるかを考えた──のろのろと逃げ惑った挙句に五体を寸刻みにされる未来が見える。

 《彼の不届きものに神の威を示せ》

 「やかましい!」

 背後にはアシュレイを飲み込もうと蟲の大群が追ってきている。アシュレイは叫び、走ってそれを引き離した。行く手を遮ろうとしないのは距離があるせいだと判断した。遠くから草木を踏み荒らして駆け寄ってくる足音が聞こえる。時間が無い。

 うつ伏せで倒れているゲインを見つけてアシュレイがやにわに足を止めた。

 片腕が無い。体は呼吸でほんの僅かに上下している。意識があるのか無いのか分からないような状態──それはいい。問題は、ゲインのそばに見知らぬ女が跪いていることだった。闇の中でもそうだと分かるほど病的なまでに白い肌をしている。白い長衣と長い淡紫の髪が地面に扇状に広がっていた。

 女はゲインの背中に手を当てていた。アシュレイと視線が合うと、その無駄のない鼻の稜線の下に人を食ったような笑みを浮かべる。

 反射的に射掛けそうになったアシュレイの手は、すぐ後ろから聞こえた蟲の羽音によって静止した。

 白い女が指を立てる。そこからゲインと同じように光球を生み出し、楽団を率いる指揮者のように優雅に腕を振るった。光球はアシュレイを素通りし、波のように迫ってきていた蟲を薙ぎ払う。

 女の素性について様々な疑問が浮かんだが、駆け寄ったアシュレイが口走っていたのは誰何の言葉ではなかった。

 「逃げるぞ」

 女が口元を袖で隠す。この状況に似つかわしくない暢気な仕草。「生憎と、治療の最中だ。腕もそうだが肺と背骨がやられている。まだ動かすのは危ないな」

 「もうすぐ奴が来るぞ」

 ゲインが体を痙攣させて咳き込んだ。無事な方の腕で地面を引っかき、土を握り締め、「あの女を殺す」と、底冷えのする声で言った。

 「足止めしろ。ここから絶対に逃がすな。時間を稼いでくれ」

 アシュレイが首を横に振った。「もうどれほども持たない。枯渇する」

 「手を取れ」ゲインが倒れたままアシュレイに向けて震える腕を伸ばす。

 「何?」

 「早くしてくれ」

 ゲインが喉を詰まらせて真っ赤な痰を吐いた。白い女は心配した素振りなどなく、むしろ興味深そうに二人のやり取りを眺めている。

 逡巡。

 段々と近づいてくる足音。

 身を屈め、ゲインの手を取った。

 触れた部分から体内に液体を流し込まれたような圧迫感があり、血管が大きく脈打ったような感覚に襲われた。不思議なことに嫌悪感は無い。腕を通り、肩から背筋へ流れ、それはやがて足まで到達して全身に行き渡った。

 いままでにないほど体中に神気が満ちあふれていた。それこそ一晩中でも走り続けていられるほどに。

 「おい、どういうことだ」

 「つまるところ、これも効率の問題なのだ」ゲインではなく女の方が口を開いた。「限られた資源をどう上手く運用するか──最低限の機能だけ持たせた有象無象で大地を埋め尽くすのも、厳選した小数に大きな権能を与えるのも、目的を達成するために最良を模索した結果に過ぎない。これも同じで、回収させた星髄をいちど自身を通して再度分け与えるという行為に無駄を感じたのだろうな。神気に変えるためとはいえ。だからこそ各個体に自分で利用するための変換機能を搭載したのだろうが、この男の場合はそこに不具合があった」

 女は滔々と語る。疑問が次々に沸き、口からついて出ようとしたが、アシュレイはその全てを戦意でねじ伏せた。

 「説明は後でしてもらおう。それと、足止めをさせたいなら光源を増やせ」

 「承知した」

 女が口元に三日月を浮かべ、先ほどと同じように指先から光の球を次々と生成する。

 イリアが姿を現した。

 それを見て狼ががなり立てた。

 アシュレイは抵抗せず怒りに身を任せた。




 *****




 血を失って冷え切った体が徐々に活力を取り戻しているのがまどろむ頭でも理解できた。背中に押し当てられたほっそりとした指からそれが与えられている。心地よい気分だった。体はそのまま眠りにつきたがっていたが、気を失う直前の光景がそれをさせてはくれなかった。

 探しているものはすぐ目の前にあった。縦に割られた死体。濁った眼球とこぼれた内臓と地面のどす黒い染みが目に焼きついた。

 最悪だった。きっとこれも夢に出るようになる。

 「その男のことは残念だったな。すんでのところで間に合わなかったよ。お前の命があったのは、まさしく幸運だった」

 聞きなれた女の声。誰のものかは顔を見なくても分かる。

 「なんで、ここにいる」

 かすれた声で言って、ゲインは起きあがろうと体に力を込める。

 「喋るのはいいが、まだ動くなよ。回収と変換に集中しろ。なに、心配はいらん」

 首と目玉を動かして状況を確認する。四方を人工的に成形されたとしか思えない長方形の土壁に囲まれていた。その内部を光球が照らしている。

 腕はまだ復元していない。ダンの死体をまたいで、少し離れた場所に槍を握ったままのそれが力なく転がっていた。動かそうと思っても動かない、ただの肉の塊。自分のものではないような気すらしてくる。エシオンの奇跡によって痛みが抑えられているせいもあって現実感が乏しかった。

 「ウルの使徒──個体数からいえば神官なのだろうが、奴らは視界内の影しか操れんのさ。だからこうして壁を十重二十重に作って内外を照らしておけば、とりあえずの安全は確保できるというわけだ」

 何かが土壁にぶつかる音。壁はびくともしない。なにもかもを承知しているといったエシオンの口ぶりに、ひとつ疑念が湧いた。

 「まさか……あんたがこれを仕組んだわけじゃないだろうな?」

 「脱走兵の始末まではまあ予想していたが、こんな状況は流石に想定外だった。つくづく不運な男だな、お前は」

 ゲインは肝心な部分を尋ねる。「他の住民はどうなってる」

 「誰ひとり残ってはいない。家屋は全て叩き壊され、人の姿など見当たらなかった。彼が最後だったようだ」

 押し殺した呻き声がゲインの喉の奥から漏れ出た。

 「考えすぎないことだな。これはそういうゲームなのだから。我々のあずかり知らないところで始まり、あまつさえ勝手に参加させられているとなれば、真面目に思い悩むなど時間の無駄というものだ」

 こんなことになってしまった原因について考えた。あの女の要求を拒否したからか。難民にいい顔をしようとして求められた以上の仕事をしてやろうと思い立ったからか。金に目がくらんでこの仕事を請けたからか。それとも、悪夢にうなされるような馬鹿な真似をしたからか。

 「何でこうなる。俺はただ、命令に従っただけなのに。言われた通りに殺しただけなのに。なんで俺がそのツケを払わされなきゃならないんだ」

 「共同体や組織に過度な期待をするべきではなかったな。それらが約束するのは建前上ですら最大公約数的な保障であって、誰か特定の個人に寄り添うものではない。信徒同士ですらそうであるというのに、神を頂点にいただく国家ともなれば──何をいわんや、といったところか。おっと、大のおとなにするような話でもなかったか」

 吐息がかかるほど顔を耳元に寄せられる。淡紫の髪がゲインの首筋をくすぐった。

 「だが、お前の煩悶は痛いほど分かる。この状況を作った元凶に対して、報いを与えてやろうとは思わないか? 私ならそれを手助けしてやる事ができる」

 背筋が痺れるような甘い囁き。

 ゲインは悲鳴のような声でそれを強く拒絶した。また死体が積みあがる。もう夢を見たくない。

 「やりたいなら一人で勝手にやってくれ。俺を唆そうとするな」

 「柔弱なくせに強情だな」エシオンの顔が離れた。うんざりしたような溜息。「まあいい。だが、とりあえずはこの場を何とかした方がいいのではないか? 耳を澄ましてみるといい」

 ひっきりなしに土壁を叩く音に混じって。激しく地面を駆け回る音と、剣戟の音が聞こえる。二人が丁々発止を繰り広げている様が容易に想像できた。

 殺してやる。あの女は殺してもいいのだから。当然そうするべきだった。

 星髄に意識を向けた。それは周囲に満ち溢れ、だだっ広い川のようにゆったりと流れている。ゲインはそれを吸い上げる。そして拡張された星髄の回収機能と同様、後天的に付与された神気の生成機能を全速力で回転させた。

 「少しこちらに回せ。壁と光源の維持に使う」

 二割をエシオンに、残りを自分に下賜する。満足げな薄ら笑いが聞こえてきた。

 「まさしく神の御業という他ない。神気を与えられるのではなく自ら生み出し、あまつさえ誰かに授けることができる。他の誰にも真似をすることができない才能だ」

 今では押し付けられて塗りたくられた糞のようにしか思えない──血がのどに詰まって咳き込み、声にはならなかった。ぜいぜいと息を切らす。

 「何で俺なんだ」

 「理由を問うだけ無駄だな。お前である必要など無かったのだから。言ってしまえば単なる偶然だ。だが、盤の局面がこの状態を招いたという意味では、誰かがそうなるのは必然だったともいえる。このゲームは能率を上げるという名目のもと、基本的には信徒側の権限と裁量を拡大する形で進行してきた。法や社会制度がそう遷移してきたように、信徒の設計方針もまた同じであるという話だ。相手のものより優れた駒をより多く揃える。もっとも分かりやすい勝ち方だ」

 糞食らえ。

 ゲインの腕から流れ出た血が這うように蠢いた。ダンの死体を乗り越え、切り落とされた腕まで到達すると、二つを再びつなぎ合わせるために収縮を始める。

 腕が繋がり、血がそれを補強するように外側を覆った。赤黒い膜は腕全体に及び、握っていた柄の部分から槍全体にまで広がって腕と一体化する。槍の穂先で丸く膨らんだ血液から五本の鉤爪が伸び、槍と一体化した細く長い腕が形成された。

 血液は体の方まで侵食した。腕、肩、顔。それらが次第に硬質化して光沢を帯び、赤黒い外殻へと変化していく。

 それを眺めるエシオンの吐息が熱を帯びる。

 「他にも相当数いた適格者だが、まだ検証の域を出ないのか、出力も変換効率もお粗末なものだった。何より、自分以外に下賜することができたのは、お前を措いて他になかった。恐らくは意図した機能ではないのだろう。なにせ、これはもしかすると、プレイヤー側に回ることすら出来るかもしれない可能性を秘めているのだからな」

 ゲインは長大に過ぎる腕を倒れたまま持ち上げ、地面に爪を立てた。そこから炎が噴き出し、蛇のようにのたうちながら土壁を越えて四方八方へと伸びる。

 辺り一帯の星髄をひたすら呑み、神気を吐き出し続ける。酩酊感でゲインの頭の中はぐちゃぐちゃだった。酒の満たされた巨大な水槽に入れられ、それらが皮膚を素通りして体中を洗い流しているような感覚だった。凍えるように冷たくもあり、焼けるように熱くもある。

 正体がなくなる。記憶が混濁する。何がどうなっていまここにいるのか、はっきりしなくなってきた。腕の接合部分が疼いて、そういえば切断されていたことを思い出した。

 そうだった、殺すのだった。

 敵意をゆっくりとゆっくりと吐き出す。穴という穴から、体の中身が飛び出していきそうだった。

 炎の線が地面を走り回り、集落のいたるところに広がって噴き上がった。




 *****




 火の粉が舞っている。生木が音を立てて燃え盛り、もうもうと白い煙を上げて視界を塞いでいる。突如現れた猛火は全てを赤く塗り潰す勢いで広がり続けている。

 その光景に、イリアがこの夜はじめて焦りを表面に出した。背を向け、火の手から逃れるように走る。なりふり構わずといったその足取りに、今まで見せていた余裕など微塵も感じられなかった。

 アシュレイが追う。走りながら矢を番え、衣服がぼろぼろになって剥き出しになった手足に射掛ける。もはや防ぐことすらできないのか、その全てが命中した。しかし貫けない。皮膚を突き破ったところで硬質の音を立てて弾かれる。

 逃がすつもりなどなかった。山林を突っ切って先回りし、迫りくる炎と自分自身とでイリアを挟み込んだ。

 一瞬の対峙。背後に物音と気配を感じたアシュレイは素早く前に出た。後ろから襲いかかろうと草陰から生え出ていた獅子の前足を上着の端に掠らせながらイリアの懐に飛び込む。

 横薙ぎに振るわれるイリアの腕を屈んで避けながら、逆手に持ち替えていた短剣を通り過ぎざま脇腹に滑らせる。これも皮膚だけしか傷が入らない。接触箇所から広がろうとした氷も、傷口から滲み出てきた黒い何かに食いつぶされた。

 イリアが逃げる。炎から遠ざかる。アシュレイは即座に反転し、一足飛びでその背中に肉薄した。その流れる栗色の髪に腕を伸ばして地面に引きずり倒す。髪を引っ張り、相手の動きを封じて首に一撃──腕を交差して防がれた。

 つまりはここが急所。

 続けざまに突き入れる。二撃目。三撃目。四撃目が腕の脇を抜けて首筋を抉った。狼がアシュレイの口角を吊り上げる。

 そのせいで回避が遅れた。抉った傷口から吹き出た黒い泥のようなものがムカデを模って逆にアシュレイの首へと伸びていた。

 腕を盾にする。

 ムカデの顎は上着に仕込んでいた帷子を砕き、骨ごと腕を切り裂いた。イリアの髪から手を離して仰け反っていたこともあり、完全な切断は免れる。アシュレイは後ろに倒れ、しかし表情を変えずにすぐさま立ち上がった。動かなくなった腕から血が流れ、弓が落ちる。苦痛は無い。闘争心と怒りが痛みを完全に忘却の彼方へと追いやっていた。

 イリアも既に背中を向けて走り出している。首のムカデは炎に照らされて既に崩れ去っていたが、傷口を覆った泥はそのまま残り、ぼこぼこと泡立っていた。

 片腕をだらりと下げ、アシュレイは再生を待たずに追う。

 再度の接敵。唐突にイリアが振り返り、引き倒された際に手に握りこんでいたものをアシュレイ目掛けて投げつける。

 砂の混じった土──目潰しをやり返される。咄嗟には避けきれず、片目の視界を潰されてアシュレイはたたらを踏んだ。

 逃げても追いつかれると悟ったイリアが、ひるんで足を止めたアシュレイに襲い掛かった。喉首を掴み、握り締める。イリアの首の泥から今度は大蛇が生え、無事な方の眼球を抉りにかかった。

 アシュレイは大きく開いた蛇の口に短剣を差し込んで上半分を切り飛ばした。喉を締め上げる手を逆に掴み返し、引き込むように後ろへ倒れ、下になった状態から両足を揃えての蹴りを腹部に見舞う。

 飛び退って距離をとり、目を擦って次の攻撃に備える。そして、アシュレイは眉をひそめた。

 イリアが膝立ちのまま呆然と遠くを見ている。その瞳にはゆらゆらと揺れて輝く朱色が映っていた。はっとなって辺りを見回す。いつの間にか周囲を炎に取り囲まれていた。

 炎の壁はごうごうと音を立てて勢いを増している。アシュレイはあちこちに視線を走らせて抜けられそうな箇所を探したが、隙間などどこにも見当たらなかった。

 あのぼんくら──。

 思わず口から出かけた罵声を飲み込んだ。火炙りになりながら走る抜ける覚悟を決めていると、不意に胴体を巨大な手で鷲掴みされたような感覚に襲われた。アシュレイは困惑から思わず自分の体を見下ろし、体を触って異常を確認する。

 イリアの仕業かと思い、咄嗟にそちらの方へ目を向けた。だが、呆けたように揺れる炎を眺めるばかりで、何かした様子には見えない。夜色のドレスはすでにあちこちが崩れ落ち、もうほとんど何も身に着けていないような状態だった。

 「そのまま身を任せろ」

 頭上から声が降ってきた。あの白い女の声。じきにアシュレイの体が吊り上げられるように浮かび上がる。

 唐突にイリアが我に返り、立ち上がって走り出した。ゆっくりと垂直に浮き上がるアシュレイを目掛けて。その足を掴むべく前に手を伸ばす。

 アシュレイは素早く短剣を投擲した。イリアに対してではなく、二人の間にある地面に向けて。大地に突き立った短剣が瞬時にその周辺を凍らせた。そこに踏み込んだイリアの素足が氷に張り付き、足を取られて膝をつく。

 空を見上げるイリアと視線がぶつかる。その姿が小さくなる。赤く塗りつぶされる。

 アシュレイは眼下の光景を見下ろして冷や汗をかいた。上から見たそれは壁などではなかった。炎は辺り一面を覆いつくし、集落の何もかもを、周囲の山林ごとまとめて焼き尽くす勢いだった。

 じりじりと範囲を狭めて圧縮されていく炎の中で、ただひとり取り残された人影が喉元を押さえてのたうち回る。出口を探してさまよう。しかし炎は収縮して密度を増しながら半球状の形を取り、イリアを中心にして動き回った。まるで移動する檻のように中の獲物を捕らえて離さない。そのえげつなさに思わず不快感が沸いた。

 炎は人間大に、こぶし大になり、やがては灰を残して全てが消え去った。

 アシュレイの体が支えを失って落下を始める。体勢を整えて両足を揃え、着地の衝撃を転がって緩和した。

 立ち上る白煙と熱気に顔をしかめながら、少し前まで自分が立っていた場所を探した。煙に視界だけでなく鼻も潰されているせいで目当てのものを見つけだすのに随分と時間がかかってしまった。

 柄の部分は全て燃え尽きていたが、あの炎に舐められてなお、地面に突き立った刀身は白く輝いていた。曲がりなりにも神──狼の執念はびくともしない。

 それを摘まんで鞘に入れ、革帯の小物入れから包帯を取り出した。再生が追いつかずにまだ動かない片腕の代わりに端を口に咥え、鞘をぐるぐる巻きにして蓋をする。弓の方はついぞ見つからなかった。出来もよく手に馴染んだものだったが、所詮は何の加護もないただの木と獣骨の塊でしかない。

 「やあ、無事かね」

 風で煙を吹き飛ばし、白い女が淡紫の髪をたなびかせながらやってきた。

 「一応は、礼を言っておこう」

 「それはこちらもだ。相身互いというやつさ。どれ、そいつの処置をしよう」

 そう言ってアシュレイの腕の怪我を指差す。

 「先に色々聞かせてもらおうか。まずはあんたの素性だ」

 「エシオン・ユーリィという。以後お見知りおきを」

 女が胸に手を当て頭を垂れる。世情に疎いアシュレイにさえ、その名前には覚えがあった。

 「ユーリィ氏族?」

 「いかにも、アシュレイ・リンドナーくん。いや、さん、の方がよかったか? 驚いたね、報告では少年とのことだったが、会ってみれば綺麗な顔をした女性ではないか。いくら男の格好をしているとはいえこれに気付かないとは、世の男どもの見る目が心配になってくるな」

 鬱陶しい世辞をアシュレイは無事な方の手を振って遮った。

 「好きに呼べばいい。それで、奴は死んだのか?」

 「では親愛を込めてアシュレイと呼ばせてもらおうか。ウルの使徒、女の方なら、その通り。やつは都度名前を変えて長年各国を渡り歩いていてね、行く先々で死体を作っては姿を消すという厄介な人物だった。札付きで、かつ折り紙つき、というやつだ。それゆえ与しやすい相手ではなかっただろうに、お見事だ」

 送られた拍手をアシュレイは無視した。「どうやら事情に詳しいようだが──そもそも、なぜ僕の名前を知っている?」

 「そういうのを生業にしているからだな。正面から戦争を仕掛けてくるならともかく、ああいう所在が不明で規模も定かでない勢力が人知れず浸透してくるのは思いのほか厄介なもので、だから諜報機関なんぞが必要になるし、そういったわけで色々と網を張っているということだ」

 「例えば、マクディーアという仲介人?」

 エシオンの口元が好意的に歪められる。

 「ここへは何をしに来た? その生業とやらで、あの女を追ってきたのか?」

 「いや、それに関してはまったくの偶然だ。ああ、そう睨むな。個人的な思惑が大半、残りが別件の仕事だ。つまりは、まあ、あれの様子を窺いに来たというわけで」

 「あれ、ね」

 エシオンが視線を投げた先には、好き勝手やった挙句に気絶して倒れたゲインの姿がある。切断されていたはずの腕はいつの間にか元通りになっていた。

 「さっきのあれは何だ。不具合だったか? いくら何でもあれが少しおかしいことくらいは僕にでも分かるぞ」

 「うちの神様は何かと意欲的でね。新しい戦争のやり方を色々と模索しているんだが、試行錯誤の最中にできた試作品といったところだな。恐らく君が考えている通りだろうが、詳しく知りたければ本人に聞くといい。だが、あまり他言はしてほしくないな」

 「それは警告か? それとも忠告か?」

 「いや、言葉通りの要請だよ。頼むこの通りと頭を下げているのだ」

 エシオンは指を半ばまで隠す袖の裏で口を綺麗に吊り上げる。こういう手合いは反応してやると余計に戯言を繰り返す──アシュレイは取り合わずに話を進める。

 「頼まれているのであれば、見返りが欲しいところだな」

 「なるほど、道理だな。私にできることであればいいが」エシオンがにんまりと笑う。

 「スライフという神を知っているな?」

 「もちろん」

 些細な変化も見逃さないつもりでアシュレイは注視していたが、相手の態度は明快だった。ごまかそうという素振りさえなかった。

 「そこから転向した者達がいる。そいつらの情報を集めて僕に渡せ。あんたが本当にユーリィ氏族ならば訳はないはずだ」

 「目的を聞いてもいいかね?」

 「見つけて殺す」

 アシュレイが端的に答えると、ほう、と楽しげな声が上がった。

 「もしもの話だが──もし、彼らが正規の手続きに則ってサルタナへの転向を済ませていた場合、現在の帰属先の国民という扱いになる。それを法的な根拠もなく殺すというのは、当該国家では当然ながら犯罪行為になるわけだが、そこのところは理解しているかね?」

 「もちろんだ。それがもし露見すれば大事になることくらいは承知している」

 エシオンは声を上げて笑った。「請け合おう。追って連絡を寄越す。ちなみにこちらからも要求があるのだが、いいかね?」

 「今ので貸し借りは相殺されたはずだが、僕がそれを聞いてやる義理はあるのか?」

 「有益であることは間違いない。この状況をよく見てみたまえ」

 刮目しろと言わんばかりに両手を広げる。煤になった家屋の残骸。とばっちりで未だ燃え続ける山林。それと恐らくは焼け残った死体。それらが目に入った。アシュレイが苦々しい顔をして腰に手を当てた。

 「さて、この状況下で君たちだけが街に戻った場合、いったい周囲からどう見られるのだろうね? あらぬ疑いをかけられないよう弁明してくれる者が必要ではないかな? しかもその人物に社会的地位があればなおのこと好都合だと愚考する次第だが」

 「さっさと本題に入れ」

 エシオンがにんまりと笑う。「なあに、そう大したことではない。暫くゲインのやつに付いていてやってはもらえないか? どうにも面倒に巻き込まれる性質のようで、今後もこういったことが起きないとも限らない。私もこれでいて多忙な身ではあるので、常に張り付いているわけにもいかんのだ。別にお守りをしろと言っているわけではない。鬱陶しく塞ぎこんでいたら尻を蹴り飛ばすくらいでいいのだ。私と違って君はそういうのが得意そうだ」

 「あまり期待はするなよ」

 アシュレイは怪我をした腕を差し出した。エシオンがそっと手を当てる。すぐに痛みがひいていくのを感じた。

 「しかし、随分と気にかけているようだな」

 アシュレイはうつ伏せで倒れたままのゲインに目を向けた。夢見が悪いのか、ときおり苦しそうに痙攣している。

 「まあね。なにせ奴はゲームの主導権が信徒側に移ろうとしている、これ以上ないほど分かりやすい兆しなのだからな。なんだか手が届きそうな気がしてくるじゃないか、ええ? しかし皮肉な話だ、生存競争であるため仕方のない部分はあるのだろうが、退くに退けなくなって過当競争をやったせいで逆に苦境に陥るというのは」

 「お喋りな女だな。あんたは誰にでもそうやって訳の分からないことを捲くし立てているのか?」

 「おっと、すまないね。なにせうまが合いそうな人物に出くわすのも久しぶりなもので、ついはしゃいでしまった」

 治療の手が離れる。骨は繋がり、皮膚の裂傷も跡形も無く消えていた。恐る恐る腕を回し、ゆっくりと手を開閉する。痛みもなく、動かすことに支障はなかった。

 「とても気が合うとは思えないが」

 「そうかい? お互い、頭を押さえつけられて難儀しているわけだろう? 共通の話題には事欠かないと思うがね」

 口を開きかけたアシュレイをよそに、エシオンはさっと踵を返して手を振った。

 「それでは失礼するよ。あとはこちらでうまいことやっておくから、ゆっくり戻ってくるといい」

 白い後ろ姿がまるで空気に溶け込むように消える。アシュレイは溜息をつき、気絶したゲインを引きずって休めそうな場所を探した。集落──だったもの──の外れまで歩く。火の手が届かなかったのか、その辺りの木はどれも無事だった。その中の一本に背中を預け、ずるずると地面に座り込む。

 遠くではまだ残り火が揺れていた。眺めていると、段々と意識が朦朧としてきた。腕を枕にして横になる。

 ここ最近の出来事に思いを馳せる。様々なことが起こった。前進したような気もするし、目的が遥か先に遠のいたようにも思える。疲れのせいか、少なくとも惨めな気分ではなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る