第4話 同道
行きつけの食事処で酒を飲み、何をするでもなく夜通し時間を浪費していた。朝日が昇り始めた頃、近くに誰かが座った気配がした。紳士然とした身なりをした白髪の目立つ男だった。落ちそうな瞼の隙間から横目で眺める。目が合う。深い皺の刻まれた顔を嫌そうに歪められた。揉め事になっては面倒だと、お互いに視線をそらす。
紳士は店主に朝食と茶を頼み、脇に抱えていた新聞を広げた。読み進めるうちに渋い顔をしだす。やがて運ばれてきた注文の品と共に、店の主がその顔の理由を尋ねた。
これだ、と紳士が紙面を叩く。「どうにも戦争が終わりそうでね」
そこには、いま行われている隣国との戦争についての特集が組まれていた。国境線がどれほどの要害であり、そこでの戦いがいかに激しいものであったのかについて図解付きで解説がなされ、それを制した自軍についての賞賛──技術革新により成されたとの噂もあるが軍広報からの正式な発表はないと併記──が述べられているのが前半。
後半は一転して、そこから遅々として進まない侵攻に対し、落胆の言葉が散りばめられてあった。表面上は公正、中立を標榜しながら、その裏側と真意を考察していた。首脳陣は早期の休戦も視野に入れているのではないかという一文を持って、その記事は締めくくられている。
「良いことではないですか」
「軍への糧食や生活必需品の納入で業績が右肩上がりでね」
一般論を口にする店主に対して浅ましさを隠そうともせず紳士が憮然とする。及び腰の政府に対する愚痴が始まり、やがてそれは昨今の軍人の資質に対する放言へと変わっていった。まったくだらしのないことだ。私のやっていた頃に比べれば。
世の不条理について折り合いをつけるのが苦手な類の男らしく、穏やかな言葉を選んではいたが、それは問題解決に何も寄与するところのないただの下らない愚痴だった。
口ぶりから軍隊にいたことが窺えるが、顔、首、手、見える部分にはどこにも欠けや傷はなく、きれいなものだった。兵役についている間に大した争いが起こらなかった。類まれな武運に恵まれていた。あるいは後方勤務だった。好意的に解釈することはいくらでもできたが、興が乗ってきたのか段々と声の大きくなる紳士に対して、そうしてやる気はまったく起きなかった。店主は商売であるからとそれを聞き流している。
日々の溜まった鬱憤を無意識に晴らそうと、盛り上がった気分そのままに口から汚物を垂れ流す。ありふれた光景。よくある話。ゲインもたった今、そういう気分になったところだった。酒のせいで打算的な判断を下せなくなった頭で衝動に従った。
椅子から立ち上がって千鳥足で紳士に近づき、無言でその横っ腹を蹴り付けた。手加減はしたはずだったが、実際にそうであったかはまったく記憶にない。
抗議の声を上げることもできず、紳士のように見えた男はつい先ほど取ったと思わしき食事を戻しながらのた打ち回る。他の客が堪能していた料理がテーブルごとひっくり返り、皿が床に落ちて割れ、周囲からは悲鳴と控えめな喝采が上がった。
ゲインはやってしまったことについて既に後悔をしていたが、これくらいの義理は果たすべきだろうとも思っていた。軍に戻りたいなどとは毛の先ほども考えていなかったが、そこに所属する人間に関しては好悪の両方があった。
もがく男の襟首を引っ掴んで店の外に捨てる。元の席に戻って追加の酒を頼むと、傷痍軍人の主人は頬の傷跡が伸びきるほどの笑みを浮かべた。そして注文のものを運んでくるついでに、警官を呼んでおいたと同じ笑顔で告げた。元同業の縁で散々ツケていた挙句にこれでは妥当という他はない。ゲインは酒を飲み干し、しょっ引かれるまでカウンターに突っ伏して寝ることに決めた。
何が悪かったのかと、朦朧とする意識の中で原因を探った。
つまりは臆病風に吹かれたわけで?
よみがえるのは、除隊を告げた際に友人に言われた台詞だった。
まさにそれだ。
カウンターの上には新聞が残されたままになっている。国境線で戦い、功を成した英雄たちの名前が似顔絵付きで載っていた。
ゲイナー・アージェント中尉。
それを視界の端に収めたゲインは手を伸ばし、丸めて握りつぶし、どこかへと投げ捨てた。
大きな揺れで不意に体が浮き上がり、何か硬いものに尻を打ち付けた衝撃でゲインは目を覚ます。
周囲を見回した。幌がかけられた荷台の中で、ゲインを含めた四人がそれぞれ離れた位置に座っている。
年が近いと思われる若い男、隅で片膝を立てて本を読んでいる少年、不機嫌そうな髭面の中年男。外にはご苦労にも雨の中でわざわざ御者をやってくれている隊商側の人員もいる。
そこは左右を木々に囲まれた山深くの森の中で、やや幅広の通行路が一本だけ南北に長く伸びていた。雨の中、一頭引きの竜車十台がそこを一列縦隊で進んでいた。
カルマムルとサルタナの元国境付近。
今では前者の領地となっている山岳地帯では、暗い色をした雲が空を覆っていた。雷の音こそ聞こえないが、地面や木の葉に落ちる雨粒の音は強く、ひどくうるさい。ずぶ濡れを避けるために途中で幌を掛けたのだが、小窓があるとはいえ周囲の状況が窺えないというのはいささか落ち着かなかった。
休戦状態になってから三ヶ月ほど経ち、ようやく国交も回復したものの、人の行き来に関してはまだまだまばらな様子だった。手入れのされていない交通路は荒れている。この場所も戦場になったようで、車輪がときおり人や獣の骨を踏んでは荷台が音を立てて揺れていた。
国境沿いのサルタナ側の防衛隊とカルマムルの演習中の部隊が偶発的に衝突したことに端を発する紛争は二年ほど続いた。事件発生後、どちらの国の政府も非難声明を発し、十日後には最初の本格的な衝突が始まった。
両国の国民は迫り来る戦火に戸惑い、悲嘆の声を上げたが、それとは裏腹にそのほとんどが戦争の準備を無駄なく進めていた。非戦闘員は荷物を纏めて素早く非難し、訓練中だった軍人は召集されるまま戦地に赴いた。半島をほぼ二分する両国の小競り合いは、半ば定例行事と化したものだった。
また、設計思想による程度の差異はあれど、全ての信徒は神が設計して生み出した自らの端末であり、至尊の代理として争うことは、信徒にとっては持って生まれた宿命のようなものだった。
遥か昔はそうではなかった。神話の時代、彼方から飛来した神々は自らの足で地上を、海を、空を闊歩していた。各々思うがままに原生生物を駆逐し、支配する領域を拡大し、この星を蚕食していた。星髄を食らい、己の糧とし、さらに力を蓄えるため。
いずれの神も目的を同じくする。利害が重なれば当然、争いが発生した。
強大な力を持つ存在であればあるほどその戦いは熾烈を極めた。星の法則を捻じ曲げ、地形や気候を不可逆的に変動させるほどに。
しかし、それは多大な消耗を強いるものでもあった。勝利を手にしておきながら取るに足りぬはずの相手に寝首をかかれることもあれば、第三者の策謀でその状況に陥れられ、共倒れになることもあった。
とある神は考え、迂遠だが危険の少ない方法をとることにした。それが自らではなく代理による支配の拡大。
神は駒を造り、盤上に配置した。自己複製し、自律動作する星髄の収奪装置。脅威に対する緩衝材。外敵を排除するための剣を。そして長い年月をかけ、試行錯誤を行いながら改良していった。自らの手足として相応しい働きをするよう、姿形やその精神の有り様を二転三転させて。
どの神も気の遠くなるような年月を飽きることなくこのゲームに興じている。
「居眠りとは余裕だな、あんた」
幌を打つ雨の音をぼんやりと聞いていたゲインは、声のした方に顔を向ける。隣に座った、歳が近いと思われる男が、何故か挑むような視線でこちらを見ていた。
「こいつが楽すぎるのがいかん」ゲインは短槍で荷台を叩いた。
隊商の護衛として雇われ出発してから数日、特に何が起こるでもなく、道程は穏やかなものだった。歩きだとまた違った感想を抱いただろうが、竜車の荷台という特等席での旅だ。
「それに関しては同感だ。特にこの辺は地盤がゆるいせいで雨が降ると酷いことになる。徒歩だったらと思うとぞっとするね」
そう言われてゲインの脳裏に雨天の汚泥の中を行軍をさせられた記憶が蘇った。長靴の中まで入り込んだ泥水。歩く度に鳴るぐちゅぐちゅとした音と気持ち悪い感触。疲れてくるとそういった感想すら出なくなり、痛かったはずの足からは感覚が無くなる。ただただ一歩ずつ歩を進めることしか頭の中に残らない。その時の苦労と比べれば今の待遇は天と地だった。少しばかり尻が痛いが、その程度は不満のうちにも入らない。
「ただまあ、この調子で降り続けられると、そのうち車輪もぬかるみに取られるだろうよ。外に出て荷台を押す覚悟をしといた方がいい」
「そいつは勘弁して欲しいな」
冬季から雨季に入ったとはいえ、今はまだ日中の陽が上っている時間帯ですら肌寒い。外を歩かされるのはともかく、できれば濡れるのは避けたかった。
「詳しいね。この辺の人かい?」ゲインが尋ねた。
「いいや。ただ、この隊商とはよく仕事をするんでね。そっちは軍人くずれ?」
「よく分かったな」
男がゲインの身に着けたものを指差した。
「そいつ、カルマムル軍の正規品だろう? 紋章部分が潰されてるから横流し品か盗品かとも思ったんだが、どうも着慣れてる感じがしたんでな」
男が先ほどから発している言葉が聞きなれない訛りをしていたため、サルタナ側の人間だと判断した。視線の意味にようやく気づく。
「知り合いでも殺されたか?」
「ああ、一番上の兄貴だ。こんなところでふらふらしてる俺と違って出来がよくて、実家を継ぐ予定だったんだ」
「そうかい」
「そっちは?」
「こっちも死んだり、死ななかったりだ」気に食わない上官も気の良い部下もいて、それぞれ生き残りも死にもした。
「もしかすると、兄貴はあんたに殺されたのかもな」
「そうかもしれない」
ゲインはあっさりと頷いた。会話が途切れる。空気が張り詰めていた。
「着いてからやれ、ガキども」
その様子を見ていた髭面が苛立たしげに吐き捨てる。
戦争はひとまず終わったが、休戦の協定が結ばれてから、まだどれほども経っていない。今も禍根はそこら中で燻り、唐突に燃え広がっては更なる灰と怨嗟を生み出し続けている。両国の歴史から見れば今度の戦争は期間としては短いものだったが、だからといって失われた命、流された血の価値が減じるわけでもなかった。
徴兵され、言われるがままに訓練を受けたゲインは、そこで身につけた手練手管を駆使して上から提示された問題を解決、あるいはそのように見せかけることをひたすら繰り返した。大部分の国民がそうであるように、カルマムルという国、社会の求めに応じる形で、徴兵の罰金を回避するというまったく個人的な事情から流されるままに戦争に参加した。
向いているか否かで言えば間違いなく前者だった。それでも、続ける気にはならなかった。
嫌なことを思い出したせいで喉が渇いた。景気づけにいいものを買っていたことを思い出し、腰の皮袋に手を伸ばした。栓を抜き、中身を一口飲む。蒸留酒が冷えた体を中からかっと熱くした。
「あんたもどうだい?」
隣の男に差し出す。相手は思い切り顔をしかめ、やや迷ってからひったくるように皮袋を奪い取った。中身を全て飲み干してやるとでもいうように皮袋の尻を持ち上げる。
その首から上が唐突に消し飛んだ。
首の断面から噴水のように赤い液体が噴きあがる。おびただしい量の血が狭い荷台中にまき散らされる。
一頭の獣が幌を突き破って竜車の荷台に顔を突き入れていた。低い唸り声を上げ、牙から血を滴らせながら長い円錐状の頭部をぐるりと巡らせる。次の獲物を探して。
ゲインは肩に担いでいた短槍をとっさに両手で持ち直し、背中に冷や汗が吹き出るのを感じながら真っ直ぐ突き出した。穂先は硬い毛と分厚い皮膚に覆われた首に突き刺さる。獣の口から悲鳴とも咆哮ともつかない轟音が発せられて鼓膜が痺れた。
男の血で足が滑らないように気をつけながら、上から押さえ込むように力を込めた。獣がのた打ち回り、荷台が大きく揺れる。槍の柄に捻りを加えて強靭な筋肉を抉るように掻き分けると、硬いもの──恐らくは骨──に当たった感触がした。
ぐるぐると蠢く血走った獣の目と視線が合う。ゲインは悪態をつくように睨み返し、足を踏ん張って穂先をさらにねじ込んだ。
気付けば竜車の足は止まっていた。
何度かの痙攣の後に獣が動かなくなる。
ゲインは全身から緊張を抜くために大きく息を吸って、吐いた。そこでようやく周囲の状況を確認する余裕ができる。突入してきた獣は一人で事足りると判断されたのか、最初に殺された男以外はそれぞれ外に飛び出していた。
男の死体を眺める。巻き添えで皮袋はずたずたになっていた。中の酒は全て漏れ出て、血と混ざり合って赤錆色の染みになっている。
ゲインは何度か自分の腹を殴って活を入れ、荷台から出た。
目に入った光景にゲインは辟易した。
乱入してきたものと同じ人間大の茶色い体毛の四足獣が、雨の向こうに群れをなしていた。見える範囲だけでざっと二十はいる。雨の中、隊商の一団は獣の群れ──レンディアの信徒どもと交戦状態に入っていた。
雨足は更に強くなっていく。この雨が良くなかった。唐突に襲ってきた豪雨に幌をかけたせいで獣の接近を許し奇襲を食らうという無様を晒した。地形も悪い。山間の中腹の一本道であるため、前後に分かれた他の護衛隊と集結することも難しかった。
まるで狙い済ましたような状況。
襲撃を受けた竜車の列は立ち往生している。合わせて十台、その半分には護衛が四、五人ずつ乗り込んでいるはずだったが、それで足りるかどうかは疑わしい。他の号車でも似たような状況であれば、ろくでもない結果が待ち受けているのは目に見えていた。
「おい、先頭に向かうぞ!」
叫ぶような呼びかけ。同じ荷台に乗り合わせていた髭面のものだった。雨のせいで姿は見えない。
相手は物資を狙った物取りではない。隊の指揮官でもある先頭車両の隊商長の元に駆けつけるべきかどうかについてはゲインも真っ先に考えたが、目にした敵の数が多すぎたため即座に断念した。隊商なんぞで生計を立てている人間がそうそう無様にやられることはないだろうという公算もある。
「道が狭い、それにこの数を見ろ!」
ゲインが否定の意見を、どこにいるともしれない男に向かって叫び返した。その最中にも獣は容赦なく爪を振りかざして襲ってくる。それを槍の柄の部分で受け、流し、鼻っ面を切り裂いて押し戻す。
頬から血が流れ落ちた。完全には受けきれておらず、爪が顔を掠っていた。
「雇い主の安全が最優先だ!」
「そのために無駄に数を減らしても意味がねえ!」
臆病者。そう言い捨て、水しぶきを上げてどこかへ遠ざかる足音。ゲインは胸中で罵声を浴びせながら、目の前の獣の前足を狙って槍を払った。
獣は少し退いてそれを避けると、振り抜いた隙を狙って飛びかかってきた。ゲインは慌てて後ろに下がろうとするが、足がぬかるみにとられて背中から地面に倒れる。すかさず覆いかぶさってきた獣の顎が首に届く寸前、ゲインは槍の柄を口に差し込み、両手を使って全力で押し返した。
生臭い獣の呼気が顔にかかる。息を止め、槍を捻って力を逸らし、何とか隙間を空けて下になった状態から渾身の蹴りを入れた。
ゲインは転がって起き上がり、荒い息をついて槍を構える。獣は先ほどの蹴りなどまったく効いていない様子で地面を踏み鳴らしていた。護衛側の頭数が減ったせいで敵意がゲインに集中し始める。獣は三方から唸り声を上げてにじり寄ってきていた。頬の切り裂かれた部分が出血で脈打ち、鼓動が強く耳朶を打つ。
逡巡している余裕はなかった。こいつら相手であれば──構わないだろう。
ゲインは腹を決め、肺の中のものを全て吐き出し、槍を持ち直して石突きの部分を前に向けた。
回収機能を動かそうとした次の瞬間──ゲインと睨み合っていたレンディアの信徒うちの一頭が、横合いから飛んできた矢に頭を打ち抜かれて絶命した。その死体が横たわるよりも早く、さらにもう一本が二頭目を仕留める。ゲインは三頭目の狼狽を見逃さず、槍を反転させて喉首を刺し貫いた。
矢を放った存在を横目で確認する。小型の弓を片手に持った小柄な人影が、通りを右から左に走り抜けているところだった。
泥でぬかるんだ山道をものともせず、人影は尋常でない速さで及び腰の一頭に接近すると、腰から抜いた短剣で逃げる暇も与えずに切りつけた。
その一撃で付けた傷自体は浅いものだったが、そこから見る見るうちに氷が広がっていき、獣の長い体毛に覆われた体が凍り付いて固まった。見れば、短剣の刃の周りには冷気が漂っている。うっすらと白く光り輝いていた。
「お前さんは行かなかったのか?」
小柄な人影の正体は同じ荷台に乗り合わせていた少年だった。雨に濡れて端正な顔に張り付いた灰色の髪の奥には、髪と同じ色をした瞳がこの視界の悪さでもはっきりと見えるほど鋭く光っていた。
少年は答えない。また何か言おうとしたゲインをよそに、獰猛な笑みを浮かべながら走り出していた。
獣の群れを迂回するように動き、走りながら矢を抜いて弓を引き絞る。不自然な体勢で放たれたにも関わらず、矢は正確に獣の急所を射抜いていた。
獣どもは追いすがろうとするが、驚くべきことに少年の足はそれより速かった。速度を全く落とすことなく急激な方向転換を何度も繰り返す。走り回り、獣との距離を引き離しては、思い出したように振り返って矢を放つ。
勘の鋭い何頭かは動き回って矢を避けていたが、それらが無理な動きで体勢を崩すと見るや、少年は懐に飛び込んで短剣を振るった。斬るというよりは、掠らせるような動き。たったそれだけで獣どもは凍りついて死んでいく。
足だけでなく地形も活用していた。少年はときおり山道から外れて木々の中に飛び込み、その間を蛇のようにするすると移動することで追跡の足並みを乱れさせる。そうして集団からはぐれたものから一頭ずつ殺していく。決して囲まれないように前後左右へ自由自在に動き回り、翻弄した後に走りながら狙撃、怯んで二の足を踏んだ相手には強襲して凍らせる。
見惚れる、といった華麗な動きではない。思わず笑いがこみ上げてくる類のものだった。身体能力を奇跡で高めるのはありふれたものだが、いま目の前で繰り広げられているこれは度が過ぎていた。
状況は一転していた。目に見える獣の数はそれと分かるほど減っている。このままなら押し切れると判断したゲインは、少年に気を取られて後ろを向いた敵だけを狙って突き殺していった。
こちらに注意を向けてきたものは積極的に相手をせず、できるだけ防戦に徹して時間を稼ぐことに専念する。すると、申し合わせたように少年が死角から飛び込んできて、一撃でそれらを屠っていく。
どこか離れた場所から遠吠えが聞こえた。
次の瞬間、獣の群れが一斉に身を翻す。一頭残らず森の中へと走り去っていった。残ったのは人間と、動かなくなった死体だけ。
思わず手を叩いて褒め称えたくなるほどの見事な撤退。草木を踏み荒らす足音が止んでからも、暫くの間ゲインは呆然として構えを解くのを忘れていた。奴らの引き上げに応じたのかのように雨足の方もいつの間に弱くなっている。
山林の奥から少年が歩いて戻ってくる。一頭、虫の息だった獣がいたが、それに短剣を突き立てて止めを刺した。そして、あろうことかその死体を損壊し始めた。
凍りついた獣の死体を蹴り砕き、踏みつけ、粉々にしてなおすり潰すように踏みにじった。表情には喜悦が滲んでいる。
「さすがにそこから蘇ることはないだろうよ」
声をかけると少年が振り返った。ぎらつく眼光で射すくめられ、ゲインは思わず身構える。次の瞬間には襲いかかってきてもおかしくないような様子だった。少年はかぶりを振ると、今度は適当な木に近づいてその幹を殴り始めた。
「何をやっているか聞いてもいいか?」
「僕だってやりたくてやっているわけではない」
少年は殴りながら答えた。凛とした響きの、落ち着き払った声。気が触れているようには思えない。
「まあ、人の趣味に口を出す気はないんだが」ゲインは気を取り直した。おかしな奴など、どこにでもいる。会話ができるだけ上等の部類だと考えた。「しかし、ああいうもんなのか? 統率が取れてる、なんてものじゃないぞあれは」
「レンディアのことを言っているなら、そうだ。あれくらいはやってのける。集団で襲ってくる上に隙は見逃さないし、不利だと思ったらすぐ逃げる。しかもここは戦争で人気がなくなった、狭く、人数が集まりにくい隘路、まさに狩場としてはうってつけだ。まさか初めて見たわけじゃないだろうな?」
少年はようやく木を殴るのをやめる。出血した拳の具合を確認していた。
「直接やりあったのは、まあ、初めてだな」
見たことのある個体といえば、せいぜいが村に迷い込んできたはぐれ程度で、あとはもっぱら家畜用だった。ゲインの生まれ育った田舎などでは一家に数頭ほど飼っているところもあったが、いずれもおとなしい性格をしていた。頭を叩いても、耳を垂れて首を竦めるくらいの反応しかしない。今の見事な襲撃をやってみせた動物とは、外見的特長が一致する以外は似ても似つかない。
「授かった加護が違えばああもなる。僕たちと同じだ。その体たらくでよく山道の護衛を引き受けようなどと思ったな」
「いやなに、相手は物取りの類だって話だったからな。ああ、さっきは助かったよ」
「仕事だ。ぼんくらと組まされるようなこともあるさ」少年は獣の死骸から矢を引き抜いてまだ使えそうかどうかを確認していた。
「俺は報告に行ってくるから、悪いが荷物を見張っててくれよ」
背を向けたところで独り言のように呟く声が聞こえる。「暫くの間、奴らは戻ってくることはないだろうがな」
死屍累々。
荷物はほとんど荒らされていなかったが、先頭車両に向かう途中、やはり隊商側に少なくない被害が出ていたのが嫌でも目に付いた。ところどころ、レンディアの信徒のものに混じって人間の死体が転がっている。途中で離脱した男たちの姿もあった。血まみれで泥水の中に突っ伏して倒れていた。後ろから首筋を爪で切り裂かれたような跡がある。
先頭車両付近では、この辺りでは見ない質感の皮鎧を着けた男たち──隊商側の人間が輪になって話し合っていた。状況が思ったより悪いのか、なにやらゲインには理解できない抑揚のきつい言葉で語気荒くやりあっている。
どう声をかけたものかとまごついていると、腕を組んで議論に耳を傾けていた隊商の長が厳めしい面をゲインに向けた。
ぴたりと声が止んだ。そして全員が一斉にゲインの方に顔を向ける。
その様子に面食らっていると、隊商長が流暢な公用語を発した。見た目を裏切らない低く重い声。「マラティアの信徒と接するのは初めてか?」
「あそこの信徒か、あんたら」
半島と大陸の境を越えてすぐの所に位置する国家。信徒間で優に十を超える位階が存在し、高位の信徒は低位の相手に対してある程度の強制力を持っている。
「説明はしたはずだが」
「半島を南下する途中だってのは、聞いたような気がする」疲労と長い不摂生からくる体調不良で契約時の記憶がおぼろげだった。
「存外いい加減な男だな、中尉どの」呆れたような声音。「状況を報告しろ」
「俺の乗ってる四号車だが、荷物は無事だ。ただ五人中三人死んだ。ああ、竜は生きてる。あと、中尉どのはやめてくれ」
荷車を引く竜は襲撃してきた獣より二回りは体が大きく、固い鱗に体表を覆われている。獣の爪や牙程度では滅多なことでは負傷すらしないだろう。相手もそれを分かっていたのか、そちらには見向きもしていなかった。
「あんたのほかには誰が残っている?」
「もうひとりはガキだ、灰色の髪をした。悪いが隊商の人間は死んじまったよ」
「そうか」
隊商長は動揺した素振りもなく、ままあることだとでも言いたげな顔をしている。歴戦の古強者といった具合だった。
「護衛の続行に関して問題はないか?」
ゲインは手で口元を覆って考える。少年の顔を思い浮かべた。「問題ないね、多分。もう一度同じ規模の襲撃があってもなんとかなると思う」
「馬鹿なことを言うな。二人しか残っていないんだろう」
軽く請け負ったゲインに部下と思わしき別の男が苛ついた様子で噛み付いてきた。隊商長がそれを手で遮る。
「御者の経験はあるか?」
「一応、やったことはある」一通りは軍で仕込まれた。
隊商長は顎をしゃくって来た道を示した。「では戻れ。すぐに出発する。欠けた人員の代わりをやってもらう」
端的な命令が下される。実に妥当な判断だった。こんな場所で立ち往生していても何も得るものはない。
了解の首肯をしたゲインに隊商長が付け加える。「ああ、それと、目に付いた遺体は収容しておけ」
「身に着けてるものでも剥ぐのか?」
「契約内容についてもすっかり頭から抜け落ちているようだな」相手はつまらない冗談には取り合わなかった。「身元が分からなければ補填のしようがない。家族、一族、国、いずれかに遺品を送ってやらねばならないし、遺体は埋葬してやらなければならない。魂が至尊の御許に還れるかどうかは、まさに神のみぞ知るところだが」
「手厚いな。足が出るんじゃないか?」
「積荷次第だな。命知らずや食い詰め者はどこにでもいる」
身につまされる話だった。顔に出ていたらしく、隊商長は岩に入った亀裂のような笑みを口元に浮かべる。ゲインは手を振ってその場から離れた。
戻る途中で、間抜け、あるいは勇敢さを持て余した者達の死体を手近な荷台に投げ込みながら、元いた場所、四と番号付けられた竜車に戻る。その頃には足だけでなく、死体の回収作業で全身が泥まみれになっていた。
「すぐ出発だ。忘れもんはないか?」
ゲインは荷台を覗き込んで声をかけた。少年は荷台の隅、血に濡れていない場所に胡坐をかいて、短弓と矢の手入れをしていた。
「問題ない」
「そうかい」
ゲインは竜の頭を撫でながら異常がないかを確認する。外傷は無く、鞭を入れれば問題なく歩き出すだろう。深い緑色の表皮と鱗をしており、小柄な部類だがそれに見合わぬ太い四肢は見事なものだ。
御者台には一応屋根が付いていたが、今は横風が強く、雨に打たれ放題だった。荷物の中から獣脂で防水された外套を引っ張り出して羽織った。幾分か血塗れだったが、幸いにも我慢できる程度だった。
「残りはどうした?」少年が作業をしながら聞いてきた。
「途中で死んでたよ」
「そうか」
そう言って少年は指で印を切って目を伏せる。何かしらの祈りだというのは分かった。恐らくは死者に対する。これから彼らが歩む回帰の旅路への。先ほど死体を嬲っていたのと同じ人物だとは思えず、その整った顔をまじまじと眺めていると、半分ほど瞼を上げた少年と目が合った。
「何だ?」
「知り合いだったのか?」
「いいや」少年は首を横に振った。「あんたと同じで、この仕事で顔を合わせたのが初めてだ。特に深い意味はない。習慣だ」
そういうことにしておくかと納得して、ゲインは御者台に腰を下ろした。
「あんたが動かすのか?」少年の意外そうな声。
「やったことはある」
「見かけによらないな」
「そうか? どう見えるんだ?」
「ごろつき、与太者だ」
的を射ている。ゲインは思わず声を上げて笑った。予想外の反応だったのか少年は眉をひそめ、やがて興味を無くしたように作業へと戻った。
「そういやお互い名乗ってなかったな。ゲインだ」
暫くして呟くような声が聞こえた。「アシュレイ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます