war game
@unkman
第1話 ゲイン
ゲインは腹を押さえて地面にへたり込んだ。止むことのない飢餓感を歯軋りで何とか堪える。
「あんた、仕事中だぜ?」
隣に立った男の咎めるような声。この場には二人しかいない。それが誰に向けてのものなのか分かってはいたが、ゲインは返答すらできなかった。昼に荷運びをやってから、体がずっと不調を訴え続けている。
口を閉ざして顔を伏せたままでいると、業を煮やした男に強く肩を叩かれた。
苛立ちのあまり反射的に顔を上げて睨みつける。男の愛想笑いが引きつった。
ゲインは倉庫の壁を支えにふらふらと立ち上がり、自分の頭を音が出るほど強く壁に打ち付け、謝罪した。
「悪い、気が立ってた」
気散じにゲインは周囲に視線を巡らせてみた。面白いものは何も見当たらない。いま背中をあずけている倉庫と似たような建造物がいくつも立ち並んでいるだけだった。不審者などは影も形も見当たらない。
貧富の差はあれど、そもそもが治安の悪い街ではない。事件といえばせいぜい酔漢が度を超えた失態を演じて取り押さえられるといった程度のものばかりであり、倉庫街の見張りの仕事など、本来は退屈との闘いであるはずだった。
しかし、今のゲインの状況は平穏とは程遠かった。ここ数日はろくなものを食べることができておらず、ほとんどをカビの生えかけたパンと水だけでやり過ごしていた。もはや体は限界に近い。
「大丈夫かい? とんでもない顔色してるぜ?」
様子を見かねた男の心配そうな声。
「少し……生活が苦しくてね」
たまたま仕事で一緒になっただけの男は何かを察した様子で笑った。並びの悪い歯がむき出しになる。
「俺も少し前まではそうだった。あんた、兵隊さんかい?」
「まあな」
「俺は検査で落とされた」男の視線がゲインの側頭部に走る傷に向けられていた。どこか後ろめたそうな声──恐らくは兵役逃れ。なぜ自分もそうしなかったのかと後悔に襲われる。
「何かの縁だ、このままってのも寝覚めが悪いし、いいところへ連れていってやるよ」
交代要員に引き継ぎを済ませたころには空が白み始めていた。人気のない四番通りを、いいところとやらに向かっているはずの男の後ろについて歩く。
「行き先はどこなんだ」
「もうすぐ。あれだ」
男が示した先にはこんな時間帯だというのに行列ができていた。いずれもボロをまとったみすぼらしい姿の男女だ。先頭はごみを漁っていた。
「……あれは?」
「あそこは料理屋の裏になっててね、店で出たごみが捨てられるんだ。で、ここだけの話なんだが、そこの料理人がとんでもないへぼで、毎日飽きもせずに仕込みの後や営業後に大量のくずを出すわけよ。それをちょいと頂こうってわけさ」
男は得意げな顔で続ける。
「ただし気を付けて欲しいんだが、見てのとおり俺達の他にもそれ目当ての人間がそこそこいてね、揉め事にならないようにちゃんと決まりってのがある。まあ、大したこっちゃない。新顔は一番最後、それだけさ。最初のうちは大したもんにはありつけないかもしれないが、毎日通ってりゃあそのうち顔も覚えられていい目をみられるようになるよ」
掘り起こした何かの肉の欠片のようなものにむしゃぶりつく老人。それを羨ましそうに眺める他の食い詰め者たち。
ゲインは無言で背を向けた。
「おいおい、どうしたんだ?」
「悪いね、急に腹が膨れた」
まったくの善意から引き止めようとする男にゲインは振り返らずに言った。
地面を踏みしめる際の振動すら体の芯に響いてたまらなかった。うつむき、通りの壁に手をついて体をささえ、気を紛らわせるために石畳にはめ込まれた石の数をひとつふたつと意味もなく数える。
気付けば見慣れた景色が目に入ってきた。
住宅街の隅に差し掛かったところで、寝床である簡素な作りをした長屋に辿り着く。他の住人は寝ているであろう時間帯だったが、足音を殺す気にもならず、ゲインはどたどたと音を立てて階段を上った。
通路に顔を出すと、自分の部屋の前に見知らぬ男が立っているのが目に入った。
いささか頭髪の薄く、柔和といってよい顔付きをした中年の男だ。こちらに気付き、笑みを深くして頭を下げる。
「失礼かとは思いましたが、ここで待たせていただきました」
「どちらさんです? ああ……もしかして面識が?」
疲れきって記憶を探る気にもならず、ゲインはぞんざいな口調で尋ねた。
「いえいえ、今回が初めましてになります。わたくしヤーコブと申しまして、クライン氏族の代理人をしております」
氏族。嫌な予感がして背筋に冷たいものが走る。思わずよろけて壁に手をついた。ざらざらとした漆喰の感触。朦朧としていた意識が一瞬で覚醒する。
「仕事のご依頼です。とある都市で労働団体の抗議行動が激化しておりまして、抑え込みにご助力を願えないかと。こちらをお受け取りください」
そう捲くし立て、蝋で閉じられた封筒を取り出した。半ば押し付けられるようにして手渡される。
ずっしりとした感触──手紙にしてはやけに重い。
「依頼主からです。事態が収拾したあかつきには、都市警護団の要職の席を用意するつもりであると伺っております」
気付かないうちに手のひらが汗で湿っていた。ゲインの内心とは裏腹に、ヤーコブは人の良さそうな笑みを顔に貼り付かせたままだ。
「いや、いったい何がなんだか」ゲインは視線をさまよわせ、戸惑ったフリをしてみせた。疲れをおしてへらへらと笑ってもみせる。「その、何です? これは」
「心中はお察しします、ゲイナー・アージェント様。ですが、決して悪い話ではございません。一度、中のものに目を通していただけませんか?」
代理人を名乗る男は安易な同情をしめした。共感的な表情を浮かべている。下手な芝居に付き合う気はないという意思表示。
ゲインは大きく息を吐いた。自分が出来ることなどそう多くはない。求められるものは更に少ない。
「労働者を皆殺しにしちゃあ元も子もないんじゃないか?」
「いえいえ、そこにいて下さるだけでいいのです。団体には退役軍人も多く在籍しておりますので、効果はてきめんでしょう」
「ひとつ聞きたいんだが」
「何でしょう?」
「少し前にいきなり仕事をクビになったんだが、もしかしてあんたがたの差し金か?」
ヤーコブは眉をひそめ、とんでもないとばかりに両の手を振った。
「まさか。しかしそれでしたら、まさしく渡りに船なのでは?」
もし、いまの話にまったく嘘がないとして──受けたとしたらどうなるか。結末を想像した。何もかもが上手くいかなかった場合の。抗議は収まることなく人の波が押し寄せてくる。見せしめに何人か、何十人か、傷つけるはめになるだろう。運が悪ければそいつらは死ぬに違いない。
ゲインは封筒をつき返そうと腕を伸ばす。しかし体が軋んで言うことを聞かず、その動きは非常に緩慢なものになった。相手はそれを否定の意思とは認めず、後へ下がる。
「連絡先は中に」
ヤーコブはゆっくりと一礼して歩き去っていった。
封筒を僅かに突き出した姿勢のままで、ゲインはひとりその場に取り残される。
そのまま阿呆をさらしているわけにもいかず、鍵を開け、とっとと自分の部屋に入って封筒を放った。足元に転がっていた空の酒瓶を手にとり、口の上で逆さにする。我に返り、瓶も投げ捨てた。硝子の割れる音。
どうにもまずいと思いながら硬い寝台に身体を投げ出した。目を瞑って眠ろうと努力する。
しかし、空腹でうまく寝付けない。たびたび目を開いて舌打ちを漏らした。その都度、受け取った封筒とその重さが頭の中に甦った。飢餓感。焦燥。封筒。繰り返される明滅は延々と続く。
そのうち限界がやってきた。意識が遠のき、ようやく暗い水底まで沈む。そして今度は逃げ込んだはずの夢の中で過去に追い立てられた。
石畳や石壁に黒い焼け跡の残るハルマーの街並み。焦げてからからになった人間たち。自分が焼き払った者たち。空洞になった目がこっちを見ている。ぽっかりと開いた口からは慟哭が聞こえる。
そんなつもりはなかった。殺してもいい相手しか殺すつもりはなかった。まさか非戦闘員が残っているなんて思いもしなかった。
毎夜毎夜許しを請う。考えの足りない俺を許してくれと自らの愚かさをさらけ出す。それでも夢は毎夜毎夜襲ってくる。きっと払った金額が足りないに違いない。
避難所から這うように逃げ出したゲインの姿を呆然と見つめる瞳がある。黒く変色した煉瓦の家屋の陰から、長い栗色の髪をした美しい少女が顔をのぞかせている。
生き残り──ゲインは声が出せない。どのような表情をすればいいのかも分からない。そうこうしているうちに少女は背を向けて走り去っていく。追うかどうかを尋ねてくるオットー・マイア曹長の胸倉を掴み上げる寸前で、いつも通り夢は覚める。
寝て、起きてを繰り返し、ろくな睡眠をとることができずに迎えた朝は最低のものだった。指一本すら動かしたくはなかった。しかし残念なことに、今日は支払いの期日だ。
机の中から名簿を引っ張り出して残った支払先を確認する。まだ半分も払い終えていなかった。寝る前の記憶を辿って投げ捨てた封筒を探して拾い、稼ぎのほとんどをかき集めて袋に入れた。思ったよりも少なかったので部屋中をひっくり返してみたが、結局、ごみと埃しか出ない。たったその程度のことで上がった息を整え、ゲインは部屋を出る。
陽光で目がくらみ、足元がふらつく。何かを腹に入れたくてたまらない。昨晩に妙な見栄を張ったことを早くも後悔し始めていた。
日が高いということもあって、人通りを避けるようにして辿りついた商業地区の一角は賑わっていた。客寄せ。値段交渉。世間話。騒がしく、耳障り。道行く人々は、少なくとも自分のようにあからさまに不景気そうな顔はしていない。
青果店の横を路地に向かって抜ける途中、色とりどりの瑞々しい果物が目に入る。喉が鳴り、思わず手を伸ばしかけ──思いとどまる。あやうくまた留置所に入れられるところだった。
まともな仕事はどれも長続きせず、日雇いや単純な肉体労働でなんとか糊口を凌いでいたが、生活はいっこうに上向かなかった。金はそれなりに入ってきていたが、問題なのは減らないどころか増え続ける借金だ。早々の除隊であるため年金などもらえるはずもなく、徽章の類は既に売り払ってとっくに消えて無くなっていた。
大通りから脇道に逸れ、薄暗く細い通路を突き当たりまで進む。
申しわけ程度の看板が出た雑貨屋の前に辿り着いた。閉店中と書かれた札が下げられていたが、それを無視してゲインは殴りつけるように強く戸を叩く。
「おい、いるか?」
暫く待ってみたが返答はなかった。焦れたゲインはノブに手をかけ、回し、がたがたと揺さぶる。ドアはびくともしない。中からの反応もない。
いっそ蹴破ってやろうかと後ろに下がる。すると、まるで身構えたゲインをこけにするかのように、扉がゆっくりと、ひとりでに開いていった。
肩透かしを食らって憮然としているところに、奥から店主の間延びした気だるそうな声。
「虫の居所が悪いのは分かるが、壊したら弁償してもらうぞ。いいのかね?」
ゲインは店の中へと足を踏み入れた。ぎいぎいと音を立てて、またも勝手に扉が動き出す。出入り口から伸びる光が条になり、消える。室内が影で塗りつぶされる。
店の立地のせいで陽の光が届きにくい上に店内には灯りがない。薄暗く、棚に並べられた商品の物色すら覚束ない状態だった。商売をする気のない店構えに相応しく、もういい時間だというのに店主はカウンターの奥の座席で腕を組んだまま目を瞑っていた。
「おい」
ゲインはカウンターを拳で叩いた。長い淡紫の髪の奥に隠れた美貌を睨みつける。女がゆっくりと目を開き、ややあってから不機嫌も露に言った。
「聞こえている。こっちはろくに寝てないというのに」
「どうせまた悪巧みだろうが」
「その通り」
女──エシオンが両手で瞼を擦る。こめかみを揉み解し、脇にあった水差しに口をつけ、何度か艶めかしく喉を動かす。やがて焦点の合い始めた瞳でゲインの姿を上から下まで観察し、呆れ果てたといった声を上げた。
「そっちも似たような状況のようだな」
「何がだよ」
「ひどい有様だということだ。援助ならすると言っているだろうに」
絶対にごめんだった。その引き換えにいったい何を要求されるのか考えたくもない。だから、借りは返さねばならない。
ゲインは衣嚢に突っ込んでいた銀貨、金貨の詰まった袋を取り出し、封筒と一緒にカウンターの上に乗せる。
「今月の分だ。それと、こいつはあんたから返しておいてくれ。突っ返し損ねた」
エシオンは封筒をためつすがめつし、封蝋に刻まれた紋章に目を留めて難しい顔をした。流れるような曲線が何重にも交差した特徴的なものだ。
「クラインか」
「そう言ってたな。どうせ伝手があるんだろう?」
「面倒なのに絡まれたな。まあ、ただの自派への勧誘だろう。肝心要の部分には気付いちゃおらんだろうから安心しろ。もしそうでなかったとしたら、こんな悠長な手段はとらないはずだ。油断はしないほうがいいがな」
そう言われてまた焦りが出てきた。考え込むときの癖でゲインの手は知らず自分の口元を覆っていた。どうにかしなければならないのは分かっていたが、体調のせいで思考が定まらず、舌打ちが漏れる。
「悪いが後は頼んだ」
「まあ、待て」
せめて睡眠だけでもとろうと踵を返したところで呼び止められた。
「まだ続ける気か?」
「何をだよ」
「今のようなことをだよ。意地を張りたくなる気持ちは分かるがね。しかし現実問題、今のままではとてもじゃないが完済まで行かんぞ。そもそも、払い終えたところでそれで本当に満足するのかね?」
エシオンが指で挟んだ封筒をゆらゆらと揺らした。中は確認していないが、何が入っているかは想像がついている。金。貨幣そのものではない何か──手形の類。
やれるだけはやっているつもりだったが、今の言葉を否定することもできなかった。黙り込んでいると内心を見透かしたような微笑みが浴びせかけられる。
「クラインに関しては考えがある。少しばかり雲隠れしてはどうだ? うってつけの仕事がある。しかも払いが良い」
ゲインは気色ばむ。「あんたから仕事を紹介してもらうだと?」
「別に聞きたくもないなら構わないが」
心底どうでもよさそうな口ぶり。
嫌な予感はしていた。しかし、進退窮まった状況が跳ね除ける意志を削いでいた。逃がした魚はでかく見えるのが常──結局、ゲインは逡巡の後に尋ねた。
「どんなやつだ」
馬鹿みたいにあっさりと手のひらを返したのが面白いのか、エシオンが肩を震わせる。「リカード商会は知っているな?」
挙げられた名前はカルマムルにおいて知らない人間の方が少ないものだった。人が集まる街であれば必ずといっていいほど支店が存在し、同国内において食料や飲料、衣服だけでなく貴石や材木など多種多様な品目を取り扱っている。
「出立は三日後、商品の護衛だ。分かっているとは思うが、それなりに危険はある。しかし真っ当な商売さ。それの手助けをするというわけだ。何も戦争をしようってわけじゃない。ほとぼりが冷めるまでここから離れて、ついでに金も稼げる。それから先はおいおい考えればいい。どうだ? 悪くはないだろう?」
エシオンの表情を窺った。薄い笑みを浮かべている。何を考えているか読み取ることはできない。
乱れた髪。怜悧な美貌。病的なまでに白い肌。その姿はまるで幽鬼のようで、暗い部屋の中で琥珀色に輝く瞳も、その印象を強めるのに一役買っている。寝起きで気の抜けた状態であっても目の覚めるような美女──だらしなく崩れた着衣の隙間からは豊かな胸元が覗いている。
ゲインは逃げるように目を泳がせた。そこで、カウンター内の小棚の上に、食べかけのパンと塩漬けの肉がのった皿を見つけた。
思わず腹がなる。よだれが出そうになる。
視線の先に何があるのか勘付いたエシオンは、意地の悪い顔で残りを鷲掴みにし、味わう様子もなく全て一気に平らげた。
ゲインの舌打ち。「確かに多少は世話になりもした。だが、はっきり言って俺はあんたを信用できない。こんな目に遭ってるのはそもそもが」
「私のせいだと? 自分の想像力の欠如を棚に上げるとは。らしくないぞ、お前は自戒が大好きなはずだ。引き返す機会はいくらでもあったことを思い出せ」
言葉に詰まり虚空を睨むしかできないゲインを見て、エシオンが寒気のする笑い声を上げる。
「まあ私の方にも誑かした自覚はある。いったん、ややこしく考えるのは止めてみてはどうだ? このまま、弱りきったところに付け込まれて、望まぬ仕事をやらされる場面を想像してみろ。それならばまだ意気が残っているうちに少しでもましな方を選ぶべきではないか? 幸いにも我々はまんざら知らぬ仲でもないわけだ。むしろ、私こそがお前の最大の理解者であると言っても過言ではない」
魑魅魍魎の中でどれが一番ましか、そういう話だった。ゲインはカウンターに両手をついてうなだれ、ひとしきり悩んだ。自らの翻意を拒もうとする安っぽい自尊心をかなぐり捨てるための時間でもあった。金が必要だ。気分よく毎日を過ごすために。
こいつの言うとおりだ。何も戦争をやろうってわけじゃない。
「護衛ってのは、どこまでだ?」
エシオンが大儀そうに立ち上がり、店の奥へと引っ込んでいった。
手持ち無沙汰になったゲインは空腹を紛らわせるために狭い店内を野良犬のようにうろついて回った。目を凝らして商品を物色する。ちらほらと見栄えの良い水晶の原石らしきもの、手の込んだ装飾品もあったが、大半は何に使うのか分からない石や粘土の塊、瓶に詰められた薬品が並んでいた。名札を見ても何なのか分からない。食えそうなものは無い。
店の場所といい品揃えといい、客を呼び込もうという気概がいっさい感じられなかった。地位と名誉と暇を持て余した金持ちの道楽。
唐突に、この店の何もかもをぶち壊してやったらどうなるだろうかと考えた。
適当な罰を与えられ、鼻で笑われて終わりだろう。惨めにもほどがある。
「この街にも支店はあるだろう、そこに持っていけ」
戻ってきたエシオンから紹介状を手渡された。焼印は押されているが封はされていないそれを手荒く懐に入れる。
「ちなみに目的地はサルタナだ」
行先を告げられたゲインが動きを止め、渋面をつくった。エシオンは逆に満足げな表情をしている。
「断りたくなったか?」
「贅沢を言っていられる状況じゃない。ただ、少し治安が心配になっただけだ」
兵隊が引き上げた後の戦地での火事場泥棒など吐いて捨てるほどいる。生活基盤を無くした被災者自身が匪賊に身を落とすことも珍しくない。実質的に敗戦した方となればなおさらだ。
それは取り繕うための発言でしかなかったが、的外れというわけでもなかった。エシオンにしてみれば悪戯を咎められた子供がついた苦し紛れの嘘のようなものでしかないだろうが、それに言及するほど無情でもなかった。
「そのための護衛さ」
エシオンが布袋を開けて中の金を弄ぶ。その指にはめられたいくつもの装飾品が金貨、銀貨と擦れあって耳障りな音を立てた。
指だけではない。腕、首、耳、いたるところをエシオンは貴金属で飾り立てている。本人の美しさを考えれば明らかな華美だったが、しかし、その過剰に飾り立てられた様がこそがこの女でもあるようにも思えた。
ゲインは軽く頭を下げて話を切り上げる。
「仲介料は適当に抜いておいてくれ」
「これも持っていけ」
エシオンは今しがた渡したばかりの金を放り投げる。ゲインはそれを慌てて受け止めた。
「今月分だって言っただろうが」
突き返そうとしたところを手で制される。「鏡は見ているか? 元々険相の気はあるが、今は餓狼のようだぞ」
咄嗟に頬を撫でる。無精ひげの感触がした。ここしばらくは自分の見てくれを気にしたことなどなかった。
「それがなんだ」
「あまり大事な仕事を任せたくはない顔だということだ。今月分は立て替えておいてやるから、そいつで英気を養え。折角ねじ込むというのに門前払いを食らったのではこちらの立つ瀬がない。格好をつけるのは結構、しかし忘れているかもしれないが、私はお前の情けない姿なんぞ腐るほど見てきたのだ」
今さらそんなことを言われるまでもないとゲインは胸中で毒づく。
「それに、これは女の沽券に関わる問題でもある。紹介した男の見栄えが悪いというのはな。お前には分からないかもしれないが」
この女の奥底に潜んでいる善意の発露、などとは思わなかった。他人に施しをして悦楽に浸るような趣味も持ち合わせてはいないはずだ。どうせ何かしら企んでいるのだろう。
悩んだところで狂人の考えなど分かりはしない。
ゲインは何も言わず、金を持って店を後にした。
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