第7話 幕間

 硝子杯に注がれた無色透明の液体にカルドアがちびりと口をつける。舌の上で転がすようにゆっくりと味わい、飲み込み、脱力するように大きく息を吐いた。

 「いやはや、肩の荷が下りた気分だ」

 「何の話だ」

 パオロの手にも同じものがあった。香りを楽しむ。値段に配慮した飲み方を心がけろと注意を受けているため、僅かしか注いでいない。

 「ああ、いや」

 カルドアは口ごもり、巨獣の角で作られた壁飾りを弄った。彼の私室は東西南北からの蒐集品で埋め尽くされている。丸い巨体がそれらの間に挟まるように収まっていた。

 「難民の件だ。もし集落を捨ててこの街へ大挙して押し寄せて来たらえらいことになると思ってね。外壁に張り付かれでもしたら、場合によっては強制的に退去させなければならない」

 気弱さに相応しい想像力兼ね備えた肥満体の友人は、それを命じる自分の姿を思い浮かべている。やつれ、くたびれ、救いを求める人々に止めを刺す場面を。

 「その件か。まあ、楽観はしない方がいいと思うがな」

 「分かっているとも」カルドアが両手で顔を覆った。「君から見て、彼らはどう映った?」

 「さあな。だが、手を尽くしはするだろう。片方は」

 「どうしてそう思う?」

 「そういう人物だと聞いている。元軍人だから、というのもあるがね」

 パオロが手の中のものを飲み干し、カルドアから壜を奪って勝手に注いだ。

 「君もそうだったな。彼に好意的なのはそれもあったか」

 「やれることもないのに悩んでも仕方がないぞ」

 いつまでも落ち着かない様子の友人を見かねてパオロが呆れたように言った。

 「そうなんだがね。忘れてしまえるならどれだけ楽になることか」

 今夜何度目かの溜息は、部屋の扉を叩く音でかき消された。

 「妻かな? 寝ていいと言っておいたんだが」

 ぶつくさと言ってゴミ山の中から身を起こそうとしたカルドアをパオロはその場に押しとどめた。腰を浮かし、暫く待つ。

 来訪者のほうが扉を開けた。

 女が立っていた。掃除婦でもしていそうな質素な身なり。離れぎみな目と小さい口をした、性的な魅力の薄い地味な顔立ち。視線を外したらそこで記憶から消えてなくなりそうな風貌をしている。

 カルドアが困惑していた。少なくとも家主に見覚えのない相手であることを確認してパオロが剣を抜き放った。遠くマラティアの至尊より下賜された神気を消費して女と自分たちの間に空気の壁を作る。間に合うかどうかは不明だったが、離れた場所で休息しているはずの部下たちに召集の信号を送った。

 「落ち着け、私だ」

 女が鈍く光る剣先に臆した様子もなく口を開いた。見た目にまったくそぐわない蠱惑的な響きの声。二人はそれに聞き覚えがあることに気付き、動揺する。

 女の姿が陽炎のようにゆらぎ、やがて再びくっきりと浮かび上がった。服は艶のある白い長衣に。顔立ちは怜悧なものに。まったくの別人に変じる。長い淡紫の髪が室内の白石灯の光で煌めき、琥珀色の瞳が妖しく揺らめいていた。

 カルドアはたまげて腰を抜かしていた。硝子杯を取り落とし、決して安くはない蒸留酒が絨毯に吸い込まれる。

 パオロが解除するより先にエシオンの手によって空気の壁は引き裂かれた。そのまま二人に歩みより、余った椅子を引き寄せ、腰を下ろして足を組む。

 「いや、夜分遅くに押しかけてすまないね。家の鍵はかけなおしてあるから心配はしないでくれ」

 そう言って部屋を見回し、いい趣味だと呟いた。皮肉なのか純粋な賞賛なのか判別しにくい笑み。

 パオロは剣を納め、部下に集合の取り止めを伝えながら雑然とした私室の中を見回した。棚から使われてない水晶杯を取り出して酒を注ぎ、恭しく差し出す。

 「どうぞ」

 「いや結構。下戸でね」

 「失礼しました」

 パオロは頭を垂れ、度胸付けのためにそれを自分で乾した。

 我に返ったカルドアが慌てて身を起こし、引きつった笑顔で手を揉む。質問したいことは山ほどあったが、喉から出てこないといった様子だった。

 その代わりにパオロが口を開く。

 「なぜこちらに? それに、どうやって。まさか、お一人で?」

 「元々来る予定だった。監視の任があるからな。ただ、少し気にかかることがあって日程を早めた。方法はもちろん歩いてだよ。少し飛んだりもしたが」

 薄く笑ったところを見るとどうやら冗談の類であるらしかった。

 カルドアは汗をぬぐって背筋を伸ばす。

 「このようなむさ苦しい場所にご足労いただき恐縮です。その……」

 分かっているとエシオンは続きを遮った。「用件を二つほど済ませたらすぐに帰るよ。ゲインのやつはどこかね? どこかの宿でも借りているのか?」

 二人は顔を見合わせた。唇を戦慄かせてまともに喋れそうにないカルドアに代わってパオロが言った。

 「アージェント元中尉ですが、ほんの数日前に街を出ました」

 エシオンの柳眉が上下した。酒が入っていたことを幸運に思いながらパオロは続ける。

 「隊商が暫くこの街で足を止める予定であることを告げたところ、臨時で稼げる仕事の紹介を要求されましたので、付近に現れた匪賊の討伐を斡旋いたしました」

 「なるほどね」

 琥珀色の瞳は全てを見透かしたようにカルドアに向けられている。そして、微笑んだ。

 「そう畏まらなくてもいい。君はただ要求に答えただけなのだから。それに、いい仕事をしたとも思っている。やつに暇を与えると際限なく堕落するからな。恐らくまったくの無関係でもないだろうし、巡り合わせというやつだろうさ」

 パオロが首を傾げる。「何か心当たりが?」

 「色々と耳にするからね。可能性としては低くない、といった程度だが。しかし数日前に発ったということは、ここに着いてすぐ助平心を出したのか?」

 せわしないやつだとエシオンが呆れる。

 「何やら焦っていたようですが。借金をしているそうで?」その様子を思い返すためにパオロが遠くへ視線をやる。

 「まったくつまらん理由だ」不満と、やや諦めの混じった声。「やつらしいと言えば、らしい。気になるのかね?」

 「多少は」

 「あいつが殺した民間人の遺族、または親族への賠償だ。法的な強制力のあるものではない」

 二人が難しいをする。目の前の相手の不興を買わないため、愚かな贖罪に対して肯定的な感情が表面に出ないように努めた結果だった。

 「これを機に少しでも発奮してくれるようになれば儲けものなんだがな。それはそうと、きみ、アシュレイという少年がいると聞いたのだが」

 「ええ、まあ」

 思いがけない方向から不意打ちを食らったパオロは曖昧に頷いた。

 「少し会ってみたい。場を設けてくれるか?」

 「中尉どのが連れていかれました」

 二人は珍しいものを見た驚きで思わず口を開ける。エシオンが目を丸くしていた。その顔は随分とあどけないもので少女のようですらあったが、それも一瞬のことで、すぐに艶やかさと老獪さを含んだ思案顔になった。袖口で隠された口元は見えずとも笑みの形に歪んでいるだろうことが分かった。

 「向かった先は分かるかね?」

 「北東です。地図と、護衛を用意します」パオロが言った。

 政界と経済界に影響力を持つ一族の中枢に近い人物で、かつ個人的に軍との結びつきも強いとなれば、この地の信徒にしてみれば彼女は敵国の要人以外の何者でもない。

 パオロの心配をよそに、エシオンは袖口から地図を取り出して広げながら申し出を断った。

 「地図は持っている。大まかな場所だけ教えてくれたら結構。護衛に関しても不要だ。姿をくらますことなど容易いし、抵抗するのはもっと簡単だからな。それに万が一、当局に身柄を拘束されたとしても、大事にはならない」

 エシオンの瞳がいたずらっぽく輝いた。よくない兆候を感じ取ったパオロは続きを丁重に断ろうとしたが、遅かった。

 「なぜならば、我々の国と、ここサルタナの神は同じだからだ。似ているという意味ではなく、同一の存在なのだ。つまり自分の信徒同士を争わせているわけだが、両国の首脳陣のごく一部はこれを承知している。本気で争うつもりなどない。それは戦争のなりゆきを見ても明らかだ。どうしようもない茶番だろう? なぜそんなことをしているかというと、実験の一環でね。より強い国、より強靭な信徒を設計するため、政治体制、軍制、技術、文化、あらゆるものに細かく差異を設けた上でどちらが優れているのかを検証しているわけだ。つまり──私はこちらでも貴賓なのさ」

 パオロが向かう先を無表情に地図上で指し示した。「中々興味深いお話です。事実であれば」

 エシオンが肩を震わせる。「ああ、そうそう、手間を取らせた礼をしておかなければな。カルドア」

 「は、はい、何でしょう」

 名前を呼ばれた男は丸い腹を揺らして直立不動の姿勢をとった。この短い時間の間にやせ細ったようにも見える。

 エシオンは袖口から新品の封筒を取り出して手渡す。

 「気付いていないようだから教えるが、君が相場の半分の額で買い叩こうとしている土地の取引、あれは手の込んだ詐欺だ。仲介者と代理人が共謀して本来の所有者の許可を取らずに売り払うふりをしているだけだ。金を払ったところで何の効力もない契約が結べるだけで所有権は手に入らない」

 カルドアがよろめく。その肩に当たった部屋の装飾品が床に転がった。

 「不思議そうな顔をするな。知っての通り情報屋はいくらでもいる。彼らから寄ってくる。君たちのようにな。取引が不調で私が貸した金がやや焦げ付いていることも知っているし、それを取り戻そうと躍起になって、あちらとこちらで二股をかけて情報を受け渡ししていることも知っている」

 カルドアが青ざめながら口を動かした。妻と息子の名前を呟いている。

 「君は土地の所有者に面会して安心しきっていたようだが、さっき私がやったようなことができる手合いはそれなりにいる。金を騙し取ったら姿をくらまして終わりだ。焦るのは結構だが、情報収集を怠るべきではなかったな。で、いま渡したのが本物の土地の権利証だ。次はパオロ」

 今度は紐で乱雑にくくられた目録が取り出された。

 「ここら一帯で盗品や違法な商品──薬品や貴石を取り扱っている業者と、販売経路と、その元締め、顧客の名簿だ。実を言うと私も顧客の一人なんだが、最近は付け上がっているのか値上がりがはなはだしかったので人を使って調べさせた。無理を言って一人増員してもらった分だ。本業にでも副業にでも好きに使うといい」

 「ありがたく頂戴いたします」

 パオロは両の手を差し出して受け取った。彼女にとって有益な人物の名は載っていないだろうし、自身に累が及ぶような間抜けをさらすこともありえない。だが、それでも貴重な情報には変わりはなかった。幸いにも暫くは暇が続く。本国の情報分析官への報告書にどれを載せるか、あるいはどれを自分の懐に入れるか、それについては後でゆっくり考えることにした。

 エシオンの姿がまた揺らいだ。瞬く間に初めの地味な女のものに変わる。

 腰を曲げた二人に対して鷹揚に手を振り、ゆっくりと部屋から出ていった。二人が顔を上げたのは、足音が完全に聞こえなくなってからだった。

 カルドアは脱力し、勢いよく後ろに倒れこんだ。椅子の足が軋む。パオロはその肩を叩き、手に新しい硝子杯を持たせ、首が繋がった祝いに壜が空になるまで中身を注ぎ続けてやった。

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