第11話 父親の愛情。
皆藤主任の差し入れで体力を、実愛ちゃんの笑顔で精神を多少は回復することが出来た。なんとか身体を動かして新年最初の出勤に臨むもやはり万全とはいかない。この連休、あまりにも堕落した生活を送り過ぎた。
「おら~! 新年早々シケた面してんな! 気合入れろ気合―!」
そう言いながら佐口さんが俺の背中をバシバシ叩く。相変わらず痛い。まあ、これがこの人なりの気の使い方なのだろう。そう思うと背中に残る痛みに有難さすら感じる。でもやっぱり痛い。
「あ! 橘君! 今年もよろしく。調子はどう? 大丈夫?」
美波さんが心配そうな顔で俺に尋ねる。敢えて核心をつくような事は避けて、さりげなく様子を窺う気遣いに心が痛む。
「ええ……なんとか大丈夫そうです」
先ほど佐口さんに叩かれて少し気合が入った俺は、なんとか少しだけ笑いながら返すことが出来た。
「まあ……多少はマシになってるみたいですが、まだまだですね。もっとシャキッとしてもらわないと困ります」
俺の横で松永が不服そうな顔で言う。
「ああ……お前の言うとおりだよ。もっとちゃんとしなきゃ駄目だよな」
「……そうですよ。分かってるなら早く前の先輩に戻ってください……」
そう言ってフイっと顔を背けた。
「よ! 調子はどうだ?」
漆原が軽く俺の肩を叩く。
「まあ……最悪ではないな」
「そうか。実はこの前、穴場のいい店見つけたんだよ。良かったら昼に行ってみないか? たまには俺が奢ってやるよ」
「お前が奢るなんて一生に何度あるか分からないな……今日はその言葉に甘えさせてもらうよ」
「おう、任せとけ!」
全く――俺はこんなにも周りに心配させて迷惑を掛けてしまっている。そんなこと分かっていたつもりだけど、心に少しゆとりが出来て、そのことがさらに深く胸に刺さった。
いつもでもこのままではいけない――――
いつまでも紗月の事を引きずっているわけにはいかない――――
改めてそう実感した俺は、少しずつ前を向いていける気がした。
紗月の事を忘れるわけじゃない。忘れたくても簡単に忘れられるような事じゃない。
それでも今はお互い環境が変わっていて、それぞれの道を歩み始めている。
きっと紗月も新たな環境で必死に頑張っているはずだ。だったら俺ばかりがその歩みを止めるわけにはいかない。
俺は今を精一杯生きていく。
そうやって時間が経って、いつしか紗月への想いは風化していってしまうのだろうか。
そう思うとやはり寂しい気持ちは消えない。
だったら時折、紗月の事を思い出そう。
お前は元気でやってるか? 幸せな道を歩んでいるか? ――ってな。
まあ、両親が社長と副社長の家の子供だ。何不自由ない暮らしが送れるだろう。贅沢に身が溺れないかの方が心配なくらいだ。
そう――紗月はきっと大丈夫――――
だから――俺も大丈夫だ――――
そう――思っていたのに――――
なのに――――
アイツは――三渕慶介は、また俺の目の前に姿を現しやがった――――
紗月がこの家を離れてからちょうど三週間目の日曜日。三渕慶介はわざわざ俺の家に訪れたのだ。
「…………何の用ですか?」
俺は三渕の顔を見るなり、露骨に怪訝な顔を見せる。
「まあそう睨まないでくれ。いや、貴大君が紗月のその後を気にしていると思ってね。少しばかり現状を報告に来たんだよ」
俺の態度も気にせず、相変わらず涼しい態度で三渕は言う。俺は無意識の内に、三渕の背後を気にしてしまった。
「ん? 紗月か? 君には残念けど一緒ではないな」
そんな俺の様子にいち早く気付いた三渕に釘をさされる。
「…………まあ……いいですよ。上がって下さい」
なんとなくイニシアチブを取られた気分になった俺は、投げやりな態度で家に招き入れた。
本当はこんな奴、追い返した方がいいのだと思う。しかし、どんなに紗月の事をいつまでも引きずっていると思われようが、気になるものは気になるのだ。
三渕と顔を合わせて話をするのは癪だったが、紗月の現状を報告してくれるという提案は俺にとってとても甘い誘惑だった。
玄関を上がった三渕は廊下の途中で足を止める。すると紗月の部屋のドアを開け、電気を点けて中を覗き込んだ。
「ここが紗月の部屋か……見る限り、何も手がつけられていないようだが、いつまでこのままにしておくつもりだ?」
三渕に言われた通り、この部屋は紗月が居なくなった時と同じそのままの状態だった。中に入ったのも忘年会の後の一度きりである。
この部屋を見ると、どうしても紗月の温もりを感じてしまう。そんな想いからか、この部屋は俺の中で封印された開かずの部屋状態になっていた。
「色々……忙しかったんですよ……」
もちろんそんな弱音は見せずに精一杯の強がりで返す。
「まあ、確かに大きな家具もあるし、一人で整理するのは大変だろう。良ければ私の方で業者を手配しておくがどうだろうか?」
「いえ、結構です。放っておいてください」
俺は即答で却下する。いつになるかは分からないが、ちゃんと自分の手でこの部屋は片付けるつもりでいた。他人や、まして業者の手をかりるなんて絶対ゴメンだった。
そんな俺の返事に三渕は「そうか」と言って、静かにドアを閉めた。
リビングに入り、それぞれテーブルに着く。
「それで? どんな報告があるって言うんですか?」
とても人から話を聞くような態度ではないが、三渕を前にしてちゃんとした姿勢を保つことは難しかった。
「報告に来ておいてなんだが、特別変わったことはない。相変わらず元気でやっているよ」
「はあ……そうですか……」
じゃあなんのためにわざわざこんなトコにきたんだよ。こんなのただの嫌がらせとしか思えないじゃないか。ただでさえコイツの顔なんて見たくもないのに。
「しいていえば元気でやってはいるが、多少忙しくはあるかな。君が紗月に何もさせていなかったツケが回ってきているんだよ」
「はあ……? ツケってなんのことです?」
「習い事のことだよ。ウチに来てから毎日訪問の講師を招いて色んな事をさせている。午前中はピアノにバイオリン。午後から英会話と算数。年末年始も休まずにだ。来週から学校も始まるし、そうなると塾も始まる。遅れを取り戻すにはいい時間だった。紗月は苦戦しているようだが、まあ仕方ないだろう」
なんだそれは……? この三週間、紗月はずっとそんなことをやっていたというのか?
「それは……本当に必要な事なんですか? ピアノにバイオリンって……プロになるわけでもあるまいし」
「もちろんプロになんかさせるわけがないさ。ピアノやバイオリンも一般教養でしかない。だから当然、必要な事だと言えよう」
俺の頭がおかしくなっているのだろうか。言っていることが理解できない。
「そうだとしても、さすがに詰め込み過ぎじゃないんでしょうか? 休まずにそんなんじゃ紗月が持たないでしょう?」
「だから君が何もさせていなかったツケだと言っている。オーバーワークを気に病むならまずは自分の行いを反省したまえ」
「いや、それを実際させているのはアンタたちでしょう? その責任を俺になすりつけるのは間違ってると思いますけどね」
「紗月は慣れてきたから大丈夫だと言っている。ならなんの問題もないはずだ」
紗月は母親が亡くなってからずっと誰の前でも涙を見せなかった。そんな紗月がこんなことで弱音を吐くとは思えない。どんなに辛くても平気な顔して大丈夫だと言ってしまうだろう。
だったらやはり、セーブするのは周りの大人の役目だ。
いや……ちょっと待て。なに当たり前のようにこんなに習い事をさせるのが当然だと思ってるんだよ。三渕に良いように言いくるめられそうになってんじゃねえ。
俺は――こんなことをして、本当に紗月のためになるとは思えない――――
「紗月が無理をしてる……って、ちょっとは考えないんですか?」
「無理はしているだろう。やっている事が全て未経験なのだから簡単な訳がない」
「それが分かってるのに強要させてるって言うんですか?」
「紗月の将来を考えるのなら致し方ないことだろう」
「紗月の将来ってなんですか? 紗月はアンタの操り人形じゃない。そうやって大人のさせたい事ばかりやらせるのがいいことだとは思えない」
「子供に教養の場を与えて可能性を広げてやるのが大人の役目だ」
「だとしても、もっと紗月と向き合うべきだ。ちゃんと話し合って、本当に必要なものを選べばいい」
「あのくらいの歳の子に自分の先が見えるとでも思うのか? 子供は何も分からない。何も知らない。だから大人がそれを教えなくてはいけない」
ああ――――クソっ!! 俺は一体何をやっているんだ……――
三渕を説得して、紗月の負担を少しでも減らせればとでも考えていたのか?
俺の理屈なんてアイツには全く通用しないし、俺の考えを受け入れてくれるとも思わない。
違うだろ――三渕が紗月に与えるのはもっと別のものだ――――
俺はそれを確認したいんじゃないのかよ――
どんな考えでも、どんなことをさせたとしても、本当のソレがあるのなら、紗月は幸せになれるはずだ。
「紗月は新しい母親…………東條祥子さんとはうまくやれているんですか?」
「彼女は紗月に関心がない。まあ、どちらにせよ仕事も忙しい身だ。接点も自ずと少なくなる。これも仕方のないことだろう」
三渕は当たり前にように平静な顔で言う。
「おい……ちょっと待てよ……アンタはそれでいいのか? 紗月は母親を失ったんだ……まだその心は完全には癒えていない……その心を埋め合わせる母親がそんなんでいいのかよ!?」
「彼女は母親である前に従業員数百人を抱える一企業の社長だ。どちらに比重を置くべきかは考えなくても分かるだろう」
「だったら……紗月の事は無関心でもしょうがないって言うのかよ……」
「言葉にするまでもない」
ダメだ……思っていた以上に何も感じない。
紗月に対する愛情が――――紗月の今いる環境には全く存在しなかった――――
東條祥子はおろか、実の父親である三渕にすらその愛情が感じられない。
何が紗月の将来のためだ――――
結局は家柄の名目を保つために、色んな習い事をやらせて、沢山勉強させて、いい学校行かせて、世間の目から自分達を守りたいだけじゃないか。
こんな愛情の無い環境にいたら紗月はダメになる……
いや――――ーそんなことも最初から薄々気付いていたよ。
それでも――俺は三渕を――紗月を止められなかった。
俺は何を躊躇っていると言うんだ――
紗月が既に向こうに引き取られている今、俺にはもう失うものなんてないじゃないか――
だったら、ぶつかっていくしかないだろ。
理屈や体裁なんかじゃない――
俺の――本当の感情で――――
俺はバンっ!! と強くテーブルを叩き立ち上がる。そして鋭く三渕を睨みつけた。
「この前は紗月がいたから黙ってたけどな…………俺はアンタの事が大っっっ嫌いだ!!!!」
俺の叫びと共に、三渕は静かに目を細める。
「最初、アンタを見た時、結構期待してたんだよ。「この人ならきっと姉ちゃんを幸せにしてくれる」ってな。
でも結果、アンタは俺を裏切った! 金と地位に目がくらんで姉ちゃんと紗月を捨てたんだ! それがどんなに許し難いことかアンタには理解できないだろうけどな。
アンタと別れた日、母と姉ちゃんが抱き合って泣いてたんだよ……「幸せになれなかった」って言ってな……あの日ほど、アンタの事を恨んだ日はない。
そんな母も姉も、もうこの世にはいない――母は病気、姉は事故。まあ、誰しも命は必ずいつかは尽きる。二人ともまだ若かったけど、それでも多少はしょうがねえって割り切ることは出来てるんだよ。
でも一つ――――どうしても割り切れないことがあるんだ……
亡くなった母と姉の事を思い出すと、嫌でもあの抱き合って泣いていた姿を思い出しちまう。
その度に思うんだ――――「幸せになれなかった。幸せにさせてあげられなかった、って想いを抱えたまま……死んでしまったんじゃねえのかな」って――――
あの涙を流させたのはお前だ! 三渕慶介!! 俺はアンタを許さない!!
だから遺された紗月には絶対にそんな想いはさせたくない!! どんな環境になっても「私の人生幸せだったな」って思わせたいんだ!!
アンタにそれが出来るのか!!? そんな愛情もクソほど感じられない環境で、紗月が幸せになれると思ってんのか!!?
俺は絶対にする……してやるっ!! 紗月を幸せにすると決めたんだ!!!
紗月は俺の家族だ!! アンタには渡さない――――
これ以上!! 俺の家族を傷つけるなぁぁぁ!!!!!!!」
勢いに任せて叫び倒したせいで息が上がる。
そんな俺の様子を、三渕は涼しい顔で眺めていた。
「幸せ……か。言わせてもらえばそれを決めるのは私でも君でもない。紗月自身だ。貴大君は何を以って紗月の事を幸せにすると言っているんだ?」
「俺にはアンタみたいに金や教養を与えられる環境は持ってねえよ……でもなあ……俺は誰よりも紗月の事を大切に想っている!! もちろんアンタなんかとは比べ物にならないくらいな!!!
この世界で紗月の事を一番愛しているのはこの俺だ!! そんな俺が紗月の事を幸せに出来ないわけがないだろ!!」
「愛で幸せになれるのなら誰も苦労しないだろう。それにそんな安っぽい愛情では、いずれ紗月の存在が邪魔になるとは考えないのか?」
「紗月が邪魔になる? そんなことがあるわけねえ! この三週間……紗月が居なくなって分かったんだ。俺には紗月が必要だ。紗月が居ないとダメになる。
だから俺はずっと、紗月と一緒に居たいって、心から思ってるんだよ!!!」
「ずっと一緒に居たい……か。紗月は今、私の元にいるんだぞ。そんな一時の感情で私が紗月を君に任すとでも思っているのか?」
「アンタは関係ねえ! 力ずくでも連れ戻す!!!」
「連れ戻すか……穏やかじゃないな。それに、大事な紗月の意志を無視している」
そう言って、三渕が俺から視線を外す。向けられた視線はリビングのドアの方だった。
「紗月、入ってきなさい」
三渕がドアへ向かってそう言うと、ドアノブがゆっくり下りる。
キーっと音を立てて開いたドアから、俯きながらポロポロと涙を流す紗月の姿があった。
「は――? 紗月――――?」
俺は唖然と立ち尽くす。紗月がどうしてここに――?
「じゃあ、改めて聞こうか――――紗月――お前は誰と一緒にいたいんだい?」
三渕は優しく微笑みながら紗月に問う。紗月はゆっくり顔を上げた。
「お父さん……」
紗月は震えて擦れそうな声で言う。そして涙を袖でゴシゴシ拭いた後、キッと表情を強くした。
「お父さん、ごめんなさい……私は……貴大と一緒に居たい!!」
力強くそう言ったのだった。
三渕はその姿を微笑んだまま見つめる。そして大きく息を吐いた後、再び俺の方に向き直した。
「そういうことだ貴大君。娘を……紗月をどうかよろしくお願いします」
三渕は俺に向かって深く頭を下げる。
「いや……ちょっと待てって……一体どういうことだよ……?」
状況が飲み込めずに、頭の周りに疑問符ばかりが浮かぶ。いきなり紗月が現れて、三渕に頭を下げられて、なにがなんだかわからない。
「昨日、紗月に話をしたんだ。「紗月が本当に居たい場所はどこなんだ?」とね。紗月の答えは「貴大君が自分の事をどう思っているのか知りたい」だった。
今の話は紗月にも聞いてもらっていた。こんな騙して煽る様な形を取ったのは悪かったと思っている。しかし、君の本心を聞き出すにはこれが一番だと思ったんだ。それに、私自身も貴大君の紗月に対する気持ちを知りたいのは同じだったからね」
三渕はさっきまでの熱の籠らない涼しい顔とは打って変わって、穏やかな優しい表情で淡々と話す。まるで別人を相手にしているかの様な気分だった。
それにしてもこの話はイマイチ要領を得ない。
何故、三渕は紗月にそんな話を持ちかけた? それに紗月は自分からすすんで父親の元へいったんじゃないのか? それが何故、今になって俺のところに帰ろうとしている?
未だに混乱をしたまま少しずつ状況整理をする。
そんな俺を余所に、紗月が口を開いた。
「私は……貴大にとって必要ない……邪魔な存在だと思ってた……だって……貴大、意外となんでも出来るし、仕事の人とかも仲いいし、別に私なんか居なくても困らないんじゃないか……って…………
だったら、私はお父さんの所に居た方がいいんじゃないかって思った。その方が貴大も楽出来るだろうし、私も邪魔者扱いされたくなかったし……
でも!!!
貴大はちゃんと私の事見ていてくれた! それが本当に嬉しかった! お母さんが居なくなった寂しさも埋めてくれて、ずっと一緒に居たいって思った!
私は、貴大の邪魔にならないかな? 必要じゃなくならないかな?
私は…………貴大と一緒にいても……いいのかな……?」
紗月は目に涙を貯めながら声を震わす。
全く、本当に余計なことばかりゴチャゴチャ考えやがって。だからそんなに身がまえないで、子供は子供らしく気楽にしてろって言ったんだ。
「当たり前だろ。紗月、お前は俺の大切な家族だ。邪魔になんてならないし、必要ないことなんてない。むしろ遠慮せずにもっと迷惑を掛けてもいい。それが――俺にとっての幸せだ」
俺は紗月と見つめ合う。俺が微笑むと、紗月はニヘっと笑って見せた。
その瞬間、見えない何かで初めて繋がれたような気がする。
「これで私も安心して紗月を任せられるな」
そんな俺たちを見ていた三渕が納得したような表情で言う。俺はその顔に少し腹がったった。
「安心して任せられる……? なんだよ、最初からそのつもりだったみたいな言い方は」
俺は三渕を睨みつける。そもそも、コイツの行動原理が理解できない。一体どういうつもりだ?
「父親が娘の幸せを願うことは、何かおかしいことかな?」
不敵な笑みを浮かべて三渕は言う。しかし不思議と嫌味ではない雰囲気を感じた。それが一層、納得のいかない俺を苛立たせる。
「おかしいだろ!? アンタは姉ちゃんと紗月を捨てたんだ! 何を今さら父親面してんだよ!?
それにさっきまでのは何だ!? 俺を騙して煽ってる? あれが嘘だって言うんなら、じゃアンタの本心はどこにあるんだよ!? ホント意味分かんねえ……」
「確かに私は美月と紗月を捨てた男だ。それの否定はしようがない。
しかしね……美月と紗月の愛情までは捨てたつもりはない。
正直に言うと……貴大君には信じてもらえないかもしれないが、あの時の私はどうかしていた。金と地位に目が眩んだと言われればそうなのかもしれない。とにかく、美月に離婚を申し出た時の私は冷静ではなかった。今でもあの時の事は、後悔しても悔やみきれない気持ちで一杯なんだよ」
三渕は遠い目をしながら過去を悔いるように話す。気持ちは伝わってくるが、俺にはそれを簡単に受け入れるのは難しかった。
「教育の方針についてだが、あれは私自身の考えではない。しかし全くの嘘と言う訳でもないんだ。
あれは祥子さんの考えだ。男として情けない話になるんだが、立場的にも私は祥子さんに逆らうことが出来なくてね。だからもし、紗月が私と暮らすことになるのなら、その意志に従わざるを得ない。
今回、紗月を連れて行ったのも実際その生活を体験してもらうためでもあったんだ。私としては、それでも私と共に居てくれることをどこか期待していたのかもしれない……しかし、この生活は紗月にとっては酷な環境だったようだ。それは私の目から見ても明らか……
今の私では、紗月を幸せにすることは出来ないんだと思い知らされたよ」
「だったら……東條祥子の方を捨てて、紗月を選ぶって言う選択肢はなかったのかよ? 本当に紗月の事を考えてるんだったら、そんくらいのこと出来て当然だろ!?」
「もちろんそれも考えたさ。しかし、私は美月と紗月を捨てる様な事をしてしまったことを後悔している。だから、同じ過ちを繰り返すわけにはいかないんだ。
今、祥子さんのお腹の中に新しい命が育まれていてね。これ以上、家庭を捨てて壊す様なことはしたくない。
それに、私が祥子さんの元を離れたとしても、紗月は私のことは選ばないだろう。紗月が望む居場所は、残念ながら私のところではないらしい」
そう言って頬笑みながら俺の方を見る。
なんだよ……三渕も自分なりの考えで、紗月の事をちゃんと考えてたってことなのか。
口先だけじゃない、しっかりとした意志は感じる。信用に足る想いも伝わってくる。
でもやっぱり――三渕への憎しみは残るし、許せないと思っている。どうしても、母と姉が涙を流す姿が消えてくれないんだ。
色んな感情が混ざり合い、眉間にしわを寄せた複雑な表情で佇んでしまう。
すると、そんな俺のことを見ていた紗月が口を開いた。
「ここに来る途中、お墓に寄ったんだ。おばあちゃんとお母さんのお墓。
そこでお父さん、手を合わせて何度も何度も謝ってた。だからお母さんはお父さんの事、許してると思う。だから大丈夫だよ。お母さんは安心して私たちを見守っているよ」
胸の奥に衝撃が走る――
いつまでも過去を引きずって、それに縛られることがこんなにも格好悪い事だとは思わなかった。紗月は既に前を向いている。今を大事にしようとしている。
そんな強かさを持った子とこれから生活をしていくことになるんだぞ。
俺ばかりが――いつまでもこのままでいるわけにはいかないだろ――
「貴大君。君にとって私は憎しみ多い存在なのは重々承知だ。夫としても父親としても不甲斐なく、こんな低俗な私の事は許し難いだろう。
だから君は……今を生きている君だけは、私の事を許さないで欲しい。そうやって私は、自分の罪を背負って生きていこう。
今まで本当に申し訳なかった……どうか――紗月の事をよろしくお願いします」
そう言いながら三渕は、地にひれ伏すように深く、とても深く頭を下げた。
なんだよ、それ……
都合のいいことばっかり言いやがって……
しかし、それが何故だか可笑しくて、不思議と笑いが込み上げてくる。
「はは……アンタの事なんて大嫌いだよ。バカ野郎――」
笑いながらそう言う俺を、三渕はとても嬉しそうな表情で見る。
俺と三渕の間に、もうそれ以上の言葉は必要なかった――
「じゃあ、私はそろそろ行くとするよ」
そう言う三渕を俺と紗月は玄関先まで見送った。
三渕はドアノブに手を掛けるとまた放し、ゆっくりこちらへ振返る。
「紗月……最期に……お前の事、抱きしめてもいいかな?」
「……うん」
紗月は少し照れながら言う父親に微笑みかける。
三渕は膝を屈め、紗月に目線を合わす。
そして――二人はゆっくりと、それでいて力強くしっかり抱き合った。
ああ――なんだろう……この込み上げてくる敗北感は――――
結局、誰よりも紗月の幸せを考えて行動していたのは、父親の三渕慶介だった。
そんな人が愛娘を手放して、自分にとっては赤の他人に託すなんて決断、並大抵の覚悟で出来るはずもない。口先だけで、何も出来なかった俺とは大違いだ。
今の俺では到底届かないような深く熱い愛情――
紗月と抱き合う三渕を見て、初めて本当の父親の愛情というものに触れた気がした。
三渕は紗月から離れ立ち上がり、ゆっくり俺に顔を向ける。
「じゃあ貴大君。紗月の事を頼んだよ」
「任せて下さい。もう――貴方には負けませんから――」
そう――俺はもう負けない、負けられない――――
誰よりも紗月を幸せにすると誓った。
この想いだけは誰にも譲れない。
そんな強い意志の籠った俺の瞳を見て、三渕は静かにこの家を後にした。
俺と紗月は暫く――玄関のドアの静かに見つめていた――
「そろそろ戻るか」
「うん……そうだね」
俺と紗月はリビングに戻り、二人同時にソファーへ腰掛ける。そして大きく息を吐いた。
「……………………」
「……………………」
え……? ちょっと待って。何? この微妙に気まずい雰囲気。
いや、まあ、さっきはまでは色々勢いで色々言っちゃったけどさあ。まあ色々とね。
まさかそれを振返って我に返っちゃったりしてないよね? 俺は結構やっちまった感、半端ないんだけど。
紗月の表情を確認するためにゆっくり紗月の方を見る。すると同じタイミングでこちらを向いていたのか、バッチリ目が合ってしまった。俺と紗月は勢いよく目を逸らす。
だからなんなんだよ! この雰囲気! 勢いで告白してOK貰ったけど、少し冷静になったら「アレ? コイツ俺の事好きなんだよね?」とか思ったら急に恥ずかしくなった付き合いたてのカップルか!!
なんか紗月も横でモジモジしてるし! お願いだからそんな感じ出さないで! なんかこっちまでモジモジしちゃうから!
すると紗月の方からゆっくり言葉を出し始める。
「しょ……しょうがないから一緒に居てあげるだけなんだからね……」
「なんだよソレ……俺と一緒に居たいって言ったのは紗月だろ?」
「だっ……だってソレは……貴大が私の事……世界で一番あ、あ、愛してるとか言うからでしょ!!? そこまで言うならまあ、しょうがないかなーーって……」
ぎゃああああああああ!! その台詞を言わないで!! 世界で一番愛してるなんて台詞、世界で一番掘り返して欲しくないわ!! 俺だってまさか小学生相手にそんな事言うとは思ってもみなかったもん!!
分かったよ……どうせ俺も出すとこ出したんだ。今さら引き下がるわけにはいかねえ。
俺は顔を真っ赤にする紗月の方を見た。
「そうだ。紗月、俺はお前が誰よりも大好きだ。好きで好きでしょうがないんだよ!!」
「なななななに言ってんのこの人!!? 小学生相手に愛してるとか好きだとか頭おかしいんじゃないの!!? このヘンタイ!! ロリコン!!」
「おう、ヘンタイでもロリコンでも結構だ。けどな、この気持ちだけは譲らねえぞ。紗月は俺にとって大切な家族だ。もう――絶対放したりしねえからな。そこんとこ覚悟しとけよ」
「う~~~~~~~…………――」
紗月は変わらず顔を真っ赤にしながら俯きながら唸る。
それから「ぷっ」と吹き出し、なにかが吹っ切れたように笑いだした。
「あはははは…………なにそれ。ホント可笑しい……」
何が可笑しいか分からない。こっちは本気なんだぞ!
「まあ…………私の居場所になってくれてありがとね、貴大」
少し照れながらも嬉しそうに言う紗月。
それを聞いた俺は、何も言わずに優しくポンっと紗月の頭に手を乗せた。
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