第4話 姪と女子小学生のお宅訪問。

 仕事中トイレに行き、オフィスへ戻る通路を歩いていると向かいから皆藤主任がやってきた。

 こういう狭い通路で上司とすれ違うのは少し緊張する。


「お疲れ様です」

 と軽く会釈をして皆藤主任の横を通り過ぎた。


 別に何がどうというわけではないけど、こういう小さい行動一つ一つに評価されてるような気がしてスッキリしない気分になる。他部署の名前も知らない様な人ならこんなに気にする事もないんだけどな。


 ヤマ場を越え、いち早くオフィスへ戻りたいがこういう時は何故かスムーズに事が進まない。

 皆藤主任はすれ違い様に振り返り「あ、橘君」と俺を呼び止めた。


「はいぃ!」


 声が裏返りゆっくり皆藤主任の方へ向く。俺と向き合った皆藤主任は感情が読み取れない表情で俺をジッと見つめた。


 え~~~!! 何、何!?? 何か用があるなら早めに言って欲しいんだけど!!

 生殺し感半端ないし、もう全身冷や汗でビッチョビチョになりそうだ。


 どれだけ時間が流れただろうか。恐らく十秒とも経たないだろう。しかし俺はこの永遠にも感じる、見つめられるだけの十秒を直立不動で過ごした。


 しかし全ての事象には必ず終わりがやってくる。やがて終わりを告げる言葉が皆藤主任より発せられた。


「ごめんなさい。やっぱり、なんでもないわ」


 と言ってクスっと笑った。


 俺に背を向け去っていく皆藤主任をただ呆然と見つめる。



 は…………? 今……笑ったよな……?



 常に無表情で今まで一度も笑った顔なんか見たことない。怒り以外の感情が著しく欠落しているような仕事マシーンの皆藤主任が笑った? いや、常に無表情で怒りすらも表情から読み取る事は難しい。まあ、怒ってると思っているのは俺の主観だから実際のとこは定かでない。


 見間違えかとも一瞬思ったが、さっきの笑った表情が脳裏に焼き付いて離れない。



 だって……メチャクチャ可愛かったんだぞ!!



 普段とのギャップが更にそう思わせるのか、元々美人な皆藤主任の魅力をさらに引き出しているような表情だった。

 今までは気づかなかったが、笑った表情はあどけない幼さも感じる。性格がキツイ美人上司の勝手なイメージが崩壊しそうだった。まあ、完全崩壊はしなかったけど。この程度で皆藤主任に対する俺の印象は揺るぎない。


 しかし、いつもとは違う意味で胸の鼓動が早くなっているのが分かる。きっとコレは不整脈だ。救心でも飲んでおけば治まるだろう。

 救心なんて買った事ないから薬局へひとっ走り行きたかったけど、休憩時間はまだ先だ。高鳴る胸を抑えつつ、仕方なく俺は再びオフィスへ歩き出す。


 恐らく、もう二度とあの表情を見ることはないだろう。


 それはそれで、色んな意味でもったいないと俺は思ってしまった。



 ***



「ねえ! 次の土曜日、紗月ちゃんの家行っていい?」


「え? 急にどうしたの? たかひ……おじさんに聞いてみないと分からないよ」


「いや、行くから。絶対行くから。これはもう決定事項です!」


 学校のお昼休み、友達の実愛みあちゃんがなんの前触れもなく、強引に話を進める。


 私と貴大は基本的に、土日は適当にゴロゴロしている事が多い。次の土曜も例に漏れず暇だと思う。もう来る気満々みたいだし、特に断る理由も見つからなかった。


「多分大丈夫だけど、おじさんにはどっか外で時間潰してくるように言っておくね」


「ダメだよ!! 紗月ちゃんの保護者のおじさんが、どんな人か見に行くのが今回の訪問の理由なんだから!! 家に居てもらわないと困ります!!」


「ええぇ…………そう言うことなら来てもらいたくないんですけど……」


「紗月ちゃんがちゃんとした人と生活しているのか気になって仕方ないんだよ!! 私の紗月ちゃんを任すに足る人物か見届けないと気が済まない!!」

「あんたは私のお父さんか」


 私のツッコミに対し、実愛ちゃんは「にしし」とイタズラな笑顔を浮かべる。


 出会って間もないのに、私の身辺まで気にかけてくれるのは本当に嬉しい。実愛ちゃんとはこれからも仲良くやっていけそうな気がした。


 出会って間もない――そう、私はお母さんを亡くし、貴大に引き取られてから転校していた。もともと住んでいるところはそんなに離れていなかったとはいえ、前の小学校に通うには三駅分離れていた。学区外ということもあり、貴大のアパートから歩いて通える小学校へ転校していたという経緯がある。


 転校先のこの小学校で、真っ先に話しかけてくれたのがこの実愛ちゃんだった。陽気で活発な性格で、ショートカットの見た目からボーイッシュな雰囲気がある。しかし目鼻立ちはとても整っていて、いくらでも可愛くなれるのになと思う。


「あのう……わたしも行っていいかな……?」


 私と実愛ちゃんの話を横で聞いていたサーシャちゃんが少し申し訳なさそうに聞いてくる。

 本名は御園生みそのう フェドリワ 佐亜沙さあしゃ。ロシア人とのハーフらしい。長く綺麗なブロンズの髪をツインで束ね、吸い込まれそうな瞳は淡いグリーンの輝きを放っている。


 一言で言うと超可愛い。サーシャちゃんマジ天使。


 常に私と実愛ちゃんの一歩後ろを付いてくる様な控えめな性格なので、誘われたわけでもなく、自分から積極的に意見を言うのは少し珍しかった。


「え…………? サーシャちゃんも行くの……?」


 それに対し実愛ちゃんは表情を歪ませる。驚いたというより、露骨に嫌がる様な態度だった。


「うん……ダメかなあ……?」


 少し悲しそうな表情のサーシャちゃん。今すぐ抱きしめてその悲しみを消してあげたい。


「いや、ダメじゃないけど…………ちゃんと大人しくしてるんだよ?」

「もちろん。分かってるよぉ」


 この二人はなんの話をしてるんだろう。サーシャちゃんが大人しくない所なんて見た事ないから、そんな心配する必要もないのに。


「じゃあ……次の土曜日、二人分よろしくね」


 少し項垂れた様子で実愛ちゃんが言う。やっぱりそこは決定事項なのね。


「まあ、なんとか良いように言っておくよ」


 今さらダメとかムリとか言える雰囲気でもないので、軽い感じで返事をする。


 しかし私は、この二人のやり取りまでも、軽く流してしまった事を後悔することになる。世の中には知らない方がいい事って意外と多いものなんだね。



 ***



 さて、今は土曜日のお昼過ぎ。これから女子小学生二人が家に遊びに来るらしい。転校先の学校で友達付き合いが上手くいっているか心配だったが、どうやらそれも杞憂の様だ。家にまで呼べるくらいに親しくなったのなら、これ以上心配する必要はないだろう。


 しかし、その友達がどんな子達なのかは、やはり気になるところ。向こうから訪問してくれると言うならそれに越したことは無い。


 今日来る二人の話は以前から少し聞いていた。活発なボーイッシュの実愛ちゃんと大人しいハーフのサーシャちゃん。サーシャちゃんマジ天使らしい。


 天使なんて表現、どう考えても誇張としか思えない。紗月からその話を聞いた時は鼻で笑ったものだが、実際目に出来るのは少し楽しみでもあった。


 紗月は二人を迎えに外へ出ていた。学校で合流し、そこから紗月が家に案内をするということらしい。

 紗月に朝から身だしなみはしっかりするようにと口うるさく言われたので、いつもの休日より少し小奇麗な服装で待機する。

 いや、そもそも、やっぱり俺必要無いんじゃね? だって女の子同士で遊ぶなら、こんなお兄さん居るだけ邪魔だよね。やっぱり家の人が居るとお互い気を遣っちゃうし、だったら適当に外出してもらっていた方が何倍もいいはずだ。


 もちろんそれは紗月に提案していたのだが、却下され自宅待機を命じられている。

 どう考えてもいらねーと思うんだけどなあ。


 そんな事を思っていると玄関の方から物音が聞こえた。どうやら到着したらしい。


 パタパタと忙しない足音が近づき、リビングのドアを開ける。


「初めまして! 実愛でーす! おっじゃましまーす!!」


 開かれたドアからデニムのパンツにロングTシャツのシンプルな服装の活発な子が入ってきた。うん、言われなくても実愛ちゃんだと分かる。


「いらっしゃい」


 俺は普段あまりしないような優しい笑みを浮かべて言った。第一印象って大事だからな。


「もう……実愛ちゃんったら」


 少し呆れた様子の紗月が続いてリビングへ入る。そしてその後ろからサーシャちゃんと思われる人物が紗月に続く。


「あ、あの……御園生 フェドリワ 佐亜沙です……お邪魔します……」


 その声は擦れ消え入りそうな程控えめだった。少し不安げな表情の上目使いで俺と目が合う。


 その瞬間――――全身に電撃が走った。


 紗月――――ごめんな――――俺が間違っていた。



 サーシャちゃんマジ天使。



 淡いピンクで花柄のワンピースに白いブラウスを羽織った姿は、とても小学生とは思えないほどの色気を感じる。いや本当に背中から白い翼が見えてもおかしくないくらい、天使という表現がピッタリだった。いやあ、本当に天使っているんだな。


「あのー……サーシャちゃんばっかり見てないで、もうちょっとこっちも気にかけてくれないですかねえ……」


 不満げな表情の実愛ちゃんが俺の裾を引っ張る。


「あ、ああ……ちょっとボーっとしてただけだよ」


 いや、完全に目を奪われてたけどね。もっと年齢が上だったら、心まで奪われ兼ねない危険性だってあったよ。


「いや……別にいいんですけどねえ。サーシャちゃんマジ天使ですし。それは誰もが認めます」


 そう言って実愛ちゃんは俺の前にちょこんと正座をした。手にはペンとメモ帳が握られている。


「では! まずいくつか質問したい事があります! 少しだけお時間を頂きますね!」

「え!? あ、はい。どうぞ」


 唐突な展開に戸惑いつつ返事をする。おいおい、一体何が始まるんだ?


「じゃあまずは貴方の名前と年齢をお答えください」


 実愛ちゃんはメモ帳を見ながら質問を述べる。質問内容があそこに書いてあるのかもしれない。


「えーっと、橘 貴大。二十四歳」

「ふむふむ。あ! 紗月ちゃん! 紗月ちゃんはおじさんの事なんて呼んでるの?」


 実愛ちゃんはサーシャちゃんと並んでソファーに座る紗月に声を掛ける。


「た……たかひろ……だけど……」

 紗月は頬を赤らめ、どこか恥ずかしそうに答える。


「ふむ。では私も『貴大さん』とお呼びしますね。では貴大さん、貴方のお勤め先はどこですか?」

「株式会社アルケースペース」

 何これ? 職場なんか答えて何かなるの?


「次はお務め先の上司の名前をフルネームでお答えください」

「上司……? 部長はほり……嘉季よしきだったけな?」

「あーー……もうちょっと近しい地位の上司でお願いします」


 もうちょっと近しい地位の上司? 直属で一番近いのは皆藤主任になるが……


「主任は皆藤…………あれ? なんだっけ?」


 ヤバい。本気でド忘れした。そもそも『皆藤主任』で一単語として扱っていたせいか、名前なんて意識した事ない。

 実愛ちゃんは考え込む俺に、睨みつける様な視線を送ってくる。そうだよな。社会人として上司のフルネームくらいちゃんと把握してしないといけない。


「あ! ああ、思い出した! 静流しずる! 皆藤静流!」


 ふう、危ねえ。なんとか答えることができたぞ。ていうか皆藤主任って名前までもクールなイメージなのな。すごい今さらだけど。


「はい! 合格です! お付き合い頂き、ありがとうございました」

 そう言った実愛ちゃんは笑顔でペコっと頭を下げる。


「ちょ、ちょっと待って! 結局今のなんだったの!?」

 紗月の方をチラっと窺うが、目が合うなり首を横に傾げる。


「身辺調査ですよ。大事な友達の紗月ちゃんの保護者さんがどんな人かを調べる為の質問です」


「え? 確かに勤め先は大事な情報かもしれないけど、だったら他にももっと……こう、あるんじゃない? 俺の趣味とかそういう個人情報的な事とか」

「あー……そういうのは興味無いんで」

「あ、そう? 合格って言ってたけど、今ので充分なんだ?」

「はい、確認は取れましたから」


 立ち上がった実愛ちゃんは俺の前から離れ、ソファーに座っていた二人の輪の中へ入る。


「お待たせ! んじゃ、ゲームしよ」


 実愛ちゃんは持ってきたリュックサックからテレビゲーム一式を取り出し、手際良くセットを始める。

 家に来て何して遊ぶのかと思っていたが、今時の女子小学生も友達の家ではゲームなんだな。紗月はそういうの欲しがったりしないけど、やっぱりそういうのは買ってあげた方がいいんだろうか。二人が帰ったら聞いてみよう。


「あ、貴大さんも一緒にやりますか? コントローラー四つありますよ」


 セットを終えた実愛ちゃんが振返り、俺にコントローラーの一つを差し出す。


「ああ……俺はいいよ。ここでゆっくり眺めてるわ」

 最近はあまりゲームの類はしていなかったとはいえ、学生時代は持て余した時間を埋めるように散々やったものだ。対戦系のゲームだったら手加減できる自信が無い。それに女子小学生相手に、ゲームのうまさをひけらかす様な姿は見せたくなかった。


 二人掛けのソファーにピッタリ三人はまり、黙々とゲームを始める。


 俺はそれを眺めていたが、五分である結論に辿り着く。



 やっぱり、俺いらないんじゃね? 



 いや、確かに邪魔しているわけじゃないんだけど、俺がいる必要性を感じない。っていうか暇だ。暇なんだけど、ゲームに混ざろうという気にはなれない。


「俺、もう必要ないみたいだし外出てようか?」


 ゲームをする三人に声を掛ける。


「一応、居て下さい」


 画面から視線を外さずに実愛ちゃんがサラっと答えた。


 一応って何!? やっぱりいらないじゃん! って言いたかったけど、ゲームの邪魔しちゃなんだし黙ってその場に居続けた。


 横目で見たテーブルの上にはジュースやお菓子が大量に置かれている。もてなしとして予め用意していたものだ。


「みんなお菓子とか食べる?」


 暇を持て余していたので、何気なくそんな声を掛けてしまう。


「手が汚れるので今は結構です」


 先ほどと同じように実愛ちゃんが答えた。まあ、ゲーム中はそうですよね。聞いた俺が間違っていましたよ。


 仕方なく俺はお菓子の中からポテトチップの袋を開け、一人寂しくパリパリ食べ始めた。


 ポテチ片手にゲーム画面を見つめる。三人がやっていたのは、国民的キャラクターのレースゲームだった。


 持ち主の実愛ちゃんはさすがに上手い。ドリフトを使いこなし常に先頭を走り続ける。大人しそうなサーシャちゃんはアイテムの使い方がエグイ。攻撃系のアイテムを取ったら前だけでなく、後続にもしっかり当てて周りの走りを上手く妨害している。


 そして紗月は下手っぴだった。オロオロしながらコースアウト、クラッシュを繰り返し、実愛ちゃんとサーシャちゃんから周回差をつけられている。

 ゲーム自体に慣れていない手つきで、二人にボコボコにされる姿は少し不憫だった。うん、やっぱりゲームは買ってあげよう。


 結局一人でポテチ一袋をたいらげ、ゲームに夢中になる女子小学生たちを見つめる。


 改めて見ると、なんか……こう……微笑ましいなあ。社会に身を埋めていた俺には思いがけない癒しだった。だって、三人ともメッチャ可愛い。

 一応断っておくが俺はロリコンじゃない。ロリコンの気持ちは微塵も理解できない。

 幼児体型に性を感じる? うん、俺はそんなことは断じてない。

 しかしまあ、敢えて言うなら未成熟だからこそ膨らむ妄想というものは否定できない。

 この子たちが五年後、十年後どんな成長を遂げるのかを考えると楽しみでしかたない。あ、もちろん見ため的な意味でね。


 サーシャちゃんに至っては、もうほぼ完成した可愛さがあるのでこの先も天使であることは変わらないと思う。

 この中で一番伸び代があるのは実愛ちゃんだろう。ボーイッシュな見た目や雰囲気はあるが、目鼻立ちの整い方はもしかしたらサーシャちゃんよりも上かもしれない。将来はきっと凄い美人になるんだろうなあと思うと、自然に頬の筋肉が緩む。


「うわ……女子小学生みてニヤニヤしてる…………キモイ」


 そんな油断した表情を紗月に見られてしまって毒を吐かれる。そんなにニヤニヤしてたかな? キモイとか言われるの、ちょっと辛い。世のお父さんは日ごろ、こんな思いをしているのだろうか。


 しばらくすると、この空気に慣れてきた俺はさほど退屈と思わなくなっていた。


 さて、小一時間ほど経ったところで少し異変を感じる。サーシャちゃんが何やらこちらをチラチラ見ながらモゾモゾとしていて落ち着きが無い。トイレだろうか。我慢は良くない。


 すると突然、コントローラーを置いてスッと立ち上がった。


「紗月ちゃん……実愛ちゃん……ごめん、私もう我慢できない……」

「ん? トイレ? いってらっしゃーい」


 実愛ちゃんはテレビ画面を見ながら軽く手を振る。紗月は少し慣れてきたのか、真剣な表情でゲームに夢中になっている。


 立ち上がったサーシャちゃんはスーッと移動して俺の前で立ち止まった。


「あ、トイレなら廊下の左側にあるよ」


 そう言った直後、ゾクっと物凄い寒気を感じた。サーシャちゃんはとても冷たい目で俺を見下ろしている。そして、薄笑うかのようにゆっくり口角を釣り上げた。


「えっ!!!? サーシャちゃん!? 使っちゃダメ!!!」


 こちらの異変に気付いた実愛ちゃんがコントローラーを投げ捨て叫ぶ。しかし、それに構う事なくサーシャちゃんの口は開かれた。



顕現せし新世界の扉エクスタシーヘブンズドア



「は!!!!??」


 その瞬間、突然身体が重くなり、身動き一つとれなくなった。なんだ……コレ? 一体何が起こったんだ……


「這いつくばりなさい」


 サーシャちゃんが冷たく言い放つと同時に俺の身体も反射的に動く。気付くと俺は、自分の意志とは関係なしに四つん這いの形になっていた。


「ふふふ。やっぱり、この光景はたまらないわあ」


 今までの控えめな感じとは違い、生き生きとした口調の声でサーシャちゃんは言った。

 そして――そのまま俺の後頭部を大股で勢いよく踏みつける。

 俺は抵抗しようとするも、身体の自由が利かない。ろくに声を張り上げることすらままならなかった。


「ほら、見上げれば小学生のパンツが見えるわよ。どう? 見たい? 今日は大人っぽくあかのレースを履いてきてるの」


 サーシャちゃんはひらひらワンピースの裾を広げて挑発してくる。


 何!? 紅のレースだと!? 小学生のパンツにそんな贅沢なものが存在するのか!? いや、俺はそんなものは見たくない……わけじゃないけど、後頭部を踏みつけられているので見ることが出来ない。今の俺は床しか見えないし、もうちょっとでキスしてしまいそうな距離だった。


「ちょ……ちょっと……コレ……どういうこと?」


 紗月の困惑したような声が聞こえる。その表情は俺からは見て取れない。


「これはね……特殊結界『顕現せし新世界の扉エクスタシーヘブンズドア』よ!」

「特殊結界!? ちょっと実愛ちゃん何言ってるの!?」

「特殊結界はね、術者の心情風景をカタチにし、現実に浸食させて形成する結界のことよ。サーシャちゃんの特殊結界は、全ての男性を下僕にする効果を持つわ」

「いやいや、なんか真顔で語ってるけどちょっと意味分かんない」

「くっ……私が付いていたのにこんなことになるなんてっ……」


 俺の視界の外で、真剣なんだかコントなんだか分からない会話が繰り広げられる。いや、とりあえず君たち、この状況なんとかしてくれねえかな。


「サーシャちゃん……大人しい子だと思ってたのに、こんな一面があったなんて……」


 少し残念そうな声で紗月は言う。なんだかんだでお前も結構冷静だな。


「サーシャちゃんはお母さんがロシア人なんだけどね。サーシャちゃんの家系の女性は代々――」

「も、もしかして魔術師……なの……?」

「いいえ――――超ドSなのよ!」

「うん! そんなんだろうと思った! あんまり聞きたくなかったけど!!」

「残念だけど……今の私たちに出来ることは……何も無いわ……」

「そ、そうなんだ……」


 いや、何も無くはないだろ。とりあえず力ずくでいいからサーシャちゃん引っぺがしてくれよ。身動きとれないけど痛みは感じるんだよ。とりあえず首がメッチャ痛い。早く助けて。


「ちょっとゲームも疲れたから休憩しようか? 紗月ちゃん、このお菓子食べて良い?」

「あ、ジュースも飲む? コップ持ってくるね」


 俺とサーシャちゃんを余所にお菓子休憩を始める二人。助ける気はさらさらないようだ。


 実は今、俺を踏みつけるサーシャちゃんの足に捻りが加えられ、俺の頭をグリグリし始めている。痛いっていうか、ここだけハゲないか心配になった。


「ああっ――いつもの七つ道具を持っていれば、もっと良い躾が出来るのにっ――」


 危ない発言を口走るサーシャちゃん。躾とか言っちゃってるし、こんなんで済んでいるのはマシだと思った方が良さそうだ。


「ていうかさ、サーシャちゃんほっといて大丈夫なの?」

「うん、大丈夫。十分くらいすれば我に帰るから」


 紗月と実愛ちゃんはお菓子を食べながら談笑を始める。


 え……? あと十分はこのままなの? 耐えられそうにもないんだけど。


「実愛ちゃんはサーシャちゃんの……特殊結界……だっけ? 知ってたんだ?」


「んー? 私だけじゃなくてクラスの皆知ってるよー。本当はうちの担任、最初は男の先生だったんだよね。でも、新学期早々サーシャちゃんがブレイクしちゃったから、すぐに今の早川先生に変えられちゃったんだよ。あ、あと特殊結界なんて存在しないから信じないでね」


「え!? なんかソレっぽく語ってたけど嘘だったの? じゃああの状況は一体……?」


「普段の大人しい姿とのギャップでなんか男性の本能をくすぐるものがあるんじゃない? よく分からないけど。サーシャちゃんがドSってのは見ての通りだし、なんか本当に不思議な力があるのかもねー。私が否定してるのは特殊結界の存在だけだから。アレは深夜アニメの影響を受けた私が、カッコいいからという理由で名付けた。本人も結構気に入ってるみたいだし、まあいいかなーって」


「お前が名付けたのかよ。厨二病か」

「う~ん……まだ小学生だから中二の気持ちは分からないよね!」


 楽しい楽しいおしゃべりが笑い声と共に、淡々と紡がれていく。


 今一度思い出して欲しい。この状況を。


 楽しいおしゃべりをする二人の傍ら、大の大人が女子小学生に後頭部を踏みつけられている。そして、その踏みつけている本人は息を荒くして、今にもトリップでもしてしまいそうな状態だ。これって第三者から見たらどう思うんだろうな。

 もう、いちいちツッコミを入れるのも疲れたので、ただただ早くこの状況が終わる事を願うばかりだ。


「はっ!! 私……また、やっちゃった…………?」


 と言うサーシャちゃんの声と共に俺の身体が軽くなる。頭から足が退けられ、呪縛の様な状況から解放された。痛む首を押さえながらゆっくり身体を起こす。背骨がバキバキ鳴った。


「ご、ごめんなさいごめんなさい……悪気は無いんですぅ……」


 涙目で懇願するサーシャちゃんを見て咎める気を無くす。いや、最初からそんなつもりはなかったが、少しだけ文句は言いたかったかもしれない。


「大丈夫だから気にしなくていいよ。でも…………もうやらないでね」

 出来るだけ優しい口調で言葉を掛ける。


「ううぅ~~……ありがとうございます……気を付けますぅ」


 萎縮して小動物の様に小さくなる姿はやっぱり可愛い。サーシャちゃんマジ天……いやいや、きっとこうやって皆騙されるんだろうな。


 まあ、本当に悪気はなかったのだろう。というか、そう思わないとやってらんない。


 どちらかと言えば、俺を放置した二人にこそ文句を言いたかった。だって、まだ俺が解放されたことに気付かずにおしゃべりを続けているんだぜ。

 少しだけ睨みつけるように二人の方を見る。するとこちらに気付いた実愛ちゃんが軽く手を挙げた。


「あ! サーシャちゃんお帰り~。こっち来てお菓子一緒に食べよー」


 サーシャちゃんが二人の輪に加わり、三人でおしゃべりを始めた。三人とも、さっきの状況が無かったかのように楽しそうにしている。


 そんな様子を見て、俺は溜息を吐き苦笑いをした。


 まあ、なんだ。結果としてこういう風に振舞ってくれた方が良かったのだろう。変に引きづらず、それほど後味は悪くない。俺の首の痛みだけが、未だにズキズキと音を立てている。


 それだけならそれでいい――そう思っておくことにした。


 あ、あと一つだけ付け加えておこう。俺は今回の事で新しい世界の扉は開いていない。

 やっぱりこういう気持ちは理解に苦しむ。そう思った瞬間、同僚の顔が脳裏を過ぎった。漆原、お前の気持ちが分からねえって言ってるんだよ。



 そして時間は過ぎ、陽が落ちる前に二人が帰宅することになった。


「今日はご迷惑をお掛けして大変失礼しました」


 玄関先でサーシャちゃんが丁寧に深く頭を下げる。


「いやいや、気にしないで」


 俺の軽い否定にも紗月と実愛ちゃんはイタズラに突っ込まなかった。意図して気を使ってくれていたのかもしれないと思う。


「んじゃ、紗月ちゃん貴大さん、また明日!」

「は? 明日も来るのかよ?」

「え? 明日は運動会だけど……貴大さん聞いてないの?」

「いや、聞いてないな……」


 紗月の方を見ると、フイっと視線を逃がした。


「なんで黙ってたんだよ?」

「だって……なんか恥ずかしいし……」

「恥ずかしいって……ちゃんと見に行くからな」

「うええ~~」


 紗月は心底嫌そうな表情を浮かべる。何がそんなに恥ずかしいんだ? ブルマはもう存在しないはずだが。


「そうだ! 運動会なら明日は弁当持って行かなくちゃいけないんだろ? 準備してあるのか?」


「あ、お弁当なら大丈夫ですよ」


 それに実愛ちゃんが割って入る。


「え? 大丈夫ってどういうこと?」


「男の人の家だと朝からお弁当作るの大変だろうからって、うちのお母さんが紗月ちゃんと貴大さんの分も用意してくれてるんです。紗月ちゃんには言ってあるんだけど……その様子じゃそれも聞いてないみたいですね」


 そんな大事な話も聞いていない。キッと紗月を睨みつけるが、顔を背け、目を合わせない姿勢を貫いている。


「もうこの時間だと材料も準備してあるだろうし、今回はお言葉に甘えるとするか……申し訳ないけどお母さんによろしく言っておいてよ」


「はい! 明日ちゃんとお母さん紹介しますね! 私のお母さん、ちょ~~~美人だから期待していいですよ!!」


 そう言って実愛ちゃんとサーシャちゃんは手を振って帰って行った。



 実愛ちゃんのお母さんは美人なのか。あの顔立ちの良さを考えると、きっと実愛ちゃんは母親似なのだろう。だとすると、美人のお母さんに期待が膨らむ。


 あれ……? なんか少し誰かに似ているような……


 いやいや、そんなことはあり得ない。俺はふっと思い浮かんだ人物を、首を振って頭の外に追いやった。



 ***



「ただいまー」

「あら、実愛。おかえりなさい」


 実愛はリュックサックを下ろし、母が居るキッチンへ向かう。


「今日の夕ご飯は何?」

「あ、お弁当づくりに夢中になっていて夕飯の準備まだだったわ。悪いけど残り物でいいかしら?」

「うえ~、まあ仕方ないかあ」


 実愛はソファーに寝転がりテレビを付ける。


「そういえばどうだったの?」


 母はだらしない姿の娘に声を掛ける。


「どうだったって……もう、お母さん分かってるんでしょ? 間違いなくお母さんの言った人だったよ」


「そう……私の事、気付かれてないかしら?」


「大丈夫だと思うよ。多分、今日は別の事で頭が一杯だろうし……」


「ならいいんだけど……」


「明日、お母さん紹介するから楽しみにしといてって言っといたー」


「ふふ、私も橘君の驚く顔を見るのが楽しみだわ」




 皆藤実愛の母、皆藤静流はそう言ってイタズラな笑みを浮かべた。

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