第1話 奇跡的な運命の出会い。
社員食堂にて、今日も今日とて漆原と男二人で昼食を摂る。いつも通りといえばいつも通りで、この状況自体になんら変わりはない。
ただ、今日はそんないつも通りの状況であれど、全くいつも通りかと聞かれれば実はそんなことはなかった。
回りくどい言い方になってしまったが、端的に言って漆原の様子がおかしい。この昼食時に様子が変わったというわけではなく、おかしいと感じたのは出社してからずっとだった。
とにかくいつもの元気がない。仕事中もどこか集中力に欠けていて、ボーっとしていたと思えば、事あるごとに深い溜息を吐いている姿が何度も見受けられた。
悩み事でもあるのだろうか。いや、きっとあるんだろう。そんなのは漆原の様子から見ても明らかだ。
紗月の一件で、俺は漆原にも心配を掛けたし気を遣わせた。奢ってもらった穴場の店も本当に美味しかった。漆原にも返すべき恩は沢山ある。
しかし俺は、様子がおかしい漆原の事が心配にはなったけれども、あえてその理由を聞こうとは思わなかった。
だって、絶対面倒臭い内容だ。
迂闊に足を踏み込んではいけない領域。
恩義があるからと言って、親身に相談にでも乗ってみろ。もう後戻り出来ねえからな。
漆原との付き合いはまだ二年に満たない。それでも、この短い期間にでも彼について分かった事がいくつかある。そのひとつとして、漆原がこういう雰囲気を醸し出している時は、決まって性癖的ななにかだ。
思い出したくないので内容は割愛するが、俺は過去にその事で失敗したことがある。
もうあんな店には二度と入りたくない……
つまり触らぬ神に祟りなし。漆原には悪いが、ここは見なかったことにしてやり過ごさせてもらおう。
そう思いながら無言で回鍋肉定食を食べていると、思いつめたような表情の漆原が口を開いた。
「なあ、橘。聞いてくれよ……実は俺……奇跡的な運命の出会いを果たしたんだ」
「なんだ、お前の話だったのか。出オチ感ハンパねーな」
俺は何に対してか分からないツッコミを入れる。
「先日行われた紗月ちゃんの誕生日会…………あそこに居たハーフの金髪美少女は何者だ?」
先ほどの思いつめた表情とは違って、漆原の顔は真剣だった。内心激しく動揺するも、それを悟られぬよう、俺は冷静に答えた。
「サーシャちゃん。ただの天使だ」
「そう、天使だ。幼さをさらに引き立てる様な可憐な容姿は、そう表現しても全く劣ることはない。しかし――本当にそれだけだろうか!? あの子にはまだ、隠されたなにかが眠っているのではないかと俺は思う!! なあ……橘……お前、そこんとこ何か知ってることはないか?」
「全く心当たりがないな」
「そうか……それは非常に残念だ……しかし、俺の感性は激しくあの子から何かを感じ取っているんだ!! クソっ!! あの子のことを考えると昂ぶるこの感情が抑えきれないっ――」
漆原は悔しそうに奥歯を噛みしめながらテーブルを見つめる。全く手付かずのきつねうどんが完全に伸び伸びになっていた。
まあ、なんだ。同期とは言え、ここは正直に言わせて欲しい。
コイツマジきめええええええええええええええええええ!!!!!!
漆原は自他共に認める超ドMっていうのは周知の事実ではあるけども、話の流れから察するにサーシャちゃんのドSっぷりを感じとったってことだよね。
先日、ってか昨日の紗月の誕生日会。集まったメンツと流れる空気からして、さすがにサーシャちゃんはずっと大人しかったんだよね。ドSの片鱗すら見せることは無かったし、それを感じ取れる要素も皆無だったはず。
なのにコイツマジでなんなの!? 感性というか第六感的なアレか?
なんにしても普通じゃねえ。いや、普通じゃないのは知っていたけど、ここまでくるとさすがに常軌を逸している。
今になって思うと、漆原とサーシャちゃんを会わせてしまったのは失敗だった。しかし、こんな展開になるなんて微塵も思っていなかったので後の祭りである。俺はただ……皆に紗月の事を祝福して欲しかっただけなのに……
いやいやいや、ダメだダメだ。これ以上考えるな。そして何も知らなかった振りをしてこのままやり過ごそう。
俺は気付かれない程度に食べる速度を上げ、食事が片付くと手を合わせた。一方、漆原の方は、未だうどんに手をつけていない。そんなに深刻なことか? いいから早く飯食えよ。
「橘…………もう一度……あの子に合わせてもらうことは出来ないだろうか……」
「それは難しいな……サーシャちゃんは近日中にお母さんの実家であるロシアに行ってしまうらしいんだ。帰国はいつになるか分からない。だからもう……会うことは難しいだろう」
「それは本当か? サーシャちゃんを俺に会わせたくないから適当な事を言ってるんじゃないだろうな?」
漆原は訝しげな表情で俺を見る。
もちろん真っ赤な嘘で、全くその通りなんだけどさ。なんていうか、それを察する嗅覚と、サーシャちゃんに会いたい執着が凄まじく気持ち悪い。
ていうか、俺が会わせたくないっていう考えに至ることが分かってんなら、もうちょっと遠慮しろや。
「残念だけど紛れもない事実だ……お前には辛いだろうが、サーシャちゃんのことは諦めるしかないだろう」
「クソっ……! そんな現実……受け入れられるわけがないっ……! それに、この話が嘘だったら、俺は橘の事を簡単には許せそうにもない……」
漆原は本当に悔しそうに、食堂のテーブルをドンドン叩いた。
いやいや、お前どんだけだよ!! そして俺のこと疑り過ぎじゃね?
「ていうかお前、相当サーシャちゃんにご執心のようだが、皆藤主任に関心はなくなったのか?」
そういえば最近、漆原から皆藤主任に関する話題が出ていない。まあ、俺はここ一カ月ほど目も当てられないような落ち込みようだったので、そんな俺に対して出す話題ではなかっただろう。
しかし漆原の場合……言わずもがな。ヒートアップした時の周りの状況なんてお構いなしだ。今の状況がそれを物語っている。
俺の落ち込み方が酷過ぎてさすがに気を遣われたか……それとも俺の耳に入っていかなかっただけか。どちらにせよ、俺が立ち直った後にすら何もないのは、今までの漆原からは少し考えられなかった。
「皆藤主任……そんな女もいたなあ……」
ゆっくり顔を上げた漆原は遠い目で呟く。
「今もいるよ。いなくなってねーよ。元カノでもないクセに過去の女扱いするな」
「いや……俺にとってはもう、過去の女なんだよ……色褪せてしまって、あの頃の輝きが感じられない……」
「ソレ、30手前の女性に言ったら社会的に抹消されるからな」
それはさておき、漆原のこの反応は少し気になった。話の流れ的に、漆原自身ではなく皆藤主任の方に変化があったということだろう。
皆藤主任……何か変わったのだろうか? 色褪せた……? 俺には特に何も変わらないようにも思うが。
「皆藤主任、なんかあったのか?」
俺は自然と漆原に聞いてしまっていた。
「はあ? 橘……お前、本当に分からないで聞いてるのか?」
漆原は今日一番、ムカつく顔で言う。
「分からね―から聞いてんだ。いい加減、いちいち面倒くさい反応されると殴りたくなってくるんだが」
「ちょっと待て。俺は男に殴られて悦ぶような趣味はない」
「そういう話をしてるんじゃねーんだよ! いいから皆藤主任になにかあったのかさっさと話せ!」
「ああ……いや、お前も気付いてるもんだと思ってたけどな。だってここ最近、皆藤主任にビクビクしなくなってんだろ?」
「あ、ああ…………まあ、それは……そうかもしれないが……」
俺の場合、皆藤主任に怯えなくなったのは、別の顔を知ってしまったという経緯がある。我が子を守る母親としての姿。でもそれは、俺の見方が変わったという話で、皆藤主任に変化はないはずだ。
「だから、そういうことだよ」
漆原はさも当たり前のように言葉を続ける。
「いや……悪い。全然分かんねえ……」
俺の理解力の問題だろうか。漆原が言わんとしていることがまるで理解が出来ない。
そんな俺を見て、漆原は「ふう、やれやれ」とでも言いたげな態度で話し始めた。
「実際は微々たるものなのかもしれないが、俺の中ではその変化は明らかだ。十二月に入る前くらいからだと思うが、雰囲気が全然違う。こう……なんていうのか、物腰が柔らかくなったと言うのか、張りつめていた緊張感みたいなものを感じなくなった。あまつさえ、母性のようなものすら感じる。俺はまだ見たことはないが、少しだけ微笑むような表情を見たことがあるやつもいるらしい。どれも今までの皆藤主任からは考えられないことだ!」
「へえ……そうなんだ……」
母性という単語に思わず反応してしまうが、それだけで皆藤主任が母親であることを感じ取ったわけではないだろう。雰囲気だけでそれを察することが出来るほど、漆原の感性は研ぎ澄まされてはいないはずだ。いや……割と近い領域にあるのかもしれないが……そう思うとコイツマジで何なの?
しかし、振返ってみても、俺は皆藤主任にそのような変化は感じられない。
それと同時にふと思う。
漆原が感じた、変わったと言う皆藤主任の印象。これは、俺が皆藤主任の別の顔を知った事によって変わってしまった印象とほぼ同じものだった。
つまり、俺の皆藤主任に対する印象と、周りが感じる皆藤主任の印象が平行移動したということなのかもしれない。だから俺には何も変わったように感じない。
この考えが正しければ、漆原の言った事を肯定することになるのが少し癪だった。何故か素直に認める気になれない。
まあ、要約すると皆藤主任の職場での印象が和らいでいるということなんだろう。それでも依然としてクールビューティのイメージが崩れることはないが、微笑むような表情を見せるというのはかなりガードが甘くなっているようにも感じる。
一体、皆藤主任の心境にどんな変化があったというのだろうか。
「あれは絶対男だな」
「あ? 皆藤主任のことか?」
「そうだ。皆藤主任から男の匂いをプンプン感じる。まさに恋する乙女といった感じだ。そんなの……俺の皆藤主任じゃない!!」
「いや……お前のじゃねえし、上司を何だと思ってるんだよ……」
「女王様」
「ホントに何だと思ってるんだよ!!」
ふざけるのも大概にして欲しいが、コイツの場合真剣だから性質が悪い。
しかし皆藤主任に男……ねえ……さすがにコレは漆原のアテが外れている気がするが、これでなんとなく今回の話の筋が見えてきたぞ。
「だからもう……俺は皆藤主任を切り捨てたんだっ! しかし、そんな刺激がなくなってしまった日々に天使が舞い降りた……そう――サーシャちゃんだ。
だから頼む橘!! もう一度サーシャちゃんに会わせてくれ!!」
切り捨てたとかどの口が言ってるんだという感じだが、つまりはこういうことなんだろう。
というか話がまた戻ってきてしまったな。完全に一周回ってきちゃたよ。
いい感じに話を逸らしたと思ったんだけどな。これ以上は本当に面倒だからさっさと切り上げてしまおう。
「漆原…………その話は終わりだ。皆藤主任から切り替えることが出来たお前だ。サーシャちゃんの事も諦めることは出来るだろ」
「クソっ…………慈悲はないのかっ……」
言ってしまえば、別に漆原とサーシャちゃんを会わせられない理由はこれと言ってない。むしろ漆原の様な存在は、サーシャちゃんにとっては大歓迎だろう。
いや、でも小学生と社会人だしなあ……色々モラルに問題がある気がする。
というか会わせるにしたって、その仲介はどうせ俺がやるんだろ? 正直関わりたくないんだよ。マジで面倒くさいし。
だから適当な嘘で誤魔化してこの話を終わりにするつもりだったんだが、どうもそういうわけにはいかないらしい。その執着心はどこからくるのやら……
「じゃあ先に戻ってるからな」
そう漆原に声を掛けると、俺は空になった食器の乗ったトレーを持って立ち上がる。
漆原は俺の声掛けには反応せず、テーブルに肘をついてうな垂れているだけだった。
デスクに一人で戻ると、相変わらずぼっちの昼食の松永が不思議そうな顔で俺を見て言った。
「あれえ? 一人ですか? いつもの同僚の人はどうしたんです?」
「漆原は……傷心中だ」
「へえ……あの人でも傷心することがあるんですね。意外です」
「くだらない理由だから気にすることはないぞ」
「まあ、そうでしょうね。理由は昨日のとびきり可愛かったハーフ小学生といったところでしょうか」
「……なんでそう思った?」
松永は性格に難はあるが、能力自体は非常に高い。時折仕事でも的確に手厳しい意見を言うことが多々ある。一番下っ端のクセして目上に意見するもんだから、結局俺が間に入って取り持つことが俺の仕事の一つにもなっていた。
いや……俺も底辺に近い下っ端だから意見を通すと言うか、松永を宥めるという損な役回りなんだよな。一体どうしてこうなった。
そんな松永が、漆原の現状を一発で見抜いた理由は気になるところだった。
「え~~? だって、あの人ずーーーっとそのハーフの子ばっかり見てるんですもん。引くくらいの気持ち悪い顔で。あー、ついにロリに走り始めたかーこの人ももう終わりだなーと思ってましたけどね」
「そうなのか……やっぱりアイツは呼ぶべきじゃなかったのかもしれないな」
「確かにハーフの子、めちゃくちゃ可愛かったですけどね。マジ天使。名前なんて言うんです?」
「サーシャちゃんだ。ホントに変な奴に目を付けられちゃったよな……」
「んーー? でも、サーシャちゃんもチラチラ同僚の方を気にしてたみたいですし、まんざらでもなかったのかも? 辞めておいたほうがいいと思いますけどねえ」
「…………マジか?」
「マジです」
俺は深い溜息を吐き、肩を落とす。きっとこの話はまだ終わりじゃない予感しかしない。
休憩時間も気付けば終わりになっていたので、俺は仕方なく仕事に取り掛かる。ちなみに漆原はまだ帰ってきていない。あんな奴、放っておけばいい。
「ところで先輩。昨日、なんで皆藤主任を誘わなかったんですか?」
「いや……なんでって…………紗月と接点ないから当然だろ」
誘ったけど断られたなんて言えなくて、寸でのところでなんとか誤魔化す。しかし、なんでこの流れで皆藤主任の話が出てくるんだ?
「そうですか。そうですよね」
松永は微妙に納得していないような表情で返す。
「なんだよ……」
「いえ、なんでもないです。忘れて下さい」
そう言って松永は、自身のパソコンと睨めっこを始めた。
なんだコイツ……もしかして皆藤主任の秘密に気付いたんじゃないだろうな……
さっきの口ぶりからして、松永は周りをかなり観察している節がある。昨日顔を合わせた実愛ちゃんから、皆藤主任の面影を感じ取ったって可能性は十分にあり得る話だ。
いや……しかし、感じとったところで、それを確定的に結び付けるのは難しいだろう。あっても疑惑程度に違いない。
ならば俺は、出来るだけボロを出さないように立ちまわれば問題はないだろう。
チラリと横目で松永の方を見た。黙々と作業を続ける姿は、幼い見た目と反してなかなかサマになっている。
まあ……やれば出来る子なんだよな、松永は……
皆藤主任の件、杞憂に終わればいいが……当面は油断しない方が良さそうだ……
一日の仕事を終え、妙な疲労感を抱えたまま帰路に着く。
帰宅して玄関の扉を開けると、いつもより靴が一足多かった。紗月と同じくらいのサイズの女の子用の靴。実愛ちゃんが遊びに来ているのだろうか。もう十九時手前で外は完全に暗くなっている。いい加減帰った方がいいだろう。
リビングのドアを開ける。するとソファーに紗月とサーシャちゃんが座っていた。サーシャちゃんは俯き加減でどことなく表情が暗い。
紗月は俺に気付くと近寄ってきて小声で言った。
「おかえりなさい……実は……サーシャちゃん、どうしても貴大に話があるって……帰ってくるまで待ってるって……」
「………………そうか」
「何の話か聞いても教えてくれなくて……何か真剣な悩みみたいなんだけど……」
紗月はサーシャちゃんを心配そうに見る。
「サーシャちゃん来てるなら、メールの一本でも送ってくれれば良かったのに」
「あ、そっか。まだ持ってることに慣れなくて部屋に置きっぱなしだ」
紗月の誕生日プレゼントとして俺が渡したものはジュニアスマホ。普通のスマホを子供用に利用制限をかけたものだ。契約プランはもちろん家族割りな。
家に電話回線引いてないし、緊急時など連絡がとれないのはなにかと都合が悪い。小学生の紗月にはまだ早いのかとずっと悩んでいたが、今回プレゼントとという形で渡すことにした。
「サーシャちゃん……大丈夫かなあ……」
「大丈夫だよ。大したことじゃない」
紗月に優しくそう言って、俺はゆっくりサーシャちゃんの前に立った。
「サーシャちゃん、何が言いたいかは大体想像がつく。ここは…………考え直してはくれないだろうか……」
「ダメなんです……もう、頭の中……そのことばっかりで……」
サーシャちゃんは俯いたまま顔を上げない。視線を合わせるように、俺は姿勢を屈めた。
「一時の感情に身を任すのは、サーシャちゃんのためにならないと思うんだ……だから今後の事も考えて、ここはグッと堪えてもらいないかな?」
俺はそう言いながら優しくサーシャちゃんに微笑みかける。
「分かってます…………でも……もう我慢できないっ!」
「うん。そこをなんとか…………ね」
サーシャちゃんはゆっくり顔を起こす。その表情は今にも泣き出しそうだった。
「え!!? ちょっと待って!! 二人ともなんの話をしてるの!?」
話についていけない紗月が、見つめ合う俺たちを見て声を上げる。
するとサーシャちゃんは、意を決したように急に立ち上がった。
「貴大さん! お願いです! 昨日の豚っ気満々のクソゴミ虫みたいな男の人の顔をボロ雑巾のように踏ませて下さい!!」
「会わせてくれとかじゃなくてもう踏む前提なんだ!? 凄いこと言ってるけど俺にお願いする内容じゃないよね!!?」
許可は下りると思うが、一応そういうことは本人にお願いしてもらいたい。
「踏ませて下さい!!」
「いやいやいや。ていうか頭じゃなくて顔なんだ?」
「顔面です!!」
「容赦ねーな……」
いや……まあ、もしかしたらサーシャちゃんからも、なにかしろのアプローチがあるかもしれないとは思っていたが……まさかこんなにも早く直接的にくるとは思ってもいなかった。
「ていうかサーシャちゃん……なんでそんなにアイツの顔面踏みたいと思ったのかな?」
「だってあの人、絶対踏まれるのとか好きそうですもん。昨日もずっと踏んでくれって顔してましたもん」
「あーー…………そういうの直感で分かっちゃう感じ?」
「求めあうものは、磁石の様に自然と引かれ合うものなんです。まさにS極とM極なんです」
サーシャちゃんは真剣な表情で言う。
「へえ……そういうものなんだ…………」
「磁石はS極とN極でしょ……なんで貴大まで素直に受け入れちゃってるの……」
話の流れに紗月がツッコミを入れる。
「あ、そうか。いや……なんか頭ん中の整理が追いつかん」
というか、心底どーでもいいという投げやりな態度になっているからだと思う。
「サーシャちゃんの話ってそういうことだったんだ……だから私に話したがらなかったんだね……」
寂しそうな表情で紗月は言う。
「うん。だって紗月ちゃんに言ったら、友達辞められちゃうと思って……」
「別に友達辞めないけど、こんな遅くまで貴大待ってるのは却下だったよね。そんでもって結局全部バレてるし、むしろ隠す気すら全く感じられないのはサーシャちゃんは私と友達辞めたかったのかな?」
紗月にしては珍しく友達に向かって怒りの感情を顕わにする。まあ、本気で心配した挙句、出てきた話がコレだと怒りたくなる気持ちは良く分かる。俺もそれで何度漆原に裏切られたことか……
「私はね……あの人の顔を踏めるなら、他の全てをも投げ捨てる覚悟だよ!!」
サーシャちゃんは声を高らかに力強く拳を握った。
「ごめん貴大。この手のサーシャちゃんに耐性ないから、どうしていいか分かんない……」
「俺も分からねーよ……実愛ちゃんに助けを求めるか?」
今のサーシャちゃんは、完全にブレーキが利かなくなっているから漆原より性質が悪い。放置しておけばまた十分ほどで落ち着くのだろうか?
しかし前回の俺の時と違って、今のサーシャちゃんには欲求が解放されることがない。むしろフラストレーションが溜まる一方だ。そんな状態が時間経過だけで落ち着くとは考えにくい。
ならば、その欲求を解放させてあげるのが一番良い改善方法だろう。
ここはひとつ、俺が人柱になって…………っていうのはナシだな。断固拒否。
かといって、この場を収めるいい案がまるで思い付かない。
「サーシャちゃんの気持ちは良く分かった。でも、今日は遅いからもう帰ろ?」
「じゃあいつ踏ませてもらえるんですか!? それが確定するまで私は帰りません!」
「次の日曜までには話つけとくからさ。だからもう帰ろ?」
「そんなに先延ばしにすると……いつ爆発するか分かりませんよ? 主に学校とかで」
「それは怖い」
ほら見たことか。先延ばし案も通用しない。
となると…………残された手は一つしかない。不本意ではあるが、この場合は仕方がないだろう。
俺がポケットのスマホに手を伸ばすと、ピンポーンとチャイムが鳴った。
ピンポピンピンピンポピンポピンポピンピンポピンポーン
連打するなよ! うるせーな! これだけで誰が来たのか察しがついたわ!
俺は急ぎ足で玄関へ向かう。玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは漆原だった。
「橘!! やっぱり俺、諦めることが出来ない!!」
ここまで走ってきたのか、息切れ切れに漆原は言った。
それを言うためにわざわざ家までやってきた執着心と行動力に畏怖すら感じるが、今日のところは少し多めに見てやろう。
「漆原……ちょうどお前を呼ぼうと思っていたところだ」
「は? なんでだよ?」
「いいから上がれよ」
俺は漆原を招き入れる。リビングに通すと感動の御対面が待っていた。
「お……おお!! マイエンジェルサーシャちゃん!!!!」
いや、お前のじゃねーけどな。漆原は両手を大きく広げて悦びを表現する。
「スヴィニヤー……」
サーシャちゃんはそんな漆原を見て小さく呟いた。
「サーシャちゃんなんて? って紗月に聞いても分からんか」
「私コレ知ってる……サーシャちゃんが一部の男の先生に対して使う呼び方だよ……」
「意味は?」
「ロシア語で豚」
「……なるほど」
サーシャちゃんと漆原は向かい合い、お互いウズウズしだす。ウズウズという擬音が、本当に音として聞こえてしまえそうなくらい全身が小刻みに揺れていた。
「まあ、お互い抑えきれない気持ちがあるとは思うが、まずは話からだ。とりあえず二人とも椅子に座ろうか」
俺に言われるがまま、二人は向き合う形で席に着いた。
「と、とりあえず改めて自己紹介からかな。俺の名前はうる――――」
「あ、豚に名前は必要ないので結構です」
漆原の自己紹介は、差し出されたサーシャちゃんの掌によって遮られる。
「くっ…………豚か……やはり思った通りだ!! いいねえ!! その感じ!!」
「気に入ってもらえて光栄です」
「ところでサーシャちゃん。単刀直入に聞くけど、もしかして人を叩いたりするの好きかな?」
「私は叩くよりも踏みつける方が好みです」
サーシャちゃんはニヤリと不敵に笑う。
「くううぅぅ……昂ぶってきたあ! なあ、橘!! ちょっと上半身だけ脱いでも構わないだろうか!?」
「構うよ。踏まれる流れなのに、服脱ぐ必要は全くないだろ。訳の分からないこと言ってるとハッ倒すぞ」
「え!!? もうハッ倒してもいいんですか!!?」
「サーシャちゃんはもう少し落ち着いて。頼むから」
いやしかし……実際この二人を会わせてみたところで、どう収拾をつけていいか悩むところだ。
紗月の目もあるし、あまり過激な展開にはしたくないところだが……
そういえばふと気付くと、先ほどまでソファーに腰かけていた紗月の姿が見当たらない。自室に戻ったのだろうか。だとしたらそれは賢い選択肢だと思うが……
ぐるりと一周見回すと、紗月はキッチンにいた。立ったまま、お茶碗の中の物を啜っている。そんな姿を少しばかり見ていると、紗月とバッチリ目が合った。
「あ、サーシャちゃんが居たからご飯の準備してないんだよね。さすがにちょっとお腹空いてきたからお茶漬け食べてる。私にお構いなくどうぞ」
そう言って、紗月は再びお茶漬けを啜り始めた。
そりゃそうだ。時刻はもう二十時を回ろうとしている。そう言われると俺もお腹空いてきたな……飯も食わないで何をやっているんだろうか。
いや、実際の問題は飯の話じゃない。その時間だ。
ソファーの脇にはコートとランドセルが置かれていて、これは紗月のものではない。サーシャちゃんのものだと思うが、だとすると家に帰らずに学校から直接来たということになる。
小学三年生の女の子が、二十時近くまで親に連絡もせずに帰宅しないというのは非常にマズイ。最悪、警察沙汰の大ごとになりかねない。そう思うと、今さらだが焦りを感じる。
「サーシャちゃん。ここに来ていることは親御さん知っているのかな?」
「え……? 知らないと思いますけど、いつになったら踏ませてもらえるんですか?」
うん。サーシャちゃんの頭の中はそのことで一杯だな。
こんなやり取りの中でも、無情にも時間は過ぎていく。これは早くなんとかしなければならない。
「サーシャちゃんはコイツのこと踏んだら家に帰る?」
「はい。満足したら帰ります」
「よし、漆原。さっさと踏まれろ」
「任せろ!!」
漆原は、ヘッドスライディングするようにリビングへうつ伏せになる。
「違う。逆」
サーシャちゃんは乱暴に漆原の脇腹を蹴り飛ばした。
「おおぅ? 逆? こうかな?」
漆原は蹴り飛ばされた事を気にする様子もなく、ゴロンと寝返って仰向けになる。
「ぷぎっ」
サーシャちゃんは踏んだ。なんの迷いも躊躇いもなく、その足を漆原の顔面めがけて振り下ろしたのだ。
「うわ……痛そ……」
それをキッチンから覗いていた紗月が、顔を歪めながら呟く。
「ああっ――――コレ!! この感覚を待っていたのっ!!」
サーシャちゃんは恍惚の表情を浮かべ、完全に悦に浸っていた。漆原を踏みつける足も、かつて俺を踏みつけた様に捻りが加えられる。
さて、当の漆原だが、直立で仰向けになったままピクリとも動かない。死んだか? いや、目は開いているな。サーシャちゃんに顔の突起である鼻の部分をグリグリやられているが、えげつない見た目に反して反応が鈍い気がする。
目はしっかり開いているも、イマイチ視点が定まらない。残念ながら今日のサーシャちゃんは、ワンピースの下にスパッツを穿いているのでパンツを拝むことはできないだろう。
じゃあコイツは何を見て何を考えているのだろうか。それを考察したくなるほど興味を引く場面ではないのだが、どうしても漆原のこの反応に違和感を拭えない。
サーシャちゃんも漆原のこの反応に気付いたのか、表情を曇らせ、恐る恐る足を引いた。
押さえつけていた足から解放された漆原は、無表情でゆっくり上半身を起こす。
「サーシャちゃん…………どうやら俺は、君に期待し過ぎていた様だ……」
「え…………どういうことですか……?」
漆原の言葉にサーシャちゃんは一歩後ずさる。
「君はまだ幼い……いや、俺もそれは重々承知だったが、想定していたよりも軽かったんだ……そう、ウエイトがね!」
「ウエイト……!? まさか……そんな……」
「いや、驚くことではないだろう。サーシャちゃんの様に華奢な体型は、恐らく同じ学年の女の子と比較してもさらに軽い方だと思う。その軽さゆえに、圧倒的に足りないものがあるんだ。
それはパワーだ!! その若さにして、その溢れ出すSっ気は見上げたものだが、その程度の力では相手を満足させるだけの苦痛を与えられない!!
残念だけど君の想いは……俺には届かないんだよ…………」
「で、でも!! 鼻血出てますよ!! それでも足りないって言うんですか!!?」
サーシャちゃんは必死に食らいつく。
「それとこれとは話は別だ。鼻血は出るもの、これは仕方がない。サーシャちゃんは俺の鼻血が見られればいいのか!? それで満足なのか!? 違うだろう!? 俺が苦痛に顔を歪める姿が見たいんじゃないのか!? 今のはお互い目的を達成でいてない! 成立していないんだ、関係が!!」
漆原は熱く語る。俺にとっては心底どうでもいい内容だが、サーシャちゃんにはかなり堪えているようだった。いいから鼻血拭けよ。
「私は…………こんなにも未熟だったんですね……」
「ああ……今の君では不十分だ。もう少し大きくなって、立派なクイーンになったらまた、プレイをお願いしたい」
さっきから小学生に向かって遠慮なしだな。辛辣過ぎるわ。ていうか立派なクイーンってなんだよ。あとプレイって言うの辞めて。生々しいから。
俯き唇を噛みしめるサーシャちゃんをよそに、漆原は立ち上がりコートを羽織る。
「橘。悪い、邪魔したな」
「は? お、おい! 待てって!」
俺の呼び止めに応えず、漆原は静かにリビングを後にした。玄関の方から扉が閉まる音が聞こえる。
ああ……行っちゃったよ。いい台詞言った気になってスカした顔してたけど、実はまだ鼻血拭いてないからな。絶賛ダダ漏れ中っだったからね。そんな顔で外出て職質されても知らんぞ。
まあ、漆原の方はどうでもいいか。
俺は振り返り、サーシャちゃんの方へ目を向ける。
サーシャちゃんは目に涙を浮かべながら、全身が小刻みに震えていた。
「貴大さん……私……悔しいですっ!!」
「サーシャちゃん……アイツの言ったことなんて気にする事ないよ」
心の底からそう思う。というか根本的にこの話題を早く切り上げたい。時間がマジでヤバいんだって!!
サーシャちゃんは俺の言葉に首を振り、目元をグイっと勢いよく拭う。そして、キッと表情を強くした。
「私、決めました!! 絶対あの豚野郎を満足させるだけの女になって見せます!!」
大きな壁にぶつかり、己の無力さを知る。それは自身を成長させる糧になり、新たな目標となって奮起する。これは幼い少女の成長譚。俺は、彼女の想いを温かく見守っていきたい。
っていう風には思えなんだよね!! 向いてるベクトル絶対おかしいって!!
まあ、これが彼女の本来の姿であり、進むべき道を踏み外しているわけじゃなんだろうが……出来れば巻き込んで欲しくなかったところだ。
「そうと決まれば、特訓して出直してきます!!」
そう言って、サーシャちゃんは勢いよくリビングのドアを開ける。
「え!? ちょ、帰るの!!?」
「止めても無駄です!! 私は絶対諦めませんから!!」
サーシャちゃんは玄関の方へ歩き出す。
「いや……ちょっと待って! コート! あとランドセルも忘れてる!! ていうか家まで送るからホントに待って!!」
「待ちません!! 私は風になるんです!!」
サーシャちゃんは靴を履くと同時に玄関を飛び出した。
「ちょ! 待って……あ!! 紗月! 悪いけど留守番よろしく!!」
サーシャちゃんに続くように俺も玄関を飛び出す。彼女のコートとランドセルを抱えながら、颯爽と夜道を駆け巡るサーシャちゃんの後を追う。
ちょっとこのシチュエーションヤバくない? 下手すりゃ俺が職質されてもおかしくないぞ。
そんな不安を抱えながら、俺は無我夢中でサーシャちゃんの後を追い続けた。
「サーシャちゃん…………待ってえぇぇ……」
***
「…………行っちゃった」
キッチンに一人取り残された私は小さく呟く。
途中から話を聞いていなかったので、結局何がどうなったのか良く分からない。多分、知らない方が幸せだという予感がする。
寒空の下、コートも羽織らずに外に出て行った貴大は、恐らく相当身体を冷やして帰ってくるだろう。ご飯もまだ食べてないし。
帰って来た時に、温かい食べ物とお風呂を用意してあれば喜ぶに違いない。
そう思って準備をしておいたんだけど……結局、貴大が帰宅したのは、日が変わった二十四時を過ぎていた。
事の詳細は、また別の機会に語られることだろう。
まあ、大したことじゃないと思うんだけどね。
しかし……この手の話題に、私もどんどん巻き込まれていく気がしてならない。
深く考えると気が滅入る一方なので、とりあえず今は忘れることにした。
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