第2話 皆藤静流、本気の素顔。(前篇)
【プレミアムフライデー】という言葉をお忘れではないだろうか。そう、政府と経済界が個人消費を喚起するために提唱したあのキャンペーンである。
あまりの課題の多さで導入した企業は少なく、今となってはメディアも全く取り上げない。早くも死語になりつつある単語だが、実はうちの会社にはこのプレ金というものが存在する。
『月末最終金曜日は業務に支障が出ない場合のみ、十五時を定時としての退社を認める』と会社が定めている。つまり、仕事終わってるなら早く帰っていいよ、ということだ。
しかし部署ごとに特色が違うので、全社員が一斉に帰宅できるということはない。早く帰宅していいかの判断は各部署ごとに委ねられていた。
うちの部署に繁忙期は特になく、その忙しさはどちらかと言うと個人のスキルに比重が置かれる。だから頑張って仕事を片付ければ、早く退社することは可能だった。
というか、うちの部署では最終金曜のある週の月曜日は朝礼で「今週金曜日は早く退社出来るよう、全員全力で業務に取り組んで欲しい。どうかお願いします」という部長の感情の籠った挨拶がある。
早期退社の可否は部署ごとになるため、同部署内で誰かの仕事が滞っていれば帰ることは出来ない。つまり連帯責任になってしまうので、この週のオフィス内では少しピリピリした空気が流れていた。
たかが二時間早く帰るためだけに、そこまで気を張って頑張るものか? と思うだろうが、せっかく認められている制度を利用しない手はない。なにより、自分のせいで部署内迷惑を掛けるのだけは避けたいところだった。
そういった理由もあって、皆の集中力は高まり、業務の効率化は図られる結果となっている。動機は不純かもしれないが、確実にその効果は得られていた。
噂で聞いた話によると、このプレミアムフライデーにいち早く食い付いたのがうちの部長らしい。必死に社長に交渉をして、今の制度を取り入れることになったのだとか。
まあ……月末の金曜日って、ゲームのビッグタイトルの発売が多かったりするし、個人の私欲が大いに絡んでいる感は否めない。アンタが早く帰りたいだけだろ!!
例えそうだとしても、会社に利益はもたらしているし、誰も損をしていないからその功績は讃えられるべき事なんだろう。そう思うと、うちの部長は他とは少し違う。
さて、何故この話になったかと言うと、今日がまさにそのプレミアムフライデーだからだ。昼食を終え、残りの勤務時間もあと僅か。大体の社員がその仕事をほぼ片付けているため、午後になると気の抜けた緩い雰囲気がオフィス全体を包む。
俺もパソコンに向かうも、どこか集中力が欠けたまま、入力したデータのチェックをしていた。
すると一通、社内メールが届く。送り主は皆藤主任だった。
メールを開き内容を確認すると「少し話があるので、折りを見て面談室に来てください」と書かれていた。
チラッと皆藤主任のデスクを見ると目が合った。
話……とはなんだろうか。仕事の話だったらこんなやり方じゃなく、直接言いに来るだろう。かと言って予想は全くつかない。まあ、ここでは出来ない話なのだろうから、怪しまれないように俺が一足先に動いておくべきか。
俺は静かに席を立ち、オフィスの外へ出て面談室へ向かう。
ていうかやっぱり普通はこうだよな……
以前、紗月の誕生会の話をするのに、書類にメモを挟んだことが急に恥ずかしくなった。一昔前のアナログ人間かよ。メールでチョチョイ。うん、こっちの方が断然スマートだ。
一応、周りの目が無いかを気にしながら面談室の扉をノックして中に入る。誰も居なかったので、革張りのソファーに座って皆藤主任を待った。
五分ほどして扉をノックする音がする。返事をすると皆藤主任が面談室に入ってきた。
「ごめんなさい。待たせたわね」
そう言って皆藤主任は俺の向いへ座る。
「いえ、大丈夫です。それで、お話というのは?」
「それなんだけど……」
皆藤主任は俺から目線を逸らし、その視線をふわふわ泳がす。既に職場モードから私生活モードに切り替わっているようだ。その様子はなんだかモジモジしていて、職場では見られない可愛らしさが漂う。
「今晩……うちに来ないかしら……?」
「えっ!!!?」
「あっ!! 違うのよ!! 実愛が紗月ちゃんと、うちでご飯を一緒に食べたいと言うから、良かったら貴方も一緒にどうかしらと思って……」
ああ……ビックリした。そういうことか。可愛らしいとか思った直後に言われたから、なんか別の意味で捉えちゃったけど、そんなことはあり得ないか。俺と皆藤主任の間には、どうしても紗月と実愛ちゃんが絡んで来る。
「えーっと……俺もお邪魔してもいいんですか?」
「ええ、一人増えるくらい特に問題はないわ」
問題ない、と言われればここは素直にお言葉に甘えておくところだ。折角の上司の誘いを無下に断るわけにもいかない。
しかし、今朝も紗月はそんな話をしていなかったな。わざわざ隠しておく理由もないだろうし、この事を紗月は知っているのだろうか?
「紗月はその話知っているんですか?」
俺は確認のため皆藤主任に尋ねる。
「え? あ、ああ……そういえば実愛に伝えるように言い忘れたわね……紗月ちゃんには橘君から伝えてもらっていいかしら?」
なんか皆藤主任にしては抜けてる気がするがまあいいか。紗月には夕飯の準備をしなくていいよう、後でメールを送っておけばいいだろう。
「分かりました。でも、今日というのは急な気もするので、明日お邪魔するという事でもいいでしょうか?」
「ダメよ!! 今日にしなさい!!」
皆藤主任は鋭く俺を睨みつけ、声を張り上げて言う。
ええ~? いや、準備とか色々あると思ったから気を遣ったつもりだったんだが、なんか裏目に出たようだ。
「わ、分かりました……それで、何時にお伺いすればよろしいでしょうか……?」
「そうね……夕方六時過ぎに来てもらえれば大丈夫かしら」
そうか、今日はプレ金だから準備の時間はいつもより余裕があるのか。
「あ……でも俺、皆藤主任の家知らないですよ?」
「それなら紗月ちゃんが何回か遊びに来てるから知っているはずよ」
げ、マジか。休日に実愛ちゃんと遊んでいることはあったけど、家にお邪魔しているとは知らなかった。そういうことはちゃんと言えよ!
「そ、そうなんですね……いや~、はは……紗月そんな事言ってなかったから全然知らなくて……紗月は御迷惑お掛けしていなかったですかね?」
上司宅にお邪魔して何か粗相があったらいけないと思い、すかさずフォローを入れる。
「迷惑だなんてとんでない。私も一緒に遊んでもらっているから遠慮しないで」
皆藤主任は優しく微笑みながら言う。
遊んでもらってるって何!? 紗月のやつ、俺の上司に遊び相手をさせていただなんて、それこそ一大事なんだけど!
「なんか、本当にすみません……」
「ふふ、いいのよ。用件は済んだし、長居するのもアレだからそろそろ仕事に戻りましょうか」
「そうですね。じゃあ、俺先に戻ります」
そう言って俺は立ち上がり、早々に面談室を後にする。一応挙動不審にならない程度に、周囲に気を配りながらオフィスへ戻った。多分誰にも見られていないだろう。
自分のデスクに座り、残っていた仕事を片付けるためパソコンへ向かった。
先ほどの皆藤主任とのやり取りを振返ってふと思う。以前、漆原が言ったように、確かに皆藤主任の雰囲気が変わっているというのは俺も感じるものがあった。
少し前までは、俺と二人きりであろうと、職場であそこまで私生活モードを全面的に出すことはなかったと思う。口調や雰囲気は柔らかくはなっていたけれど、仕事モードは残しつつという感じだった。
俺の皆藤主任のイメージが変わった、というのを抜きにしても全体的に物腰が柔らかくなっているのは間違いないだろう。最近はピリピリ張りつめている空気も全く感じられない。
そこらへん、皆藤主任はどう自覚しているのだろうか。全く無自覚といわけではないはずだ。
どうせならこれをきっかけに、実愛ちゃんのことを周りに打ち明けても良いのではないかと思う。
皆藤主任にとっては数年間、頑なに守り続けた秘密かもしれないが、俺はそのことをあまり良いものに感じていない。
皆藤主任本来の姿を周りが知らないのはもったいない。最初はそう思っていたし、今もその意見は変わらない。しかし、今はそれとは別にもう一つ感じることがあった。
それは実愛ちゃんの事だ。
実愛ちゃん自身は、そのことについてどう感じているんだろうと思うことがある。
親が職場で自分の事を語らないどころか、その存在すらも明かしていないんだ。正直、俺がその子供だったらあまりいいイメージを持てない。
あの親子にとっては、それが既に日常的で当たり前、指摘されても今さら何言ってるんだという感じなのかもしれない。
それでも、俺は全てを打ち明けた方が絶対に良い。別に根拠はないけど、そう言いきれる自信だけはあった。
ふと皆藤主任のデスクに目をやる。
丁度、席に着いたところのようだ。時間にして俺との誤差は五分くらいか。これなら誰にも怪しまれずに済むだろう。
俺自身は情報の全面公開を望むが、やはりそれは皆藤主任の意志でなされるべきだ。俺がどうこう言える立場でもない。
皆藤主任自身が望まないならば、俺もその秘密を守り続けよう。今はそう、心に思うのだった。
「随分長いトイレでしたねえ」
隣の松永が、パソコンを見つめたままこちらに声を掛ける。
「ん? あ、ああ……ちょっと昼食べすぎたみたいだな……」
そんなに長い時間席を外したか? 皆藤主任から送られたメールの時間を確認する。そこからざっと見積もっても約二十分は離席していたようだった。確かに短い時間ではない。
「へえ、そうなんですか。それは大変でしたね。じゃあ、皆藤主任もお昼食べ過ぎてトイレに籠ってたんですかね?」
「は? なんでだよ?」
「だって、皆藤主任も同じくらいの時間、席外してましたよ」
確かに五分の誤差はあれど、その離席時間は大体同じはずだ。コイツ……目ざとくそんなところまで見ていやがるのか。
「いや、皆藤主任はトイレで席を外してたとは限らないだろ?」
俺はトイレの流れで返事を返してしまったので今さら修正が効かない。
「そうですね。私も先ほどトイレに行きましたが、誰も居ませんでした。じゃあ、一体どこに行っていたんですかねえ」
「俺に聞かれても知らねーよ」
「まあ、そうですよね。先輩に聞いた私がバカでした」
「…………」
コイツ……やっぱり俺と皆藤主任に、なにかあることを怪しんでいるような雰囲気だ。
まあ、さすがに実愛ちゃんとの関係までには辿り着けていないようだけど、ホントに気が抜けない。
「あ、そうだ。そういえば話が変わりますけど、この前来ていた紗月ちゃんのお友達。ハーフの子ともう一人いたじゃないですか。その子、なーんか誰かに似ている気がするんですよねー。誰だったかなー? 芸能人だったかなー? あ、それとも職場の人だったかな? 先輩、心当たりありません?」
「いや……別に誰かに似ているとか感じたことはないけど……」
「そうですか。先輩に聞いた私がバカでした」
「…………」
そして松永は、それ以上深く追求はしてこなかった。
おいおい! この流れで実愛ちゃんの話題振るって、疑惑のレベル超えてんじゃねーのか!? くっそ~、松永が一体どういうつもりなのかは分からないが、こちらからは詮索することも出来ない。迂闊に動いたら絶対墓穴を掘ってしまうだろう。
結構いい感じになったと思ってたのになー、紗月の誕生会。なんだかんだで、裏目に出てること多すぎるだろ!! 実は全てはそこから始まった、みたいな流れは望んでないんだよ。
皆藤主任の秘密……もしかしたらバレるのも時間の問題かもしれないな……
家から徒歩二十分。立ち並ぶマンション群の一角。そこが紗月に連れられてきた皆藤主任の自宅だった。
同じ小学校の学区内なので、たいした距離ではないとは思っていたけど、実際距離にして測るとこんな近所に住んでいたことに驚きを隠せない。
今まで偶然鉢合わせる事はなかったが、その理由としては最寄駅が違うことが挙げられるだろう。同じ路線だが、一駅違えばその行動範囲は大きく変わる。改札の位置も、この二つの駅は前方寄りと後方寄りで構造が大きく異なるため、同じ時間の電車に乗り合わせても同じ車両になりにくい。
仕事帰りのちょっとした買物だって、どうしても駅周辺の店に入ってしまう。
まあ、徒歩五分圏内の人とだって、活動時間が少しでも違えば顔を合わすことなんて滅多にないからな。二十分も離れていれば、狙ってもなかなか出会えるものではないだろう。
紗月はマンションのエントランスに入り、部屋番号を押してコールする。実愛ちゃんの「はーい、どーぞー」と言う声が聞こえ、入口の自動ドアが開いた。
そのままエレベータに乗り四階へ。406の扉の前に止まり、インターホンを押す。
カタンカタンと二回、解錠の音が聞こえ、重そうな扉がゆっくり開いた。
「紗月ちゃん、貴大さんいらっっしゃい! 上がって上がって!」
顔を出した実愛ちゃんが俺達二人を招き入れる。
「おじゃましまーす」と慣れた感じで紗月は早々に玄関に上がっていく。
俺も後に続いて一歩踏み入れるが、急にその足が止まってしまった。
だって家の中、なんかすげー良い匂いがする。食事の匂いじゃなくて独特な甘い香り。そんな香りが満ちる女性の家に上がるのかと思うと、何故か躊躇いが生じてくる。
別にやましい事があるわけじゃないんだけどな。今さらになって、ちょっと緊張してきたかもしれない。ふぅ~っと軽く息を吐き、乱れた心を整える。
「ん? 貴大さんどうしたの?」
玄関先で立ち往生していた俺を、実愛ちゃんが不思議そうな顔でこちらを見てくる。
「貴大……顔が引き攣って、緊張してるのバレバレだよ。とりあえず上がったら?」
冷ややかに紗月は言い放つ。ちょっと、そういうこと言うの辞めてくんないかな。
「へえ~、貴大さん緊張してるのぉ? 早くしないとお母さんがお待ちだよ」
ニヤニヤしながら実愛ちゃんも追い打ちを掛ける。
「べ、別に緊張とかしてないし! 全然平気だし!」
小学生に煽られた俺は、慌ててぎこちなく靴を脱ぐ。
二人が余計な事言うから更に意識しちゃったじゃねーか!! さっきまでは割とイケると思ってたのに、今は心拍数上がりまくりだよ!! ドキドキが止まらない!!
実愛ちゃんと紗月の後ろに付いて廊下を歩く。つきあたりの部屋に二人が入っていったので、できるだけ自然にそれに続いた。
部屋はリビングダイニングの様で、広々とした空間が広がる。入口のすぐ左側はキッチンで、皆藤主任が料理を更に盛り付けをしていた。
「あら、いらっしゃい。今、丁度準備が出来たところだから適当に座って」
皆藤主任は作業の手を休めずにこちらへ声を掛ける。
「あ、どうも……お邪魔してます……」
不意打ちを食らって、つい小さく籠った声で返事を返してしまった。
不意打ちというのは声を掛けられた事ではなく、キッチンに立つ皆藤主任の姿だ。スリムなデニムのパンツに白いセーター。その上にはさらにエプロンという、職場では想像も出来ないような出で立ち。そんな姿で楽しそうに料理を盛り付けているもんだから、目を奪われないわけがない。
ギャップ萌えというやつか。やはり家庭に戻った皆藤主任は、まるで別人のようだ。この姿を見たら、どこぞのバカ野郎も女王様だなんて事は言わないだろう。
俺はダイニングテーブルの椅子に腰を掛け、リビングのソファーでくつろぎながらテレビを見ている紗月を見た。
初めての場所ではないとはいえ、この環境で平然としていられる子供の順応性を羨ましく思う。色々折り重なって、張りつめた緊張が緩まないんだよ。
「あら。なんか表情硬いんじゃない? もっとリラックスしていいのよ」
料理を盛り付けた皿をテーブルに並べ始めた皆藤主任が、口元を緩めながら俺の顔を覗きこんで言う。
今の俺、そんなに分かり易いのか?
「ええ、難しいですけど……善処します」
表情で読み取れてしまう緊張なら、ここは開き直って認めることにした。実際、女上司の家で食事を御馳走になるってなかなかの状況だよな……
皆藤主任の料理を食べるのは初めてではないが、シチュエーションが変わるとこんなにも違うものなのか。
「ほら、二人とも。そろそろこっちに来なさい」
皆藤主任はソファーの二人に声を掛ける。紗月と実愛ちゃんは「はーい」と返事をして席に着いた。
テーブルの上にどんどん並んでいく料理。シーザーサラダ、キッシュにミートローフ、さらにはパエリア。国籍に統一感はないが、どれも細かく手が加えられ、惜しまない手間が感じられる。
「なんか……すごい豪勢ですね……これ、全部手作りですよね?」
「もちろん。ちょっと気合入れたのよ」
少し得意げに皆藤主任は言う。
「お母さんったら一昨日からずーっと仕込んでたもんねー。普段もコレくらい気合入れてくれると嬉しいんだけどなー」
「あら、実愛。あまり余計な事は言わない方が身のためだと思うわよ」
「ふっ……私をダシに使ったクセによく言うよ」
「うっ……ま、まあ……折角だし、冷めないうちに食べてもらおうかしら」
俺には何のやり取りなのかイマイチ分からないが、この母娘の仲の良さが窺える。運動会の時から思っていたが、俺が思い描く紗月との関係の理想像なんだよな。
親と子というよりも友達同士に近い感覚。それでいて互いの意見を主張し合えるような関係。
今の俺は……どれだけ紗月に近づけているのだろうか――
ふと紗月を見ると、なにやら口元に手を当てながら、目の前に並べられた料理を凝視している。小さく「うぅぅぅ」と唸っているのも聞こえた。
「食べてもいいですか?」
空腹に耐えられなくなったのか、紗月は催促をする。俺の上司の前で、あまりはしたない姿は見せないでもらいたい。
「どうぞ。遠慮なく食べて」
「はい、頂きます!」
紗月は手を合わせてからテーブルの上の更に手を伸ばす。そして取り皿に取ったキッシュを一口頬張った。
「ん~~~~~!! やっぱりおいしい!! 私も静流さんみたいに料理上手になりたいな~」
「私で良ければいつでも教えるわよ」
「え!? 本当ですか!? じゃあ、今度教わりに来ちゃおうかな?」
「いやいやいや。ちょっと待て!!」
俺は思わず紗月の肩をガシっと掴む。
「おい紗月。お前……皆藤主任の事、名前で呼んでるのか……?」
「私がそう呼んでってお願いしたのよ。だって『実愛ちゃんのお母さん』じゃ長くて呼びにくいでしょう?」
「確かにそうかもしれないですが……」
紗月にとっては『実愛ちゃんのお母さん』なのかもしれないが、俺にとっては職場の上司だ。自分の家族が、上司を名前で呼んでいると言うのは少なからず抵抗がある。
「貴方もここではそう呼んでくれてもいいのよ、貴大君」
イタズラな笑みを浮かべながら皆藤主任は言う。
「いや……勘弁してくださいよ……プライベートでもさすがにそれは出来ません」
恐れ多いというかなんというか。いや、もう皆藤主任に怯えているわけじゃないのだが、そういう一線を簡単に超えるのは良くないと思う。
「あら、つれないのね。残念」
あまり残念そうに見えない表情で皆藤主任はクスクス笑う。完全にからかわれて遊ばれているな。
「ノリが悪いな~貴大さんは。とりあえず勢いでバッと言っちゃえば良いんだよ! 呼ばれたら呼ばれたで絶対照れるんだから、お母さん」
「実愛は……本当に口にチャックを付けた方がいいかしらね?」
「ダシ」
「…………ほ、程ほどにしておいて貰えると助かるわ……」
実愛ちゃんの『ダシ』という言葉に異常に怯える皆藤主任。いやーまあ、さすがに二度目だとなんとなく察しが付く。
要は今回俺と紗月を誘ったのは『実愛ちゃんが紗月と夕飯を一緒に食べたい』と言ったわけではなく、皆藤主任自身が家に招いたということなんだろう。入念な仕込みもあったようだし、どうやら計画的な事だったようだ。
その意図までは汲み取れないが、皆藤主任がこちらにそれを気付かせないようにしているのなら、せめて気付かなかった事にしておいてあげよう。
しかしアレだな。そう言われると、その照れた皆藤主任を見てみたい気もする。大分緊張も解けてきたし、今の俺ならイケるんじゃないかな。
俺は意を決して皆藤主任の方を向く。やはりすぐには言葉出来ず、燻っていると皆藤主任と目が合ってしまった。
しばらく無表情で見つめ合う二人――
無理無理無理!! やっぱり名前でなんて呼べない!!
恐れ多いとかそれ以前にこっちも恥ずかしいわ!
こう、改めて皆藤主任を見ると、やはりとても綺麗だ。『静流』という名前が、あつらえた様に似合い過ぎている。下手に名前なんて呼んでしまったら、皆藤主任のことを女性として意識してしまうじゃないか!
違うんだ……皆藤主任とは上司と部下、今は同学年の子供の保護者同士。そういう感情を持ちこんでいい間柄じゃないだろ。
そんな事を考えながら固まっていると、フイっと皆藤主任の方が視線を逸らした。
少し顔が赤い気がするし……もしかしてコレって照れてるのか?
俺に名前を呼ばれることでも想像したのだろうか。今まで見たこともない、しおらしい表情に胸の鼓動が高鳴る。
試合をする前に勝負に勝った気分になる。なんにせよ良いモノが見られた。御馳走様です!!
そんな俺たちの様子を、実愛ちゃんはニヤニヤしながら眺めている。
それに気付いた皆藤主任は、横目で実愛ちゃんを見ながら軽くデコピンをお見舞いした。
紗月はと言うと……そんな沈黙のやり取りをしている俺たちを余所に、只一人黙々と目の前の食事を食べ続けていた。
「どうやったらこんなに上手に焼けるんだろうなあ……」
なにやらブツブツ言いながら、じっくり味わう様に咀嚼している。これを機に料理の腕が上がってくれるのなら、共に生活する俺としても有難い。
さて、そろそろ俺も目の前の食事を頂くとしようか。皿の上のミートローフを一切れ口へ運ぶ。
「あ、うまっ!」
「お口に合うかしら?」
「いや、ホント美味しいです!」
あまりの美味しさに、思わず食事を進める手が止まらなくなる。皆藤主任の手料理を味わうのはこれで三回目になるが、やはり出来たての温かい料理は一味違うな!
目の前の料理を勢いよくがっついていると、なにやら隣から視線を感じた。ふと目を向けると、紗月がジーっと俺の食べる様子を、目を細めてながら見ている。
「なんだよ?」
「別に……」
「なんか視線が気になるんだけど」
「私も美味しいって言われる料理、頑張って作るから……」
俺から視線を逸らし、どこか拗ねた様子で紗月は言う。
「お前の作るものはなんでも美味しいよ」
そう言って紗月の頭に手を伸ばす。
「こんな所で頭を撫でようとしないで!! 恥ずかしい!!」
無残にも、伸ばした手は叩き落とされた。
皆藤主任と実愛ちゃんは、そんな俺たちを見てクスクス笑う。そして俺は苦笑い。
なんかいいな、この雰囲気。どこか懐かしい、とても温かい何かを、俺は感じた。
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