第3話 姪と職場の人と宅飲みと。

 そこは思ったよりも暗くなくて、思ったよりも真っ白な世界だった。


 暗いっていうのは狭いイメージがあったけど、白いっていうのはよく分からなかった。


 その真っ白な世界は全然狭くなくて、どっちかっていうと先の見えない広さを感じた。どこまで行っても終わりがなくて、どこまで行っても何も見えない。そんな世界に私はいた。


 お母さんが死んだって聞いた時から、先の見えない絶望感に包まれていた。


 もう会えなくなるっていうのはとても悲しかった。ものすごく寂しかった。


 でもそれ以上に、自分の未来が見えないことの方が、私の世界を白く染めた。


 何も考えられなかった。考えたところで何も思いつかなかったから。



 二年とちょっと前、私が小学校に入学してすぐにお父さんが居なくなった。


 それからお母さんとおばあちゃんと三人で暮らしてたけど、またちょっとしておばあちゃんの体調が悪くなって入院する事になった。

 そして一年前、おばあちゃんが亡くなった。さらに今回はお母さん。


 私と一緒に生活していた人がどんどんいなくなる。


 きっと私は厄病神なんだ。誰とも一緒にいちゃいけないんだ。


 私から見て、おばあちゃんの弟の叔父さん達もそう思ってるはず。


 お母さんの葬式の段取りをしている間、私を置いてくれたけどあまり歓迎されている感じはしない。

 高校生と大学生のお姉ちゃん達が気を使って接してくれたけど、私はそれに対してろくに返事も返さなかった。だって、そこは私の居場所だとは思えなかったから。


 お母さんの葬式が始まってから時間はあっという間に過ぎた。色々やっていたけど、私には何をやっているのかよく分からなかった。去年のおばあちゃんの時もそんな感じだった。


 全てが終わったのか、周りはお開きムードになっている。さて、いよいよ私はどうなるんだろうと投げやりな気持ちになっていた。


 トイレに寄ってロビーに向かう途中、一室から話し声が聞こえた。特別気になったわけではないけど、なんとなく少し開いた扉の隙間から中を覗く。部屋の中では叔父さん達がなにかを話しているようだった。


「俺が引き取ります!!」


 貴大おじさんがそう言った。


 何度も必死に食い下がり、私を引き取ると主張する姿に鳥肌が立った。


 この先、どうなるか分からないけど、とりあえずあの人に付いて行こうと思えた。



 ***



「橘君、ちょっといいかしら?」


 自分のデスクでデータの整理をしていると、皆藤主任に声を掛けられた。


「は、はい。なんでしょうか?」


 不意を突かれたので驚いて飛び上がりそうになるのを堪えつつ、平常心を保つ。


「この前提出してもらったデータ、とても良くまとめられているのだけど、もう少し見やすいようにレイアウトを変えてもらってもいいかしら?」

「はい。分かりました」

「じゃあよろしくね」


 そう言って皆藤主任は踵を返す。しかしすぐに「あっ」とこちらへ向き直した。


「そういえば橘君、最近少し仕事が雑じゃないかしら?」

「す、すみません」

「事情もあって早く帰りたい気持ちは分かるけど、仕事に差し支えるのは困るわね。そのデータだって最初から見やすいように出来たはずだし、中途半端は余計に仕事を増やすわよ」

「以後気を付けます……」


 俺の返事を聞くと、皆藤主任は静かに自分のデスクへ戻っていった。


 確かに指摘された通り、ここ最近の俺の仕事はやっつけ感があったかもしれない。それは勿論、残業を回避して早く帰宅するためであったが、こちらの事情は知りつつも上司としては看過出来ない部分であったのだろう。それは俺自身も重々承知していた。でもやっぱり早く帰りたいじゃん。可愛い姪が俺の帰りを待っている。


 張りつめていた緊張が解け、はあ~~と深い溜息を吐く。そのタイミングで漆原にポンっと肩を叩かれた。


「飯行こうぜ、飯」


 モニターの右下を見ると時刻は十二時を過ぎている。丁度気分をリフレッシュしたかったのでいい頃合いだった。


「そうだな。食堂行くか」



 デスクを離れ、俺と漆原は食堂へ移動した。あまりがっつく気分になれなかったので、キツネ蕎麦注文し、漆原の対面に座りそれをすする。


「なんでお前、そんなに元気ねーんだよ?」


 生姜焼き定食をがっつく漆原が、言うほど興味も無さそうに聞いてくる。


「なんでって……また皆藤主任に怒られたからだよ。お前も見てただろ?」

「はあ!? さっきの別に怒られてねーだろ? ただ注意されただけだって」

「そうかもしれないけど、なんかあの人の言葉って俺には斬れるんだよ」

「斬れる? なんだそれ?」


 訝しげな表情で漆原は食事の手を止める。


「言葉が刺さるって表現があるだろ。あんな感じで皆藤主任の言葉は斬れるんだよ。なんていうか、一言一言が鋭い刃物で切り裂かれる……みたいな。だから言葉を交わすだけで深いダメージを負う」


「わかんねえな……俺にとってあの人の言葉はマッサージみてーなもんだからなあ」


 漆原はそう言って肉を頬張る。


「分かりにくい表現を使ったとは思うが、お前のソレも大概だな……まあ、あの人とは相性が悪いんだろ。とりあえずそんなわけで皆藤主任は苦手なんだよ」


 今までも怒られたと言っても、怒鳴られたり長々と説教をされたりしていた訳ではない。ただ俺の感性がそういう認識で受け取ってしまう。なんでだろうな。多分クールな美人って今まで周りに居なかったタイプだから、そういうものだという偏見を勝手に抱いているのかもしれない。うん、多分そんな感じだ。


「にしても橘って結構、皆藤主任に絡まれる事多いよな。俺なんて優秀過ぎて全然構ってもらえないもん」


 漆原はいじけるように箸で肉を転がす。言動と言い、その一連の所作が若干気持ち悪いと感じた。


「そりゃあ漆原が期待されてないだけでしょ!」


 背後から元気の漲る声がする。


「橘の方が優秀だって言いたいんですか、佐口さん」


 漆原が不満そうな視線を向ける先には、生姜焼き定食が乗ったトレーを持って立っている佐口さんがいた。


「そう言うこと。橘の任されてる仕事の方が重要度高いんだし」


 そう言いながらトレーをテーブルに置き、漆原の隣に座る。


「そうなんすか!? 知らなかった……」


 漆原はガックリ肩を落とす。俺の任される仕事ってそんななんだ。知らなかった。


「皆藤主任って下の世代に対しては期待してる奴にしか声かけなかったりするから、橘はあの人に期待されてるってことだと思うよ」

「ええぇ……期待されてるってことはないと思いますけど……」


 半信半疑どころか全疑だ。俺の持ってる皆藤主任のイメージと合致しないせいだとは思うが。


「そんなことないって。事実、私は殆ど声を掛けてもらったことは無い! そして過去に失敗した時に言われた事があるんだよ。「多少の失敗は大丈夫、貴方にはあまり期待していないから」って…………いやあ……さすがの私もちょっと傷ついたよ」


 佐口さんは物思いにふけながら、どこか遠い目をしながら言う。


 かなり辛辣な言葉を掛けられたようだが、そんな事言われたら俺は再起不能にまで陥りそうだ。一撃で全身がズタズタだろう。想像もしたくない。


「くそう……俺も期待してないならハッキリと直接言ってもらいたいっ! こう……ひと思いにっ!」


 漆原は奥歯を噛みしめながら力強く言う。面倒だから俺は突っ込むのをやめた。


「あー……なんか思い出したら急に飲みたい気分になってきた。橘、漆原、今晩付き合え」


 きたよ、このパターン。


 佐口さんはかなりの酒豪だ。しかも自分のペースに周りを巻き込む面倒くさいタイプ。そこら辺は本人も自覚があるのか、誘ってくる時は大抵奢ってくれている。なにかしらの理由をつけて定期的に俺や漆原は連れまわされていた。奢ってくれるのは有難いんだが、正直毎度そんな乗り気ではない。先輩の誘いを無下にするのも憚られるので一応付き合ってはいたが、出来る事なら遠慮したい案件だった。


「佐口さん……付き合いますよ!」


 そしてこいつはいつも結構乗り気だし。だから俺も断りにくいんだよ、と心の中で悪態をつく。


「いや、俺は遠慮しておきますよ」


 しかし今日の俺は強気に出た。今の俺はこんな誘いを断るのは容易い。なんたって、とっておきの魔法の言葉がある。


「俺には帰りを待ってる女がいるんで」


 ふっ……と少し粋を気取って言ってみた。ちょっと言ってみたかったんだよな、この台詞。


「え……? 橘君、彼女居たんだ……」


 すると俺たち三人の外から声が聞こえた。俺は慌てて声の方を振り返る。


「美波さん!??」


 俺の背後にはコンビニの袋を片手に持った美波さんが立っていた。どことなく表情が曇っているように感じる。


「いや違うんです!! 姪の事ですよ!! 佐口さんに飲みに誘われたんですけど、小学生一人家に置いておく訳にはいかないでしょって言う意味だったんです!!」


 慌てて必死に弁明する。


「それなら良かった。変な勘違いしちゃってゴメンね」


 美波さんはニコッと微笑んで何気なく俺の隣に座った。


 勘違いしないで欲しいが、俺は別にいつも美波さんと食事を摂っているわけではない。言ってしまえば佐口さんもその部類に入る。つまりこの四人で昼食を摂っているこの状況はイレギュラーだ。思いがけない展開に鼓動が三倍速で可動する。


「しかし、まあ……そうなんだよなー」


 そんな俺をよそに、佐口さんが頬杖をつきながら言った。食事中なので行儀が悪い。


「え? なんのことです?」

「いや、私も橘の事情知ってて、飲みに連れ回すのは出来ないよなーって」

「え!? 俺一人じゃ佐口さんの相手は無理ですよ!」


 漆原は苦悶の表情を浮かべる。だから俺が行く前提で話を勝手に進めるな。


「そこでだ」


 佐口さんはニヤリと笑う。その表情から嫌な予感しかしない。


「橘の家で飲もう。それなら姪っ子ちゃんを一人ぼっちにはさせないだろ」


 それを聞いた俺は心の中で溜息を吐く。家で飲むなんて冗談だろ。怒鳴り散らして全力で拒絶したいが美波さんの手前、あまり醜態は晒せない。何故か今の俺はえらく冷静だった。


「それならとりあえず今日は無理ですね。紗月に聞いてみないといけないですから」


 過剰な反応を抑えつつ静かに答える。そして明日、「紗月はちょっと抵抗あるみたいなんで、家で飲むのは勘弁してもらっていいですか」と断ろう。これが瞬時に思い付いた最善手。これならこの場を汚さず宅飲みを回避できる。


「姪っ子ちゃんが大丈夫だったら私も行っていいかな?」


 コンビニ袋から取り出したサンドイッチを両手で持ち、周りにお花畑が見えるような和んだ笑みで美波さんが言う。はむっ、という効果音が聞こえてくるような仕草でサンドイッチを頬張る姿がとても可愛い。俺の返事を待っているのか美波さんは「んっ?」軽く首を傾げた。


 その姿に、俺の中の何かが白旗を掲げる。



「紗月はダメって言わないと思うんで全然オッケーです!!」



 ***


 という経緯を経て、この家で宅飲みが開催されるらしい。


 と言っても私は事の詳細を聞いているわけではなく、貴大から「悪いんだけど今度、職場の人と家で飲むことになったからよろしく頼みます」と低姿勢でお願いされただけなんだけど。

 元々ここは貴大の家なんだから、私に断りなんていれなくてもいいのにと思った。お母さんも仕事仲間と良く宅飲みをしていたから、割とそういうのは慣れっこだ。

 お酒が飲めないお母さんは飲む事よりも、純粋にお友達と話をしながら食事をするのが好きみたいだった。自称パリピを名乗ってたし。


 宅飲みの開催は翌日の事を考えて、金曜日の仕事帰りに家に寄ると聞かされている。

 そして今日がその金曜日だった。 

 学校から帰ってきた私は、部屋の整理整頓をしてからお風呂を済ませた。食事の支度はしなくていいとの事なので、早速やることがなくなった。


 この持て余した時間が私を妙にソワソワさせた。別に私に会いにくるわけじゃないんだからもう少し堂々と構えててもいいのだろうけど、やっぱり知らない人が家に来ると言うのはどことなく落ち着かない雰囲気を出す。


 ソファーに座り、適当に付けたテレビを眺めながらチラチラと何度も時計を見てしまう。針が十八時を過ぎても貴大が帰宅する様子は無い。次第に私はテレビ画面よりも時計と扉を交互に見る時間の方が増えていた。


 しばらくして玄関の扉が開く音が聞こえる。話し声が聞こえて、私は少しだけ背筋を伸ばした。リビングのドアが開くのを横目で眺める。


「やっほー! こんちはー!」


 ドアが勢いよく開かれるのと同時に元気の良い女の人が飛び込んできた。


「こ、こんにちは」


 予想外の勢いに圧倒されて、少し引きつった笑顔で挨拶を返す。


「私は橘の先輩の佐口二華! よろしくねっ!」


 勢いそのままで私に向き合った佐口さんは、はち切れそうな笑顔だった。


「よ、よろしくお願いします」


 そう返す私の身は引き気味になってしまっていた。勢いに負けたというのもあるけど、本能的に何かしらの拒絶反応の様な気もする。


「んん〜? 嫌われちゃったかな?」

「怯えさせないで下さいよ」


 少し遅れて入ってきた貴大が冷たい視線で佐口さんを見る。両手に持った袋には缶やビンのお酒が大量に詰められていた。


「はっはっは! 私はこいつにとって無害だから安心していいよ!」


 そう言いながらバシバシ貴大の肩を叩く。


「痛い!! どう見てもアンタは俺とって有害だよ!」


 叩かれつつも袋からお酒を出して床に並べる。そんな貴大を横目に、佐口さんはスーッと私に身を寄せ顔を近づけた。


「本当の敵はこれから来るよ」

 と佐口さんは私の耳元で囁いた。


 そういえば今日来るのは三人だと聞いている。佐口さん以外の二人の姿は見えなかった。貴大が持ってきた袋から取り出されているのもお酒ばかりのようだし、あれ? 私のご飯は?


「ああ、飯は後から来る二人が持ってくるからもうちょっと待ってろ」


 そんな私の様子を察したのか、貴大が補足する。というか貴大はまだ袋からお酒を取り出しているんだけど、こんな大量のお酒を本当に飲むのだろうかと不安になる。


「てゆうか! 今さらですけど、どんだけ酒買ってるんですか!! こんなにあっても飲みきれないでしょ!!」

「心配するな。私が責任もって処理する」

「処理とか言わないで!」


 私の心を読み取った様なやり取りが繰り広げられる。先ほど感じ取った佐口さんへの拒絶反応の正体が分かったような気がする。


 そんな二人のやり取りを眺めていると玄関のチャイムが鳴った。


「お、着いたかな。紗月、悪いけど出てくれないか」

「うん」


 ソファーから降りて玄関へ向かう。やっぱり少し緊張しながら玄関の扉をゆっくり開けた。扉の隙間から少しずつ姿を現すその人に、私は目を奪われた。


 白く透き通った肌に、栗色の肩まで伸びた長い髪は、先の方だけ緩い曲線を描いている。吸いこまれそうな綺麗な瞳を、長いまつげがそれをさらに際立たせていた。


「こんにちは紗月ちゃん。美波和奏です。よろしくね」


 その人は私に柔らかく微笑んで言った。


 ふわ~~~。か、可愛い~~!! 何この人! めちゃくちゃ可愛いんですけど! 

 子供の私から見ても、そこら辺の人とは明らかに違う雰囲気を醸し出していた。


「あ! 初めまして! 俺は橘の同僚で漆原まさ――」


 美波さんの隣に居た冴えないどこにでもいるモブの様な男の人が何か言ったみたいだけど私の耳には届かない。やがてその存在すら視界から消えた。今の私は、完全に美波さんに釘付けになっている。


「あ! どうぞ。お入りください」


 ハッと我に返った私は美波さんを家の中へ通す。


「お邪魔します」


 美波さんが玄関へ入ったので、私は扉を閉めて鍵を掛けた。

「ちょっと!! まだ居るよ!! 鍵かけないで! 締め出さないで! あ、でもこれって放置プ(ry」

 外からなにやら叫び声が聞こえる。そういえばもう一人いたらしい。私は仕方なく玄関の鍵を開けた。開いた扉の向こうには、なんだか嬉しそうな表情をした男の人が居た。私はちょっと気持ち悪い、と思ってしまった。



 スペースは充分確保されては居たけど、さすがに大人三人も増えるといつもの部屋が手狭に感じる。ファミレスのパーティセットとピザ、お寿司等がテーブル一杯に敷き詰められていた。

 私はカルピス片手に目の前の食事を適当に摘む。大人たちは会話とお酒に夢中なので、早めにお寿司を攻める。えんがわがコリコリしていて美味しい。


 貴大を見ると、チラチラ美波さんの方を気にしているようだった。緩い表情で鼻の下が伸びている。今日は朝からどことなく落ち着きがないように感じていたけど、きっと美波さんが家にくるからだろう。なんとなくその気持ちは分かる。


 私もチラっと美波さんの方を見ると不意に目が合った。優しく笑いかけてくれたので、私も出来る限りの愛想笑いで返した。


「美波さん。実は俺、美波さんに聞きたいことがあるんです」


 なんの前触れも無しに、真剣な表情で美波さんに問いかける……えっと、うる……なんとかさん。美波さんは視線をそちらに向け、言葉の続きを待つ。


「皆藤主任って彼氏いますか?」

「なんで美波に聞いて私に聞かねーんだよ」

「だって佐口さん、絶対知らなそうですし」

「まあ、知らないけど。というか皆藤主任の事なんて知ってる事何もないけどね!」


 佐口さんは楽しそうにそう答えるとビールの缶に口を付ける。さっきからビール一缶が三口くらいで開けられていくんだけど。私の目の錯覚じゃないかと疑いたくなるほどのペースでお酒が消費されていく。


「うーん。私も正直、皆藤主任について知ってる事ってほとんど無いんだよね。なかなかミステリアスな人だから」

「ミステリアス! いい響きですね! というか、皆藤主任っていくつなんです? 年齢すらも不詳ですよね?」

「たぶん三十は過ぎてないと思うけど詳しくは……」

「確か二十九だよ」

「なんで佐口さんが知ってるんですか?」

「んー? いつだったかなあ? 「私と三つしか違わないんだからもっと出来るはずでしょ」みたいな嫌味を言われた事があったような気がする」

「クソ……なんで佐口さんばっかり……」


 なにやらカイドーしゅにんさんの話で盛り上がっているらしい三人。そんな中、貴大だけは黙々とピザを食べ続けていた。あからさまにこの話題には興味を示さない態度を取っている。


「そんなに皆藤主任の事気になるならさあ、今度ご飯にでも誘ってみればいいじゃん。今まで誰もあの人のプライベートに触れられた人、居ないみたいだけど」


 そう言って佐口さんは新しくお酒のビンを開け、そのままラッパ飲みし始めた。あのお酒、なんて言うんだろう。VODKA……? ボドカかな?


「なるほど!! それは名案!! 誘いに乗ってくれるも良し! バッサリ断られるも良し! 俺にとってはメリットしか無い、まさに神の啓示!!」


「いやあ、もうさ、皆藤主任の話辞めない? なんか飯が不味くなる」


 横から入った貴大は不満を漏らす。ご飯が美味しくなくなる程、そんなに嫌な話題だったのだろうか。貴大にそこまで言わせるカイドーしゅにんってどんな人なんだろう。ちょっと気になる。



 そんな感じで話題が点々とするも、大体仕事や職場についての話だと思う。たまに専門用語っぽいのが出て来るので、その内容は私にはよく分からない。


 側から見た感じ、この四人は特別仲が良いという感じはしなかった。特に美波さん。お酒はそんなに飲んでいないみたい。積極的に話題に参加する様子は無く、聞かれた事に対して答えるというスタンス。佐口さんが主に貴大をイジって、もう一人の男の人がそれに便乗する姿が良く見られる。


 この三人は日頃からこんな感じなんだろうと思うけど、その輪の中に美波さんは少し浮いている気がした。なんでわざわざ今日来たんだろう。ちょっと不思議に思った。


 出された食事もあらから片付き、大人達はお酒を片手に談笑を続ける。私もお腹がいっぱいで特にする事がなくなった。


「ごちそうさま。私、部屋に居るね」


 貴大にそっと告げ、席を立つ。


「ん? おお。騒がしくてごめんな」


 そう言って私の頭をポンっと叩く。人前でこういう子供扱いをされるのは少し気恥ずかしい。


「では、皆さん。ごゆっくりどうぞ」


 軽く頭を下げて私はいつもよりも騒がしいリビングを後にした。


 自室に入り、大きく息を吐く。やっぱり慣れない人と居るのは気が張るな。そんな緊張感から解放されて、私はベッドの上に転がった。ボーっと天井を見つめる。

 少しだけ眠気が襲ってきたので、着替えて寝てしまおうかとも思ったけど、来客中はやはり落ち着かない。適当にマンガを引っ張り出して、ベッドに寝転んだままそれを開いた。


 少し読み進んだところ部屋のドアをノックする音がした。貴大かな。何の用だろう。


「ん~? 開けていいよ」


 私は寝転んだままの姿勢でガサツに答える。ガチャリとノブが下りる音がして、ゆっくり扉が開いた。少し開いたドアの隙間から美波さんが顔を覗かせる。


「!!!?」


 私は慌てて身体を起こし、ベッドの上で正座をする。


「入ってもいいかな?」

「ど、どうぞどうぞ!」

「じゃあ、ちょっとお邪魔します」


 そう言って美波さんはニコニコしながら私の部屋に入り、中心の絨毯の上にちょこんと座った。


 え!? 座るの!? そんなに落ち着いちゃう感じ!? とりあえずベッドの上にあったウサギのクッションを差し出す。美波さんは「ありがとう」と言ってそれを受け取り膝の上に乗せた。うん、使い方が私の思ってたのとちょっと違う。


「急に押しかけちゃってごめんね」

「いや! 全然そんなこと無いです!」


 一対一の急な展開に焦ってしまっているせいか、両手を振るリアクションも大きくなる。


「そんなに緊張しなくていいよ。気楽に話そ」


 和やかな笑みで美波さんは言う。しかし私は緊張の糸が張り詰めていた。なんていうか有名人と向き合っている感覚。私の偏見かもしれないけど、美波さんにはあまりの可愛さにそう言う雰囲気が漂っている。それが私を一層緊張させた。


「あのう……向こうに居なくていいんですか?」


 そもそも何でこの部屋に? そんな意味も含めた質問をする。


「うん。あっちはいいの。だって私は今日、紗月ちゃんに会いに来たんだから」

「え? 私に…………ですか?」


 美波さんの言った意味を理解できずに首を傾げる。


「最近の橘君、紗月ちゃんの話しばっかりなんだよ。あ、私が直接聞いてる訳じゃないんだけど、漆原君と話してる姿とかを見てるといつもそんな感じ。紗月ちゃんってどんな子なんだろうって気になっちゃって会ってみたくなったの」


 貴大の奴……職場でそんなことを……一体どんな事話してるんだろう。変な事言ってなきゃいいけど。


「会ってみたらすっごく可愛い子でビックリしちゃった。そりゃあ橘君も夢中になっちゃうよね」


 美波さんは楽しそうに手を合わせる。思ったより私の事広まってるみたいだし、美波さんに可愛いとか言われて物凄く照れる。きっと今の私の顔はリンゴよりも赤くなっているだろう。


「ホント……羨ましいな」

「ええ!? 美波さんの方が断然可愛いですよ!! 私なんて全然です!」

「え? ああ……うん、ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいな」


 んん? なんとなく話が噛み合わなかった気がする。可愛いと言われて舞い上がってたせいか、私が可愛いのが羨ましいっていう意味だと思ってたけど違ったのかな。自信識過剰だと思われたかもしれない。途端に恥ずかしくなって逃げ出したくなった。


「美波さんは……その……貴大の事気にかけてるみたいですけど、好きだったりするんですか?」


 別になんてことない冗談だった。恥ずかしさを紛らわせて、適当に場を濁そうとしただけだった。


 それなのに――――


「うん、好きだよ」


 なんて真っ直ぐな瞳で美波さんは言った――――


「…………え? ええぇぇ…………冗談ですよね?」


 思わず私は苦い顔をする。なんでこんな可愛い人が貴大のことを……


「ふふ。冗談じゃないよ。だから私は橘君にこんなに気にかけてもらえる紗月ちゃんが羨ましいの」


 ああ、さっきのはそういう意味だったんだ。いや、にしてもやっぱりにわかには信じられない。こんなに可愛さを持て余してる美波さんには恋人が居なくて、そんな人が貴大の事を好きって事だよね? 貴大と美波さんが恋人同士には見えないし、今までそんな話は聞いた事はない。


「貴大とは……その……付き合ったりしないんですか?」

「ええ!? 無理だよ!」


 美波さんは驚いて軽く手を振って否定する。


「だって……今、そんなこと言っても振られちゃうだけだから……」

 と寂しそうに続けて言った。


「いやいやいやいや。美波さんを振るとかどこの大馬鹿野郎ですか! 絶対振られるとかあり得ないですよ!!」


 思わず声を荒げてしまう。貴大も美波さんの事気にかけてるいたいだし両想いって感じじゃん。それに美波さんが振られる姿なんか想像もできない。


「うーん……今は付き合いたいとかそんな感じじゃないかな。だからこのことは内緒にしておいてね」


 美波さんはウインクをして手を合わす。そんなあざとい仕草すらも、純粋に可愛いと思ってしまった。


 まあ、共有の内緒ごとって言うのは悪い気はしない。女の子同士のこういうのは大抵内緒にならないことが多いんだけど、私はキッチリ胸の奥に仕舞っておくつもりだ。多分、きっと。


「それにしても貴大のどこがいいんだか……」


 やっぱりどこか納得いかなくてそんな事をボソっと漏らす。


「何事にも真っ直ぐに一生懸命なところだよ」

「そういうの、ちょとつもーしんって言うんですよね」


 単純バカって言うのは辞めておいた。美波さんはしっかりしている感じだし、ちょっとそういう残念な人を好きになっちゃうタイプなのかな。


「ふふ、そうとも言うね。紗月ちゃんにも思い当たる節はあるんじゃないかな?」


 心の奥を見透かされる様な瞳を見て私はハッとした。


 思えば私は貴大のそういう姿を見て、付いて行こうと思った。お母さんのお葬式の後、おじさんに必死に頼み込む姿を私は見ていた。どこにも必要とされなくなった私を、唯一見てくれていたのは貴大だけだった。


 最初の頃は不器用で距離感は微妙だったけど、それでも貴大は私と向き合うことから逃げなかった。馬鹿みたいに泣き散らかしたあの夜に、どれだけ気持ちが楽になったことか。


 この前のテーマパークに行った時もそうだ。実は私は迷子になんてなっていなかった。ポップコーンを買う列にいる私に気付かなかった貴大は急に駈け出した。丁度買い終わった後だったので、急いで後を追った。


 それからは見失う事なくずっと後を付いて行った。いつでも追いつけた。いつでも声を掛けられた。でも、私はそうしなかった。

 それは、周りの目なんか気にせずに一心不乱に私を探し続ける貴大の姿を、いつまでも見ていたいと思ってしまっていたからだ。

 その姿を見ていて、私は誰かに必要とされている――そういう安心感で満たされた。


 だから、美波さんも貴大のそういうところに惹かれたのかもしれない。いや、きっとあったんだろう。


「ま、まあ……なんとなく……分かる気がします」


 私は照れを隠しきれずに視線を逸らす。そんな私の姿を美波さんは微笑ましそうに見つめていた。


「あと、素直なところとかね」

「ああ、たまに歯にころも着せぬ発言とかありますよね」

「えーーっと……『歯に衣着きぬきせぬ』かな。そ、そんなに難しい言葉使わなくていんだよ」


 少し慌てたように私の間違いを訂正する美波さん。それを見た私は恥ずかしさを通り越して訳も分からずプっと吹き出した。


「えへへ」

「ふふふ」


 何故かそんな風に笑いだす二人。いつのまにか私の緊張はどこかへ吹き飛んでいた。


「じゃあ、ちょっとおしゃべりしようか」

「はい!」


 それから私たちは他愛もない話題でおしゃべりをした。美波さんが私の学校での様子を色々聞いてきたので、それに答えるというのが主なものだった。自然に話せたと思うし、たまに貴大の悪口とかを言えるのは楽しかった。


 しかし、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎる。


「おーい。美波―、そろそろ帰るぞー」


 ドアのノックと共に佐口さんが扉越しで声を掛けた。時計を見ると二十三時を過ぎている。皆さん電車の時間があるのだろう。


「あら、もうこんな時間? じゃあそろそろ帰るね」

 そういって美波さんは立ち上がる。


 部屋の扉を開けると佐口さんが生ゴミ……いや、貴大の同僚の男の人の首筋を引きずっていた。


「うんにゃ~~皆藤主任……最高っす……」

 朦朧とした意識の中で戯言を呟く男の人に侮蔑の視線を落とす。結局この人の名前、なんだっけ? 今更聞く気にもなれないし、このまま知らなくてもいいと思った。


「じゃあ紗月ちゃん、またね」

 柔らかな笑顔で美波さんは手を振る。


「んじゃ、お邪魔しました~」

 佐口さんは男の人を引きずったまま玄関を出た。残念だけど、明日は生ゴミの日ではない。


 早々に引き上げた三人を見送り戸締りをする。


「そういえば……貴大は……?」


 私は廊下を引き返し、リビングのドアを開ける。すると目の前には凄惨な光景が広がった。


 部屋中に散乱する大量のお酒のビンや缶。気を付けて歩かないと踏んでしまいそうなほど、部屋全体に散らばっている。良く見ると床に食べ残したピザやツマミなんかも落ちていた。

 私が居た時はこんな酷い状況では無かったはずだけど、今までこの部屋で一体何が?


 そして貴大は机に突っ伏したまま身動き一つしない。


「ねえ? 大丈夫?」


 私は肩を軽く揺らし貴大に声を掛ける。すると「うぅぅん……」と顔をゆっくりこちらへ向けた。


「ああ……紗月か……いやあ……宅飲みだからと思って佐口さんに無理して付き合ったらこのザマだ…………悪いんだけど……後は……頼んだ」


 そう言い残して貴大は再び机に突っ伏し、動かなくなった。


 もう一度部屋を見回し、深い溜息を吐く。


 これ……私に全部片付けろって事だよね……? こんなに散らかってるの無視できないから、そりゃあ言われなくても片付けますけど。

 このままにして寝ることも出来ず、眠い目を擦りながらゴミ袋片手に片付けを始めた。


 なんでこんなことに…………まあ、元凶は分かっている。



 佐口二華…………やっぱりあなたは私の敵だったよ……

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