第2話 姪と行くテーマパーク。
唾を飲み込み、手に汗を握る。紙が捲れる音を聞くたびに全身に冷や汗が流れた。
作成した書類を上司にチェックしてもらっているだけなのだが、この時間は妙に生きた心地がしない。
書類に目を通しているのは皆藤主任。女性なのだが、仕事に対してストイックな印象がある。常に自分のデスクと向き合い黙々と仕事を続ける。周りとの接触も必要以上に取ることはなく、仕事以外の話をしているところを見たことがない。整った顔立ちをさらに映えさせるハイグラデーションボブの髪形で、誰の目から見ても非常に美人ではあった。
しかし、俺はこの上司を苦手としていた。
仕事に対するストイックさは自身だけでなく周りにも厳しい。俺の様な下っ端はおろか、目上の人に対してもズバズバ遠慮なしに意見を言う。まさにクールビューティと呼ぶに相応しい人物だった。
一部の男性陣は皆藤主任に罵られる事に悦びを感じているらしいのだが、残念ながら俺にそんな性癖は無い。入社当時から怒られまくっていて軽いトラウマとなっている。俺にとって天敵のような人で畏怖の対象でしかなかった。
皆藤主任は見終わった書類をまとめて俺に差し出す。
「もう一度自分で見直して今日中に再提出しなさい」
「は、はい! 直ちにっ!」
俺は差し出された書類を受け取り、足早に自分のデスクへ戻った。
あー! クソ! やっぱりやり直しかよ!
心の中で悪態をつきつつ、付き返された書類に目を通す。
「…………」
あー……なるほどなるほど。ざっと見直すだけでもミスがポロポロ見つかってしまう。やっつけ仕事で確認を怠った自分の失態なのは明らかだ。下手に修正をするよりも一から作り直した方が早そうだった。
定時まであと三十分しかない。今日中に再提出とはなかなか厳しい条件を叩きつけられたものだ。
「これは……残業になるな……また紗月に怒られる……」
ポツリと愚痴を漏らしながら作業に取り掛かった。
やはり定時に差し掛かってもまだ仕事を終えられない俺は作業を続けていた。
「やあ橘! また残業か!?」
そう言われてバシバシ強く肩を叩かれる。
「痛い! 止めて下さいよ佐口さん!」
バシバシ叩き続ける手を払いのける。
この暴君の名前は
「おお! 悪い! いや~なんか橘って叩きやすい身体してるんだよなー」
「いやー……サンドバッグじゃないんですから勘弁して下さいよ」
当の本人はいつものように悪びれる様子も無く飄々としている。まあ、彼女なりのスキンシップなんだろう。こちらも気にかけてもらっている手前、悪い気はしないのだが出来ればもう少しパワーダウンンして頂けると有難い。いや、マジで痛いんだって。
「んで、今日は早く帰ってやらなくていいのか? 例の姪っ子ちゃん、待ってんだろ?」
「そうですよ。急いで終わらせなきゃいけないんですからこれ以上邪魔しないでください」
デスクに向き直り作業を再開する。
俺が紗月を引き取った事は、同部署内で知らない人はいなかった。家庭の諸事情なので報告の義務があるわけではないのだが、俺は紗月の件を職場にカミングアウトしている。
下手に隠し続けても不都合が出た時に説明に困りそうだったし、特に隠し続けたいような理由も無い。ならいっそ周りに周知してもらっていた方がなにかと動きやすそうな気がした。
特に批判的な意見は出ることなく同部署の皆さんには前向きに励ましてもらっている。まあ、陰でなんて言われているかは知らないが、そういうのは知らない方がいいだろう。この職場の雰囲気は俺が紗月と同居生活をするにあたって頑張れている理由の一つでもあった。
「んじゃあ、ちゃっちゃっと終わらせてさっさと帰ってやりな!」
バシン! と佐口さんが俺の背中を叩く。本当に痛い。手形ついてんじゃねえのかコレ。
「ちょ――ホントいい加減に――」
文句が出掛けて止まった。とても心地よい香りがふわりと鼻の周りを漂う。ゆっくりその香りの方に顔を向けると、ある人物が身を乗り出して俺のパソコンを凝視していた。
「うーーーん」
唇に人差し指を当てる仕草がとても艶かしい。
「みみみみみ……美波さん!?」
互いの顔が触れそうなくらい近い距離にあって思わず動揺してしまう。しかし彼女はそんな事全く気にする素振りは無く、ゆっくりパソコンから顔を離した。
「うん! ミスなく出来てるね! これなら完成まであとちょっとだから頑張って!」
眩しいくらいの笑顔でそう言ったのは
大人びた雰囲気の中にどことなく幼さも併せ持っていて、全体的にウェーブかかった髪形のゆるふわ系お姉さんといった感じか。実は入社当初から俺が密かに憧れている先輩だ。
見た目の容姿や裏表を感じさせない素直な性格からその人気は社内でも非常に高い。俺にとっても高嶺の花の存在だったが、幸運な事に美波さんには入社後の教育係として数か月ほどお世話になっていた。彼女にとっても俺は初めて教育係を任された新人だったようで、今でもちょこちょこ気にかけてもらっている。
先ほどはどうやら俺の作業の簡易チェックをしてくれていた様だ。
「あ、ありがとうございます! 頑張ります!」
高鳴った胸のドキドキが収まらず声が裏返る。
「ふふ。じゃあお先に失礼するね」
「おっ先~」
美波さんはひらひらと手を振って佐口さんと並んで歩き出す。俺はその後ろ姿が見えなくなるまで茫然と眺めていた。
「おい、鼻の下伸びてんぞ」
その声と共に脳天チョップを決められ我に帰る。
「ああ……ボーっとしてた。サンキュー
「もうちょっとなら終わるまで待っててやるから早く片付けちまえよ」
帰り仕度を終えた同期の漆原が隣のデスクに腰を掛ける。俺は作業を再開しラストスパートをかけた。
「なあ、お前。美波さんの事狙ってるのか?」
作業を続ける俺に漆原が話しかける。
「どうだろうな……憧れではあるけど、狙ってるとかそういうんじゃないような気がする。ってなんだよ急に」
「いやお前、割と三波さんと仲いいから二人の関係気になってる人、結構いるからさ。実際どうなんだろう、と思って」
「俺がどう思っていようが三波さんは俺のことなんか眼中にねーよ。そういう漆原も三波さんのこと狙ってるクチじゃねーのか?」
「いや、俺は皆藤主任派だ」
作業の手を止め漆原の方を見る。
「ほう…………モノ好きだな」
「いやあ、あの美貌は反則だろ。本当に……一日中言葉攻めしてもらいたいくらいだ」
漆原は悦な表情で言った。
「…………そうか」
漆原のどうでもいい性癖を知ってしまった俺はそれからの集中力を欠き、作業の進行は難航。全てを終えるまでに結構いい時間を消費してしまうのだった。ただ邪魔したかっただけなのかよ、コイツは。
残念ながら今日もまた、紗月に怒られるのは確実なものになった。
「ただいま」
憂鬱な気分を押し退け、いつも通りに玄関の扉を開ける。
パンツの夜の一件以来、紗月との距離は確実に縮まっていた。しかし、その日を境に仕事がバリバリ出来るようになるということはなく、週に数回は残業をして帰宅していた。定時で上がっても帰宅は十八時を過ぎる。少しでも遅くなれば十九時に近い。十六時には帰宅している紗月にとっては長い数時間だろう。
紗月の怒りのボーダーラインは十九時だ。それを超えると決まって「遅い!」から始まる怒りをぶつけられることになる。ここ最近はお土産では釣られなくなったので今日も手ブラで帰宅した。
腕時計で十九時半を確認し、溜息を吐きながらリビングのドアを開ける。
紗月はソファーにもたれ掛かりながらテレビを観ていた。俺の気配に気付き、こちらを振り向く。
「あ、お帰り」
「うん、ただいま」
紗月は手に持っていたカルピスを置きソファーから立ち上がる。
「ご飯先に食べちゃったから温めなおすね」
そう言って静かにキッチンへ移動した。
え? 何これ? 怒られるのは覚悟の上と思っていたのだが、そんな様子はなく肩透かしを食らう。
とりあえずキッチンで夕飯の支度をしている紗月を横目に俺は部屋着へ着替えた。
着替えを終えてテーブルへ行くと夕飯が並べられていた。俺の好きな辛めの麻婆豆腐が大量に盛られ、横にはキンキンに冷やしたグラスにビールが注がれている。
紗月は既にソファーへ戻っていて、カルピス片手にテレビを観ていた。
「いただきます」
箸を手に取り食事を摂る。
チラチラ紗月の様子を観察するが、機嫌は良くも悪くも無い感じだ。平然とテレビを観ているようにしか見えない。
俺の帰宅が遅いことに慣れたのだろうか。まあ、極端に帰りが遅くなる事は無かったのでこのくらいの時間で帰宅出来ているのは世の社会人にとってはいい方だろう。少し遅れただけで怒られるのは理不尽な気もしていたが、それは紗月の寂しさの裏返し。今の紗月には精神的にも支えになってあげられる人を必要としている。俺はその役を買って出たのだから、少しでもその寂しさを埋めてやるのが俺の義務だと思っていた。
こうして怒られなくなったと言うことは、その埋め合わせが少しずつでも出来ていると受け取ってもいいのだろうか。
いや、どんなに前向きに捉えてもきっとそれは不十分だろう。俺はまだ、紗月に何もしてやれていない。
そんな事を考えながらビールを飲んでいるとソファーの紗月が何やらごそごそランドセルを漁り始めた。
ランドセル? 何故リビングに持ってきている? いつもは自分の部屋に置いてあるのでリビングに持ってくることはほとんどない。
すると紗月はランドセルから何かを取りだした。
「うわー手が滑ったー」
紗月は棒読みの台詞とわざとらしいオーバーリアクションで両手を広げ、手に持っていた何か放り投げた。それがひらりと俺の横に落ちたのでそれを拾い上げる。
紙の中身を確認すると国内でも有名な巨大テーマパークのパンフレットだった。何故こんなものがランドセルから出てくるんだ?
「紗月、これ――――」
「あ、ううん。違うの。気にしないで。別に行きたくて持ってたとかそういうんじゃないから。たまたま入ってただけだから。ついうっかり手を滑らせちゃっただけだから」
「…………」
「あ、でも行きたくないとか思ってるわけでもないから。そりゃあまあ、行けるものなら行ってみたいなーっていうのはほんのちょーっぴりだけあるんだけど、私を一人ぼっちにしたまんま帰りが遅い人にはそういう甲斐性は全然期待してないんだよね」
「…………」
「きっと私はこういうところに一生遊びにいくことはないんだろうなー」
「…………」
「チラッ」
「チラッ、じゃねーよ。なんだその寸劇は。素直に連れてってくれって言えばいいだろ」
「誰も行きたいだなんて言ってませーん」
紗月は不機嫌そうに口を尖らせ視線を逸らす。
遅く帰ってきても怒られないのが少しだけ不自然に感じていたがこういうことだったか。ちゃっかり今日遅かったことも根に持っているようだし、これは俺の後ろめたさに付け込んだ脅迫だった。
「しょうがねえな。次の土曜にでも行くか」
「ふっ……まあ当然よね」
紗月は勝ち誇ったようなドヤ顔だった。
「いや……お前、作戦成功! みたいな顔してるけど全然そんなんじゃねーからな」
「……どういうことよ? 私の迫真の演技が伝わらなかった?」
「ああ、これっぽっちも伝わってこない」
「じゃあ……どうして連れてってくれるの?」
紗月は本当に不思議そうな顔で俺を見つめる。
「それは……まあ……」
急に照れくさくなって頬を掻く。真っ直ぐな紗月の瞳を見ていられなくなって目線を逸らしながら言葉を続けた。
「俺は……紗月になんでもしてやりたいんだよ。紗月の望む事、全部叶えてやりたいと思ってる……だからお前は俺に遠慮しなくていい。紗月は俺にとって、大切な家族なんだから」
紗月が家に来てから休日に外出したことは無かった。どこかに行きたいとも言い出さないし、部屋に閉じ籠っている紗月を心配していたものだ。
子供は子供らしくもっと我儘を言ってもいい。
紗月の場合、そんな簡単な事が出来ないくらい精神的に塞ぎ込んでいるという感じではなかった。どちらかと言えば、それを言わせてあげるだけの信頼を俺が得ていなかったのだと思う。
だからこうやって紗月からどこかに行きたいと言ってもらえたことは俺にとって僥倖だった。
「ふ、ふん。そ、そう言うことなら楽しみにしておいてあげるわ」
横目で見る紗月は口を尖らせ耳を真っ赤にしていた。
まったく、可愛げがなくて、本当に可愛い奴だなと俺は思ってしまっていた。
土曜は空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。まさに秋晴れと呼ぶに相応しい絶好の行楽日和だった。
このテーマパークには以前に何回か足を運んだ事はある。最後に来たのは三年くらいまえだろうか。まあ、いずれも誰かに連れられて来たようなものだったので、基本的なタイムスケジュールやルート配分などは他人任せだった。
しかし今回の主導権は俺にある。うまい具合に事を運べるか少し不安に思っていたのだが、実はのっけからやらかしてしまった。
もう少し今までどうやっていたかを思いだしておけば良かったと後悔する。
緻密に練った電車の乗り換えルートのお陰で開園時間ピッタリに到着をする。これが既に手遅れだった。
開園時間には間にあったが、人気テーマパークの混雑予想というものがスッポリ抜けており、挙句にチケットを買って入場するまでに一時間以上かかってしまった。
この時間だけでアトラクション一本分損した気分になる。
しかし当の紗月はその無駄にも思える待ち時間を苦にする様子も無く、目を輝かせて列が少しずつ進むのを楽しんでいた。
「あ、ちょっと進んだ」
と嬉しそうに小声で言う姿は可愛らしく、それを見る度に俺の頬は綻んだ。
パーク内に入ると既に人の海でごった返しており、自由に歩くことは困難を極めた。
「紗月」
そう言って左手を差し出す。
「……何? この手?」
紗月は訝しげに俺の左手を見つめる。
「これだけ人がいるんだ。はぐれたら困るだろ? だからホラ」
「手……繋げって事?」
「それ以外にあるか?」
すると紗月は辺りを見回し始めた。その場でぐるっと一周。
「手繋いで歩いてるのカップルばっかりじゃん!!」
「いや、そんなことないだろ。あそことか……ホラ、あっちにも手繋いでる親子いるだろ」
手を繋いで歩いてる親子の方をそれとなく指をさす。
「でも……小さい子ばっか……私くらいだと繋いでない子も結構いるじゃん」
「まあ、そうは言うけどな……俺はここの中、勝手が良く分かってないんだ。はぐれたら見つけられる自信ないぞ」
「う~~~~」
紗月は唸りながら俺の左手を睨みつける。そして「はあ……」と溜息を吐くと顔を背けながら右手を差し出した。
「繋げばいいんでしょ。繋げば」
口を尖らせ不満げに言う。
「万が一はぐれたらこのエントランスに集合ってことにしておくか」
そう言って俺は紗月の手を取り、指を絡めた。
「って!! なんで恋人繋ぎなのよ!!!」
紗月は顔を真っ赤にして叫んだ。
「ん? あ……いや、なんとなくこの方が強度が高そうだったから」
「だからって恋人繋ぎしなくてもいいでしょ!!?」
「てゆうか紗月。これが恋人繋ぎだなんてよく知ってたな」
「ふん! テレビで見たのよ」
テレビで得た情報をドヤ顔で言われてもなあ。というかどんな番組を見ればそんな単語を目にするのだろうか。
「まあ、繋ぎ方なんて誰も見ちゃいないんだから気にする事ないだろ?」
「誰かに見られるとかじゃなくて気持ちの問題!!」
「……気持ちの問題ねえ」
呼称が恋人繋ぎと知ってしまった以上、恋人同士がするものだと言う先入観が植え込まれてしまったのかもしれない。それで妙に気恥ずかしくなってしまったのか。一度繋いだ手を解き、指を被せるように繋ぎなおした。
「これでいいか?」
「……うん」
少し不服そうに繋いだ手を見つめる。そんな紗月を横目に俺は手を引き歩き出した。
「さて、どこから行きたい?」
「う~ん……実は特に見たいものとか乗りたいものないんだよね」
「え? そうなのか?」
後日友達から借りてきたというガイドブックを今日までずっとにやにや見ていたから下調べは万全なのかと思っていた。
「うん。とりあえず雰囲気楽しめればなって思ってたし」
「じゃあ……どうするかな」
俺もこのテーマパークに詳しいわけではないのでオススメの周り方やアトラクションの知識はない。マニアが一人いれば十倍楽しめるらしいが、残念ながらここにはそんなマニアは不在だった。
「とりあえず……このまま適当にブラブラしててもいい……かな」
紗月は俯き加減で少し恥ずかしそうに言った。
「まあ、そういうのも悪くないか」
俺たちはこのまま――しっかり手を繋いだまま歩き続けた。
メインエントランスを抜け、ショップやレストランが立ち並ぶアーケードを超える。景色が開け、その中心にはドイツに佇むノイシュヴァンシュタイン城を模したお城が眼前に飛び込む。その瞬間、静かに期待を膨らませつつも意外と淡白な反応を示し続けていた紗月の箍が外れた。
「うほわ~~~!!!! ヤッバ!!! 超凄い!!!」
目をキラキラさせて辺りを見回す。
「ねえ! 貴大! ホラ! お城!」
俺の手をブンブン振り回してながら反対の手で目の前の景色を指差す。
「写真! 写真撮って!!」
俺は紗月に引きずられるように広場へ繰り出す。開けた場所へ出ると紗月は俺の手を離し、お城をバックに両手でVサインを作った。
「撮って撮って!」
ポケットからスマホを取り出しカメラ機能を起動する。スマホを紗月に向け何枚か写真を撮った。保存された写真を見返すと、どの写真も紗月は楽しそうに笑っている。
「なんだ……ちゃんと笑えるじゃねーか」
そんな事を呟き感傷に浸る……暇もなく、再度紗月に手を取られた。
「ホラ! 次行くよ次!!」
「ちょ……待ってって!」
結局また、紗月に引きずられるような形で歩き出す。はぐれないために手を繋いだつもりだたが、こうなってしまうと意味合いが変わってしまう。
まあ、それはそれとして、こんなにも無邪気にはしゃぐ紗月の姿は初めて見る。普段はあまり歳相応の子供らしさがあまり見られなかったが、目の前の少女はやはり小学生だった。
そして、その元気ハツラツ小学生のパワーはここからが凄かった。
移動はだんだん駆け足になる。人ごみを縫うように進み「あっち!」「あそこ入りたい!」「これ! これ乗りたい!」と次から次へと各所を回る。
まったく、何が適当にブラブラだ。一秒だってそんな時間はないじゃねえか。
特に一番驚かされたのがアトラクションの待ち時間の事。相変わらず紗月はウキウキ気分でその退屈な時間ですら苦痛に感じていないようなのだが、ウキウキついでにそのアトラクションのうんちくを語り続けた。
「このアトラクションの建設費ってメチャクチャ高かったらしいよ」
「へえ、いくらくらいなんだ?」
「百六十億円だって」
「はあー規模がでか過ぎてピンとこねえな。でも他のでかいアトラクションもそんなもんなんだろ?」
「開園から新しく造られたものでも高いので百十億くらいらしいよ。このアトラクションは開園当初からあって、その時の総建設費が千六百億くらいらしいから、その時の十%はこれにかかったって」
「へえ、そんな大がかりには見えないけどな」
そう言いながら俺は建物内を見回す。特に金がかかるような凝った作りには見えなかった。
「この待ち合わせ通路がある建物、実在した海賊の家がモデルになってるんだって。色んな追っ手から逃げる為に一般の港や入り江からは見えない場所に船着き場を作ったんだよ。だから船に乗ってからしばらくは背の高い草むらに囲まれた狭い水路を通ってくんだって。そういう細かい設定にまでお金を掛けてるって事じゃないのかな」
「そんなん知らなきゃ気にも留めないんだけどな」
「あ! あと船に乗ってから急流を下るところがあるらしいんだけど、そこからどんどん時間を遡って行く物語になってるんだって! 知っていればそういうトコも気にしながら楽しめるよね!」
紗月は楽しそうに語る。こういう話のお陰で俺も待ち時間は退屈しないし、知らない知識を得ることで楽しみ方が増している。
「しかし紗月。なんでお前そんなに詳しいんだ?」
「借りたガイドブックに書いてあった」
「いや……お前がガイドブック持ってきてないじゃん」
「うん、大体頭ん中に入ってるから置いてきた」
「マジか」
もう歩くガイドブックじゃねえか。この数日でどんだけ熟読してたんだよ。好きなものは簡単に頭の中に入って行くというが、それだけでこうも簡単に記憶できるものなのだろうか。もしかしたら紗月の記憶力がずズバ抜けて高いのかもしれない。
そう思うと自分の姪の優秀さが少し誇らしく感じたが、きっとこれが親バカというものなのだろうなと自嘲する。
そんな調子で周り続け、気がつくと時間は昼時を過ぎていた。ピーク時は過ぎたとは言え、レストランや食事処はどこも混雑をしている。さすがに二人ともお腹が空いていたのであまり長時間の待ちは勘弁して欲しい。
空いてそうなレストランを選び中に入ると丁度座席が空いたようですぐに案内された。紗月はオムライス、俺はビーフシチューを注文した。
さて、食事を終え空腹を満たしたところでトラブルが発生する。食後ということでお気づきの人もいるかもしれない。そう、お腹のトラブルだ。
いや、別に下していると言う訳ではない。単に空腹の身体に食事が入った事で腸運動が活発化し、お腹の中で戦争という名の催し物が開催されたという事だ。
しかし待ち時間が長時間に渡るアトラクションが多いテーマパークでは甘く見てはいけない。大した事ないだろうと後回しにしていると大変な事になる。アトラクションの待ち時間に再び催してきたら大惨事だ。今までの待ち時間が無駄になる上、一から並び直し。最悪の場合、掛け込んだ戦場が満席ということだってある。
だから俺は戦った。たっぷり十五分戦った。
来るべき緊急招集が発生し得る可能性を全て無に帰した。頑張って戦った代償として発射口が若干痛んだが、戦場に赴く前に不発弾を投下してしまうよりはずっといい。
結果、俺は勝利した。
勝利の旗を胸に掲げ、俺は戦場を後にする。
すると本当のトラブルが発生した。いや、さっきのトラブルも俺にとっては死活問題であり、決して笑い話では済まされないことなのだが、事態の深刻さが違った。
紗月がどこにも見当たらないのだ。
俺が戦場に赴く時に――いや、この流れはもう終わりでいいだろう。俺がトイレに行くと言った時、紗月は同じくトイレへ向かった。女性側は回転が悪く混雑することが多いが、軽く入口を覗きこんでもそんな様子は感じられない。
まさか――紗月も長きに渡る戦いを繰り広げているのか――
なんてバカな事を考える余裕も無く、辺りを隈なく見渡した。淡い水色の花柄のワンピース。紗月が今日着ている服装だ。それを目印に少しずつ視野を遠ざけて行く。似たような服装の子はチラホラ見かけるが明らかに紗月ではない。時折トイレの方も確認するが、紗月が出てくる気配はない。
一体どこに行ったんだ――
自分勝手に行動をするような子ではない。まさか誘拐? いや、しかしこんな人目の多いところでそんな事が起こり得るだろうか。見ず知らずの人に簡単に付いて行ったとも思えない。
ここで俺は思い直す。最近の誘拐の手口は巧妙になっていると言う。親が倒れたから医務室へ運んだ、だから一緒に来てほしい等とそれらしい理由を立て、人目の付かない場所へ誘導する。そして白昼堂々、人ごみの盲点を付いた犯行を遂行するのだとか。とまあこれは根も葉も無い噂だし、幼児ならともかく小学生を強引に連れ出すのは難しいだろう。
しかし現実問題として紗月の姿は見当たらない。大方の予想としてはあまりにもトイレから出てこない俺が、先にどこかに行ってしまのだろうと探しに行ってしまったのかもしれない。
それでも――どうしても『最悪』の事態が頭から離れてくれない――
俺は居ても経ってもいられなくてその場から駈け出した。さすがに全力疾走は無理なので、出来るだけ急ぎ足で人ごみを縫うように進む。
「紗月ーーー! 紗月ーーー!」
名前を叫びながら周囲を見渡す。しかし俺の叫び声は、混雑の喧騒にかき消されて遠くまで届かない。
慣れない場所とあまりの混雑に紗月を探すことは困難を極めた。アテもなく行き当たりばったりで彷徨う俺の方が迷子なんじゃないかと思えるくらいの有様だ。しばらく歩きまわっても紗月の姿は見当たらず、不安が募るばかりだった。
はぐれた場所へ戻ってみるも、ここにもいない。
一体どこに――――
ここで俺は紗月と手を繋いだ時の事を思いだす。
そうか――エントランスか――
万が一、はぐれた時はエントランスを待ち合わせ場所にと言っておいた。もしかしたら紗月は早々にそちらへ移動したのかもしれない。
俺は移動の速度を上げ、出来る限りの早さでメインエントランスの広場へ向かった。
エントランスがある広場へ着くと、人の混雑は大分緩和されていた。出入りが激しくない時間帯のせいだろう。これなら紗月を探しやすい。俺はぐるっと一周広場を見回った。
しかし、ここにも紗月の姿は見られない。
見落としがあるかもしれないと二周、三周と回った。それでもやっぱり見当たらない。
途方に暮れると同時に疲労が一気に襲ってきた。俺は近くにあったベンチに腰を掛ける。
とりあえず一休みしたら迷子センターへ行ってみよう。紗月が自らそこへ行くとは思えなかったので避けていたが、もう頼るアテはそこしかない。
もし――そこでも手掛かりがなかったら――――
嫌な展開が頭の中をグルグル回る。不安や心配を通り越して、苛立ちだけが俺を支配しつつあった。全部俺のせい……俺がしっかりしていなかったから――――激しく頭を掻き毟る。
「あ゛あ゛あ゛ぁぁ~~~~!!! こんなことになるなら、う○こなんて漏らせば良かったんだぁぁ!!!」
「いや…………そんな人と一緒に歩きたくないんだけど……」
思わず叫んだ失言の後に、背後から声がした。反射的に振り返る。そこには伏し目がちに佇む紗月の姿があった。
「紗月!!」
俺は勢いよくガシっと紗月の両肩を掴む。
「良かったぁ……本当に良かった……」
「どこに行ってたんだ!!? 心配したんだぞ!!」なんて言葉は出ることなく、紗月が見つかった安心感で全身の力が抜けていく。気を抜いたら本気で泣いてしまいそうなくらいだった。
「あの……これ……買ってたらはぐれちゃって……」
そう言う紗月の首からはポップコーンが入ったバスケットがぶら下がっていた。
「本当に……ごめんなさい……」
申し訳なさそうな顔で言う紗月の頭をそっと撫でる。
「紗月が無事ならそれでいい。お前がいてくれる。ただそれだけでいいんだ」
「うん……ありがと」
俺が優しく言った言葉に、紗月は少し照れながら応えた。
トイレに籠って長時間子供を放置した最低の保護者である俺に全面的な非があるのだが、この場では流しておいた。結果的に紗月は見つかったんだ。二つの意味で水に流してしまおう。
いや……本当に反省してます。今後はこのような事が起こらないよう、最善の努力を尽くしていきますのでこの場はどうかご勘弁を――
少なくとも、子供が抱える危険性に関して甘く見ていたのは事実だった。子供は自分を守る手段が乏しいんだ。こんな遊び気分で紗月といたら本当に危険な目にあわせてしまうかもしれない。それに気付けただけでも良かっただろう。
「そういえば、紗月はいつからここに居たんだ? 全然見当たらなかったんだけど」
「あーー……えーっと……ついさっきだよ。ここで待ち合わせなの思い出して今着いたトコ」
少しだけ目を逸らして歯切れの悪い感じで紗月は言う。俺は怒るつもりなんてないんだから、もっと堂々としててもいいだろうに。まあいいか。とりあえず無事に再会できたんだから、無駄にした時間を取り返さなくてはいけない。
「さて、気を取り直して次回るか!」
ベンチから立ち上がり、右手でこぶしを握ってやる気を示す。
「う~ん……私もう疲れちゃったから、今日はお土産買って帰ろうよ」
紗月は色んな店が立ち並ぶアーケードの方へ足を向ける。
「いや、まだそんなに遅くないし、夜になれば花火だって上がるんだぞ。本当にいいのか?」
「うん、いいの。だって――」
紗月はゆっくり進めていた足を止め、こちらへ振り返る。
「また、連れて来てくれるんでしょ?」
満面の笑みを浮かべ紗月は言った。
その表情は演技や造り物ではない、心からの笑顔だった。そう――それは姉が亡くなってから、俺がずっと見たいと思っていた表情だ。
「ああ、また来ような」
その笑顔にこちらも思わず笑みがこぼれる。
その後、やたらと上機嫌になった紗月に大袋いっぱいのお土産を買わされ、テーマパークを後にするのだった。
帰りの電車の中、はしゃぎ疲れたのか、紗月はうつろな目でこっくりこっくり船を漕いでいた。こういうところは子供らしくていいなと思って見ていたが、視線を移した先にサラリーマン風の薄ハゲたおっさんが同じような姿勢でこっくりこっくりしていたので、なんだかちょっと嫌な気分になった。
電車が駅に停車し、俺は紗月の肩を叩く。
「ほら、降りるぞ」
「ふぇ?」
紗月は間の抜けた声を出し、目を擦り立ち上がる。
余所ではおっさんが同じように「ふぇ?」と言って目を擦っていたので、なんだかちょっと殴りたい気分になった。
電車を降りて階段を下り改札を抜ける。そこで俺の後ろを付いてきていた紗月がふいに立ち止まった。
「え? ここ駅違うじゃん」
そう言いながら辺りを見回す。
「ああ、ちょっと寄りたいところがあってな。大丈夫、すぐそこだから」
陽が沈み始め、街並みは徐々に橙色に染まりつつある夕暮れ時。駅から五分ほど歩いたところで仰々しく構える門の前に立つ。そこはお寺の入り口の門だった。紗月は目を丸くしながらその門を見上げている。
薄暗くなったところで時期外れの肝試しをしようとしているわけではない。ここに来た意味、目的を紗月は理解しているようだった。紗月はこの場所を知っている。
「どうする? 行くか?」
「うん、行く。……行きたい」
俺の問いに紗月はキュッと口元を締めて言った。
二人並んで門をくぐる。紗月は少し早足で俺よりも前を歩いていた。なにかに吸い寄せられるようにどんどん前へ進んでいく。そして――数多く並ぶ墓石の一つの前で足を止めた。
「おばあちゃんのお墓……ここに……お母さんもいるんだね……」
静かに墓石を見つめ紗月は佇む。そう、ここは俺の母と姉、つまり紗月の母親が眠るお墓だった。
四十九日は形だけ伯父夫婦に依頼し、納骨に関してもお願いしていた。なので姉がここに来てから足を運ぶのは俺も紗月も初めてだ。
納骨されてから少し時間は経っている。このお寺は俺の住むアパートからさほど距離が離れているわけではない。来ようと思えばいつでも来ることは出来た。それでも今までそうしなかったのは、紗月の笑顔が見ることが出来なかったからだ。
紗月が心から笑顔で笑えるようになったらこの場所に連れてこよう。俺はずっとそう思っていた。
こだわった理由は特にない。ただなんとなくそう思っていただけだ。今になって思うと、ただ自分自身に課題を課して、俺のエゴを押しつけていただけなのかもしれない。それでも墓前に立つ今の紗月の姿を見ていると、あながち間違っていなかったと思う。
紗月はハッとなにかを思いだし、おもむろに俺の持っていたお土産が入っている大袋を漁り始める。そして袋から飴玉が入っているクマの形をした人形を取り出した。
「コレ、お母さんにって買ったやつなんだよね」
紗月はしゃがみながらクマの人形をそっと墓前へ供える。その人形をジッと見ていると、ふいに「あっ」っという声が漏れた。紗月の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それをゴシゴシ拭うと「えへへ」と笑った。
「お母さん……私は大丈夫だよ。元気でやってるよ」
そう言う紗月は優しく微笑む様な表情だった。そんな強かさを目の当たりにして、目頭が熱くなるのを感じる。
紗月は目を閉じ手を合わす。俺もそれに倣って手を合わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます