姪のいる日常。俺の恋愛事情。

gresil

第1部 ここがお前の居場所だよ。

第1話 姪と始める同居生活。

 仕事を終え、俺は複雑な心境で帰路に就く。


 独り暮らしだった俺に一ヶ月ほど前から同居人が増えた。その同居人の女の元へ、行き足勇んで早く帰りたいという思いが湧き上がる。

 しかし、時計の針を確認するとそうとばかりは言っていられない。時間は二十時を少し過ぎていたところだった。


「また怒られるんだろうな……」


 重い溜息を吐きながら道を歩く。


 まだ社会人二年目の俺は仕事に慣れてはきたものの、未だ要領が悪く、こうやって定時を越えて残業して帰宅することもしばしばだった。


 アパートの階段を上り、部屋の扉の前に立つ。鍵穴に鍵を差し込みガチャンと音を立てた。扉の奥からパタパタという足音が聞こえる。俺は鞄に鍵を仕舞い、玄関の扉を開けた。


「ただいま――」

「遅い!! 何時だと思ってるの!?」


 玄関先には同居人の女が腕を組んで仁王立ちで立っていた。表情も鬼の形相そのものである。

 あーやっぱりメッチャ怒ってる……さすがに三日連続二十時超えはまずかったか……まあ、ここは残業してきた俺に非があるわけだから、いつも通り謝って機嫌を取っておくしかないだろう。


「ごめん! 今日も仕事が長引いちゃって……あ、コンビニのやつで悪いんだけど、シュークリーム買って来たからこれで何とか……」


 俺は献上するようにシュークリームの入ったコンビニ袋を差し出す。


「……まあ、貰っておいてあげる」


 女は俺から奪い取るように袋を取って廊下を歩きだす。


 ふっ……ちょろいぜ! お土産作戦大成功だ! 昨日は危うく夕飯抜きにされるところだったからな…………あ、でもこれあんまり多用したら有難味が無くなって効力を失いそうな気もする。次はまた別の手を考えておかないと……


 俺が靴を脱ぎ、家へ上がると女はこちらを振り向いた。


「ご飯冷めちゃったからまた温め直さないといけないんだけど、お風呂沸いてるから先に入っちゃったら?」


 私はモノに釣られてませんよ、まだ不機嫌なんですからね、という様な雰囲気を醸し出しながら女は言った。まあ、雰囲気だけで言葉からはそれが全く伝わってこないんだけどね。釣られてるのバレバレですよ。


 いやあ……甘い。甘いよなあ。


 家に帰ったら夕飯も風呂も準備されている。少し帰りが遅くなっただけで怒ってくれる人もいる。俺は今年で二十四歳になる。社会人二年目にして手に入れた新婚生活さながらの毎日。大学に進学して独り暮らしを始めた時から、こんな生活に憧れていた。本来ならば大手を広げて歓喜の声を上げるべきだろう。


 しかし、実際はそんなに甘い状況では無かった。


 同居人の名前はたちばな 紗月さつき


 俺の姉、橘 美月の娘であり、この俺、橘 貴大たかひろの姪っ子にあたる。


 紗月はまだ少女で、八歳で、小学三年生で、俺はこの子の保護者だった。



 俺が紗月を引き取る経緯を振り返る。

  

 ***


 うちは母と七歳年上の姉と俺の三人の母子家庭だった。姉は九年前に紗月を身籠って結婚。母はもともと病弱な体質で病床に就くことが多かったが、ついに数年目、悪性腫瘍に蝕まれ一年前にこの世を去った。


 これはそんな母が亡くなって、一周忌で親族が集まった日の事だった。


「よ! 貴大、一年振り! 仕事の方はどうだ!?」

「久しぶり、姉ちゃん。仕事は……まあ、そこそこ慣れてきたかな……」

「ふーん。まあ、そんなもんだよ。ほら、紗月。挨拶は?」

「お久しぶりです。貴大おじさん」


 母の葬儀以来、一年振りに会った姉の横には頬笑みながら礼儀正しくお辞儀をする紗月の姿があった。紗月は小学生にしては少し大人びた顔立ちをしていて、すらりと伸びた黒髪がとても綺麗だった。将来美人になるんだろうなと先が楽しみになる。


「久しぶり。紗月ちゃん」


 俺は少し身体を屈めて目の前の姪に挨拶を返す。紗月はそれに対し、ニコっと笑って見せた。


 姉とは住んでいる場所はそんなに離れているわけではないのだが、母の没後、俺は社会人になって間もなかったため、日々の業務で手いっぱいだった。俺が独り暮らしを始めた時から母は姉の住まいで生活をしていた。それもあって姉には母の身辺整理などを任せてしまっていたので、そちらはそちらで忙しかっただろう。

 それまで月に一回は顔を合わせていたので、一年振りというのは途方もなく長い期間にも思えた。もちろん姉の娘である紗月とも顔なじみである。いつも礼儀正しく、姉の子供にしては良く出来た子だなという印象だった。


 母の一周忌は身内と近しい関係者だけで行われたのでさほど人は多くなかった。

 母の兄弟は弟が一人だけだったので、俺と姉以外の親族は伯父夫婦といとこが二人だけ。母が生前お世話になった数名とお寺の住職さんを合わせても十数名と言ったところだった。


 お寺でお経をあげ、その後伯父の予約した料亭で食事を摂った。

 一周忌はつつがなく行われ、食事の後に解散の流れとなる。住職さんはアルコールが苦手な姉がお寺まで車で送る段取りとなっていた。

 俺と紗月、伯父家族は料亭で待機し、住職を送った姉の帰りを待っていた。


 雨が強く降っていて、とても視界の悪い夕暮れ時だった。

 住職を送ってこちらへ戻る途中、飛び出してきた猫を避けようとして、ハンドル操作を誤り電柱に衝突。

 そのまま帰らぬ人となった――


 なんの皮肉か、母と同じ命日だった――


 その後、伯父の段取りで姉の葬儀が行われた。

 母が亡くなって一年で俺はまた肉親を失った。その悲しみは言葉で言い表すのは難しく、その感情は涙となって零れ落ちる。


 そして――俺の横に居た姉の娘の、俺の姪の紗月は――


 涙一つ流すことなく――只――無表情で佇んでいた――


 葬儀の時も、告別式の時も、出棺の時も、紗月の表情は変わらず、一言も言葉を発しなかった。

 まだ八歳の少女には、状況の理解が追いつかないのかもしれない。それとも余りにも残酷な状況に感情が追いついていないのか。俺にはどちらとも察することが出来なかった。

 少なくとも、周りには感情の抜け落ちた人形の様に映っただろう。


 俺はそんな紗月を見て、一つの決心を固めていた。


 火葬を終え、葬儀場へ引き返した俺は伯父に呼び出される。


「貴大くん……実は紗月ちゃんの今後の事なんだが――」

「俺が引き取ります!!」


 俺は伯父の言葉を最後まで待たず切り出した。


 実は姉と紗月も母子家庭だった。と言うことは母親を失った今、紗月は身寄りが無いということになる。

 だから伯父からこの話が出ることは分かり切っていた。いや出なかったとしても自分から言うつもりでいた。

 紗月は――俺が引き取ると言うことを――


「いや……しかし、貴大くんはまだ仕事始めたばかりで若いんだ。そんなに無理をする必要はないんじゃないかな。それに、うちは娘二人も大分大きくなった。上の涼香は来年には就職する。だから余裕のできるうちで暫く預かろうと思っているんだが……」


「暫く!? 暫くってどのくらいですか!? 少なくともずっとじゃないんですよね!? 俺は違います!! 俺はずっと紗月といるつもりです!! 俺は――紗月の父親になります!!」


 少し噛みついた言い方になってしまったが、これは俺にとって譲れないところだった。


「いや……しかしだね……」

 伯父の表情は依然と暗いままだ。


「正直……今の紗月の気持ちは分かりません……分からないから同じだ、なんてことは言えないですけど、俺も紗月も身近な人を失って一人になった……俺は父親が居ない気持ちも、母親を亡くす気持ちも分かってやれるつもりです…………だから、せめて一緒に居てあげたい……それに……姉ちゃんはまだ、紗月に見せたかった幸せを、全然見せてやれていないと思うんです。だから、この先それを紗月に見せてあげなきゃいけない。きっと、それは俺にしか出来ないことだから……だからお願いします!! 紗月を俺に任せて下さい!!」


「貴大くんが想像している以上に大変な事だとは思うよ……それでも投げ出さずに見てやる自信はあるのかい?」


 俺は正座をして地に頭を付けた。


「絶対に! 絶対にそんなことは無いと誓います!! だからこの通りです!!」


 伯父の大きい溜息が漏れる音が聞こえる。


「まあ、そこまで言うなら頑張ってみなさい。私も出来る限りの援助はさせてもらうよ」

「有難う御座います!」


 そう言って俺は頭をあげた。


「あとは……あの子次第だね。ちゃんと本人の意思も尊重してあげなさい」

「はい!」



 俺はすぐに紗月の元へ駆けだす。辺りを探すと紗月はホールのソファーに一人で座っていた。

 俺は紗月に駆け寄る。そして、目線を合わすように膝を立て、優しく微笑みながら右手を差し出した。


「紗月……これからは俺と暮らそう。一緒に……来てくれるか?」


 紗月は相変わらず無表情のまま、真っ直ぐな視線で俺を見据える。

 そして――軽く頷いた――


 こうして――俺は紗月を引き取ることになった。



「とりあえず荷物は今後運び込むから、今日はあり合わせの環境で我慢してくれ」


 そのまま紗月と俺の住むアパートに帰宅した。ちょっと部屋が散らかっていたが、時間が無かったんだ。そこは我慢して欲しい。

 紗月は黙ってリビングに入ると中心部で佇み、辺りを見回した。


「何……この汚い部屋……」


 紗月の方から何か呟く声が聞こえる。ここ数日全然喋って無かったから耳の錯覚かと疑う。


「ていうかー。喉乾いたー。なんか飲み物ないのー?」


 紗月は台所に移動し、冷蔵庫を物色し始める。


「げえ!? ビールばっかじゃん……カルピスないの? カルピスー」


 ここ数日の紗月からは想像も出来ない様子を見て驚きを隠せない。まるで別人かのようにも感じてしまっていた。


「ていうか!! 洗い物も片付けてないじゃん!! ホントどんな生活してんのよ!?」


 流しには洗い物が数段積み上げられている。ここ数日色々あったから片付けに手が回らなかったんだよな。


 あーもう! と言いながら手際よく洗い物を片付け始める紗月。いや、ホントスミマセン。男の一人暮らしってね、こんなもんなんですよ。ちゃんとしている奴もいるけど。


「ほら! アンタもボーっと突っ立ってないでさっさと着替えてその部屋片付けてよ!」

「あ! はい! スミマセン!」


 言われて反射的に返事をしてしまう。とりあえず言われた通り、さっさと着替えて部屋の掃除に着手した。ていうか今、家主の事アンタって言わなかった?


 なんか……思っていた感じと違うな。

 俺の知っている紗月は、愛想が良くて礼儀正しくて誰にでも良い顔した可愛らしい子だったと思うんだよな。八歳にしては出来すぎなくらい。いや、見た目は可愛らしいんだけども。

 そして母親を亡くしてからここ数日の紗月は、無口で無表情で感情の読めない子だった。

 傷心の中で心を閉ざしてたと思っていたんだけど、なんか違ったのかな、俺の思惑。



 とりあえず粗方散らかりが目立っていた部分は片付けた。俺と紗月はテーブルを挟んで向き合い一休み。俺は冷蔵庫から取り出したビールをグラスに注いだ。


「はあ……まさか、来て早々部屋の片付けからさせられると思わなかったわ……」


 紗月は溜息を吐きながら、コップに注がれたカルピスウォーターを一気に流し込む。

 あ、カルピスは俺が近くのコンビニにひとっ走り行ってきました!


「なあ……紗月……ちゃん? なんかちょっと雰囲気変わった?」


 俺はテーブルの向かいに座る小学生に話しかける。


「え? わたし、元々こんな感じだけど?」


 目の前の八歳児はシレっと何事も無かったかのように答える。

 どう考えても別人だろ! という言葉を飲み込む。ここ数日はおろか過去を遡ってみてもお淑やかなイメージの記憶しか残っていなかった。今はそのイメージが崩壊しつつある。


 すると、目の前の少女はああそっか、と言って話を続けた。


「お母さんにね「女の子は愛想いい方が人生有利だから、外では礼儀正しくしてなさい。男性には特にね。」って言われてたから、外面は良くしてたつもり。

 でも今日からここはわたしの家でアンタはわたしの内でしょ? だから余計な気を使う必要はないかなって」


 ……なるほど。愛想の良さは姉譲りの造り物だったのか。しかし、この切り替えの早さは異常にも感じた。このくらいの年の子にとって、母親とはそう簡単に割り切れるものなのだろうかと不安になる。強がっている風には見えない。しかし、どこに地雷があるかも分からないこの子の心に踏み込む勇気が出なかった。


「ああ、それと。わたし、部屋が散らかってるの結構許せない性質たちだから。掃除くらいやってあげるけど、無駄に散らかすような真似しないでよね!」


「あ、はい。今後気を付けます……」


 思わず反射的に低姿勢で返事を返す。散らかしていた手前、大層なことは言えない。

 とりあえず家に来てから一方的に主導権を握られているこの状況をなんとかしたい。ここらへんで一区切りついてもいい頃合いだろう。


 俺は姿勢を正して紗月に真剣な顔で向き合った。


「なあ、紗月。これから色々大変だと思う。不安な事も沢山あると思う。まだ俺を信頼できない部分もあると思う。でも……俺、精一杯頑張るから。俺は……紗月の父親になりたい。そう思って紗月を引き取る決心をした。言葉では表現しきれないけど本当に真剣なんだ。だから……俺の事はお父さんって呼んでくれていい」


 俺の真剣な空気を察したのか、紗月も俺の話を真面目に聞いていてくれた。


「うん、分かった」

 紗月はポツリと零し、軽く頷く。


 意外と素直な反応に俺の顔は自然に綻ぶ。


「でも……お父さんって呼ぶのは無いなあ……」


 紗月は俺を嘲笑うかのようにふんと鼻で笑った。


 言われて俺も冷静に考える。まあ、伯父さんをいきなりお父さんと呼べとかハードル高いよね。俺なら無理だわ。そりゃ鼻で笑うわ。


 でもいつか――そう呼んでもいいと思わせるくらいの関係にはなりたいと思っている。

 俺には――姉ちゃんの分までこの子には幸せになってもらいたい。俺が絶対に幸せにしてやる。それはこの子の伯父としてではなく、変わりでもいいから父親として――

 心からそう思っているのだから――


「まあ、呼び方は任せるわ。とりあえずよろしく頼むよ」


 そして――俺と、姪の紗月との同居生活が始まった。


 ***


 俺は紗月に言われた通り、先に風呂に入ることにした。


 紗月が来て早一ヶ月。正直、俺の生活は格段に楽になっていた。


 掃除・洗濯の家事一般は紗月がそつなくこなしてくれている。姉ちゃんも女手一つで紗月を育てていたから仕事は忙しそうだった。あまり家事に手が回らない姉ちゃんの手伝いをしていて身につけたスキルだと紗月は言っていた。炊事に関しては味付け不要の焼くだけとか、混ぜるだけ系の時短料理中心だが、必ずおかずは二品以上用意してくれる。八歳にしては本当に良く出来た子だと俺は思う。


 さすがに一人に全部を任せきりにするわけにはいかないので、俺もできる範囲で手伝うようにはしている。お陰で俺の基本的な生活の質は大幅に向上していた。部屋も常にピッカピカだ。

 今、紗月が食事の用意をしてくれているところだろう。あまり長湯は出来ないのでささっと洗って上がってしまわなければ。そう思って俺はシャワーを捻る。


 台所の方から物音と共に悲鳴が聞こえた。俺は頭から被ったばかりのお湯を止める。

 すると風呂場の扉越しに紗月がやってくるのが分かった。


「どうした!? 大丈夫か!?」


 俺は風呂場から声を掛ける。


「うん、大丈夫……ちょっと食器を流しに落としちゃっただけだから……」

「そうか……それなら良かった」


 大事が無くて良かったと俺は胸を撫で下ろす。


「でもね……落とした食器に流しの水が勢いよく撥ねちゃって……その……」


 紗月は歯切れの悪い言い方で言葉を濁す。


「ん? どうした?」


「…………頭から水被ってビショビショになっちゃった…………今すぐお風呂入りたい……」


「え!? 風呂!? え!? ちょっと待て! 今すぐ出る!」


 俺はすぐさま立ち上がり風呂場の扉に手を掛ける。


「ぎゃーー!! 開けないで!! もう服脱いでるの!」

「なんでもう脱いでるんだよ!? 俺が出るの待ってれば良かっただろ!」

「だってビショビショで気持ち悪かったんだもん!!」

「じゃあなんだ!? 俺と…………一緒に入り……たいの……か?」


 なんかだんだん言っていて恥ずかしくなってきた。何を口走っているんだ俺は。相手は八歳と言えども女の子だ。大人の男性と一緒に風呂なんて……どうなんだ? 八歳ってアウト? セーフ? 微妙なラインなんだけど。余所様のご家庭ではどうなんですか?


「な……何言ってるの!? あ……アンタとなんか一緒に入りたくないわよ!」


 恥じらいと怒りが入り混じった罵声が扉の向こうから飛ばされる。

 まあ、そうだよね。結局本人が入りたいと思うか思わないかに委ねられるところかなと。じゃあ俺と入れ違いで入ればいいのか。その際出来るだけ紗月の裸を見ないように心がけよう。薄目はズルだから封印だ。ちゃんと目は瞑る。


 ガチャという音を立てて風呂場の扉が開かれる。少しだけ開いた扉の隙間から手が伸びてきた。


「はい、コレ」


 扉から伸ばされた紗月の手にはアイマスクが握られている。

 え? アイマスク? こんなん俺持ってたっけ? こんな非常事態にどこから持って来たんだよ。とりあえず俺は差し出されたアイマスクを受け取る。


「それつけてわたしが出るまでお湯の中で待ってって」

 結局一緒に入るのかよ!? 確かにまだちゃんと洗ってないから新しい下着に着替える訳にもいかないし、バスタオル一枚で待っているには少々寒かったりもする。浴槽待機は有難い上に、俺の視界を奪ってしまえばチラ見事故も無くなり紗月自身も安心出来ると言う訳か。なるほど、考えたじゃねえか。


 俺はアイマスクを着用し湯船に浸かる。


「ほら入ったぞ。アイマスクもちゃんと付けた」


 ペタペタと紗月が浴室に入ってくる音が聞こえる。すると紗月は俺の入っている湯船の中に何か液体の様なモノを注ぎ込んだ。


「は!? ちょっと待て! 今何入れた!?」


 見えない恐怖が俺を襲う。


「入浴剤。わたしは目隠ししてないんだから、汚いモノ見せないでよね」


 そう言われるとほのかにラベンダーの香りがふわりと俺の鼻と突く。俺は自分が紗月を見ない事ばかり考えていたが、紗月に見せないようにすることまで頭が回っていなかった。しかし、汚いモノとはなかなか辛辣だな。


 紗月がシャワーを捻ってお湯が流れだす。身体に弾かれた水滴がビチャビチャという音を立てた。シャワーの音が止むとシャンプーのポンプを押す音が三回。紗月の髪はロングストレートだから三回必要なんだな。ちなみに俺はいつも二回だ。ワシャワシャと髪を洗う音聞こえる。


 この辺りで俺は気付いてしまった。

 これは思った以上にヤバい!


 俺の視界はアイマスクによって闇に閉ざされている。しかし、音は聞こえるのだ。聞こえる音によって、自然と今の状況を頭の中でイメージしてしまう。別にヤラシイ気持ちで想像している訳ではないのだが、こう…………裸の紗月がシャワーを浴びて髪を洗っている姿をどうしても思い描いてしまう。


 もう一度言うがヤラシイ気持ちは全くない。なんていうか聞こえた音に対して脳が反射的に働いてしまうといった感じだろうか。

 そのことがなんか背徳感で……いたたまれない気持ちになってくる。


 目隠し入浴はある意味で拷問だった。どうせなら全部見せてくれ! 違う違う。どうせなら耳栓も用意してくれ!


 紗月は頭が洗い終わり、次は身体に取り掛かっているようだった。俺は出来るだけ別の事に意識を向けようとするが、これがなかなか難しい。会話でも出来れば少しは気が紛れるのだが、この状況で何を話せばいい?


 すると意外な事に紗月の方から口を開いた。


「ねえ……わたし、悩み事があるんだけど……聞いてくれる?」

「お! なんだ? 言ってみろ」


 紗月が悩みを打ち明けるなんて、この一カ月で初の事だった。風呂に入りながら相談事なんて本当の親子みたいだな!


「この前、掃除している時にアンタのベッドの下からエッチな本が出て来たんだよね……」

「ぐはあ! マジか!」


 一応普通の雑誌のサンドにしておいたはずだが見つかってしまったか! これは不覚!


「その本、全部女子高生ばっかりだった……わたしもその位の歳になったら、アンタにそういう目で見られちゃうのかな…………身の危険を感じてちょっと泣いた」


「何を言ってる!! 確かに俺は女子高生大好きだが、お前をそう言う目で見たいから一緒に暮らしてるとかそう言った事は断じてない!!! 紗月は大切な家族だ!! 家族をそんな目で見るとかあり得ないだろう!! だからそんな心配する必要はない!! 俺を信じろ!」


 俺は動揺しつつもあらぬ疑惑を糺すことに必死に声をあげた。頼む、信じてくれ! という思いを強く込める。あとそんな事で泣かないで。姉ちゃん死んだ時も泣かなかったのに。


「…………冗談だよ。そんなに必死だと余計心配な気もするけど…………まあ……次はわたしの目に付かない場所に隠してよね。今時の男子中学生の方がもっと上手く隠してるよ」

「今時の男子中学生の何が分かるんだよ! この女子小学生が! そもそもお前が来る前は隠す必要無かったの! おっぴろげだったの!」


「ふん…………次、見つけたら捨てるから」


 いつの間にか身体も洗い終わっていたのか、そう言って紗月は風呂場を後にした。

 確かにあのくらいの年齢の女の子には刺激が強すぎるモノだったかもしれない。女子高生マニアとかいうタイトルもあったよな……


「はあ……捨てられる前に自分で処分しておくか」

 グッバイ女子高生コレクション。そう思うとちょっと泣いた。



 その後の食事は気まずいものだった。いや、いつも楽しく会話をしながらというわけではないので、いつも通りと言えばいつも通り。


「宿題は済ませたのか?」

「アンタが帰ってくる前にやった」

「学校は楽しいか?」

「まあ、それなりに」

「そうか」


 食事中は基本的に定型文の応酬。無言を回避するためだけのやり取りとも言えるだろう。

 しかし、この時間にはささやかに楽しみにしている事があった。俺は食事を終えると箸を置き、手を合わせる。


「御馳走様でした。美味しいご飯、毎日ありがとう」


「ど、どういたしまして…………」


 紗月は口を尖らせながら目を逸らして耳を真っ赤にしている。


 俺は食後に感謝の気持ちを込めて毎回この言葉を言うようにしている。その言葉を少しは嬉しく思ってくれているのだろうか。紗月はこれに対し、耳を真っ赤にしながら照れているのだった。この照れた姿がどうしようなく可愛い。夕飯時は特に一日の疲れが吹っ飛ぶ瞬間だった。


「じゃあ、おやすみなさい」


 そう言って紗月はダイニングから出て行った。

 俺と紗月の一日の接点は夕飯と同時に終える。


 このアパートは玄関を入ってリビングダイニングに続く廊下が伸びている。その廊下の右側には洗面所・トイレ・風呂があり、反対の左側に六畳の部屋が一室あった。この部屋を紗月の部屋として当てがっている。

 もともと寝室に使用していたのだが、ベッドはリビングに移動し俺は基本的にそちら側での活動を中心としている。

 今日は先に風呂を済ませたが、いつも夕食後は紗月が風呂に入り、俺は洗い物を片付ける。その後の紗月の移動範囲は廊下を介して部屋と水場の往復のみになるから、顔を合わせることも無い。


 俺は洗い物を済ませ、ソファーにもたれかかりながらテレビを眺めていた。


 紗月がうちに来てから一カ月。紗月との距離感は未だ付かず離れずと言ったところか。明らかな拒絶が無いだけマシと言えるが、個人的にはもっと歩み寄りたいと思っていた。呼ばれ方も未だに『アンタ』だしな……


 それに、ここ一カ月――紗月は一度も笑っていない――


 以前の紗月は俺の前でもよく笑顔でニコニコしている子だった。まあ、それは外面用の顔だったのだろう。しかし姉と一緒の紗月はいつも楽しそうに笑っていた。あれはきっと心からの笑顔だった思う。

 俺は未だにあの様な笑顔を紗月にさせてやることが出来ていない。そのことがとても歯がゆくて、心の底から悔しかった。

 母親の死後、一度も泣かず笑わず。あの子の心はいったい何処にあるのだろうか、母親が居なくなった実感はあるのだろうかと日々不安が募る。

 平然と横柄な態度で俺を弄ったり罵ったりしてはいるが、あの子の本心が分からない。

 やはりあの子を引き取ると言うのは俺には荷が重かったのだろうか。まだ一カ月で結論を出すには早すぎるが、幸先はあまりよろしくない。先の事を考えると、ただただ溜息が漏れるばかりだった。


 時計の針は二十三時を指している。一時間以上前に部屋に引っ込んだ紗月は寝ているだろう。俺もまだ早いがそろそろ寝るとするか。一人で色々考えていても気が滅入るばかりだった。


 洗面所へ移動するために廊下へ続く扉を開ける。すると廊下の中心に布切れが落ちているのを見つけた。ハンドタオルかな? それを拾い上げ、広げて確認する。


「…………パンツだ」


 白く柔らかい生地に小さな赤いリボンのワンポイントがある女の子用のパンツを手に入れた。

 言うまでも無く紗月の物だった。なんでこんなところに落ちてるんだよ、パンツ。


 う~ん……どうしたものか。まあ、こっそり返しておけば問題無いはずだ。女児用のパンツを手に、決して邪な考えは頭の隅を過ぎることも無く、俺は紗月の部屋のドアノブに手を掛けた。

 あらぬ誤解を避けるため、物音を立てないように細心の注意を払いながら扉をそっと開ける。


中を覗くと紗月はベッドの上で布団を被って寝ているようだった。足音も立てないように静かに部屋に入り、隅にある小さな衣装タンスに手を伸ばす。しかし、俺の動きはそこで止まった。


「ひっく……ひっく……お母さん…………お母さん……」


 その声は紗月が寝ている布団の中から聞こえた。


「うう…………寂しいよお……お母さん……」


 紗月は声を押し殺して布団の中で泣いていた。何度も、何度も母親を呼びながら。

 それを聞いた俺は強く胸を締め付けられる。


 なんで……なんで……俺はこんなことも分かってやれなかったんだ!! 紗月はまだ八歳の女の子なんだ。母親が死んで悲しくないはずがない、寂しくないはずがない。ただ、それを周りに見せないように強がっていただけだなんて、何故気付かなかった!? 

 強がっている風には見えないなどと勘違いをしていた自分の馬鹿さ加減に呆れて言葉も出ない。ここにもう一人の自分が居るんだったら、思い切りぶん殴って欲しい気分だった。


 きっと、紗月はこの一ヶ月間、一人で夜な夜な泣いていたのだろう。紗月の傷は癒えていない。そこに踏み込まずして、俺が紗月と距離を縮められるはずもなかったのだ。


「紗月」

 俺は布団を被った紗月に声を掛ける。布団の膨らみが一瞬、ビクンと大きく跳ね上がった。


「な! な……なんでアンタ勝手に入ってきてんの!? 早く出てってよ!!!」


 布団の中から籠った叫びが聞こえる。しかし俺はその意に反してベッドの前に正座をした。


「紗月……いつも帰りが遅くてゴメン。お前の気持ち、全然分かってやれてなかった。姉ちゃん居なくなって悲しいよな。寂しいよな。そんで俺の帰りも遅かったら、さらに寂しい思いをさせてしまったよな……本当に反省している……ゴメン…………

 でも! 悲しい時、寂しい時はもっと泣いたっていいんだ! 強がったり我慢する必要なんてない! そんで思いっきり泣いて、スッキリしたら思いっきり笑えるようになるんだ!!

 姉ちゃんだってお前の笑ってる顔が見たいはずだ!! だから今は思いっきり泣いていい!!」


 すると被っていた布団が剥がされた。紗月はベッドの上にちょこんと座っている。その表情は、今まで見たこと無いくらいくしゃくしゃで、大粒の涙が流れ落ちていた。


「うわあああああああああああん!!!!!!」


 紗月は大声を上げながら、ベッドの上から俺の胸元へ勢いよく飛び込んでくる。それを俺は優しく受け止めた。


「うわああああああん!! おがあざんがね……おばあぢゃん死んじゃっだどぎ、お別れは悲しくなんだよ、寂しくなんだよっで言っでだ……ちゃんと見守ってくれてるから笑っで過ごしなざいっで言っでだ…………

 だから…………わたしも、お母さん死んじゃっだ時……そう思うようにしでだの……

 でも!! やっぱり悲じいよ!!! お母ざん居なくて寂じいよ!!!! 独りぼっちはやだよ!!! ごんなんじゃ……ぢゃんと笑えないよ!!! うわああああああああああん!!!」


 紗月は堰を切ったように泣きながら胸の内をさらけ出した。俺は自分の胸元で泣きじゃくる紗月をギュッと抱きしめる。


「俺だって悲しい!! 俺だって寂しい!! でも俺は独りじゃない!!! 俺には紗月が居る!! だから紗月も独りじゃないんだ!!!

 もう……絶対に一人にはさせない!! 俺がずっと傍に居てやるから!!」


 そう叫びながら紗月を抱きしめる俺も、気付くと頬に涙が流れていた。そういえば俺も、姉ちゃんが死んでから一度も、思い切り泣いていなかった気がする。


 俺たちは身を寄せ合いながら、二人で涙を流し続けた。


 普段は少し捻くれた大人びたさを持っているが、俺の腕の中の紗月はやはり小学生の女の子だった。初めて紗月の気持ちに触れられたようで、俺はどこかホッとした気持ちになる。


「ひっく……ひっく……」


 しばらくすると、大声で泣き散らかしていた紗月の様子が落ち着いてきた。


「大丈夫か? ほら、これで涙を拭けよ」

「……うん、ありがと」


 紗月は俺から手渡されたパンツで涙を拭った。


「…………あ」「…………え!!?」


 この時、二人の時間が確実に止まった。


「な…………なんで……なんでアンタがわたしのパンツ持ってんのよ!!」


 手渡されたパンツを見ながら、紗月はワナワナと震えだす。


「いや、落ち着いて聞いてくれ。それはな、廊下に落ちてたんだ。俺はそれをこっそり戻そうとしていただけなんだよ。俺がパンツを持っていたことにやましい気持ちは全くない」


 俺は無実を証明するために両手を広げ、冷静に紗月を諭す。


「だからってこのタイミングで渡さなくてもいいでしょ!!??」


「いや……つい」


 自分がパンツを持っていたことなんて普通に忘れてたよね。ホント、つい流れでやってしまっただけなんだよ。


「自分のパンツで顔拭いちゃったわたしの気持ちが分かるの!!??」


 紗月は鬼の様な形相で俺を睨みつける。

 まあ、俺だったら絶望だろうな。でも、使用済みじゃないし(多分)、紗月はまだ女の子だからダメージ少ないだろ? なんて口が裂けても言えない。


 あまり刺激をしないように、俺は菩薩の様な心と表情でその場に坐す。


「とりあえずこっから出てけ!!」


「ぐはああ!!!」


 激しい蹴りが俺を襲い、そのまま部屋の外に転げ出た。菩薩意味無かったね。無駄だったね。

 部屋の扉がバン!! と強く締められる。


 俺は尻持ちを着いた状態で、閉まった部屋の扉を見つめた。


 なんか全部台無しだったけど、変に尾を引きずらなくてこれはこれで良かった様な気がする。これをきっかけに、紗月の中で何かが少しでも変わってくれればいい。俺からも出来るだけ歩み寄るように努力はしよう。ともかくこれで一歩前進だ。俺は腰を上げ立ち上がる。


 すると紗月の部屋の扉がカチャっと静かに開いた。僅かに開いた隙間から紗月が半分顔を出す。


「ちゃんと……言ってなかったけど……これからも……よろしくお願いします……


 俺から視線を逸らしながら、口を尖らせ耳を真っ赤に紗月は言った。そのままパタンと扉を閉め、部屋へ引っ込んでいく。


「はっ……呼び捨てかよ」


 俺は嬉しくて顔のニヤニヤが止まらなくなっていた。これは二歩くらい前進したと言ってもいいんじゃないか。決して過大評価にはならないだろう。


 まだ始まったばかりだけど、紗月との生活は充実したものになりそうだ。ふとそんな予感がした。父親の代わりにはまだまだなれそうにも無いけど、そこまで遠くない日であって欲しいと願う。


 次は紗月の笑顔が見たい。俺はそう思いながら、今日と言う一日を終えるのだった。

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