第6話 生意気な新人は俺の手には負えない。
「橘君、ちょっといいかしら?」
朝、入社してデスクの席に着くと、皆藤主任に声を掛けられた。皆藤主任に声を掛けられるという、ここ最近ではお決まりになりつつある開幕。だが、俺の対応はいつもと違った。
「はい、なんでしょうか?」
声が裏返ることもなく淡々と返事を返す。
紗月の運動会で皆藤主任への印象が様変わりしていた俺は、仕事中であれど、この人に対する恐怖心は完全に消えていた。
当の皆藤主任は、相変わらず無表情で仕事をこなすクールビューティ―の姿勢を崩さない。口数も少なく、仕事で必要最低限のことしか喋らない。本当に運動会の時とは同一人物に思えないくらい印象が変わる。
ただ俺は知っている。
最愛の娘のため、守る者のために、目の前の事に全力で取り組むために選んだ皆藤主任のやり方だ。母親のときも、仕事のときも、紛れもなく本当の皆藤主任の姿である。
でも、やはりもったいないと思う気持ちは消えない。
あれから少し考えた。皆藤主任が望む形にするにはどうすればいいかと。
皆藤主任は実愛ちゃんに父親の愛情を教えてやりたいと言っていた。もちろんそのためには父親の役目を果たす人物が必要である。
その人物を探すうえで、仕事中の皆藤主任では少し魅力に欠けていた。いや、容姿だけで言えばこれ以上ないくらいのものだろう。冷酷なイメージのままでも男性社員の人気は高い。漆原の様な歪んだ好意を向けるものは、実は少なくなかったりもする。
しかし、皆藤主任の本当に魅力的な部分は、実愛ちゃんと一緒にいるときの母親としての姿だ。笑顔と優しさに満ち溢れ、愛娘と接する姿は一人の女性としても本当に素敵な人だと俺は思う。
だが残念なことに、俺以外にその姿を知る人は居ない。
実愛ちゃんの存在を周りに公表し、共に笑う姿を見てもらえれば、その全てを受け入れてくれる男性に巡り合うことも難しくないはず。
なによりも、実愛ちゃんに父親の愛情を教えたいのであれば、相手の男性に実愛ちゃんの事を受け入れてもらわなくてはいけない。だから実愛ちゃんのことを公にするのは最低条件だ。
しかし、皆藤主任はそれをしない。俺も職場では内緒にしておいてくれと言われた手前、誰かに話すことも出来ない。今もまだ、俺の胸の内に仕舞われている。
俺個人としては、父親の愛情なんて知らなくても今の皆藤親子が幸せであるならそれでいいと思ってしまうのだが、そんな事を推し進めるわけにはいかない。
結局、俺には皆藤主任がもう少し自分をさらけ出せるよう、に後押しするくらいしか出来なさそうだった。
おっと、少し話が逸れてしまったしまったようだ。
それはまた別の、話――
今回は皆藤主任の話ではない。
「次長から話があるから面談室に来て欲しいと伝言を頼まれたわ」
「え? 次長が……ですか?」
年功序列、ただ長く勤務していただけでその地位に居座っているようなハゲ散らかしたただのオヤジ。俺の次長に対するイメージはそんなとこだ。
酷い表現だと思うかもしれないが、実際次長が仕事らしい仕事をしているところを見たことがない。この前なんか自分のパソコンでマインスイーパーやってた。
うちの部署の司令塔は部長だし、次長から指示が飛んでくることはない。今まで接点なんて殆どなかったようなものだから、その次長からの話だなんてどんなものか想像もつかない。
「じゃあ、よろしく頼んだわよ」
用件を告げた皆藤主任は踵を返す。
「ちょっと待ってださい! あの……どんな話か聞いてませんか?」
内容の目星が付けられないのは気持ちが悪い。思わず皆藤主任を呼びとめた。
「ちょっと私は聞いてないわね。本当に伝言を頼まれただけだから」
「そうですか……分かりました」
なんで直接言いに来ないんだよ。絶対皆藤主任の声を聞きたかっただけだろ、あのエロオヤジは。
深い溜息と共に重い腰を上げる。俺はしぶしぶ面談室へ向かった。
面談室に入ると、次長が革張りのソファーに座っていた。また頭髪の量が減っている気がする。
「おお、とりあえず座ってくれ」
言われて俺は次長の向かいに座る。
「それで、お話とはなんでしょうか?」
「うむ、それなんだがね。私も君に話すように連絡を受けただから詳しい事はわからないんだが、どうやら別部署の今年入った新卒新人の子と今日明日と一緒に仕事をして欲しい、との事なんだ」
予想はしていたが、今回の案件は次長の指示ではないということか。こういう伝言形式は内容が正しく伝わらない場合が多い。既に要領を得ないので、一抹の不安は拭えなかった。
「別部署の新人……ですか? 別部署の仕事内容なんて分からないんで、何も教えてあげられないですよ」
「ふむ。まあ、確かに君の言う通りなんだが、話は通してあるから行ってもらえば分かるとだけ言われていてね。詳しい事は部長に聞いて欲しい」
「その……部長はどちらに?」
何故これだけの内容が部長、次長、主任を介して俺に回ってくるのだ。最初から部長本人が直接言ってくれてもいいものだが……
「部長は二日前から有休で休んでいるよ。なにやら素材の集めが大変だとか」
おい、ちょっと待て。その素材って仕事の話じゃないよね? 絶対ゲームの話だよ。
だって先週、狩猟ゲームのビッグタイトルが発売日だったもん。
自分はゲームしながら部下に仕事丸投げかよ。
俺の上司、こんな人ばっかりだから皆藤主任のストイックさが際立つんだろうな……
「とりあえず今から小会議室へ向かってくれ」
何故俺は不明瞭な指示の元、社内をたらい回しにされなくてはならないんだ。
他部署と一緒に仕事をするということは、何か合同でやる意味があるのだろうか? 他部署との連携はもちろん日常からあることなのだが、こうも個人的な案件は例を見ない。
まあ、行けばなんとかなるだろう。あの部長の事だ。何か考えがあって俺に任せてくれたのかもしれない。それは非常に光栄なことなのだが、どこかスッキリしない気持ちが残っていた。
小会議室の扉をノックする。
扉を開くと十畳ほどの空間の中心に、長机が向き合う様に二列と椅子が各三つずつ並べられていた。
そして、一番奥の席に一人の女性社員が座ってノートパソコンを操作していた。彼女はこちらをチラりと一瞥する。
「あ、あの……情報システム部の橘貴大です。今日はこちらで仕事を、と言われたのですが詳しい話聞いてなくて……何か聞いてますか?」
目が合ったのをきっかけに自己紹介を挟む。先客がいたのなら、今回の仕事の相手は彼女だろう。きっと、彼女が全ての事情を把握しているはずだ。
「企画部の松永です。どうぞ適当にお掛け下さい。あと、恐らく私の方が立場も年齢も下なので敬語は結構です」
松永さんはノートパソコンを操作したまま、感情の籠らない声色で言った。
「えっと……じゃあ失礼します」
そう言って俺は席に……着こうとしたけど、どこに座ればいいんだよ!?
思い返せば今の俺は完全に手ぶらだ。メモとペンくらいは持ち合わせているけど、何か仕事が出来る様な状態じゃない。
彼女と何かをすればいいのか? とすれば隣に座った方がいいだろう。しかし、こちらの存在を気にする素振りも見せず、ひらすらノートパソコンと向き合っている姿を見ると、なんとなく隣には座りづらい。
じゃあ向かいに座るか? それはそれで変なプレッシャーを与えそうで座りづらい。
結局俺は、松永さんの向いの一つ隣り、という付かず離れず微妙な位置に座ることにした。
「……………………」
とりあえず席に着いたが、松永さんは気に留める事もなく視線をノートパソコンから離さない。カタカタとキ―を叩く音だけが部屋の中に響いていた。
「えーーっと……俺は何をすればいいのかな?」
「特にありません」
「いや、特にないって……俺はここで仕事するように言われてきたんだけど、松永さんは何も聞いてないの?」
「聞いてますよ。私はここで私の仕事をします。貴方はここで貴方の仕事をしてください」
「うん、じゃあ何か一緒に仕事をするって言うことじゃないんだな?」
「貴方と共同でやるような仕事はありません」
松永さんは俺の質問に対し、全て冷たくあしらう。
ふむ。元々要領の得ない内容だったが、余計に分からなくなってきたぞ。
松永さんの話しを纏めて要約すると、今の俺は全くやることが無いってことくらいだな!
仕方が無いのでノートパソコンで作業を続ける松永さんをボーっと見つめる。
肩まで伸びた髪を上の方だけ束ね、一本尻尾を作っている。くりんと丸い瞳がとても特徴的だ。どこかの主任みたいな無表情だが、笑えばきっと可愛いだろう。もったいない。
あとは、気になったのが体格だ。椅子に座っているのでハッキリしないが、身長は恐らく非常に低い。最初に女性社員と表現したが、本当は女の子と言いたかったくらいだ。
小さなフォルムと相まって、顔立ちも童顔というか幼いといった印象。
「なんか……中学生みたいだな……」
「そう言うことは口に出さないでください」
おっと、つい本音が漏れてしまったようだ。しかし松永さんは怒る様子もなく、変わらない口調で言った。
いやしかし、最初からずっと目を背けていたが、こうも目の前にし続けるとどうしても背けられない事実と言うものは存在する。だってその存在感が半端ない。いや、別に特別俺がそういうのを好んでいるというわけではないんだ。これはもう男性の性というか、逃れられない本能であり、いやでも視線はそちらへ向いてしまう。
存在感を主張する胸元。ブラウスのボタンが今にも弾け飛びそうに悲鳴を上げている。
「松永さん……めちゃくちゃ胸でかいな」
「だからそう言うことは胸の内に留めておいてください」
いや失敬。またも声に出てしまっていたか。
全体的な見た目が中学生に見えるからこそ、その胸の膨らみがやたらと主張してくる。皆藤主任はその美貌だけでなく、スタイルも一級品で胸も結構大きい(と思う)のだが、きっとここまでではないだろう。油断すると視線は釘付けになる。
松永さんはこちらの視線を気にしている様子はないので、今ならどれだけでもその巨乳を見放題だ。しかし、勤務時間帯で何も作業をせずに後輩の胸を見続けると言う変態行為はさすがに気が引ける。一度気になってしまった以上、何かをしていないとその意識をずらすことは難しそうだった。
「そういえば……松永さんって下の名前なんて言うのかな?」
「言う必要はありません」
「まあ、確かに必要ないんだけど一応……ね?」
「言いたくありません」
「言いたくないのか……次、いつ一緒に仕事が出来るか分からないし、名字だけとフルネームって大分残る印象変わってくるから、知っておいてもいいかなと思ったんだけど……しょうがないか」
すると松永さんはキーを叩くのを辞め、軽く溜め息を吐いた。
「――――子です……」
何かをボソっと呟くように言う。申し訳ないが不意打ちだったし、全く聞き取れなくて「え?」と聞き返してしまった。
「朱鷺子――松永
彼女はノートパソコンの画面を見ながら口だけを小さく動かした。
「トキ子…………なんか、おばあちゃんみたいだな」
俺はヘラっとした表情で言う。
すると松永さんは両手でバンっと机を叩き勢いよく立ち上がった。
「さっきからあなたは何なんですか!!? 私が気にしてる事ばっかり何度も何度も!! デリカシーと言うものが無いんですか!!? いい加減、私の事なんかほっといて下さい!!!」
松永さんは顔を真っ赤にして全力で捲し立てる。なんだ、思ったより元気あるじゃねーか。
「いや、ごめん。悪気はなかったんだ。ただ、俺も仕事を任されてここにいる以上、訳も分からないままボーっと座ってるわけにはいかないもんでね。だから―――――もう少し、ちゃんと話をしてもらえないかな?」
俺の真剣な表情を見て、松永さんはスーッと荒げた呼吸を整える。どうやら俺の気持ちが通じたようだ。
「あなたみたいな最低な人と話す事なんて何もありません!!」
再び叫びながらドカっと乱暴に椅子に座る。
いやーまあ、普通そうなるよな。なにか感情を刺激できないかというつもりでやっていたが、さすがにデリカシーが無さ過ぎた。ちょっと反省。しかし、このままの状況っていうのも困るんだが、さて、どうしたもんだろう。
「でも…………質問くらいなら答えてあげます」
松永さんは俺から視線を逸らし、腕を組んで言った。組んだ腕が豊満なバストを持ち上げる。俺は思わず生唾を飲み込んだ。ごくり。
おっと、そんなことに気を取られている場合じゃない。せっかく向こうから助け船を出してくれているんだから、それに乗らない手はない。
「そう言ってくれると助かるよ。さっきと同じような内容になるけど、俺はなんでここに呼ばれたのかな?」
「私は誰かが来ると言うことしか聞いていないんですが、えーっと……橘さん、でしたっけ? 貴方は恐らく、私の引率のために呼ばれたのだと思います」
「引率? なんの?」
「今、私が作成している企画書のプレゼンが明日行われます。そのプレゼンに同行するのが貴方の役目だと思います」
「いや、その話おかしくないか? なんで俺が企画部のプレゼンに立ち合わなくちゃいけないんだよ?」
「私がまだ新人だから一人じゃ面目が立たないので、形だけでも誰かを付き添わせる、ということになっているようです」
「だからそれがおかしいんだって。なんで他部署の人間が付き添わなくちゃいけないんだよ? 普通、同部署の先輩や上司がお目付け役になるのが筋ってもんだろ?」
俺がそう言うと、松永さんはギュッと唇を噛んだ。
「あの人たちは……私が切り捨てました」
「切り捨てたとはまた物騒な物言いだな。企画部で何があったんだ? いや……その……言いたくなけりゃ無理にとは言わないが」
「いえ、いいんです。全ては無能なあの人たちが悪いんですから」
「企画部の人が無能? いや、そんなわけないだろ。それだと会社が回らない」
「無能ですよ。少なくとも私よりは。なのにあの人たちは私の言葉に耳を傾けることすらしません。「新人は黙ってろ」「新人のクセに」「入ったばかりのお前に言われたくない」だからなんだっていうんです? だったらもっとまともな意見を出せって言うんですよ」
俺は今まで関わった事が無いから内部事情は分からない。企画部には新人排他的な風潮でもあろのだろうか。いや、でもコイツ生意気そうだし上から目線でガンガン物言いされたら、そういう風潮が無くても腹立つかもしれないな。
「だから私は言ってやったんです。「あなた達には任せておけない! 今回の企画は私一人でやりますので引っ込んでて下さい!」ってね」
「言うことが過激だな! とても新人が言える台詞じゃねーよ!」
「ふん。言いたいことも言えないで、劣悪な企画が進んで行くのを黙って眺めているよりずっとマシです」
コイツ……思ったよりヤバイな。
自分に相当自信がなきゃ言えたものではないが、本来出来る出来ないに関わりなく言っていい台詞ではない。社会性が微塵にも感じられない。そりゃあ上には言いたい事たくさんあるだろうし、黙って泣き寝入りするしかないって言い切るのもどうかと思うが、組織に属する以上最低限の秩序は守らなくてはいけない。
「で、結局どうなったんだ?」
「「じゃあ勝手にしろ!!」って追い出されて、一ヶ月くらいここで一人黙々と作業しています」
「秩序完全崩壊してんじゃん!! 大変だな企画部!!」
「お陰で作業が捗りました。明日のプレゼンは準備万端です!」
松永さんは得意げに鼻を鳴らし言う。
色んな意味で大物なんだろうな。俺はさすがに呆れ顔に変わる。
「お前…………友達いないだろ?」
「ええ! いないですよ! それが何だっていうんです!!? 低俗な輩と無意味な慣れ合いしてるくらいなら一人でいた方がよっぽどマシですよ!! ていうかほんっとうにデリカシーない人ですね!! 自分だってどうせ彼女いないんでしょうから人の事言えないでしょ!!」
思ったよりよく喋る。本当は話し相手が欲しい寂しがり屋なんじゃないだろうか。それに友達と彼女は同列でまとめられないと思うぞ。まあ、確かに彼女いないけどさ。
開き直っている彼女に対して何かを言い返す気力を無くす。とりあえずこんな雑談をしていても仕方がない。
「まあ……それは置いといて、明日のプレゼンの資料見せてみろよ」
俺はノートパソコンへ手を伸ばす。
俺の役割は引率で、明日の資料が出来ているのなら、今俺がやるべき仕事はその確認くらいしか残されていない。
「いいでしょう。貴方ほどの人に私の崇高なプランを理解できるか甚だ疑問ではありますが」
饒舌になり調子が出てきたのか、言う台詞がいちいち鼻につくな。確かに企画書なんて見せられても、新人から少しだけ足を踏み出しただけの俺に理解出来るかは分からない。
俺は差し出されたノートパソコンの画面を見つめる。
一通り目を通したところで俺は驚愕した。
結局今の俺の仕事はデータ処理のなんでも屋だ。会社の経営や動向のあれこれを把握しているわけではない。しかし、目を通した資料はそんな俺でもキチンと理解が出来る代物に仕上がっていた。
とても良く現場の情報を収集・整理されていて、経営陣の意向を加味したうえで軸が明らかな分かりやすい資料。高い事務処理能力や論理的思考が出来なければここまでの物は作れないだろう。
そこにあったのは圧倒的なプランニング能力。これを一月程の時間でたった一人で作り上げたとは思えない。
確かに先輩や上司に向かって虚勢を張るだけの事はある。
でも、なんとなく少し物足りないような気がした。
「なあ。コレ、企画自体には問題ないと思うけど、過去の業務実績や利益率なんかのデータも添付しておいた方がいいんじゃないか? この企画との対比にもなるし、その方が分かりやすと思うんだが」
別になんてことはない。つい先日、自身でそういうデータをまとめたと言うこともあって不意に思いついただけだ。
しかし、俺のアドバイスに松永さんは露骨に顔を歪める。
「はあ? 貴方まで私に意見するつもりですか? そんなものは必要ありません。この企画が優れていて、より良い実績を残せるのは明白なんですから。貴方はただ私の功績を褒め称え祀り上げてればいいんですよ。余計な口出ししないで下さい」
ああ……なるほどね。ダメだこれは。
こんな調子が続いたら「勝手にしろ!」と言いたくなるわ。
能力は高いのにもったいないなあ。周りとうまく折り合えればその高い能力をさらに発揮出来るだろうに。
「いや~とても素晴らしい資料だよ! これほどの物を作れるなんて松永さんの実力には脱帽だ!! 明日のプレゼンは成功間違いなし! 楽しみで仕方がないよ!」
わざとらしさを誤魔化すつもりもなく、言われるままとりあえず適当に褒めてみた。
「ふふふーーそうでしょうそうでしょう。最初からそう言えばいいんですよぉ。橘さんも人が悪いなぁ。うふふふふ……」
ニヤニヤと変な薄笑いで松永さんは上機嫌になる。
なんだこのちょろい奴。簡単か。
不本意だがコイツの扱いが分かってしまったような気がする。
松永朱鷺子の飼いならし方――――それは、褒め殺し。
そして翌日。企画書をプレゼンする日がやってきた。
会議室に各部署の部長クラスが勢ぞろいし、タダならぬプレッシャーを放っている。松永さんの後ろにただ佇んでいるだけの俺の方が緊張しているんじゃないだろうか。
だが、ひとつだけ気になることがあった。大したことじゃないんだが言わせてほしい。
なんでうちの部著だけ参加してんのが部長じゃなくて
いや、一応部長には昨日の事はメールで報告したんだよ。そしたらなんて返って来たと思う?
〈ヴァルディオブルムが倒せない。助けて〉
いい加減にしろよ!! 思わずスマホぶん投げたわ!! もちろんクッションにだけど。
クソ……次、出勤してきたら散々文句を言ってやる。
そんな事を考えていたら緊張はどこかに吹き飛んでしまっていた。
「皆さまお集まりの様ですし、そろそろお時間なので少し早く始めさせていただきます。改めまして、企画部の松永です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
松永さんが丁寧な挨拶と共に深く頭を下げる。釣られるように俺も頭を下げた。
滞りなくプレゼンが始まり進行して行く。
彼女の高い能力は決して資料作りだけに収まるものではなかった。声の聞き取りやすさ、テンポ、資料の使い方など、どれも完璧と思える程にこなしている。
昨日は結局一度も俺の前では予行練習をしなかった。しかし、練習なくしてここまでスムーズに運べるとは思えない。きっと陰ながら何度も練習を積み重ねてきたのだろう。
それは全て一人でやると豪語した、彼女の強い意志を感じさせるものでもあった。
「以上になります。ご清聴、有難う御座いました」
最後に深く頭を下げてプレゼンを終える。
終始落ち着いた様子で、つつがなくプレゼンをやり抜いた松永さん。まだ入社して半年そこそことは思えない姿に感動すら覚えた。本当にここまでの能力があるのに、あの性格ではもったいない。
しかし万々歳で事を終えたとは思えない空気が会議室内を漂っている。
どこかの部署の部長が軽く手を挙げた。
「う~ん、内容は悪くない。まあ、その若さで良くやったと思うよ。しかしあれだな。もう少し資料が欲しい。比較対象として過去の業務実績や利益率のデータなんかもあっても良かったんじゃないかな?」
はあ……だから言ったじゃないか。いや、俺も思い付きだからここまでピンポイントで指摘されるとは思っていなかったけど、やっぱり人の意見は聞いておくものだよな。
それに対して松永さんは毅然とした態度で対応した。
「そのようなデータは必要ないと判断したので、今回は資料として添付致しませんでした」
おい、ちょっと待て。その対応はマズイだろ。この場でもそのスタンスを貫いて行く気か?
ざわつく会議室内で嫌な汗が背中をつたう。
「あのねえ。必要かどうかは君が判断することじゃないんだよ。相手がどのような物を必要とするかを予測して準備しておくのが当然と言うものだろ」
「しかし先ほど説明した通り、この企画での業績アップは歴然です。今更そのような資料を――――」
だから待てって!! なんで俺に言ったことと同じことをここで言うかな!!?
俺は居ても経ってもいられなくなって自然と身体が動く。
松永さんの肩を掴み、後ろに引きよせ、俺は松永さんの前に立った。
「申し訳ありませんでした!」
直角九十度で深々と頭を下げる。
「先ほどご指摘された資料。私が彼女に不必要だと告げました。なので、今回の準備不足は全て私の責任です! 後ほど私が責任を持ってご用意させて頂きますので、この場はどうかご収め下さい!」
あー……何やってるかな俺は。昨日初めて会ったばかりの奴を庇う義理なんてない。ましてや優秀なクセして捻くれ者の新人なんかをな。なのに俺は、あの言葉につき動かされている。
俺は頭を下げたまま固まっていた。勢いで出てきたが、頭の中が真っ白に染まっていくのを感じる。
「ああ……別に用意しなくていいよ。余興としては良い見せものだった」
「え? …………余興?」
俺はゆっくり頭を上げる。
すると会議室の扉が開き、高身長の黒ぶち眼鏡の男性が入ってきた。彼はこちらをギロリと睨みつけてくる。
「気が済んだか? 松永」
「…………課長」
松永さんはキュッと口を閉め、その課長と呼んだ男性を睨み返した。
企画部の課長だろうか。彼はこちらに近づき、松永さんの横で足を止めた。
「お前がやっていたのはただのお遊びだ。本当の企画書はこちらで用意している。早急に下がりたまえ」
「そんな……遊びって……」
松永さんは目を丸くして茫然としている。それに対し、課長は追い打ちをかけた。
「本当に会社を動かす企画を新人一人に任されると思ったのか? そもそも企画は部全体で作り上げるものだ。一個人の意見だけでどうにかしていいような代物ではない。確かにそれなりの物を作り上げた能力は認めよう。ただ、今回はお前のやる気に免じて経験を積ませてやったに過ぎない。最初から採用されることのない案だったわけだから、遊びと変わらないだろう?」
「そんな言い方はないでしょう! だって彼女は――――」
「どこの誰だか知らないが、君もご苦労だった。下がりなさい」
そう言われて俺は一歩下がる。俯いて唇を噛みしめる松永さんをの肩を軽く叩いた。
「…………出よう」
俺は松永さんを引き連れてゆっくり会議室のドアへ向かった。
「貴重なお時間を頂き、有難う御座いました。失礼します」
そう言って頭を下げ、会議室を後にした。
会議室の扉の前で松永さんは身体を震わせる。
「悔しい…………悔しいっ!!」
そう言いながら大粒の涙を流す姿は、ただの中学生の女の子の様にとてもか弱く見えた。
「とりあえず外に出るか」
多分、今日はもう仕事にならないだろう。俺たちは会社の外にあるカフェに向かった。
緑に囲まれたテラス席で、飲み物を飲みながら互いの気持ちを落ち着かせる。
言い方はともかく、言い分は圧倒的にあの課長の方が正しかった。余興というか前座? としてでも新人にあそこまで好き勝手にやらせていたのは温情ともとれる。
松永さんは向いでストローを咥えながらボーっとしていた。少しは落ちつた様だが、心ここにあらずといった感じだろうか。
「こんな事にまで付き合わせてしまってスミマセンでした」
変わらずボーっとしながら感情の籠らない声で言う。
「まあ、気にするな。これを生かして、次からはちゃんと周りに協力してやっていけばいいじゃないか」
「いやあ……私もそこまでバカじゃないんで、こんな自分勝手な意見がまかり通るとは、最初から思ってなかったんですよねえ……」
「それが分かってて、何で自分の意見を貫き通した?」
「だって……決まりきった上下関係とじゃ面倒臭いしブチ壊したいじゃないですか。私みたいな超絶優秀な人間が、完全実力主義の下剋上を果たしてやろうと思ったわけですよ」
「お前はただの大馬鹿野郎だよ……そういうのは胸の内に閉まっておけ」
「むっ。貴方に言われたくないですね。デリカシーの欠片もない橘さん」
不満げな視線をこちらに向けてくる。少し調子が戻ってきたようで安心した。
「そもそもさっきのアレは何ですか!!? なんであんな嘘を吐いてまで私を庇うんですか!!? 私の事なんてほっといて後ろで「だから言ったじゃないか。人の意見はちゃんと聞いておけよ」とか嘲笑ってれば良かったんですよ!! ああいうので俺カッケーーー!! してるつもりでしょうが、私のプライドは深く傷つけられました!! 謝罪を要求します!!」
いや……まあ、確かにそう思っちゃいたけど、嘲笑えばいいってどんだけ捻くれてるんだよ。そこでプライドが傷ついたとか言われてもなあ。
「人の上に立つ人間は仕事が出来る奴がなるんじゃねえ。部下を守ってやれる奴がなるもんだ」
「はあ? 何カッコいい事言おうとしてるんですか? そんなに俺カッケーー!! して悦に浸りたいんだったら痛すぎるんですけど」
「受け売りだ。俺の言葉じゃねえよ。それに俺はお前の上司でも先輩でもないしな」
「受け売り……ですか。そうだとしてもそれが何だって言うんです? 私は謝罪を要求しているんですけど」
「いや……俺の尊敬する人の言葉なんだよ。俺はまだ入りたての新人の頃、その言葉に助けられた。お前を庇ったのもこの言葉に突き動かされたからに他ならない。だから謝罪はしない。その傷ついたプライドにこの言葉を刻みつけておけ」
「ふ、ふん……結局俺カッケーー!! したいだけじゃないですか……」
松永さんは俺から視線を逸らし、呟くように言う。
「お前は仕事が出来るだろ。だったらいずれ人の上に立つこともあるはずだ。その時は少しでいいから、自分の下の者を守る気持ちを思い出して欲しい。そういう上司っていうのはな、自然と部下が付いてくるもんなんだよ。俺はそう言った立場になれるか分からないからな。せめてこうやってあの人の意志だけでも伝えたいって思ってるんだよ」
松永さんは視線を逸らしたまま黙って聞いていた。本当に少しでいいから、伝わって欲しいと願うばかりだ。
「下を守るって……自分が泥を被らなきゃいけないじゃないですか。それって、どんだけお人好しなんだって思いますけどね」
「確かに簡単な事じゃないだろうよ。まあ、下から見れば部下のケツ持てないような上司はクソって思うけどな」
そう、どこかのハゲのように。
「なんにしろ、私には無関係な話ですね。きっと……私にはもう帰る場所はありませんよ」
「は? ……どういうことだよ?」
「だって、自分の意見押し通して部署の人には迷惑を掛けました。そんな私を今さら受け入れてくれるとは到底思えません。最悪、クビすら覚悟していますから」
「そんなことはないだろ。あの課長だってお前の能力は認めてたんだ。まずは今回の件、ちゃんと謝罪しろ。そうすればお前の居場所はちゃんとあるはずだよ」
「そう……ですかね…………うん、そうしてみます」
なんか急にしおらしくなって女の子っぽい雰囲気を醸し出す。捻くれないで素直になればこんなにも良い子になるじゃないか。この調子でいければ、この子の先も明るく照らされるだろう。
俺は飲みかけのコーヒーを手にとり席を立つ。
「さて、俺の役目はここまでだな。じゃあ元気でやれよ」
「はい、二日間ありがとうございました」
俺は松永さんに背を向ける。
「あ、あの……もし、また一緒に仕事をすることがあれば……また、守ってもらえますか?」
「そうだな……また、一緒に仕事をすることがあれば、だな」
そう言い残して俺はカフェを後にする。
松永さんのプランニング能力は相当なものだった。周りとうまく関係が築ければ企画部で上に上がる日もそう遠くないだろう。
そうなった時の彼女と一緒に仕事をする日が来るかは分からない。
もしかしたら立場が逆で、俺の方が守ってもらうなんてこともあるかもしれない。
それはそれで悪くない。
願わくば――いつかそんな日が来てほしいとさえ、俺は思っていた。
土日を挟み鬱な気分が漂う月曜日。今週もまた例のサイクルが始まってしまう。
そんな重苦しい気持ちを抱えながら俺はオフィスへ入る。
すると、俺のデスクの隣に、中学生の女の子が座っていた。いや、中学生の様な捻くれ者が何故か居た。
「…………なんでお前がそこに座ってるんだ?」
「あ、おはようございます! 本日からこちらへ異動になった松永です! よろしくお願いしますね!」
松永さんは元気の良い笑顔で言う。
「いや……だからなんでここに異動になったんだよ?」
「先週、辞令が出たんですよ。そのくらい、少し考えれば分かるでしょう?」
「そこは素直に受け入れたんだな! どうせならそういうのもブチ壊してこいよ!!」
「はあ? バカなんですか? 辞令を拒否できるわけないでしょう。それこそ本当にクビになっちゃいますよ」
「ああ、そうだな! お前が正しいよ!!」
「まあ、やっぱり企画部からは追い出されちゃいましたけどね。でもちゃんと私にも居場所はありました! 今日からはこちらで精一杯頑張っていきますね!」
やる気満々のキラキラした表情で言う。
いや……確かに最後ちょっと良い感じに締めたけどさ。
でもこういうことじゃないんだよ!!
お互い別の部署でそれぞれ頑張って、何年か経って少しでも地位が上がった時に再会する。そういば昔あんなことがあったなあ、とか、今の私があるのは橘さんのお陰なんですよ、とか笑って話せる未来をちょっとだけ想像してみたりもした。
でも、同じ部署で一緒に仕事をするような未来は想像していない!! というかこうなってくると話は全く別物に変わる。
まあ、俺もいい感じになるように、それなりに気の利いたアドバイスをしたつもりだよ。でもそれは松永が他部署の人間であって、今後自分とは関わることが無いっていう前提があったからね。よそはよそで、どうぞご自由に好き勝手やって下さい、っていうスタンスだったからね。
ハッキリ言おう。俺は松永と一緒に仕事をするなんて勘弁してほしい!! だってコイツ絶対面倒臭いじゃん!!
もう、暗雲立ちこめる未来しか想像できない。
「何かあったら、また守ってくれるんですよね? 先輩」
松永は上目使いのブリっこを気取る。
「お前に先輩とか言われると虫唾が走るわ」
「相変わらずデリカシーのない人ですね。隙あるごとに私のおっぱい凝視してたの、ここの女性社員にバラしてもいいんですよ」
「断じてそんなことはしていないぞ! あらぬ虚偽をばら撒こうとするんじゃない!」
そう、せいぜいチラ見程度だ。
あーーーークソっ……なんでこんなことに……
そうだ……部長――部長はどこ行った!? 見回してもみても、今日も今日とてその姿が見えない。
まさか――本当にずっとゲームしてんのかよ……
とりあえず松永の事の詳細を聞くために部長にメールを送る。すぐに既読が付き、返信が返ってきた。
〈宝玉が出ない。助けて〉
しらねーよ!! もう一生モンスター狩ってろよ!
〈ちゃんと捕獲してますか? 剥ぎ取りよりも捕獲報酬の方が入手確立高いはずですよ〉
一応ちゃんと返事は返しておく。最新作はプレイしていないが、きっとそういうところは変わらないだろう。
しばらく時間が空いて、また部長からの返信があった。
〈彼女の事、よろしく頼む。何か問題があったら俺がなんとかしてやるから安心しろ〉
いや……松永が異動してきた事自体が大問題なんですけどね。結局なんでこうなったのかは分からないし、有休とってゲームしている人に言われてもなんの安心もできない。
しかし、俺がこうやって伸び伸びと仕事が出来ているのも、部長の後ろ盾があるのは否定できなかった。それに、こんな面倒事であっても、頼られていると言うのは悪い気がしない。
〈もう、部長に守ってもらうばかりではないですよ。松永さんの事は任せておいて下さい〉
俺は後から後悔したくなるような見栄の張った文章を、心から尊敬している上司へ送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます