第9話 正立桂馬とアキレス
「先輩、やっぱ走りましょうよ」
食堂でばったりと出会ったヘレナが僕の隣に座る。僕は天ぷらうどんで、あいつは大盛りのカツカレー。
周りの視線が刺々しく、ヘレナのファンが僕を睨みつけた。『お前ごときがなぜヘレナのそばに?』って感じ。
しかしまあ、あれだけバッサリ言ってしまったのに。ヘレナは僕を諦める気はなく。顔を合わせるたびに僕を誘ってくる。
最初は「嫌だ」とか「バイトあるし」と理由を作って断っていたけど、ヘレナは意に介さなかった。
「バイトない日でもいいんで、一緒に部活しましょうよ」
「結構つめつめで入れてるからそんな余裕ないよ」
「ウチは頑張ってる先輩が見たいんっす。四の五の言わずにやりましょうよ」
こちらの都合も考えないで我儘に振る舞うあいつ。中学時代でもそういうところがあった。
堪え性のない大型犬って感じで、散歩中にリードを引っ張りまくって飼い主を困らせるタイプ。
それがヘレナの可愛いところだと思っていたし、周りも魅力的だと感じていたに違いない。いわゆる、ムードメーカー。
「悪いけど、無理なものは無理。僕がいなくても頑張れるくせに……」
けれど、なぜ僕なんかにかまうんだろうか。こんな何も持っていない凡人の僕に。
あいつはトップクラスの陸上選手で、周りからチヤホヤされている。ニュースで取り上げられるくらいに知名度があって。しかも、あの中性的な美貌で男も女もメロメロ。あいつには常に囲いの人間がいる。
『前人未到の大記録! 未来のオリンピック候補確定か!? 誰もが羨む最速美少女高校生:猪之頭ヘレナ!!』
鮮烈なキャッチコピーと共に、堂々とマスコミで取り上げられる。やっぱり、あの時とは更にかけ離れた、雲の上の殿上人だ。雲泥の差とはこの事を言うのかもしれない。
それなら、周りにいる僕よりもすごいやつと仲良くすればいいのにって思うけど、ヘレナの中では違うのか。
とてもこそばゆいものでもあり、自分の矮小さを直に感じざるを得なかった。
「先輩、ウチのこと避けてますよね? どうして、こんな可愛い後輩のお願いを聞いてくれないんっすか?」
「自分で堂々と可愛いって言える度胸が欲しいよ」
「ウチが可愛いのは当然じゃないっすか………いや、はぐらかせんでください!」
そろそろ、うどんが伸びないように食べたいんだけど。ヘレナもカレーが冷めないうちに食べればいいのに。
けれど、ヒートアップしたあいつを止めるのは難しい。自分の決めたことに関しては強引にでも突っ込んでくるからだ。そんなに僕がいいのか? なにか、思い出を美化し過ぎな気もする。あの時、自分も楽しかったとはいえ。
「そろそろご飯食べたいんだけど」
「………分かりました。けど、ウチは絶対に諦めないっす」
黙々と不機嫌になりながらカツカレーを頬張るヘレナと、気まずい雰囲気で天ぷらをかじる僕。
こうしてみると、一緒にご飯を食べたことはなかったので妙に意識してしまう。
やっぱ、横目で見ると、とんでもない大人びた美少女になってるのは確かだ。スプーンを動かすたびに揺れる、Yシャツで引き締まった大きな乳房。男の本能なのか、どうしても視線を合わせてしまう。
「スケベっすね……」
軽蔑するように吐き捨てた言葉に、ぐさりと心臓を射抜かれる。
女の子は妙な所で鋭い。男よりも周りを観察する力があるんだと思う。東風谷もそうだ。
しかし、ここに東風谷が居ないのが唯一の救いなのかもしれない。あいつは弁当派だからだ。
もしも、この状況を東風谷が見たらどうなるんだろう。やっぱり、嫌われてしまうのだろうか。それは嫌だ。
「ごちそうさまでした。じゃあ、お先にっす」
いつの間にか完食してしまったカツカレー。お盆を持ち上げ席を立つヘレナ。
ひらひらと際どい紺色のスカートが舞い、きれいに整った背筋が女豹のように反り立つ。
僕がまたうどんを口にしようとした瞬間、あいつは後ろを振り向いた。
「絶対諦めないっすから。先輩の背中を追いかけてみせます」
大した人間でもなければ、立派な先輩でもない。けれど、ヘレナは頑なに僕を称えると言うか。
困惑で頭をかきながら、僕はううんと唸ってしまう。
なぜ、僕の背中を追いかけるのか。それは、まるでアキレスと亀のパラドクスだと思った。
アキレスはギリシャ神話でもトップクラスの俊足の持ち主。それをのろまな亀と競争をするんだけど。
常に亀はアキレスよりも先にいて、絶対にアキレスは亀を抜かすことが出来ないと言う問題。中学生の数学のときに聞いたことがあった。割とポピュラーな題材だと思う。
これはなぜそのようなことが起きるかと言うと、空間と時間が要因だからだ。
たとえば、アキレスが亀に追いついたとしても、亀はちょっとだけ先を行く。それに対して、距離と時間については言及されてないのがミソだ。
ほんのちょっとの時間、距離がゴールだとすると、亀は先にゴールに着いたことになる。時間にしてみれば、0.1秒差、次は0.01秒差、その次は0.0001秒差。ちょうど右肩下がりの二次関数を見ている感じ。
ヘレナにとって、僕は亀なんだと思う。僕にとっても驚異的な速度で成長するヘレナはアキレスそのものだ。
だけど、亀はのろまでしかなく、現実はパラドクスのようにはいかない。
僕の背中をすでに追い越しているのに、なぜ僕に亀の役をやらせるんだろうか?
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