第4話 東風谷奏美と東風吹かば

 東風こち吹かば

 匂いおこせよ 梅の花

 主なしとて 春な忘れそ

 

 私が初めて覚えた百人一首の短歌。ちょうど小学生のかるた大会の時だったと思う。


「これ、東風谷こちや東風こちじゃないの?」


 ある子が私の名前と同じだと言ってきた。私もそうだねと頷いた。

 東風谷という名字自体がとても珍しいものなので、私も最初は他の人と違うって悩んだこともある。

 だって、東風って『ひがしかぜ』って読まずに『こち』って読むものだから。どちらも小学校で習う漢字なだけに、イレギュラーな感じがして嫌だった。

 それでいじられたこともあって、言い返せなくて悶々としたことだってある。『ひがしかぜたに~』とか言われて。

 

「これは遠くに転勤させられた道真みちざねっていう賢い人の短歌だ。主人である自分が居なくても、京の都に咲いている梅が春の風である東風が吹いた時に、忘れずに芽吹くようにって願いを込められているんだ」


 道真ってなんなんだろうと、歴史を知らない私にはとんと分からないものだった。

 東風という言葉にとても興味があったので、帰りに図書館で東風について調べる。


「春になると訪れる、東からの風で『こち』と言う。梅も春の華だから、匂い芳しく華麗に咲いて欲しいってことなのか」


 日本の三大怨霊の1人になった道真の悲哀を、当時の私は理解できなかった。

 身分は低かったけど、その才覚1つで大臣まで上り詰めた男が、あらぬ罪状で左遷されてしまう悲劇。

 そういえば最近、山月記を現国で勉強したけど、ちょっと似ているかもしれない。


「私の名字って変じゃなかったんだ」


 はっきりいって、意味とか由来よりは。自分の名前が由緒あるものだということのほうが大事だった。

 普通ってだれもが憧れる言葉だと思う。逆に言えば、普通じゃなかったら変じゃないかって歯がゆい。

 私はそうやって自分が嫌いだったりしてた。人の話を聞くのが苦手だったり、集中するのが苦手だったり。

 自分は人とは違って個性的なんだなって、飲み込めるまでに時間がかかったと思う。

 でも、この東風吹かばの短歌で、私は少しだけ自分を認められた気がした。


 □   □   □


 目覚ましの音がすごく頭に響く。体が早く起きろとせっつくけど、体はとてもけだるくて動けない。

 鳥は朝早くから鳴いていて、元気を分けてもらいたいなぁとか考えてた。

 

「奏美! 早く起きろ」


 いつもどおり、兄がノック無しで部屋に入ってくる。

 体を揺さぶって私を起こそうとするけど、布団にくるまって抵抗してみせる。

 けれど、力に勝る兄は布団を引っ剥がして、ほっぺたをムニムニと揉んできた。

 

「お兄ちゃん、セクハラ……」


 ぼんやりとした視界が徐々に晴れていくが、相変わらず頭はちっとも働かない。

 低血圧ってほんと理不尽なほどに朝起きるのが辛い。ぐっすり寝られれば違うんだけど。

 背中に手を当てられ、ゆっくりと上半身を起こしていく。目をこすって、仄暗い部屋を眺めた。


「ちゃんと朝ごはん食って、学校に行け」


 かっちかちに固まった体を強引に動かし、ベットから降りる。

 そのままよちよち歩きで部屋を出て、手を引っ張る兄と共に洗面台へと向かう。

 

「顔洗う……」


 目覚まし代わりに洗面台で顔をジャブジャブと洗った。体に染み渡る冷水で、少しだけ意識がクリアになる。

 その後ろで兄が私の寝癖をブラシでいてくれた。いつもながら、手間がかかるのにありがたい。


「ほんと、寝癖ひどいよな」

「うっさい……」


 ガシガシって最初はやられてたけど、この歳になってくると兄も手加減が分かってきたようだ。

 しかし、あんなに巨体で筋肉も付いてるのに、器用なんだから驚く。大学で総合格闘技家を目指してたけど、膝をやってしまって。それから、必死に勉強して法学関係の学者になろうとしてる。純粋にすごい。

 兄曰く、どんな辛いことも、格闘技のスパルタ式に比べたら屁でもないそうな。

 

「これでよし。じゃあ、朝飯食おう」


 タオルで顔を拭いてから、兄の背中を追う。

 

「さっさと食べなさいよ」


 食卓についてから、母に差し出されたトーストとソーセージを口にした。

 でも、どうしても私は低血圧ゆえのけだるさで思うように嚥下することが出来ない。


『今年の夏はとても暑く、去年と比べて猛暑日が続くでしょう――』


 ニュース番組をぼーっと見る。霞がかった頭はまどろんでいく。

 こういうときは思考を一時的にシャットダウンしてしまい、うつらうつらとしているのが楽だ。

 ただ、頭を動かしていないと眠ってしまいそうなので、なにか別のことを考える。

 

「どこ向いて食べてるんだ?」


 父が不思議がって私に尋ねた。いつものことだ。人に話しかけられて、私はやっと意識を取り戻す。

 

「なんか、ぼーってしてた」


 受け答えも同じで、家族は私を心配そうに見てくる。

 どこを向いて食べてるかって言われても、どう答えれば良いんだろう? 明後日の方向?

 

「休日、ちょっと出かける」


 正立君と映画を見に行く約束を思い出した。まあ、まだ日曜日は先なんだけど。

 ただ、ちょっと朝早いので遅刻しないように行けるかは気がかりだけど。

 

「何しに行くの?」

「正立君とヴェッセルパークで映画見る」

「ああ、クラスメイトの子ね。男の子とデートってやるじゃん」


 母がニコニコと笑っている側で、父と兄が少しだけ不機嫌そうだった。

 娘・妹ってそんなに過保護なものでいいのだろうか。たかだ、異性と遊びに行くだけなのに。

 

「ちゃんと夜には帰ってくるんだぞ」


 釘を差すように父が言う。高校生なんだから、それぐらいの分別は付いてるつもりだけど。母もこくりと頷いて見せた。

 

「朝ごはん、ちゃんと食べなさいよ」


 口が思うように動かず、私は食べることに集中できなくなってしまう。

 朝ごはんに関しては、私はゆっくりと食べる習慣が出来てしまっている。低血圧って本当に厄介だ。

 なにもない休日だと、30分かけて食べることもあって。食器が洗えないじゃないって母に怒られるので、自分の食器は自分で洗う癖がついてる。

 この体も本当に難儀してしまう。私の意志が薄弱なだけなのだろうか。抗えないものは抗えないので、諦めてしまっても良いものだと思っていた。

 

 

 玄関から出る前に、兄はいつものように私に100円をくれた。

 

「いつものお駄賃だ」


 髪は女の命だから、いつも髪をいてもらったときはお小遣いをくれる。髪に触れさせてくれたお礼だとかなんとか。キモい。

 それでも諸々してもらっている分、申し訳ないなって思うけど。いつもの習慣なので気兼ねなく貰った。

 父も娘に優しい方だけど、兄はシスコンが過ぎるなって常々思う。仲が悪いよりは100倍良いのかもしれないけど。ちょっとだけ鬱陶しいなって思う。

 

「今度、正立ってやつを紹介しろよ」

「やだ」


 兄として見定めてやると言わんばかりのセリフにちょっとだけイラっとした。

 家族と言えど他人の人間関係に繰り出されるのはあまりいい感じはしないし。

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