第8話 線香花火
腹下したってよ、と大西先輩が言ったせいで、翌日おれは笑われた。
「小西大丈夫?!コーラック飲む?!!」
「それ出す方の薬だろ。トドメ刺す気か」
二葉さんに突っ込む大西先輩を、おれはいつも通り笑った。
サッカー部は勝って二回戦に進んだ。全国の強豪を相手にした疲れを癒す間もなく、今日も練習をしている。
おれはもう何も考えたくなかった。サッカー部が勝ったことも、東高が負けたことも、じゃあおれらだったらどうだったかなんてことも。なにも。
「あれ?小西どうしたの?」
「混ぜてもらいに来た」
水泳部の更衣室で顔見知りに声をかけられてそう返す。
わざと水泳部の中でも速い奴らのレーンに混ざって泳いだ。プールの底に太陽の光。きらきらと光って揺れてる。
「午前はここまで!上がってー」
練習終わりの水泳部長の声で上がり、頭を振る。プール脇の策にかけてあったタオルを手に取って空を仰ぐ。
泳ぎはじめて丸々三時間。久しぶりに使った筋肉がきしむ。
たまに話す同級生が隣に来て、こにしー、とおれを呼んだ。
「お前午後も混ざるの?」
「いや、自分の部に行くわ。お前らあれまだやるの?タフだな」
「まあ、水泳部だから」
「そりゃそうか」
そうやって笑って、午後は都々逸部に行く。いつも通りの火曜日。
「あっつ」
パタパタと下敷きで顔を仰ぎ、ぐったりと天井を仰ぐ部長のもと。
「あーやる気しねえ」
一緒になってだらりと椅子の上で伸びる生徒会長。
「小西、お前毎日何してんの?」
「肝試しの準備を少し。あとは泳いでます。水泳部に混ざっていいって言われたんで」
「プールか。いいな」
「不純な動機じゃないっすよ」
「プール……?」
本を読んでいた二葉さんの耳が動いてこちらを振り返った。
「大西!大西は行かないの?!」
「おれまだ泳げねえもん」
「中西!中西は!!!」
「やだよ。なんでそんな疲れること」
「ダメよ行かなきゃ……!!夏の空、塩素の匂い、プールで腹筋を晒す男子・・・ふはは、ふはははは、あはあはあはあははははははは!!!!!」
怖い。超怖い。
「つーか平田たち遅いな。何してんだ?」
「おやつ買いに行くって言ってたぞ」
そんな二葉さんを尻目に、何事もないかのように普通に会話する先輩たち。
「戻りましたー!」
笹谷の声がして第二視聴覚室の扉が開いた。一緒に戻ってくる女子たち。後ろに平田、佐倉、当麻。
「小西!」
平田がおれを呼んで、水色の何かが宙を飛んだ。受け止めるとヒヤリと冷たい感触。投げて寄越されたおれの好物。
「他の味もあるよ!ナポリタンとか!」
平田の隣で笹谷が手をあげる。
「ガリガリ君はソーダだろ」
東のときと同じように返事をして笑う。
ざらざらとスーパーの袋から出てくる菓子をそれぞれ手に取り、思い思いに席についた。
シュークリームを開ける大西先輩。チョコパイとハッピーターンを見比べて真剣な顔の当麻。その隣では佐倉が二葉さんをけしかけていて、ガリガリ君ナポリタンを今まさに開けようとしている。
「さすが二葉さんチャレンジャー。素敵です」
「わわわ、おいしいんですかねそれ?!」
「なにごとも!経験よ!!!」
それを見て笑ってる中西先輩。おれは手の中の水色の袋を開けながら平田の方を向く。
「金は平田に払えばいいのか?」
「おごってあげる。……から」
いつもより少し低い声。
「早く元気になって」
平田はお見通しのようだった。居心地が悪い。
「元気だよ」
「嘘つき」
目を合わせられないおれを、平田は呆れたように笑った。
肝試しの用意は着々と進んでいた。暇に任せて手伝うために第一美術室に足を運ぶことも増えた。東や浅井と携帯でやり取りをするようにもなった。
「明日は来る?」
「行く」
「わかったー」
そんな簡単なメッセージだけで、都々逸部の活動がない日も当たり前のように学校に向かい、美術部に行く。
グランド脇で満開のひまわりの横を通りすぎる。がらりと扉を開けると、思ってもいない先客がそこにいた。
「げ」
思わず声が出た。栗原。なんでここに?
「発案者が来たな」
「……なんで先生が?」
「いちゃ悪いか」
芦屋さんと向かい合って座り、麦茶を飲んでいる。
「お前の悪だくみを聞いてたところだ」
「悪いことなんかしてないですよ」
「夜の学校に忍び込んで肝試しをするのは良いことか?」
「許可は取ってあります。顧問も立ち会いますし。そんなことより先生、練習行かなくていいんですか」
外に目を向けるとサッカー部員たちは今日も汗だくで練習をしている。監督兼顧問は暇じゃないはずだ。
「後から行く。お前も来るか?」
「いえ、大丈夫です」
「そんな風に意地張らなきゃ、全国の景色を見せてやったのに」
「サッカーじゃ意味ないすよ」
「意味のないものなんてない」
ぐっ、と手のひらを握り込んだ。人の気も知らないで。
力を込めて床を踏みしめていると、かくっと膝が折れた。驚いて後ろを見る。
「なんだよ!」
「ひっかかったー!」
人に膝かっくんをキメた東が、楽しげな笑顔でおれの前に紙を差し出した。
「順路決めたよ。栗原先生に見てもらってたんだ」
「え?」
「栗原先生、芦屋さんと茶飲み友達だから。OKもらっといたら心強いでしょー」
芦屋さんが栗原と仲良いなんて知らなかった。 確かに心強い。もうこの件に横やりが入ることはないだろう。
差し出された紙を受け取った。正門から入って中央階段を二階に上がり、廊下を端まで歩いて東階段から四階へ上がる。
理科室に寄り、三年のクラスをいくつか通って三階へ。
三階端の第二視聴覚室に置いてある短冊を一枚取り、渡り廊下を渡って西棟へ進み、一階まで降りて中央棟に戻って正門から出る。
……よくできてる。これなら参加者が複数で時間差で回ってもバッティングすることはない。スタートとゴール地点が同じだから集合場所も一箇所で済む。
「あと、ビラも作ったよ!」
「各自懐中電灯を持参。制服での参加不可、汚れてもいい私服で……?」
嫌な予感。
「お前ら何するつもりなんだよ……」
「肝試しなんだから、肝を試すんだよ、小西」
影野が意味ありげに笑う。
「じゃあそろそろ行くぞ」
麦茶を飲み干して栗原が立ち上がった。
「暑いから気を付けてくださいねー」
芦屋さんがにこやかに手を振る。おう、と答えた栗原がこちらを向いて、目があった。
一緒には行かない。でも。
「……二回戦。勝てるといいですね」
「応援来るのか?」
「はい。部のみんなで」
強がって言った。なんてことない。大丈夫。今度はあんなことにはならない。
「そうか」
短く答えて背を向ける栗原。
「麦茶ご馳走様」
緑のジャージをひるがえし、便所サンダルを鳴らしてサッカー部に向かう。その背中を見送った後、芦屋さんがうーんと全身で猫みたいに伸びた。
「栗原と茶飲み友達なんて奇特ですね」
「そう?なんかみんなそう言うけど、気のいいおっさんじゃん。好きなんだよねおれ」
奇特だ。間違いない。
「欲を言えば、腹がもっと出てると素晴らしいんだけど」
「は?」
「セク腹したいね」
「は?セクハラ?栗原に??」
冗談を言ってるわけでもない芦屋さんの顔に、思わず眉間にシワが寄る。
「ちょっと意味がわかんないです」
おれのその反応に、芦屋さんは我に返ったようにしまった、という顔をした。
「今の話は内密にね。先生に言ったら窓から除毛剤散布するよ」
「もう野球部じゃないんで、あんまり外にはいませんよ」
「あ、そうだった」
「逆に栗原がツルツルになるんじゃ」
「それもいいね」
「いいんですか……?」
「あ」
口を抑えて、笑う。
「まあいいや。許可ももらったし、こっから先はおれたちがやるから。小西ももう立ち入り禁止な」
「わかりましたけど、ほどほどにしてくださいよ」
「それは無理だろ」
「ちびらせてやるぜー!」
東が後ろでぴょんぴょん跳ねてる。バーカ、と笑ってビラを返した。
美術部に来れるのは今日までか。このままじゃ毎日水泳部に入り浸ることになりそうだな。
一抹の寂しさを覚えながら、またな、と美術室を後にした。
「法事?」
家で昼飯を食いながら母親の言葉を聞き返した。みーんみーん。蝉の鳴き声に、手にした器でからんと音を立てる氷。
「前に言ったでしょ、おじいちゃんの三回忌よ。信秋おじちゃんとこ行くんだから」
「てことは、泊まり?」
「三泊四日!ついでに美味しいもの食べて来よ。いつものお寿司ご馳走してくれると思うし」
サッカー部の応援のことが頭をよぎった。ちらりとカレンダーを見る。
二回戦は行ける。三回戦は行けない。
……別にいいか。おれがいたってどうもならない。
「わかった」
久々の遠出を楽しみにしている様子の母親に頷いて、目の前の素麺をすすった。
その週の木曜日、サッカー部の二回戦が行われた。
前と同じように部と生徒会の面々で集まってスタジアムへ行き、観戦をした。
堪え忍ぶような試合だった。見てるこちらまでジリジリと胸が焦げ付くような。
西高は明らかに攻め込まれていた。しかもずっと。
卜部が何度も跳んだ。何度もボールを弾き返した。接触で肩を踏まれてうずくまる姿に応援席から悲鳴が上がった。
「卜部先輩!!」
取り乱した泣く声まで聞こえた。
「大丈夫かな」
「大丈夫だろ」
眉をひそめる平田に、そうであるように祈ってそう答えた。
猛攻を受け、それでも突破されない鉄壁の壁。
サッカーのことはよくわからない。でも、それが卜部の声で持っているのがわかった。上から見ているだけで伝わる気迫。
攻め込まれて、でも凌いで、少し流れを取り戻した後半。卜部が蹴り上げたロングボールが綺麗な放物線を描き、広丸さんがつないだそれが前線に通った。
駆け上がる南野。
見たこともないくらい必死の形相で走り、誰にも追いつかれないまま足を振り抜いた。
応援席のあるおれたちの目の前でゴールに突き刺さるボール。
声が。爆ぜる。
「みーなみの!みーなみのっ!!」
応援席が一つになってエースの名を呼ぶ。南野が拳を突き上げてそれに答える。
1-0。そこからしばらくして、試合終了を告げる笛が鳴る。
そうしてサッカー部が三回戦進出した、その翌日。
水泳部の部室に向かう途中、あまりの暑さに渡り廊下の水道で足を止めて蛇口をひねった。水くらい飲んどかないと死ぬ。
蛇口に屈みこんだところで長身の影が横を通った。見覚えのあるシルエット。
卜部だった。
「おつかれ」
「うん」
頷いておれの横に腰を下ろした。水を飲みながら横顔をちらりと見る。
なんだか浮かない顔だった。こんな顔をしているのは珍しい。昨日の試合を思い出した。疲れてるのか。
「昨日しんどかったろ。頑張ったじゃん」
水を止めて言うと、卜部は座ったままこちらを見上げた。
躊躇する気配。少し間を置いて口を開く。
「おれが活躍するようじゃ駄目なんだ、本当は。おれは目立たない方がいい」
でっかい体を縮めて下を向いてる。
思わず笑った。損な性分だ。
「お前っていつもそうなの?それともゴールキーパーがみんなそうなの?難儀だな」
自分が活躍してもそんなこと言って、勝っても失点に落ち込んで、失点がなくても誰かの貢献を讃えて。
それじゃお前はいつ報われるんだよ。
「いや……おれは全体を見てたいんだ。別にかっこつけてるわけじゃなくて、そうじゃないと落ち着かない」
「かっこつけてるなんて思ってねえよ。お前はすごかった。それだけ」
卜部は黙った。
暗い。らしくない。
「なんて顔してんだよ」
水で濡れた手を卜部の頭上でパッと開いた。水滴を降らせて、目が合って、おれはわざと笑ってみせる。そんな顔すんなよ。
「そうだ、八月の終わりに学校で肝試しやるから。お前も来いよ」
「あ、うん。中西さんから聞いた」
「そっか」
その辺は抜かりないか。中西先輩のやることだし。
じゃあな、と背を向けた。卜部は練習だ。おれもそろそろ泳ぎに行こう。
「小西!」
呼び止められて振り返る。いつのまにか立ち上がっていたでかい影がいつも通り笑ってた。
「さんきゅー、な」
「おれに礼なんか言わなくていいよ」
何もしてねえもん、と言い、手を上げて別れた。
西高サッカー部。全国大会常連校の花形。たぶん来年主将になるであろう、精神的主力の二年生。そんな奴でもあんな顔をする。
まあでも、そんなこともあるか。誰でもそんなときがある。おれにだって。
そう思った。
水泳部の練習はハードだった。こっちも総体前。当然といえば当然。
「だからって全力で付き合うことないじゃない。そんなになってまで」
泳ぎまくって疲れてぐったりと第二視聴覚室で休むおれを、平田が呆れたように眺める。
「でも、気は紛れる。平田も来るか?」
「私はいいよ」
首を振る。
「小西。勉強もしなよ」
せっかく出来た時間なら、そうしなよ。志望校決まってるんでしょ?
珍しく真面目な顔で、平田はおれに忠告をした。
確かに行きたい大学も学部も決まっている。おれの今の成績では行けるかどうかは五分。もう少し確率をあげるべきだ。
「わかってるけど。つーかお前真面目だよな」
「そうかな。普通じゃない?」
平田は部活のない日もよく第二視聴覚室に来ていた。今も予備校のテキストを開いている。夏期講習。高二の夏。
うちの三年たちはどうしてるのかな、と思った。勉強とか。してんのかな。野球をやってたはずの、この時間で。
「小西?」
「……あー、そうだ。おれ明日から北海道行ってくる。法事で」
「そうなの?」
「うん」
「部活は……」
「来れないから、よろしく言っといて」
「サッカー部の三回戦も?」
「おー。みんなで行って来て」
「うん。わかった」
サッカー部の三回戦。
何事もないように行けないと言ったけど、本当は少しホッとしていた。
北海道は涼しい。法事とはいえ避暑にもなるほどに。
「おー、秀秋。元気にしてたか」
「元気ですよ。伯父さんも元気そうで」
父親の兄に当たる伯父がおれたち家族を出迎えた。
お前らは制服でいい、言われた通りの格好で法事の会場のホテルに向かう。よく制服を着る夏だ。
「お前野球ダメだったんだって?」
「うん。先輩が事故って」
「そうか」
雑談をしながら会場に入る。
「世の中はなかなか思い通りにはなんねえけど、まあ、それも人生だ」
「説教くさ」
「生意気言うな。はじまるぞ」
葬式のときも喪主だった伯父は、真面目な顔になって一番前の右端に座った。
焼香と読経が終わって食事が出てくると、当然のように酒盛りになった。
はー終わった、と礼服のネクタイを外して肩を回す伯父。
おれもそれに倣ってシャツのボタンを開けた。上まで留めたのなんて久しぶり。クーラー効いてるから暑くはないけど、息苦しい。
ホテルの食事はちょっと嬉しい。あんまり食べたことないものが出てくる。飾られているじいちゃんの写真を見ながら、数えるほどしか会ったことのない親戚たちと卓を囲んだ。
「秀秋はどんどん政秋に似てくるな」
「そうですか?」
親父と伯父さんの従兄弟だという人が、そう言ってしげしげとおれを眺めた。
もう、こんな場でしか聞くことのない親父の名前。
じいちゃんより早く逝ってしまった親父。親不孝だと泣いてたじいちゃん。そのじいちゃんもいなくなってしまって、もう二年か。
「信秋にも似てるけどなー」
「おれとマサは似てるから」
伯父さんが和やかに笑う。てことはおれも伯父さんに似てるのか。そりゃそうか。
酒が入った大人たちは思い出話に花を咲かせて、おれたちは親父の若い頃の話なんかを聞いて、笑ったりした。
夜は伯父の家に泊まった。寝泊まりして飯を食う。スイカ、トウモロコシ。明日は庭でジンギスカン。
みんな昨日とはうってかわった普段着でくつろいでた。伯父さんは大きな画面のテレビをつけて涼んでる。
「甲子園やってたら一緒に見れたのになー」
「そうだね」
子供の頃、親父とじいちゃんと伯父さんと、ここでテレビの中の甲子園を見てた夏。
いつだったかのそれを思い出して、心の中で呟いた。
親父。おれ、野球やめちゃったよ。
「伯父さーん、秀秋!麦茶飲む?」
「飲む。ありがとう」
「おれも」
姉に聞かれて二人で答える。その横で伯母さんと談笑してる母親。妹は庭で犬を愛でてる。
ふと、サッカー部がどうなったか気になった。試合は昨日だったはずだ。
サッカー、全国、西高、試合結果、で検索。ほしい情報は簡単に出てくる。
『サッカー全国総体三回戦、藤牧東対西高。前半25分、藤牧東のエース原田のフリーキックから1点。1-0で迎えた後半40分、西高のキャプテン広丸のゴールで同点に。迎えた延長戦、藤牧東の猛攻もGK卜部が1対1のピンチを凌ぐなど奮闘し、決着がつかないままPK戦に突入。PKスコア5-4で藤牧東が五年ぶり二度目の準々決勝進出を決めた。西高は三回戦敗退、三年連続。藤牧東DFの齋藤が西高FW南野を押さえ込み、仕事をさせなかったことが勝因』
西高、三回戦敗退。今年こそ突破すると言ってたのに。
「どうした、暗い顔だな」
そう尋ねた伯父を見て、おれはため息をついた。
「世の中ってほんと思い通りになんないね」
「ジジイみたいなこと言うなよ」
「自分が言ったんじゃん」
「おれはジジイだからいいんだよ」
親父そっくりの顔で笑った。
数日間の滞在はあっという間だった。
うまいものをたくさん食った。寿司、ジンギスカン、味噌ラーメン。時計台の二階で大時計のギミックを延々眺めて、テレビ塔に上って、ロープウェイから札幌の夜景を見下ろす。
小学生なら夏休みの思い出で作文に書くくらいの充実度。だが、それも今日で終わりだ。
「秀秋」
「ん?」
空港に送ってくれた伯父がおれの名を呼んだ。小さな包みを手渡される。
「今日誕生日だろ。おめでとう」
「あー。うん。ありがとう」
そうだった。朝姉ちゃんと妹にも言われたんだった。
なんとなく面映ゆくて直視できないでいると、思いもかけない言葉が降ってきた。
「野球やめても父ちゃんやじいちゃんとの思い出はなくならない。心配するなよ」
優しい声。
顔を見て、うん、とだけ答えた。搭乗口からゲートに入る。また来いよー。わかった!元気でねー。ありがとう!姉と妹と一緒に手を振った。
機内で落ち着いて、伯父からの初めてのプレゼントを手に取る。開けた包みからは腕時計が出て来た。
親父の腕時計がうらやましくて、たまに持ち出して怒られて。親父は、高校入ったら買ってやるよと笑ってた。
もしかして知ってたのか。その約束を、それを果たす前に親父が死んだことを。
飛行機の窓の外を流れる雲に目をやった。
思い出はなくならない。伯父の言葉を思い出しながら。
北海道から帰ってすぐ、その日は来た。
8月9日。甲子園開幕。
一人で家で見るのは嫌だった。でも見ないという選択肢もとれない。
学校に足を向けた。第二視聴覚室。あそこにはテレビがある。
がらりと扉を開けると、そこにはいつもの顔が。
「おはよ」
「来たのか」
平田と中西先輩。並んで座って、もうテレビの電源を入れてる。
「いいんすか?生徒会長」
「バレなきゃいいんだよ」
そうですね、と同意して一緒に座った。ちょうど開会式が始まるところ。
「ああー、せいしゅーんはー、きーみにかがやくー」
隣で小さく口ずさむ平田。
開会式が終わって一回戦がはじまる。号令後のサイレンが鳴り響くのとほぼ同時に、また視聴覚室の扉が開いた。
「はじまった?」
走ってきたのか、肩で息をしている大西先輩。
「ちょうど今。早かったな」
「高速で終わらせてきた」
リハビリを。言外に続けて中西先輩の隣に座る。
「結局栄光学園が代表か」
「他は初出場とか多いぞ。十年ぶりとか」
「めずらしいですよね」
結局そろってしまった。野球見に集まってしまった。誰もなにも言わなかったのに。
「うお、いい球」
「ゲッツー!マジかよ!」
「制球乱れませんね。暑いし、手元滑りそうなのに」
手元には教科書とノート。受験勉強や宿題、課題を片付けながら。
そうやって毎日おれたちは第二視聴覚室に集まった。
部活がある日も、ない日も。
水泳部に顔を出す機会は減った。美術部に行けないことを寂しく思うような間もなかった。
それがいいことかどうかは、わからなかったけど。
そうして部活の日も同じように野球を見ていると、二葉さんがおれたちのことをじっと見ているのに気付いた。
「……なんですか」
「みんな野球好きなのね、ほんとに」
「そりゃ、まあ」
そう、と頷いておもむろに立ち上がった。なんだ?と注目する部員たち。
「みんな聞いて。都々逸部夏の恒例イベント、第一回夕涼み歌会を行います!」
「いや、恒例で第一回っておかしいだろ」
「細かいことはいいの!」
大西先輩の声を手のひらで止めて、勢いそのまままくしたてる。
「来る日も来る日もテレビで甲子園観戦!いや、わかるわよ?!見ないと言う選択肢が取れないほどの野球への未練!平静を装っての観戦!!そんな中西を慰める大西!おいしい!!でも我々も何かするべきよ!!」
「やってるじゃん。部活」
「夏祭りも行くしな」
「それよ!!」
ビシッと指を差して腰に手を当てる。
「夏!花火!夏祭り!!どうせ行くならもっとそれらしくしなくちゃ!!」
「それで夕涼み歌会?」
「そう!浴衣で部活して、そのままお祭りに行くの!!浴衣で!!!」
浴衣で、を力説しながら目を輝かせる。
「いいですね。風流で」
「わーいみんなで浴衣!楽しい!」
佐倉と笹谷は乗り気のようだった。女子たちは浴衣買いに行くとか言ってたか、そういえば。
「それなら公民館とか借りれるわよ。畳だしクーラーも効いてるし、いいんじゃない?」
笑顔のさゆり先生。その横で二葉さんが拳を突き上げる。
「ゆ、か、た!ゆ、か、た!!」
「女子の浴衣はいいけど、おれたちはいらないだろ。浴衣なんか持ってねえし」
と大西先輩が言うと、
「持ってるけどめんどくさい」
「そうですね」
中西先輩は首を振り、おれも同意する。
「男子は情緒がないなぁーもーー」
笹谷が不服そうに言い、今に始まったことじゃないけどね、と言いつつ同意する平田。
「なんでそんなこと言うの……!!こういう時でもなかったら着物なんて着れないでしょう?!都々逸部が!着物を着なくてどうするの!!!」
「いや、だから、持ってねえし」
「大西の浴衣は!私のお年玉の残りを投資するから!!」
「そういう金はもっと大事なことに使え」
二葉さんがそこまで言うのは何かよからぬことを考えているに違いない。二人のやり取りを見ながらそんなことを考える。
「見たい……おおなかの浴衣……見たい……!!」
ついには泣き真似まではじめた二葉さんに、中西先輩が大げさだよとチョップを入れた。
「まぁ大西先輩も中西先輩もそう言わず。これ見て下さい」
佐倉が一枚の紙を机の上に置いた。夏祭りのチラシ。
「浴衣で来た人には各種サービス?」
中西先輩が佐倉の指差した先の文字を読む。焼きそば50円引き。射的1回おまけ。
「はい。だからみんな浴衣で行きましょう」
「楽しみねー。浴衣出しておかなくちゃ!」
さゆり先生が声を弾ませる。
……そうか。全員ってことは、先生も着るのか。
「都々逸部だし、一度くらいそういう活動もいいかもしれないですね。部誌に載せたとき絵になるし」
言ってみると、それもそうか、と大西先輩があごに手を当てる。
「女子が着るなら、まあいいか」
「マジで。じゃあ貸すわ」
「おー」
「この流れで!浴衣の!!貸し借り!!やっぱりおおなか!!!」
「……やっぱりやめるか」
「ごめんなさいもう言いません」
中西先輩に頭を垂れる二葉さんを笑っていると、平田がこっちを見た。
「そういえば、肝試しの件は?運営の段取りとか決めなくていいの?」
「あー、そうだな」
それぞれが色々なところで話題にしたせいで、当初予定してた部以外も参加することになっていた。運営について真面目に考えなくてはいけない規模。
「仕掛け側は美術部、演劇部、手芸部。参加側はうち、生徒会、サッカー部、文芸部、水泳部、書道部、バスケ部、バレー部に陸上部、他にもいくつか」
「すごい、いつの間にそんなに!」
平田が読み上げた部活の数に当麻が目を丸くする。
「参加者全員把握するのは大変だな」
「しなくていいと思います。概ねの数がわかってれば、あとは集合時間までに来た奴でくじ引きで」
それなら飛び入り参加もできるし、逆にドタキャンでも平気だ。決めておくことも少ない。人数に左右される物はおれたちが用意する組み合わせ用のくじと短冊くらいだ。花火は多めに買っておけばなんとでもなるし。あとは東に言っとけばいい。
「くじは紙でいいよね」
「男女別に箱用意して、それぞれ数字の書かれた紙を入れとく感じ?」
「だな。一応男女が分かりやすいように紙の色は変えとくか」
「30番くらいまであればいいかなぁ」
「全部で60人?足りる?」
「念のため50ずつ作っといて当日足そうぜ」
「男女比片寄ったらどうする?」
「遅く来た奴は同性と組む、でいいだろ」
「同性と!!!」
二葉さんが勢い良く立ち上がる。
「やっぱり!都々逸部は運営だし!あぶれたら我々が同性と組むべきでは!!!」
「男が余るとは限らないぞ」
「つーかやだ。却下」
どうせやるなら女子とまわりたい、と大西先輩。ちえー、と唇をとがらせて着席する二葉さんの肩に、残念でしたねと佐倉が手を置く。
「さゆり先生はどうしますか。くじ引いてまわります?」
「うーん、私怖いの苦手なんだよね。正門前にいてみんなを見てるよ。一応教師だし、ちゃんと監督しなきゃね」
「わかりました」
残念。それを表に出さないように顔を上げると、平田と目が合う。
「お前誰とまわりたいとかあんの?卜部?」
なんなら細工するか、と言ってみる。
「そんなのいいよ。フェアに行くよ。トマっちゃんも卜部くんファンだしね」
「そそそそんな!確かに卜部先輩はかっこいいですけど、おこがましいです……!」
「ファンいるのかよ卜部。すげえな」
「南野くんもいるんじゃない?」
「……まあ、そうだろうけど」
「三回戦、惜しかったよ。ほんとに惜しかった。サッカーのことはよくわからないけど、私まで悔しかった」
淡々と。悔しいと言う。
「みんな、泣いてた」
泣いてた。
その場にいなくてよかったと思った。泣き顔なんか見たくない。
蝉の声に混ざって校庭から聞こえていたサッカー部の声。今は聞こえないそれを思い出して、ちらりと校庭に目をやった。
夏の日々は駆けるように過ぎて行く。暑さは相変わらずだが、蝉が地面で跳ねる姿を見かけるようになった。地面スレスレを飛ぶトンボも。
夏祭りが過ぎれば肝試しを残すばかり。夏はすぐに終わる。
「あれ?お父さんの浴衣?」
母親に浴衣を着せてもらっていると、姉が気付いて声をかけて来た。
「そうよ。着れるようになったのねぇ」
「つーか何?浴衣なんて。彼女でもできたの?」
「出来てねえよ。部で着ることになって」
「ふーん。意外と楽しそうじゃん」
私も後で着付けてねー、と言い残して自室に戻って行く。
「なんだ。彼女できたんじゃないんだ」
残念そうに言う母親。期待させて悪かったな、と言って、そのまま家を出た。
今日は夕涼み歌会。学校ではなく、公民館の畳の上で。
その後みんなで夏祭りに行く。
「わー、小西!似合うじゃん!」
笹谷の声がおれを迎える。
「お前も。つーか、うん」
部員たちを見渡して、頷く。
「悪くないな。こういうのも」
浴衣姿で畳に整列する女子の姿はやっぱりいい。言い出しっぺの二葉さんはやっぱり美人。黙っていれば。
さゆり先生の浴衣は黒っぽい生地に大きな蝶の柄が入ってた。上げた髪に、白いうなじ。
「浴衣っていいわねー。みんなかわいい!」
「そうですね。……先生も」
あら、とこちらを見て先生は笑った。
「ありがと」
目を見れないまま、はい、と頷く。
「よーし、じゃあはじめっか。小西」
いつも通り大西先輩がおれを呼んで、夕涼み歌会は始まった。
歌会は確かに目の保養になった。だけどそんな余裕があったのははじめだけ。
「正座がきつい、正座が」
「無理だな」
「ですね」
だましだましやっていたが一時間くらいで音を上げ、耐えられずあぐらをかき始めるおれたち。
「わ、私もきついかも」
「私もーー」
気付けばみんな足を崩していた。所詮現在っ子。ずっと正座はきつい。
「じゃあ、少し早いけど行こうか。歌も相当数集まったし、短冊に書くのは後でもできるしね」
さゆり先生が笑う。
肝試しに使う短冊に都々逸を書いて、ついでに都々逸を宣伝しようぜという話になっていた。そのための短冊。あくまで一石二鳥狙い。
「ひとつでも好きな都々逸を見つけてもらえればいいよね」
「肝試しの思い出と合間って好きになってもらいやすいかも!」
「吊り橋効果だな」
そんな話になっていた。
かさかさと音をたてて短冊を集めて立ち上がる。よろけたりつまづいたりしながら。
浴衣を整えて公民館の外に出ると、日差しが頬を射した。朝顔の蔦が花壇を賑やかしている。
まだ暑いね、言いながらゆっくりと夏祭りの会場に歩を進めた。午後四時。空は明るい。
会場に近づくにつれ、道の両脇に出店が並び始める。ピーヒャラピーヒャラとお囃子の音。地元の商店街も張り切ってビールやら唐揚げやらを売っている。
「テンション上がってきたー!」
「じゃがバタ食いたい。あとベビーカステラ」
「おれアメリカンドック」
「小西はー?」
「ラムネと、焼きとうもろこし」
答えつつ、さりげなく先生の隣を歩いた。
「先生は何食いたいとかあるんですか?」
「そうだなぁ、たこ焼きかな!」
「好きなんですか」
「うん。でも青海苔気になっちゃう」
ふふっ、と笑って首をかしげる。
ワッショイワッショイ、神輿を担ぐ声が聞こえて来る。あっちかな、みんなで音のする方へ歩いた。
目の前を通る神輿。山車の上で太鼓を叩く法被姿。
「小西くん」
先生が小さくおれの名を呼んだ。まわりの音でよく聞こえない。身を屈めて少し寄る。
「もしかして……サッカー部の応援見るの辛かった?」
思わず先生の顔を凝視した。落ち込んでいたように見えたのか。気付かれないようにしていたのに。
「無神経だったかな。ごめんね」
「……いえ。大丈夫です。というか、先生は悪くないです」
自分の学校の応援に行きたいと思うのも、顧問をしている部の部員を誘うのも自然なことだ。
それに、嫌なら行かなきゃよかっただけだ。行くことを選んだのは自分。先生のせいじゃない。
「おれは……強くなりたいです、先生 」
早く大人になりたい。なんでも一人で出来るように。自分の決断一つをこんなに悩まずにいられる強い男に。
「傷は時間が癒してくれるけど……なくしたものを数えるのも、きっと大事なプロセスだよ」
なくしたものを?
おれの都々逸だ。空を見上げて僕らは今も、なくしたものを数えてる。
「覚えてて……」
あ。駄目だ。やばい。
「先……」
「小西ー!!」
二葉さんの呼ぶ声で我に返った。
「なんですか?」
「これ取って、これ!」
射的の屋台の前でブンブン手を振っている。
あぶね。
先生に伸ばそうとした右手で銃を受け取って、二葉さんの指した銀色のヨーヨーを狙った。パン、パン。二発目で落ちる。
「おー、やるな兄ちゃん!浴衣だし、もう一回行っとくか?」
「いいんですか?じゃあお言葉に甘えて」
狙いやすいところにあったピロピロ笛を落として、おっちゃんに礼を言って歩く。
射的、たこ焼き、金魚すくい。
ちょうちん、わたあめ、りんご飴。
「いいな。都々逸が詠めそう」
「カラコロ鳴る鳴る浴衣の裾を眺めているの、りんご飴」
「射的みたいに落としてみたい、狙い定めるこの右手」
平田と中西先輩が七七七五を踏む。いいリズム。
「待って、はるちゃん今のもう一回。それも短冊に書くから」
「ほんと?ありがとう」
「中西先輩も」
「おれのも?」
「二葉さん喜びますし」
「目的そっちかよ」
すっかり記録係の佐倉がノートにメモを取る。
ピュー。さっき取ったピロピロ笛を吹いて音を出す。からころ。アスファルトを蹴る下駄の音。
「中西!」
不意に呼び止める声が響いた。
つられて振り返ると、そこにいたのは広丸さん。後ろにはサッカー部勢揃い。南野と卜部、松崎もいる。
「のんきでいいよなぁお前は。女子に囲まれてチャラチャラしやがって」
気に食わねえ、という顔をした南野がおれを見て吐き捨てた。
「そっちだってマネージャーいるじゃねえか」
サッカー部のマネージャーは美女揃いだ。オーディションでもしてるんじゃないのかと思うほど。そんな奴らに言われたくない。
「マネージャーは仕事してるんだよ。お前らとは違う」
「自分らの方がえらいとでも言うつもりか?今年も負けたくせに」
「なんだとてめえ」
「やーめーろ」
広丸さんが止めて、無言でおれの方を見る。
「……すいません」
失言だった。別に傷つけたかった訳じゃない。南野はともかく、他の部員たちに思うところはない。
広丸さんは笑った。いいよ、と。
「当麻……来てたんだ」
気付いたら松崎が近くに来ていた。当麻を見てもごもごしてる。わかりやすい奴。
「当麻、焼きそば買って来て。松崎連れてっていいから」
「え」
中西先輩が当然のように松崎を差し出した。固まる松崎。
「は、はい……!いくつですか?」
「二つ。頼むな」
千円札を渡して、笑顔。あれに逆らえる女子なんているわけない。行ってきます、と手を振る当麻を松崎が追いかけていく。
「わー。中西先輩おっとこまえー」
「お前もやるか?パシリ」
「嫌です」
茶化して笑っていると、後ろから何かで弾かれた。冷たい感触。なんだ?と振り返る。
「ざまあ」
南野がヨーヨーを持って立っていた。水を入れるタイプのあれ。ぼよんぼよんと上下に揺らして、油断してるからだ、と不敵に笑ってる。
「ふざけんなよてめえ……」
おれが立ち上がると、誰が捕まるか、と逃げた。
「待て!」
「誰が待つか!!」
すぐに追いかけた。赤く染まるちょうちんをくぐり抜ける南野の後ろ姿。カラカラカラ。走り抜けた出店の風車がまわる。
さすがに走りにくかった。相手はスニーカーに短パンだ。浴衣と下駄じゃ追い付けない。
ド…………ン
右上の空で十号玉が弾けた。パラパラと落ちる火薬。ひらひら、きらきら。
思わず足が止まる。
「でけー……」
気づけば南野も足を止めて空を見上げてた。
ドン、ドン。群青色に暮れてきた空を染める色とりどりの花火。ひとつ、ふたつ、上がっては消えていく。キャーと声をあげてはしゃぐカップルが目の前を通った。
我に返った。なんで南野と二人で花火見てんだ。
「戻るぞバカ」
「誰がバカだよ!」
言いながらさっきまでいた出店の前に戻ったが、そこにいたはずの先輩たちの姿は消えていた。
代わりに。
「小西先輩!南野先輩も」
松崎が焼きそばを持って立っていた。隣に当麻。手にはわたあめ。
「なんだ?お前ら二人?」
「焼きそば買って来たんですけど、いなくなっちゃってて。花火はじまってるし、電話つながらないですし」
「あー」
まいたのか、中西先輩。
「おれら探してくるけど、このまま連絡なかったらお前ら二人で帰れ。それも食っていいから」
松崎の手元の焼きそばを指す。
「えっ、でも」
「いいからあんま動くなって。当麻大変だろ」
浴衣姿の足元をちらりと見ると、松崎は言葉を飲み込んだ。
中西先輩への義理と当麻への労り。どっちが勝つか試すなんて無粋だけど、目の前の当麻を放っておかないことは確実だ。
「じゃあな」
南野に目配せしてその場を離れる。ブツブツ言いながら着いてくる南野。
「なんでおれがお前と行かなきゃなんねえんだよ」
「うるせえな。空気読めよバカ」
「バカはお前だろ。自分で野球やめたバカはお前だ」
不意打ちを食らって不覚にも凍り付いた。馬鹿。南野にまで言われるほど。
「……お前だったらどうした?出場停止だぞ」
「広丸さんはそんなことしねえ」
「例えばだよ」
「わかんね。でもおれなら来年に賭ける」
憮然と言い放つ。簡単なことだろ、とでも言うように。
「あと、ぶん殴る」
「……広丸さんでも?」
「誰でも。たぶん我慢できねえよ」
殴る。そんな発想はなかった。
「大体なんなんだよ、なんでも会長の言いなりでよ。お前の意思はないのか」
「言いなりになんか……」
言い返そうとして思い当たった。
なんでもできる生徒会長。たぶんその気になればなんだってできる。
それなのに野球部が潰れたのはなぜだ?
「ま、別にいいけどな。おれは全国行ったし、冬の国立もあるし、お前なんか眼中にないし」
「そうだな、お前はボール追っかけてりゃいいんだよ。猿のくせに頭使うな」
「なんだとてめえ。サッカーでなら全力で負かしてやるのに」
「お前とチームメイトなんて死んでも嫌だ」
軽口を叩いて空を見た。また大輪の華が咲く。からころと鳴る下駄の音。
「もう負けねえ。PK戦なんかになってたまるか」
南野の顔は見れなかった。無言で歩いた。
ピリリリリ。南野の電話が鳴って、広丸さんが居場所を教えてくれた。合流する。サッカー部が取っていた花火の見えるベストポジションに、都々逸部もちゃっかり一緒に座らせてもらっていた。
「当麻と松崎が待ってましたけど置いてきましたよ」
「おー。せっかく連絡無視してやってんだからうまくやればいいのにな」
「あいつ義理堅いですから」
場所を借りることを交渉したのであろう中西先輩に報告すると、そうだな、と笑って空を見上げた。
一緒になって座る。隣に笹谷、大西先輩。
「赤……リチウム?ストロンチウム?」
「いや、今の色はカルシウムだろ」
「オレンジの反応が出るんでしたっけ」
「なるほど!」
理系三人で並んでしまったから、気付いたら炎色反応の話をしていた。化学得意な笹谷がノリノリで声を上げる。
黄色。
「ナトリウム!」
青。
「ガリウム!」
紫。
「カリウム!」
「セシウム!!」
「からの、リチウム!!」
「うるせえよこの理系ども」
中西先輩に止められた。せっかく楽しくなってきたのに。
「ムードがないですよねー」
平田が笑う。
「私はむしろときめきます」
「なんで」
佐倉が真顔で言い、その発言に意外そうな中西先輩。
「理系男子いいじゃないですか」
「そうなのか?」
「わかる!!!どうしても炎色反応の話しちゃう理系男子!!ムードがない、おれを見ろと止める文系男子!!つまりおおなか!!おいしい!!!!」
「お前も同じくらいムードがないぞ。黙ってればいいのに」
「ええーーそんなのつまんないじゃんーーー」
いつも通りがちゃがちゃ話しながら、みんなの視線は同じところに集まってる。
ドン、ドン。夏の空に咲く大輪の華。
「トマっちゃん、うまくいってるかな」
平田がポツリと呟いた。
「さあなー。松崎がなんかできると思えないけど」
「人のこと言えないくせに」
「うるせえよ」
先生は少し離れたところでサッカー部の奴と空を見上げてる。
浴衣の蝶がひらひらとはためく。おれは空を見ている振りをしてその横顔を眺めた。
誰にも気付かれないように。
甲子園の決勝戦は晴天だった。今日優勝校が決まる。サイレンがなってプレイボール。
栄光学園は準決勝で負けて甲子園を去っていた。
対戦カードは北の強豪と初出場校。よくここまで勝ち上がって来ましたねー、初出場とはいえ勝ってきたということは実力は本物です。エースピッチャーの武藤君の球がここまで連れてきたと言っても過言ではないでしょう。アナウンサーと解説がそんな実況を挟む。
そのピッチャーの投球フォームは、なんとなく大西先輩に似ていた。
「……っ、あぶね」
0ー0。 六回の裏、2アウト満塁。そのピッチャーの球が浮いて、外角高めにデットボール気味に入った。思わず声が漏れる。ギリギリで避けたバッターに安堵のため息。
どちらのチームにも大した思い入れはないはずなのだが、どうしても初出場校に肩入れしながら見てしまう。
スコアボードの上で旗が揺れる。赤いユニフォームの初出場校のバッテリーがアップで映る。汗がすごい。
ぐっと足元の土を踏んでぐいんと肩をそらして、投げる。高めのストレート。カン!高い音が響く。
詰まった当たり。ライトが捕った。3アウトチェンジ。
「っしゃ!」
拳を握る大西先輩。それを見る中西先輩は穏やかに笑ってる。少し複雑そうにも見える笑顔。
七回と八回、いずれも三者凡退が続いて、点が入らないままついに九回を迎えた。
すごい投手戦ですね、と平田。投球数はすでに150球を越えていた。駆け引きが多いということだ。見ているだけでしんどい。
「次何が来ると思う」
「スライダーか、ストレートですかね」
「おれならスライダーにする」
「だよな」
自分たちがあそこにいたら何を投げるか、何を投げさせるかを考える二人。あくまでバッターの立場で球筋を読むおれとはやっぱりちょっと違う。
「、やっぱりスライダーか」
「次は」
「もう一回落とす。振らせる」
「で、次にストレートで見逃し狙うか」
「ん。外角に反らしてもう一回揺さぶってもいい」
「それ、あのピッチャーじゃなくて二人のゲームメイクじゃないですか」
平田が笑った。二人のスコアをつけ続けてきた一年間、おれよりもバッテリーの癖を知ってるマネージャー。
カキン!いい音がして、初出場校の球が左中間を破った。2ベースヒット。
塁に一人背負った状態で四番がバッターボックスに立つ。得点のチャンスだ。
十球をかけて粘った後、ど真ん中に入ったいい球を打った。強い当たり。ライトが帽子を飛ばして追うが追い付けない。フェンスギリギリにぽとりと落ちる。
「きた!」
「うし!!」
すぐに拾ってホームに戻すが、その間に打者がホームベースを踏んだ。
九回の表、2アウト。1-0。
とうとう、強豪校から一点をもぎ取った。
少し浮かれるおれたちをよそに、強豪校のピッチャーは落ち着いて三振を取った。彼らの攻撃に移る。
打者は八番から。凌ぎきれば初出場校が優勝する。何年ぶりのことなんだろう。鳥肌が立った。
だが簡単にはいかない。点差は一点、いつ逆転されてもおかしくないスコア。八番はピッチャーゴロに仕止めたものの、九番の代わりに出てきた代打にフォアボールを選ばれた。執念の出塁。さすが強豪校、黙って勝たせてはくれない。
打順は一番に戻って、その選手の顔が大画面に映る。
彼はよいバッターですよ、と実況が言った。それはおれたちも知っている。今まで甲子園の試合を余すことなく見てきた。準決勝で逆転のタイムリー2ベースを打った選手だ。覚えてる。
その彼が初球のストレートを叩いた。一二塁間を抜けて2ベースヒットになる。1アウト二、三塁。
一気にピンチに陥った。ヒットで同点、長打が出ればサヨナラ負け。
ごくり。唾を飲む。
マウンドのピッチャーがぐるりと肩をまわすと、大丈夫かと言うようにキャッチャーが駆け寄った。守備陣も集まってくる。マウンドを染めた赤いユニフォームたちは、しばらく話したあと士気を高めるように拳を突き上げた。決まり事のように。
そして散り散りに戻っていき、マウンドにはピッチャーが一人残る。
うるさいくらいに響く応援。メガホンを突き上げて左右に揺れるスタンド。声を張り上げる控えの選手たち。
強豪校の二番がバッターボックスに立った。初球、高めの変化球。
カキン!
「あ」
三遊間を破るかという鋭い当たりにショートが跳んだ。三塁ランナーがホームに向かって走る。投げ出されたショートの体が地面を擦り、ズザザザと土埃が舞う。ここで抜けたら終わりだ。が。
「取った……?!」
「バックホーム!!」
投げ出した体を立て直す前に投げたせいで、ショートの送球は少し逸れた。キャッチャーの体が浮いて辛くもそれを掴む。ほぼ同時にランナーが突っ込んで来た。ガッ、激しい接触。
「落……!」
落としたら同点になるこの場面で、しかしそのキャッチャーはボールを離さなかった。
「2アウト!守りきりました!!」
「いやー、今のはよく捕りましたね。防具のまま飛んで取るのは難しいですよ。ショートもよく投げました、大したもんです」
リプレイが流れて、解説がコメントを挟む。
九回裏、2アウト三塁。一点差。
頑張れ。あと一人だ。 頑張れ。
声援は声にならない。思うだけで画面を凝視する。
どちらが勝っても負けても、おそらく最後の一人になるだろう。この試合の、否、今までの全てがかかっているそのバッターが、ふっ、と笑った。次の瞬間。
快音を響かせて、白球がスタンドに吸い込まれていった。
ゆっくりと後ろを振り返るピッチャー。時が止まったように言葉を失うおれたち。
「逆転サヨナラホームランーーー!!!」
実況が叫ぶ。
強豪校のスタンドが踊り、ホームでサヨナラのランナーを選手たちが出迎えた。アーーーー、試合終了を告げるサイレンが鳴る。
がっくりと肩を落としてマウンドにへたりこむ赤いユニフォーム。同じ赤のユニフォームが防具も取らず駆け寄り、肩を抱えて彼を立たせる。
あと一歩、あと一歩でした。本当に悔しいと思います。アナウンサーがそんな風に言う。
テレビに大写しになったバッテリー。なんとか体勢を立て直して歩きながら、片方がキャッチャーマスクを外した。
……あ。男前。
思わず隣の中西先輩を見た。
「…………惜しかったですね」
「うん。惜しかった」
強豪校の校歌を聞きながら、中西先輩と平田はそんな風に呟いた。
ジジジッ、土の上で力なく跳ねる蝉。枯れて頭を垂れるひまわり。静かなグランド。
「終わっちゃったなー……」
大西先輩の横顔は、本当に寂しそうに見えた。
8月29日。夏休みはあと三日。ついに肝試しの日がやって来た。
美術部と演劇部は朝から集まって、学校を巨大なお化け屋敷に改造すると張り切っていた。
「なんか手伝うか?」
「ううん、手芸部も一緒だし大丈夫。むしろ小西は来ちゃダメだよ!夜のお楽しみなんだから!」
「わかった」
「怖くて先に見ておきたいなら、考えなくもないけどね」
「いいって。じゃあ六時に行く。あとはよろしく」
東と浅井とそんなメッセージを交わして、夕方。まだ青空が広がってる。雲の端を少し、夕日のオレンジが染めてる。
午後六時。校庭に集まった西高生徒、総勢82名。
「思いのほか集まりましたね……!」
「みんな結構楽しみにしてたみたいよ?」
「くじ多めに用意しといてよかったね!」
驚く当麻に答える佐倉と笹谷の声を隣で聞きながら、生徒会の備品の拡声器で呼びかける。台の上から見ると意外と多い三年。生徒会長効果か。息抜きもあるんだろうな。
「くじ引いてない人いませんね?大丈夫ですかー?」
はーい、概ね返事が返って来る。
「じゃあ、番号呼ばれたら前に来てください。ペア確認したら正門前に並んで待機!」
「1番の人ー!」
笹谷が拡声器で呼びかける。
「おれ」
卜部が手を上げた。ざわっ。なんとなく色めき立つ女子たち。
「女子は?女子の1番!」
「あ、あの、はい!」
思いの外近くから声が。見ると。
「トマっちゃん?やったね!」
「き、緊張します」
強運だな当麻。しかしなんとなく松崎の方が見れない。
「にばーーん!」
「はい」
「はいはーい!」
広丸さんと福山が手を上げる。サッカー部の二大巨頭が早くも決定。大騒ぎの女子たち。夜の学校には不思議な力があるみたいだ。なんかすげえ盛り上がってる。
次に呼ばれた3番は高橋と、一年の書記。
「わーい、矢野さん!よろしくね!」
高橋がにこにこと笑う。矢野と呼ばれた一年も、こちらこそーと笑顔。
おれは11番だった。相手は征矢。
「よろしくー!」
手を上げる征矢に台の上で頷いて、続きを呼ぶ。
大西先輩と二葉さん。18番。
南野と佐倉。22番。
向井と一年の姉崎。30番。
瀬尾さんと笹谷。39番。
中西先輩と平田。40番。
最後は松崎と浦河さん。41番。
「中西先輩はるちゃんとかーー!!はるちゃん強運!!」
平田は女子たちにうらやましいを連呼されていた。その横で二葉さんが未練がましくすがり付く。
「中西……交換してあげるから……」
「やだよ。何が悲しくて男二人で肝試しだよ」
中西先輩に断られて悲しい顔。ある意味すごい。なんなんだろあの情熱。
全員並んだのを見てグランドをもう一度見渡した。夕日が落ちて、うっすらと暗くなってきている。
その中に、さっきまでいなかった顔が増えているのに気付いた。
「あれ?内海今来たのか?」
「うん。遅かった?」
「おー、抽選終わったとこ。どうするかなー」
まわりを見て、あ、と思い付いた。自分たちは参加しないからと余裕綽々で談笑している教師二人。さゆり先生はともかく、もう一人は。
「永田先生!」
「なんだ?」
「内海あぶれてるんで一緒にまわってやってください」
「あ?おれが?」
驚いた顔。まさかそんなことになるととは思ってなかったような。
「教師相手じゃやりづらいだろ、お化け役が」
「一番最後ならいいんじゃないですかね。ついでに最後だって通達して回ってください」
「教師を使うなよなー」
「でもそれが一番いいじゃないですか。内海も頼むな」
「そ、そんな余裕あるかなぁ……?!」
「先生いるなら平気だろ」
言うだけ言ってそこを離れると、永田先生は仕方ねえなぁと笑って内海と一緒に列に並んだ。
これでよし。おれの仕事は終わったも同然だ。あとは東たちに任せればいい。
「小西、もういいか?」
「はい。お願いします」
大西先輩がはじまりの合図の打ち上げ花火に火を付ける。
しゅるしゅるしゅる。ポン!
「じゃ、今から3分間隔で出発しまーす。持参した懐中電灯をお忘れなく。忘れた人はいさぎよく心細い思いをしてください。これも演出でーす」
ええー、と忘れた何人かから声が上がる。ちょっとー、なに忘れてんの超迷惑!誰か予備持ってる人いない?後半の人貸して!ペアを組んだ女子に怒られたり、借りようと奔走したり。予備を用意するのが面倒で何にもしなかっただけなのだが、それはそれで結構盛り上がっている。
さあ、準備万端だ。卜部に合図する。行って来まーす、と当麻と並んで正門に入っていく。
「まっちゃん……複雑な気分ね……?」
「な、なんですか、どういう意味ですか」
「しらばっくれちゃってー!」
松崎と順番が近い笹谷が、列に並んだままニヤニヤと笑う。瀬尾さんはその隣で無表情で立っている。
瀬尾さんと笹谷。こんなことでもなきゃあり得ない組み合わせ。
「本当は心配でしょ?ね?」
「そんなこと……」
「キャーーー!!!」
話していると校舎から悲鳴が響いた。明らかに当麻の声。ざわっ、待機している列の面々に不安が広がる。
「な、だ、大丈夫ですかね」
「ほら、心配でしょう……?!」
「笹谷。その辺にしとけって」
とりあえず助け舟を出したが、松崎はそのあとからずっとそわそわしていた。
「行って来まーす!」
「気を付けろよ」
「はーい、ご主人様」
「ご主人様?!なんで??」
矢野が高橋に問いかけながら正門に吸い込まれていく。
そうやって参加者を送り出しながら平静を装っていたが、校舎からはひっきりなしに悲鳴や何かが割れる音が響いていた。
深くなっていく夕闇。心細い電灯。それぞれが持参した懐中電灯だけが順路を進む時の頼りだ。
「キャーーーーー!!!」
また、悲鳴。大丈夫かよ。やりすぎてないだろうな、あいつら。
不安と高まっていく期待でグランドはずっとざわざわしている。
ぱちん。目の前を飛んだ蚊をしとめながら順番を待つ。
「そろそろ戻ってくるかな、うらくんたち」
「あー、そうだな」
征矢につられて校舎の大時計を見る。出発してから25分。一組まわるのにそれくらいかかると東は言ってた。
と、次の瞬間。バタバタバタと走る音がして正門からでかい人影が走り出て来た。
卜部だ。当麻を肩に担いでる。
待っていたみんなが息を飲んで二人を見た。なんだなんだ?!何があったの!大騒ぎ。
「トマっちゃん!大丈夫?!」
大注目の中笹谷と佐倉が迎えにいくと、卜部に下ろされた当麻は半泣きでおれたちを見上げた。
「大丈夫ですぅー」
「ほんとに?無理はいけないよ」
気遣う佐倉の声を聞きつつ、涼しい顔の卜部の顔を見上げた。
「どうしてこんなことに?」
「歩けないって言うから」
「ふーん。スカートじゃなくて惜しかったな」
「だな」
冗談めいて話しながらふと見ると、松崎の顔面がこわばってた。あーあ。
「何があったの?」
征矢が聞くと、卜部はいたずらっぽく首を振る。
「それは言えないよなー。同じ恐怖を味わってもらわないと」
「わあ。怖かったんだ」
「怖かった、超怖かった」
……マジかよ。
そうやってしばらく話していると順番が来た。あたりはすっかり暗くなって、濃くなった夕闇。カチカチと弄ばれる懐中電灯たちが蛍のように光ってる。
「行こっか」
征矢に言われて頷く。
「小西!せいちゃん担いで戻ってきてもいいのよ!」
「あー。頑張ります」
二葉さんに適当に答えながらちらりと瀬尾さんを見ると、無表情でこちらを見ていた。
征矢と並んで正門から入り、階段を上った。
暗い。
ぴちゃん、水道から水滴が落ちる音が聞こえるほどの静寂。いつもは賑やかなはずの場所がじっとりと重みを持って迫ってくるような。
「……!びっくりした」
階段踊り場の途中にアンティークっぽいピエロの人形が置いてあって、ちょっとびびる。
動くんじゃねえだろうな。警戒しながら横を通りすぎて二階へ向かう。矢印で示される順路通り廊下を歩く。
カチッ、スイッチが入って静かにナレーションが流れ始めた。
『昔、 西高ができる前、ここはある學校の実験棟であった。ある企業に依頼された優秀な生徒たちが、生産的かつ合理的であることを目指した高い知能をもつ生物を産み出すべく実験にいそしんでいた。様々な動物に多様な薬が投与され、切り刻まれ、それはいつしか一般の生徒たちにも及んだ……。
しかし実験は成功せず、高い知能どころか自我のない人形のような人間を多く産み出し、発覚を恐れた教諭の手によって証拠は消され、封鎖された。かろうじて自我を保った実験体も、関わった生徒たちも、生きながらにして閉じ込められたのだ』
「……本格的だね」
「あいつら……」
『ここから先は当時の封鎖エリアである。ようこそ、旧実験棟へ。諸君の生還を祈る』
それは梅原さんの声だった。上原さんのかさぶたがどうとか言ってた人とは思えない、深く静かなナレーション。余計怖い。
「小西くんは、何が起きるか知ってるの?」
「いや、ほとんど何も知らない。作業してたところは見てたけど。こんな設定があることも今知った」
「じゃあ……怖いね」
「あいつら本気だったからな……」
ほどほどにしろって言ったのに、やっぱりこの様子じゃ全力だな。大丈夫かよ。
「さっきのナレーションも突然だからびっくりした……どうやって流したのかな」
「あれは赤外線センサー。人が通って遮断されたらスイッチが入る」
「わあ。それ聞くと怖さ半減」
「言わない方がよかったか?」
「ううん、聞いてよかった」
ホッとした、と笑った。
と、廊下の奥のスクリーンに影が映った。見たことある人影。あれは。
「浅井……」
くすっと影が笑って、くるりとその場で回った。
くすくす、くすくす。笑い声がこだまする。
「Sah ein Knab' ein Roeslein stehn, Roeslein auf der Heiden」
そして、歌声。ドイツ語?
「野バラ、だ」
征矢が呟いた。おれも聞いたことはある。童は見たり、野なかの薔薇。そんな歌詞の。
ふっ、と光源とともに影が消え、廊下の向こうに白衣姿の浅井が現れた。くるり、くるり。歌いながらまわっている。
「順路はこっち、ってことは……浅井のところまで行かなきゃいけないわけか」
行きたくねえ……。
「明らかに何かが起きるよね……」
「気を付けろよ」
警戒しながら進み、浅井に近づく。だが目の前に来ても何も起きない。できるだけ怖さを半減させようと、わざとゆっくり話しかけた。
「浅井ー。ほどほどにしろよ」
浅井は答えなかった。にっこり笑って、胸に手を当ててお辞儀。
「ようこそ、旧実験棟へ」
「おま……」
ガチャン!!
ガラスが割れる音がして、窓から無数の手がこちらに伸びてきた。
とっさに避ける。が、征矢は間に合わず捕まった。窓から出た手に羽交い締めにされてもがいている。
くすくす、くすくす。笑い声がこだまする。
油断してた。取り返そうと目を凝らすと、窓の向こうに見えるのは演劇部員の男子。征矢を捕まえているのも。窓ガラスも割れてない。てことはあの音もこの声も録音か。
「お前ら……瀬尾さん敵にまわすぞ、それ」
「えっ?!」
思わず声をあげた演劇部員たちの隙をついて征矢の手を引いた。なんなく引き戻して一息をつく。
くすっ、と浅井が笑った。
「馬鹿だなあ、クエアシトール、せっかくここで引き止めてあげようと思ったのに。これから先に行って何かあるとしたら、それは君たち自身が招いたことだよ。どこにも開いてはいけない扉はあるんだ。深紅の、美しい扉がね」
「なに言ってるか全然わかんねえよ」
浅井は、くっ、と笑って指をさした。階段を登れ、と。
そしておれたちに背を向けて、また新しい訪問者を待つようにまわり、踊り始める。
「Roeslein, Roeslein, Roeslein rot, Roeslein auf der Heiden!」
朗々と響く歌声。場違いなほど美しいテナーの。
「行こう」
征矢に声をかけて背を向けた。四階まで上がれ、と順路を示す矢印に沿って歩を進める。
「さっきはありがとう。瀬尾さんの名前で気をそらすなんて考えたね」
「予想以上に効いたな」
瀬尾さんの恐ろしさは文化部では周知の事実らしい。おれは野球部だったからあんまり知らなかったけど。
「やっぱり怖がられてるんだな、瀬尾さん」
「そうだねえ。でも、怖いのにはちゃんと意味があるし。理由のない威嚇はしないし、基本的にきちんとしてるし」
征矢はまっすぐ前を向いてた。ぱたん、ぱたん、ゆったりと歩く上靴の音。
「瀬尾さんはね、すごく所作が綺麗なの。食べ方とか姿勢とか、字も綺麗。そういうところがすごい目を引くっていうか、ずっと見ちゃって」
……征矢。もしかして。
「好きなのか」
「うん……。好きだよ」
「あんな怖いのに?」
「優しいんだよ、ほんとは」
ぽつりと。優しい目でつぶやく。
「自分がどう思われてるかとかそういうことに全然興味なくて、みんなが無理なくうまく回るためにどうするかばっかり考えてて。本当は誰よりみんなのことを考えてる、そういうところが」
好き。
穏やかに笑う征矢を、窓の外の月が照らしていた。
「それならそれらしくしてればいいのにな。苦労するなお前」
「うん、でもなんて言うか……そういう価値があるっていうか」
「……苦労する身は何いとわねど、苦労しがいのあるように」
「なあに?それ」
「そういう都々逸がある」
「そうなんだ!さすが都々逸部」
そう言って、征矢は頬を染めて下を向いた。
「うん。まさにそんな感じ」
気に入った、と笑って首をかしげた。
苦労しがいのある人。征矢の言う意味が少しわかる気がした。
おれにもいる。
「順路、こっち?」
階段を上り切って、理科室の扉を開けた。暗闇。家から持ってきた強力なLED懐中電灯で照らす。
理科室を照らした先には、ビーカー。フラスコ。人体模型。脳の立体断面図。そしてその隣に、制服の女子生徒が背中を向けて座っていた。
ベールをかぶっている。顔はよく見えない。
「わーらーべーは見ぃたりー。のーなかのばーらー」
ぽつりぽつりと追うように歌う、声。
「……梅原さん?」
確かあれは梅原さんが縫ってたベールだ。膝元に見覚えのある星の形の髪留めと飴玉が落ちてる。
「小西くん……来たの……?」
そうして声の主が、ゆっくりと振り向いた。
「いっ……!!」
思わず声が出て後ずさる。それは確かに、間違いなく梅原さんだった。
だけど。
振り返ったその顔全部と、頭皮の一部がやけどのようにただれていた。
いったいどうやって作ってるのか。あ、そうか。美術準備室に置いてあったあのカツラか。あとはなんだ?特殊メイク?
「……梅原さん怖すぎ」
思わず言うと、顔面やけど跡でニタァと笑った。口元に手を当てて凍りついた征矢に手を伸ばしてくる。
「きゃ……」
後ずさる。
がたん。理科室の背の低い椅子につまずき、音が鳴る。
「征矢!」
梅原さんに捕まる前にもう一度手を引いて、そのまま小走りで理科室を抜け出した。
たぶん気のせいだと思うけど、出口に置いてある人骨模型の骸骨がカタカタと動いた気がした。
「うおっ!!」
理科室から飛び出ると、廊下に点々と制服姿の人影が立っていた。思わず変な声が出る。
ピクリとも動かない。ある者はうつむいて、ある者は首をかしげて笑顔で、人形のように立っている。全員顔と手足に包帯を巻いていた。
おれが裂いた汚れた白い布。あれ包帯だったのか。
舞台裏を知ってる余裕でそんなことを考えながら、それでも足を動かすのには勇気がいった。順路を進むにはどうしても隣を通らなきゃならない。びくびくしながら横をすり抜ける。
順路に書かれた三年のクラスに入った瞬間、バタン!と音が響いてロッカーが開いた。ビクッ、征矢の肩が動く。
「あ、大丈夫。これのせい」
扉を開けると連動してロッカーが開くようにおれと影野が仕掛けた細工だった。予定ではもう少し後半のクラスで動かすはずだったのだが移動したらしい。そのせいでおれまでちょっと驚いたじゃねえか影野の奴。
「ほんとだ……心臓に悪いね」
征矢はふー、肩から力を抜く。
「原理知っててもビビる……あ」
おれの方を向いている征矢の後ろで、ゆらりと机の影から制服姿の生徒の影が立ち上がった。いち、に、さん。固まったおれを見て征矢がゆっくりと振り返って。
「もーやだーーー!!」
半ばキレながら走って逃げた。包帯ぐるぐる巻きだけなら想定内なのだが、三人の内の一人は口裂け女マスクだった。
クスクスクス。笑いながらゆっくりと追って来る。
「てめ、影野!覚えてろよ!」
「えっ、今の影野ちゃん?!」
「振り返るなもう!」
走ってその教室を出た後も仕掛けは目白押しだった。
前を通った瞬間ガタガタと激しく揺れる教室の窓。動かずに立っている包帯制服姿の生徒が突然動いて襲ってくる。生徒会室の前には「この先背後に注意」の張り紙。後ろを見ても誰もいないのに。
マジで心臓に悪い。緊張しすぎて余計な力が入って、肩がバキバキ。
どうにか四階の廊下を抜けて進み、階段をひとつ下がった。目指すは第二視聴覚室。そこで短冊が待っている。
ふー。扉の前で息をついた。見慣れているはずの場所なのに一瞬躊躇する。夜ここに来るのははじめてだ。それにきっと、何もないわけがない。
しかしずっとこうしてるわけにはいかない。意を決して扉を開けた。
「きゃっ……!!」
開けた瞬間息を飲んだ。そこには焼けただけた人間たちがずらりと立っていた。
……違う。絵だ。あの、美術室で東たちが描いていたべニア板の人物大のパネル。暗闇に浮かび上がって静かにたたずんでいる。
「もーーーーなにこれーーーー」
「大丈夫、絵だ、美術部が本気出しすぎた結果だ」
「もー美術部!いつも適当なのにやればできるんじゃん!!」
半泣きになりながらも生徒会役員らしいコメント。わざと大きい声で気を紛らわせて、奥へ進み、短冊の並べてある机の前に立った。
「これを取って帰るの?どれでもいいの?」
「おー。これにしようぜ」
ないと嘆いた季節はすぎる
後から見れば空は晴れ
それはさゆり先生の都々逸だった。
今は辛くても、大丈夫だから。そう言ってくれてるように思って、これを持って帰ると決めていた。
残っててよかった。
「早く行こう?」
おれが短冊を手にしたのを見届けて、征矢が後ろ手でドアを開ける。そうだな、とパネルたちに背を向けようとした……が足が止まった。
誰かいる。パネルの奥に。
はみ出した腕に包帯が巻かれている。ふわふわと動く。今度は誰だ、と目を凝らすと、ぴょこんと顔がのぞいた。
「あ……魚谷ちゃん」
征矢がほっとしたように名前を呼んだ。
「こんばんは、征矢先輩」
礼儀正しくお辞儀。
「魚谷お前……よくこんなところで一人でいられるな」
「小西先輩。後ろにいるの誰ですか?」
「え?」
振り返る。誰もいない。
「怖いこと言うなよ!」
くすくすと笑う魚谷。
「あと、一人じゃないです」
そう言った瞬間、パネルの裏から白いものが踊り出てきた。
「な」
身構えて備えたが、その白いものは素早くおれと征矢の間をすり抜けて扉を出ていった。
「きゃっ!」
「なに?大丈夫か」
「今なんか冷たい物が触ったーー」
左手首を抑えて泣きそうな顔。白いシーツをかぶっておれの前を横切ったいつかの東を思い出した。
「今の……東?」
「東さん?」
魚谷は首をかしげてなんのことだ、という顔をした。こういうとき魚谷の淡々とした感じは妙に緊張する。二葉さんあたりが近くにいてくれたら心強いのかも、といつもなら絶対に考えないことが頭をよぎった。
「もう行く。おれたちで11番目。全部で42組いる。頑張れよ」
「おふたりも。がんばってください」
魚谷はそう言って、教室の一番奥のパネルの裏に消えた。
あと少しだ。渡り廊下を進んで西棟に入る。渡りきったところにさっき入口付近で見たのと同じピエロの人形が置いてあった。ただし、関節が曲がっている。
二体あるのか。そう思って眺めていると、音楽室からピアノの音が聞こえてきた。
ぽろんぽろん、ゆっくりと旋律をなぞるような音。聞いたことはあるが曲名はわからない。
「……なんだっけ、この曲」
「ノクターン。さっきからいい選曲……っっ!!」
言葉は途中でこわばって消えた。
「あーーーー……ほどほどにしろって言ってんのに!!」
征矢が指差した先、廊下の奥の向こうから包帯姿の生徒たちが制服たちがゆらりゆらりと歩いて来ていた。梅原さんと同じ顔面火傷跡で、頭の皮膚がただれている。その数、六……七人?
「無視だ無視」
雑に言って階段を駆け下りた。一階に着けば後は中央棟に戻って正門を出るだけ。あと少し、あと少し。
「キャーーーーーーーー!!!!」
おれたちが一階に着いた瞬間悲鳴が響いて、向こうから制服姿の女子が逃げて来た。聞き覚えのある声に目を凝らす。
「……え?!長瀬?!!」
グランドに集まった時はいなかったはずだ。向井が誘ったけど来なかったと言ってた。どういうことだ?!
「なっ、大丈夫か?!おま……え?」
駆けてきておれの腕を取り、そのままましゃがみこんだ。体が震えてる。包帯は巻いていない。でも制服。どうして。
「こ、こにしく」
頭を上げる。征矢が震える指で示した先、後ろから大量の白衣が追ってくるのが見えた。ふっ、と失神したように力が抜けて、ぱたんと伏せる長瀬。
「長瀬、おい!」
名前を呼ぶが動かない。やばい。迷い込んだのかもしれない。置いていけない。
覚悟を決めて持ち上げようと、持っていた短冊をポケットにねじ込んで背中に手を回した。
が、次の瞬間。長瀬がぱちりと目を開けて笑った。
「大丈夫、私も仕掛人だよ。逃げて」
「な」
「ありがとう」
言って、長瀬はまた目をつぶった。
奥の廊下から近付いて来てるのは、手を前に出してのろのろと動く白衣の集団。 先頭には芦屋さん。後ろに美術部と演劇部の男ども。包帯ぐるぐる巻きの顔から目だけがぎょろりとこちらを向き、ところどころ血のような赤い染みが浮いている。真っ赤な手をこちらに見せてゆっくりと迫って来ていた。
なんとなく、あの手に捕まったらアウトな気がした。
「征矢!」
腕をつかんで走る。おれたちが走り出すと同時に奴らも全力疾走に切り替わった。なおも追ってくる白衣の集団に捨て台詞を投げる。
「芦屋さん趣味悪すぎ!!栗原に言いますからね!!」
少し、スピードが落ちた。そのまま走り続けると正門の玄関が見えた。あと少し。
駆け抜けてスピードを保ったまま校舎を出ていくと、待機していた面々がおれたちを出迎えた。卜部が笑っている。
「お疲れ。大丈夫か征矢?」
「だいじょ、ぶ……小西くん速っ」
「あ、悪い」
つかんでいた手を離した。とりあえず無事に生還。まわりをみると半数以上の生徒たちの服や手足が赤く染まっている。
よくよく見ると、それは赤色の絵の具だった。
「……お前が当麻担いで逃げた理由がわかった」
「仕方ねえだろ?」
「あれは仕方ねえな」
あそこで動けなくなったらおれでも担ぐ。
帰って来た生徒たちは口々に感想を述べていた。ほんと怖かった、あれはない、マジ覚悟してった方がいいよ。まだ順番の来ていない後半の組の恐怖を煽っている。
おれも松崎の方を見た。浦河さんを担いで逃げるのは無理だと思う。
「気を強く持てよ松崎……」
「なんですか!なんですかそれ!!」
行ってみればわかるって、と笑う卜部。おれは列に並んでる部員を見る。
「佐倉ー。お前で半分過ぎたところだから浅井とか東とかに会ったらそう言っといて」
「いいけど、そういう余裕ある感じなの?」
「おれはなかった」
「うわー。じゃあ無理じゃない?」
「大丈夫だろ、おれが言うから。小西と違うってところ見せてやる」
「ほんとー?頼もしいね!」
南野をおだてる佐倉。ちょっと得意気な南野。
南野、お前、佐倉の本性を知らないからそんなこと言ってられるんだからな。もちろんそんな忠告してやらないけどな。
「で、お前ら大丈夫だったのか?」
中西先輩が生徒会の面々に尋ねる。
「私は第二視聴覚室で凍りつきました……夢に出るかも」
「あれはやばかったよなー。征矢はどうだった?」
「うーんとね。怖かったけど、小西くんがいちいち仕掛け側の子たちの名前呼ぶから面白かった」
「ムードがねえんだよ小西は」
矢野、卜部、征矢。すでにまわり終えた三人の感想を聞いてそんなことを言う中西先輩。瀬尾さんは隣で何も言わずそれを聞いていた。
「ムードがあり過ぎたら怖いじゃないですか」
言い返しながら周囲に目をやる。終えた奴らはそろそろ手持ち無沙汰のようだった。始まってから1時間も経ってるし、当然といえば当然か。
「あと数組出たら終わった奴らから花火はじめちゃいましょうか」
「それがいいな。より分けとくか」
中西先輩がグランドを眺めて頷いた。戻って来てる奴が作業すれば時間も潰れる。とりあえず近くにいる部員から。
「当麻、手伝って」
「あっ!はい!」
「僕も手伝いますよ」
「おれも。終わった奴手ぇ貸せー!」
松崎の声に卜部が同意して、近くにいた生徒たちに呼び掛けた。たちまち人数が集まる。とりあえず線香花火は全部よけて、残りを均等に41等分?どうやって?!とりあえず10ずつ束作って割ればいいって。そうやって話しながら作業をする。
ものの15分で振り分けが終わって、なんかちょっと感心した。
やっぱり生徒会庶務は伊達じゃない。
少し時間が経って、後半組が続々と戻ってきた。前半組は花火をしながら待機。でも、ひっきりなしに校舎から出てくる奴らを迎えたり、感想を聞いたり笑ったり。花火の減りは早くない。
ちょうどいいペースだな。そう思っていたところに南野と佐倉が戻ってきた。
「おかえり。やられたな」
南野を見るなり笑う卜部。南野は全身手形で真っ赤だった。おれは鼻で笑う。
「捕まったのかよ?だっせ」
「うるせえよ!!」
「あやめちゃんは無事なのね!」
「はい、南野くんを盾にしましたから」
「さすが!」
一足先に帰ってきていた二葉さんが、自分のことのように誇らしげに佐倉の肩を叩く。
「二葉さんも無傷で何よりです」
「うん、デジカメのフラッシュで目潰ししたからね!」
「なるほど、さすがです!」
「先に言わねえからおれまで巻き込まれたけどな」
まだ目がチカチカする。大西先輩に言われて、ごめんごめんと頭を掻く二葉さん。
向井、姉崎、笹谷、瀬尾さん。順に、あちこち赤く染まりながら戻ってくる。
「二葉さん大変です……なかせおです……なかせお」
芦屋チームに捕まった様子の笹谷だが、真っ赤になった腕を気にもせず興奮ぎみに駆け寄っていった。
「何?!何があったのレナちゃん!!」
「瀬尾さんが……涼しい顔して!あの馬鹿はもう一人では無理だろうとか!言ってた!!しかも、それでいい、とか!!これは!!!」
「な……なかせお……」
「なーかせお!!なーかせお!!」
うるせえ。
「私も報告があります。南野くん、小西のこと嫌いなのに無視されると腹立つんだって」
「なにそれおいしい」
「マジでみなこに」
「まつこに、なかこに、みなこに?!小西総受け!!!」
「そーううけ!!そーううけ!!!」
うるせえ。
聞き流しながら花火に火をつける。パチパチ。緑色の火が吹き出して煙が上がる。この色はホウ素だっけ。あれが落ち着いたら笹谷に聞こう。
そうやって花火を消費していると、中西先輩と平田が二人で走って出てきた。俊足の二人。さすがの無傷。
その後の松崎と浦河さんは、当然というかなんというか、真っ赤だった。焦る松崎に反して浦河さんはマイペースで、あわてて急かす松崎をニコニコ眺めながらのんびりと歩いている。
そして最後に、ぱたぱたと走る音がして永田先生と内海が駆け出してきた。
「あ、お疲れ様です」
「お疲れ様じゃねえ……なんだあれ!高校生の遊びにしては手が込みすぎてるぞ!!」
「余裕ぶっこいてるからですよ。ちゃんと終わりだって言ってきました?」
「言ってきたけど、最後だって言ったら全速力で追ってくるから全力疾走する羽目になったぞ。教師相手でやりづらいとかないのかあいつら」
あー暑い、と顔をしかめる。後ろにいる内海の顔が少し赤いように見えた。
「大丈夫か?」
「うん。……ありがと」
「何が?」
わからないふりをして花火を渡す。最後の二人の分。そして拡声器を握った。
「以上84名で肝試し終了でーす。お疲れ様でしたー!」
しゅぽん。おれの声と同時に大西先輩が打ち上げ花火に点火して、合図を送った。
パチパチパチ。どこからともなく上がる拍手。
しばらくすると校舎からどやどやとお化け役たちが出てきた。お疲れ様という声がかかってもう一度拍手が上がる。おれも一緒に手を叩いた。お疲れ。
「すごかったーすごかったよー!」
「お疲れ様ー!!」
「もう超怖かったーー!」
照れて頭を掻く東たちを口々に労いながら出迎える。
出てきた中には放送部員たちの姿もあった。長瀬と目が合って、おれと向井の方に駆けて来る。いたずらっぽい笑顔。なんか嬉しそう。
「びっくりした?」
「した。放送部員も参加してたんだな」
「うん!最後に引き留める役を順番でやってたの」
「それで誘っても来なかったのかー。イベント好きなのにおかしいと思ったんだよな」
「みんなに内緒でってことだったから」
なるほど。芦屋さんの極秘計画ってこれのことだったのか。
……あ。
「あの、序盤の笑い声。浅井のところの、録音の。あれ長瀬か」
「うん、そう!よくわかったね!」
「いや、今気付いた」
あの時は全然わからなかったけど。同じ声だ。
「ほんとだ、あれもか」
向井が反芻するように思い返して、そのままおれの方を見た。
「で、なに?なんで小西は無傷なの?」
納得いかないという顔。長瀬を助けようとして餌食になったのか真っ赤な腕。なんとなく恨めしげ。
「あー。長瀬が逃がしてくれた」
「え、なんで?」
「うん?小西くんのTシャツ白かったから。汚れちゃったらかわいそうかなーと思って」
「それでか……」
確かに、向井の黒いTシャツは手形付いてるけど目立たない。腕はえらいことになってるけど。
「だから汚れてもいい服に、って言ったでしょ?」
「お前ね」
隣でそんなことを言う影野に呆れたように笑って見せる。まだ扮装を解いていない包帯姿だけど、こうして話すとまぎれもなく影野だ。
「こにしー!お疲れ!」
「……お前ちょっとそこ座れ」
「なにー?」
やりきった笑顔の東を見て、労う前に説教しとかないとという気分になった。朝礼台の階段に座らせる。
「ほどほどにしろって言っただろうが」
「肝試しなんだから肝を試すんだって言ったでしょー!」
「絵の具はやり過ぎだろ。被害者多数だぞ」
「ちゃんと相手は見たぞ。そんなことよりお前、先生に言ったら脱毛剤かけるからな」
芦屋さんが横から口を挟んだ。なぜか半笑い。
「なんでいちいち毛根を死滅させようとするんですか」
「だいたい、これでも最大限手加減したんだよ。こんなのもあったんだから!」
東が取り出したのは水風船だった。色とりどりの50枚入り。
「片付けが大変かなーと思って。あと栗原先生に止められた」
「それいいな」
隣で中西先輩がつぶやいて、東の手からそれを取り上げた。おもむろに水を入れて膨らませ始める。
「何する気ですか」
「うん?」
答えずにごまかして、水を詰めては二つ、三つと並べる。
「なんですか?お祭り?」
笹谷が尋ねるのにふっと笑って、おもむろに白い水風船を手に取った。
「おおにしー」
野球ボールより少し大きいくらいのサイズに膨らんだそれを、投げるぞ、と振りかぶった。おお、と条件反射で構える大西先輩。
それを確かめて、中西先輩はふっとフォームを解いた。ん?と気を緩める大西先輩。
が、次の瞬間、素早く振りかぶってそれを投げつけた。
大西先輩の顔面に散る水しぶき。ご丁寧にフェイントまで入れて油断をさせて、明らかに確信犯。
「っめ、中西!!」
「今のはおれの分」
ものすごく爽やかに笑ってまた振りかぶる。
「で、これは小西の分!」
よけようとした大西先輩の足が止まった。容赦ない速度で飛ぶ水風船。弾けて、水しぶき。
大西先輩はずぶ濡れで立っていた。何も言わず。
「中西先輩」
思わず声をかける。
「そーゆーのは自分で投げたいんすけど」
「あ、私もー」
平田が言いながら水風船を構えた。おれの手にもひとつ持たせる。
「私も!!濡れ大西おいしい!!!」
「私もいいですかー?!」
「じゃあ私も」
「えっ、えっ、じゃあ私も?!」
「ちょっと待てなんで全員なんだよ!」
いつのまにか都々逸部員全員が手に手に持っていたカラフルな水風船。四方から囲まれて逃げ場はない。
一部は本気で、一部は遠慮がちに一斉に投げつけた。バシャッ!ばしゃん、ぱしゃん。
「ってぇーー」
ぶんぶんと頭を振って水を払う部長。笑う、おれたち。
大西先輩はやり返そうと風船を手にした。しかし投げられない。まだその肩では無理だ。わかってておれたちは。
「松崎。おれの代わりにあいつらに投げろ」
「ええ?!無理ですよ!」
「いいからやれ」
「相手が小西なら加勢しますよ!」
南野が前のめりで駆けてきた。後ろからゆっくり歩いてくる卜部。
「おれもー。中西さんに投げられるなんてなかなかないし」
こないだが嘘みたいな笑顔。そんな二人を見て広丸さんがニヤリと笑った。
「よーし、サッカー部員集合。照準、都々逸部。行け」
うおおおおお、と走って向かってくるサッカー部員たちに、キャーと黄色い声をあげて四散する女子たち。迎え撃つ構えのおれと中西先輩。平田から援護がわりに投げて寄越される水風船。
「なんだよそのへなちょこ。当たらねえよ!」
「うっせえバカ!!」
「バカはお前だ!!」
サッカー部員なんてわけはない。こっちは野球部だ、投げるのは得意なんだよ!
でも、全力で投げ合った結果は言うまでもなかった。全員ずぶ濡れ。一人たりとも無事ではいられない。
思わず吹き出した。全身ぐっしょりで爆笑。
「あー疲れた、なにこの流れ。意味わかんね」
「なんでおれらだけこんな濡れてんですかね」
「集中砲火だもんな」
「砲火っていうか水ですけどね!」
「水も滴る生徒会長……」
まわりの女子たちの視線が自然と中西先輩に引き付けられる。
「はいはーい、タオルだよー!」
「どうぞ。小西先輩」
魚谷と東が手渡して回り始めた。手芸部員やその回りの奴らも一緒に。
「用意いいな」
「サポートは万全」
うん、と満足そうに頷く影野。
とりあえずTシャツを脱いてタオルを頭からかぶった。Tシャツを絞る。水滴でグランドの砂が湿る。
「うーわ、風邪引くんじゃねえのこれ」
「気を付けてくださいよ受験生」
「全員そのまま!!!動かないで!!!!」
大興奮の大声の方をみると、デジカメを構えた二葉さんが大フィーバーしていた。半裸のおれたちに向けてシャッターを切りまくる。
「大西!そう!そのまま!!中西と並んで!!」
「何撮ってんだお前は」
「他の部のやつら引いてるぞ」
「それがどうした!!!」
光るフラッシュ。蛍みたい。うるさいけど。
「つーかなんかパンツまで濡れてんだけど」
「全部脱いでもいいのよ大西……?!!」
「撮られてたまるか」
カメラを遮る大西先輩の左手を左右に素早くよけて連写する。二葉さん頑張ってー!と声援を送る笹谷と佐倉。
仕方ねえなぁ、と笑った。もはや通常営業だ。
ふっと目が合う。同じように笑う平田と。
「……日焼けの跡が、水泳部みたい」
「ん。もう半袖焼けで笑われることもないな」
言いながら濡れたTシャツを着た。野球部のユニフォームの跡がつかない夏。
タオルを返しに魚谷の方に行くと、一年や文芸部が集まって話していた。いつのまにか渕崎や宮下さんの姿もある。
「もーほんとすごかった、魚谷さん怖いこと言うし!」
「でも難しかったんだよー。笑い方とかセリフとか梅原先輩に教えてもらって頑張った!」
矢野の声に照れる魚谷。浦河さんがうんうんと頷く。
「第二視聴覚室もだけど、私はあのピエロが地味に怖かった。二回も出てくるし。後半壊れてるし」
「え?ピエロは一体だけですけど」
「……え?」
「ピエロって第二視聴覚室にいたやつ?」
「え、三年の教室にいたやつだろ?」
「え?」
「え??」
全員が顔を見合わせる。
「なにそれ超怖い……!!!」
「いいいいや気のせいですよ気のせい!!きっと!!」
そうかなぁ、なんでだろうと不思議そうに呟く魚谷。後ろで聞いていた高橋が首をかしげて無邪気に笑った。
「ピエロさん動いたんですね、きっと!」
「ちょっと!!やめて!!!怖いこと言うの禁止!!」
「わー麻美先輩乙女ー。かわいいーー!」
「バッッッカじゃないの?!!」
珍しく大声を出す部長を見てけらけらと声を上げる文芸部員。
怖かった。でも楽しかった。まぎれもなく。
ふー、と息をついて上に伸びた。生徒会に借りた拡声器のコードを巻いて中西先輩に渡す。受け取りながら視線はグランド。濡れたままの髪で、淡々と、聞く。
「気が済んだか」
「……いえ」
少し躊躇した。言ってもいいのか。気付いてしまった事実を。
……いいか。
「おれ気付いたんですよね。原因を作ったのは大西先輩だけど、野球部を潰したのは中西先輩だって」
あの時中西先輩は言った。一年を縛り付けるなと。
でも、本当は違ったんじゃないか。一年は中西先輩が手放したんだ。その気になったら一年も三年も引き留められたし、誰かを呼んでくることも出来た。野球部を続けることは出来た。
ひとつだけ。ピッチャーが違う、そのことにさえ目をつぶれば。
「野球やめようって、決めたんでしょう?」
ただそれだけが、その一点だけができなかったんだ。だから、野球はもうしないと中西先輩が決めたから。
だから、野球部はなくなったんだ。
「……おれにも投げとく?」
中西先輩は否定もせずに両手を広げた。投げてこい、と外されたガード。悪いともなんとも思っていないという顔だった。
お前は道連れだ。そう言われた気がした。
「やめときます」
首を振る。もういい、と。
「その代わり、今度おれの言うこと聞いてくださいね」
もういいんだ。おれに責める権利なんてない。
あのとき、何もできなかったおれに。
バチバチバチ、火をつけたロケット花火がおれと中西先輩を襲った。
「辛気くせえなぁお前ら」
誰のせいだよ、と思いながら声の主の方を見やると、大西先輩は平田と並んでこっちを見ていた。まだ濡れたままの髪はオールバックになでつけられてる。いつかのコーラの時と同じ。
向こうでは渕崎が浅井や高橋と花火をして笑っている。宮下さんも来ていて、浦河さんや佐倉に煙玉を投げてる。
笑い声。火薬のにおい。夏のにおい。
夏が、終わるにおい。
用意した手持ち花火はすぐになくなって、最後に取っておいた線香花火を残すだけになった。
「これで最後です」
言いながら配って、めいめいに火をつける。
「うまくつかねー」
「濡れた手で触るなって」
南野から線香花火を取り上げた永田先生が静かに火をつけた。パチパチと火薬が爆ぜる。
「そういや、お前浦河さんと何話したんだ?」
「色々話しましたよ。家族のこととか」
松崎が意外なことを言った。
家族のこと。おれもあんまり聞いたことないのに、そんなに親しいわけでもない浦河さんに話したのか。
話せるようになったのか。松崎も変わってきているのか。
「……サッカー部。惜しかったな」
「そうですね……でも僕は、なにもしてないので」
「なんだよ。でもサッカー部だろ?」
「はい。誰かのせいで」
「まだ怒ってんのかよ」
「怒ってないですよ。ちょっと寂しいだけです」
ぱちぱち。火花が散って、大きく赤く膨れる玉。
「でも、よかったです。こうやって一緒に肝試しとかできて」
「……いつだって、なんだってできるよ」
そうだ、なんだってできる。都々逸部でも。おれはなんだってできるはずだ。
「そうですね」
松崎は笑った。これ以上は言うまいと、何かを我慢したような顔で。
「小西」
隣にいた平田がそっとおれの線香花火から火を取った。
ちりちり。ぽとん。
小さな火が落ちる。
夏の終わりの線香花火
静かに震えぽとり落ち
こうしておれたちの夏は終わった。
一度もボールに触れることは、なかった。
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