第6話 学期末試験

西高の期末試験は七月第二週だ。七月頭からテスト週間に入る。

そしてそのあとなぜか身体測定と体力テストがあり、それが終わると夏休みだ。

野球部のときはそれとは別に高校野球予選があって、この時期は最高に忙しかった。

だが、今年は落ち着いたものだ。

だっておれたちは都々逸部。もう、高校野球とはなんの関係もない。


校内はだんだん試験モードに入って、昼休みの教室も少し静か。

授業では試験範囲が知らされる。場合によっては悲壮感も増す。

「いいかー、まず教科書の57ページから126ページまで。別冊の第二章。他、授業で配ったプリント全般。以上」

多い。めまいがする。

あんまり得意じゃない世界史の範囲が広いことに頭を抱えていると、授業後に先生がおれを呼んだ。

世界史の永田先生。おれの一年の時の担任。パンダ好きな35歳、独身。

「都々逸部だって?」

なにかと思ったら、明らかに面白がってる顔で聞かれた。

なるほど。わざわざ呼ぶなんてめずらしいと思ったら、それが聞きたかったのか。

「はい。作ってみました」

「よく通ったなー、ほんと」

言いながら、ちょっと付き合え、と職員室まで荷物持ちをさせられる。久しぶりにちゃんと話せることが少し嬉しくて、ただのパシリに快く従った。

「で、なにやんの?」

「他の部と協力しつつ活動をと思ってて。具体的にはこれからです」

手元にある使い込まれた別冊資料の表紙を眺めながら歩く。試験範囲、第二章全部か。頭痛い。

「……本当は、都々逸じゃなくてもよかった?」

意味ありげな質問だった。ああ、これが聞きたかったのか先生は。おれの迷いなんかお見通し。

「そうかもしれないですね」

「でも、はじめちゃったしなー。始めたからには続けるんだろ?」

「それは、もちろん」

「来年も?」

「はい」

ちゃんとやれよってことかな。わかってますよ。ちゃんと決意はある。

それが伝わるようにできるだけ淀みなく答えた。

だけど、違ったみたいだった。突如先生の足が止まる。

「あのな、小西」

こちらを見て真面目な顔。

「高校はちいさな箱だ。今はお前らにとってこれが全てでも、出てみたら狭い世界だったことに気付く。野球部も都々逸部も今の部員も、それがすべてじゃないよ?」

言って、おれの肩に手を置いた。

「だから、あんまり抱え込むな。辞めたくなったらやめたっていい。それで全ては決まらない。人生は長い」

永田先生の言いたかったこと。それは。

いつだって逃げていいってこと?

「……先生はいつもみんなと違うことを言いますね」

「世の中はいろんな要素でできてるってことだ」

そう言って、笑った。

ありがとうございます、とは言えなかった。でもなんだか、少し、ほんの少しだけ肩の荷が下りた気がした。

持たされた別冊資料。試験範囲、第二章全部。

「理系なのに世界史の勉強をするのも?」

「そ。歴史に学べ、若人」

笑っておれに背中を向けた彼は、何事もなかったかのように職員室に向かった。


パンダ好きの教師と別れてクラスに戻ると同級生が話しかけてきた。

「小西くん、永田先生と一緒だった?」

内海桐子。大して親しいわけでもないが、おれは密かに同志だと思ってる。

「ん。職員室まで荷物持ち」

「……なにか話したの?」

普通だったら適当にはぐらかす質問だった。あんまり弱味は見せたくない。でも内海には隠すつもりはなかった。

だって、内海は。

「都々逸部のこと。心配してくれたみたい」

「そっか……」

嬉しそうに笑ってうつむく。

……惚れ直したか?内海。

だってお前、永田先生のこと好きだろう?

「あと、世界史の試験範囲広いって文句言っといた」

「いつものことなのに?」

「だからだよ」

そうだけどー、と笑う内海。

理系クラスなのに世界史の成績がいいのも、たぶんおれの現国の成績がいいのと同じ。

なあ、内海。おれたちのこの気持ちはいったいどこに行くんだろうな。本気にしてもらえるかもわからない、このじりじりとした苦い気持ちは。

心の中で問いかけて、でももちろん口には出せなくて、同級生の笑顔を少し苦々しく思ったりした。


試験前だから部活は休み、という話にはならなかった。もともと活動を始めたばかりで大したこともやってなかったし、なにより第二視聴覚室の居心地はそう悪くなかったから。

「勉強はしやすいよな。図書館は混んでるし」

「前はこういうのなかったもんな」

大西先輩と中西先輩も同じ考えのようだった。確かに野球部のときは一緒に勉強なんてしたことない。なにげに新鮮だった。なんだかんだ今日も部員全員集まって、それぞれ試験勉強をしている。

「何がいいって、すぐ聞けるのがいいですね。笹谷ここ教えろ」

「どこ?」

化学の得意な笹谷に塩基配列の問題を聞きながら、確かに便利だなと思う。

目の前にはなんでもできる生徒会長がいるし、大西先輩は理数ならお手の物だ。平田に勉強なんて聞いたことなかったけど、文系なら頼れそうだし。

「あー……!!」

大西先輩が座ったままの体勢でかったるそうに伸びをした。手元には古文の教科書。

「清少納言ですか?」

「あと鴨長明」

意味わかんねー、と仏頂面。わかる。おれも嫌い。

すると、近くで教科書を広げてた二葉さんがこちらを向いた。突然見られるとちょっと怯む。まだ慣れない。

「いい?大西。古文だってね、昔の人が書いたただの萌え文なのよ!あれがかわいいとかたまらないとか!恐れることはないわ!!」

もちろん怯むのは美人だからだが、話し始めるとだんだん発言の方に気が持ってかれる。萌え文て。

「だから、選択肢問題は濁った目で見るの!なにそれかわいい!と思ったらそれが正解よ!!!」

「……マジか」

開いた教科書の一節を見て、大西先輩が難しい顔をした。

「そうか、その発想はなかった……」

納得したように活字を追う。瓜にかきたる稚児の顔。

「あ、方丈記は平安時代の災害まとめブログね!鴨長明は萌えがあんまり出てこないから私も苦手!」

「二葉さん、文法は?」

おもしろそうだったので聞いてみる。大嫌いな古文の文法。

「どんなやつ?!」

「立たぬと立ちぬの違いとか」

「立たぬは否定、立ちぬは完了!」

言いながら立ち上がり、黒板にでかでかと文字を書いた。風立ちぬ。腰立たぬ。

「風は今まさに立ったのであって、否定ではない!腰は立たない、できない!すなわち否定!この違い!!」

ドン、と黒板を叩いて朗々と言い放ち、教師のように大西先輩を指す。

「はい大西、リピートアフターミー!腰立たぬ!」

「こ……腰立たぬ」

「次は例文!きよらなる君ときぞ大殿ごもりければ腰立たず、はい!中西の方を見て!!」

「きよらなる……って、どさくさに紛れて何を言わせようとしてるんだお前は」

「チッ、バレたか」

「つーか、立たず?立たぬじゃねえの?」

「文末は立たずに変化します!テストに出ます!!」

なんか、ちょっとわかった。二葉さんすげえ。勢いで覚えられそう。

「腰立ちぬ、でも意味は通じるけどな。今まさに立ったんだよ腰が」

「卑猥ですね。つーか混乱するからやめてください」

中西先輩の妨害を受け流そうとすると、それを聞いていた笹谷がにんまりと笑った。

「腰立たぬ、も卑猥だよ。あきらかに事後!!」

「いや、だから混乱するからやめろ」

「何を混乱することがあるの。やる前が立ちぬ、事後が立たぬよ」

佐倉が涼しい顔で言い放つ。下ネタ……?!

「それでもわからなくなるなら、クララが立ちぬ、と覚えるといいね」

「クララが!クララが立ちぬ!!」

佐倉の淡々とした解説に笹谷がハイジのトーンで演技をつける。聞いてた平田が爆笑した。

「先輩たちおもしろすぎる……!!」

一緒になって笑う当麻を笹谷がつかまえる。

「トマっちゃんクララやって!ほら!」

「えっ、えっ?!」

うるせえ。

うるせえけど、なんていうか、しっくりしてきた。こういう風にガチャガチャしてるのが都々逸部、という感じに。

クララが立ちぬ、腰立たぬ。それはどうだろうという覚え方を手にいれて、おれは少しだけ賢くなった。


試験初日。現国と生物を終わらせて一息ついたが、次は世界史。暗記で頭はじけそう。

「こにしー」

向井が無造作に隣に座る。

「やめろ、今話しかけるな」

「なに、暗記?」

「そう」

「じゃ、十字軍の侵攻は?」

「え?……テストの範囲外のこと聞くな!」

人に脳のリソースを無駄に使わせて、ケラケラ笑うクラスメイト。余裕だな。

「なんでそんな余裕なのお前」

「おれ世界史好きだもん。明日の栗原の数学の方が嫌」

「出た生物派」

うちは理系クラスではあるが、数学は得手不得手が別れやすい。生物寄り、物理寄り、理学寄り、理系にもいろんな奴がいる。

そのまま世界史の試験がはじまって、なんとかそれを乗り越えて一息。そのまま教室を出ようとしたが、長瀬がおれを引き留めた。

「小西くん……明日の数学教えて」

「おれも」

向井がさっきとはうって変わった悲痛な面持ちでこちらを見ている。

「長瀬はいいけど向井はダメ」

「なんでだよ!二人っきりか!二人っきり狙いか!!」

「違う、さっき邪魔しただろお前!」

「それくらいのことで……ケツの穴が小さいなぁ」

「でかい方がいいのかそれは」

軽口をききながら結局着席。三人で教科書を広げる。

「で、どこ?」

「この辺の演習問題がいつもすごい時間かかるの」

「あー、それなら後回しにしてもいいかも。たぶん出ても一問か二問なはず。他の解いて時間あったらにすれば?」

「そっか、そうしてみる!」

「つーか早く解くコツとかないの?」

「えーと……今どうやって解いてる?」

「小西、部室で数学ー……」

説明しようとしたところで名前を呼ばれた。平田の声。

「あ、はるちゃん!」

長瀬が平田の名前を呼ぶ。手招きされてこちらに来る平田。

「かすみちゃんも数学?」

「うん!小西くんに教えてもらおうと思って」

そっか、と笑いながら平田がおれを見る。さっき部室って言ったな。誘いに来たのか。

「悪い、おれ今日はこっちで勉強してくわ」

「はるちゃんも数学聞きたいんだよね?一緒に聞こうよ」

「いいの?やった!」

長瀬の誘いに平田が乗って、お邪魔します、と言いながらおれの隣に座る。

「両手に花だな小西」

「数学のときだけな」

向井に茶化されて言い返す。まあ、頼られて悪い気分はしないけど。

明日の数学、因数定理、三角関数、不等式。頭の中でリズムを踏んで、友人たちと目の前の数式たちに向き直った。


試験期間中も第二視聴覚室は盛況だった。

佐倉に物理の問題を聞かれて解説していると、一息ついた平田が大西先輩に提案を投げる。

「ちょっと休憩して文芸部行きません?あっちも部室で勉強してるらしいんですよね」

「文芸部?なんでだ?」

大西先輩は考えもしてなかったという顔をする。

「うちの部の活動方針決めるのに文芸部の活動は参考になると思うので」

「あー。なるほど」

渕崎の顔が頭に浮かんだ。あれ以来話もしていない。

「そうだね!行こう行こう!」

勉強に飽きてたのか、二葉さんが身を乗り出した。

「おれいいわ。小西頼んだ」

「そうだな。お前らで行ってこい」

なぜか辞退する先輩二人。こっちを見てうまくやれよ、という顔。なんか押し付けられてる気がする。

「私もちょっと明日やばいからやめとくーーーー。ううううーー」

呻きながら勉強してる笹谷と、仕方ないわね、とそれを教える方にまわってる佐倉。

「トマっちゃんは?」

「あっ、えーと、私は、あの……今日は早めに帰ろうと思ってるので」

「そっか!」

じゃあ三人で行こう、二葉さんがこちらを見る。

おれに拒否権はないようだった。仕方ない。重い腰をあげる。

文芸部の部室は第一視聴覚室。第二視聴覚室とは校舎が異なる。しかもそれぞれ端に位置する。つまり遠い。

わざわざおれたちを連れていく意味があるのだろうか。渕崎と平田は同じクラスだし、いつだって話せるはずだ。

もしかして、話せてないのか。平田。

隣の平田を見る。二葉さんと談笑してる姿に含むところは見られない。いつも通りの平田だ。

「失礼しまーす」

第一視聴覚室の扉を開けると、複数の目がこっちを向いた。その数三十程度。さすが大所帯、西高文芸部。

「はるちゃん」

渕崎が平田を見てすぐにこちらに来た。おれたちを招き入れる。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと挨拶に。お邪魔じゃない?」

「いいよ。今ちょうどお茶入れたところ」

飲んでいって、と席を促される。見るとやけに本格的な茶器が部屋の一画を占領していた。紅茶の缶もたくさんある。

「……なんで文芸部に紅茶のセットが?」

「紅茶好き多いの、うちの部。言っとくけど部費じゃないよ。自費の持ちより」

渕崎はおれの疑問に抑揚のない声で答えた。別に責めてるわけじゃないのに。

そうか、と相づちを打って部員達に顔を向ける。おれが見ると目をそらすようにそれぞれの手元に視線を戻す部員たち。知ってる顔はない。ほぼ女子だけどたまに男も混ざってる。

「多いな」

見たままを述べた。詳しくは知らないけど、表彰されたりコンクールで入賞したりしてる部員が何人もいるはずだ。そのおかげで毎年大所帯になってると中西先輩に聞いた。

「部員が多いことに意味なんかないよ。やってることはみんな違うし」

そうなのか。こっちからするとうらやましいくらいだが。

「都々逸部だってもう八人でしょ?」

言って、渕崎がおれを見据えた。唐突に目を合わされて怯む。しかも。

「あやめちゃんも笹谷もはるちゃんも、みんな文芸部に入ってほしい逸材だったのに」

やっぱり、怒ってる。

「だから、それはあいつらが決めることだし。おれに言われても困るって言っただろ」

「だとしても気にくわないって言ったでしょ」

「お……おう」

「それに、あの都々逸は出来たの?」

あの都々逸。作ってみろと詰め寄られた、あの時の。

「……雨が降る、でいいんじゃねえの」

跳ねる白球追う足音が聞けぬグランド、雨が降る。

そう、あれはそれだけの歌だ。雨が降ってるから野球できねえなっていう、それだけの。

「いまいち」

がっかりした、というように渕崎が言った。

「そんなつまんないのしか詠めないなら、やっぱり認められないな」

つまんない。言われて言葉に詰まった。

おれだってそう思う。でも本心を詠むのは、今だってまだ辛い。

「別にお前に認められなくてもいい」

心を詠めばいい。さゆり先生の言葉を思い出しながらも、おれはそっぽを向いた。

「もー、もめないでよ小西。ごめんね?麻美ちゃん」

「いいよ。でもたまには遊びに来てね?」

平田と渕崎は仲違いしたわけじゃなさそうだった。とりあえず安心する。

「あ、そうだ、紹介するね。こちら都々逸部の先輩で二葉さん……あれ?二葉さんは?」

おれたちが渕崎と話してる間に姿が見えなくなっていた。どこ行った、と部屋を見回す。

「なに、二葉。会いに来たの?」

「そう!偵察に!!」

あ。いた。向こうで三年生の女子つかまえて話してる。なんだか仲が良さそうだ。

「あれ、知り合いなのかな?」

「浦河さんと宮下さん?」

渕崎が二人の名前を教えてくれる。

「それにしても、ずっと部活入らなかったのに都々逸部なんてびっくりだよ。どういう風の吹き回し?」

「不純な動機でしょ」

「えへへー、バレた?!さすが浦ちゃん!」

クールにバッサリと言い切った彼女を、二葉さんが浦ちゃんと呼んだ。あの人が浦河さんみたいだ。てことは意外そうに質問したのが宮下さんか。

「それでどうなの?観察結果は」

「もうね、間近で見てるとホモにしか見えないよあのふたり!みなぎってくる!!」

「そう。松崎くんは?」

「かわいい!!!」

浦河さんの質問に興奮ぎみに答える二葉さん。また不穏な会話をしてる気がする。そっとしておこう。

「あと、小西は有能で参謀肌なのに色恋ヘタレそうってことで見解が一致した!!宮ちゃんの言ってた通り!!」

「やっぱりそうだよねー。あやめとも話してたんだよね」

ちょっと待て、誰がヘタレだ。なんで知ってるんだ。スルーできずに歩み寄る。

「二葉さん……なんの話ですか……」

「あっ、小西!大西と中西どっちが好きなんだっけ?!」

「だからなんなんですかその質問は。どっちも嫌いですよ」

「なにそれ萌える」

宮下さんが真顔でこちらを見る。うんうん、わかるよ、と二葉さん。静かに笑顔の浦河さん。

……いかん。飲まれる。もしかして、先輩たちが来なかったのはこのせいだったのか。

「平田。帰ろう」

そのまま撤退。収穫、なし。


それから数日が経って、ようやく全ての試験が終わった。生徒たちは開放的に下校していく。

おれは教室からそれを眺めていた。

今日はほとんどの部が休み。都々逸部も例外ではない。クラスメイトたちはみんなで遊びに行くらしく、向井に誘われたが何故かその気にはなれなくて、またな、と断ってぼーっとしていた。

人気がなくなった頃のろのろと立ち上がる。腹が減った。

教室を出て、誰もいない校舎を歩く。階段を下りる。下駄箱に上履きを放り込んで靴を履く。校門までの道を歩きながらグランドに目を向ける。誰もいない。

そういえば、体育の授業以外でグランドに立つこともなかったな。そう思って足を踏み入れた。

広いグランドにひとり。

誰もいない。

いつもノックをしていたベースの上に立って、外野の後ろのネットを眺めた。ライトとレフトがいた位置。セカンドの松崎を走り回らせたこと。ピッチャーが投げる姿。後ろから聞こえてた主将の声。

思い出すのは他愛もないことばかり。だけどもう二度と見ることのない光景。

去年は試験が終わった日から練習が始まってた。本当なら今日、この日から。

いつまでこんな気持ちを引きずって行くんだろう。

足元のベースを踏みしめて自嘲した。広いグランドなんて無駄だ。

ひとりじゃ何もできないのに。


「じゃ、次は100m。そのあと幅跳びで終了な」

「はーい」

翌日の体力テスト。体育館での測定を終えたおれは、クラスメイトたちとグランドへ向かった。

「さっきまで反復横跳びやってたのに100mとか悪意を感じるな」

隣で向井がブツブツ言ってる。同感。

「確かに、先に幅跳びならまだ休めるのにな」

「順番はローテーションだから……うちのクラスは運が悪かったね」

長瀬が笑って取りなした。

体育館からグランドに向かう渡り廊下を歩いていると、正面から目付きの悪い金髪がこちらに向かって来た。南野。

「100m、11.86秒」

自己ベスト。近くに来るなりそう言って得意顔。

「だからなんだよ」

「お前は今回勝てないってことだ」

おれを指差して不敵に笑うが、こっちは別に争ってるつもりはない。そもそもおれが南野に勝ってるのは足の早さだけだ。他は南野の方が上。

「うざ」

ぼそっと呟くと、なんだと、と突っかかってこられそうになる。

「11秒台?すごいね南野くん!」

「え、あ、……ありがとう」

長瀬に誉められて南野の勢いが弱まった。その隙に距離を取る。今のサッカー部と揉めたくはない。あそこには後輩たちがいるのに。

煙に巻いて逃げて、グランドへ向かった。

快晴。抜けるような青空。

「次。大野から小西までの五人。行くぞー」

グランドに出てすぐ100mの計測が始まる。出席番号順に呼ぶ体育教師の声でコースに並んだ。

セット、レディー。ゴー。

一斉に駆けた。まっすぐ前を見て、風を切る。無心に。

11秒か12秒、たったそれだけの時間。ゴールラインを踏んで数メートル、越えて走って止まった。

心臓が早鐘を打つ。息が上がる。思わず膝に手を着いて下を向いた。暑い。ぽたりと砂に汗が落ちる。

「小西、11.78秒」

計測係の体育委員の声で顔を上げた。上出来だ。もちろん陸上部の俊足には敵わないけど、おれにとっては。

「やるじゃん小西」

その俊足が声をかけてきた。計測をやってた体育委員。陸上部の手塚。同じクラスの。

「お前ほどじゃないだろ」

「でも十分だろー。陸上部来ればよかったのに」

「いや、おれには無理。ほら次来るぞ」

計測に戻るよう促して息を整えた。クラスメイトたちが走って向かってくるのを見ながらグランドを見渡す。高跳びをやってる平田のクラスが見えた。昨日の静寂が嘘のようなたくさんの生徒たち。

世界はまわっている。おれが何を考えていようと関係なく。

「次、幅跳びなー。これで最後」

言われて移動して、また出席番号順に並び、先に女子が跳ぶのを眺める。

「着地点で見てたいな、あれ」

「体育委員役得だよなー」

出席番号の近いクラスメイトたちと雑談しながら待っていると、すぐに出番が来た。理系クラスは女子が少ない。

「いつでもいいぞー小西」

「はい、行きます」

そのまま走って、跳ぶ。なんなく着地。

が、着いた手に痛みが走った。

ひねったわけじゃない、切れたような鋭い痛み。見ると血が出ていた。右の手のひら、付け根の近く。

「どうした?」

「切った」

計測してた手塚に聞かれて答える。砂の中に石が紛れていたようだった。拾い上げて近くの草むらに投げ込む。

「大丈夫?」

計測が終った女子の群れの中から、長瀬がこちらを見て声をかけてくれた。

「大丈夫。ほっときゃ止まるだろ」

「ダメだよ、バイ菌入ったら怖いよ。保健室行こう?着いていくから」

「あー、いいよ。一人で行ける」

どうせこのまま終わりだし、ちょうどいい。長瀬の申し出を断って一人で保健室へ。

「せんせー、絆創膏下さい」

「……先生いないよ」

保健医を呼んだはずが、答えたのは渕崎だった。ベッドに腰掛けてこちらを見ている。顔色が悪い。

「調子悪いのか」

「ちょっと貧血なだけ」

「そうか」

目をそらして絆創膏を探した。机の上の分かりやすいところに置いてあったのですぐに見つかる。

自分で貼ろうと試みるが、怪我をしたのが利き手だからうまくいかない。端がよれてくっついてしまう。

「切ったの?」

「ん。幅跳びの砂に石が混ざってて」

「砂に触れたなら消毒した方がいいよ。貸して」

渕崎の手が伸びて、おれの持っていた絆創膏を取り上げた。小さな手が慣れた手つきで棚からマキロンを取り出す。

「染みるよ」

一言かけてはくれたが、まったく躊躇なく消毒液をかけられた。染みる。痛い。

文句を言おうと思ったが、青いままの顔色に結局なにも言えなかった。

渕崎は笑わない。おれの顔を見ない。窓の外、少し遠くからじわりじわりと蝉が鳴くのが聞こえる。ひやりと冷たい渕崎の手。終始無言でおれの手当てを終える。

「ありがとう」

そこではじめて驚いたようにこっちを見た。

なんだよ。おれだって礼くらい言える。

「……都々逸部は」

そして、ゆっくりと口を開いた。

「他の部と一緒に活動するの?」

こないだ話さなかったこと。おれが逃げたから。

「平田に聞いたのか」

「あと、せいちゃんに」

征矢とも仲良くしているのか。それならいい。

「そういうつもりでいる」

「まずは、どこと?」

どの部と一緒に何をやるつもりなのか。それを聞かれているのがわかった。いい加減それを真面目に話し合わなければいけない。作った意味のあるように。

「それはこれから考える。……けど、心配しなくていいよ。文芸部に負担がかかるようなことはしない」

そもそも文芸部と活動するのは最後の手段だと思っていた。

真っ先に一緒にやるのが文芸部なら、やっぱりひとつの部でよかったんじゃないのか。それなら吸収されろ。今からでも遅くない。

瀬尾さんにそう言われるのが目に見えていたから。

「別にそういうつもりで言ったんじゃないよ」

渕崎は笑わない。発言の真意もわからない。

「とにかく、心配すんな」

じゃあな、そう言って切り上げた。別に心配されているわけじゃないのだろうけど、何を言えばいいかわからなかった。

おれは渕崎といると、いつも言葉を奪われるんだ。


試験と体力テストと共に身体測定も終わって、あとは夏休みを待つばかり。

ちらほら帰ってくるテスト。体力テストの成績表。今日は身体測定の結果が戻ってきた。

手にした健診表を見せつつ、第二視聴覚室の扉を開ける。

「身長伸びてた!175cm!」

「マジか」

おれの声に大西先輩がこちらを見た。歩み寄るとたまたま同じものが彼の手にも。見ると、173cm。

「勝った……!!」

「低いレベルだな」

勝ち誇ったように笑う中西先輩。なんだよ、とふたりで健診表を覗き込む。身長180cm。ムカつく。

「順調に伸びてやがるな……」

「5cmなんて誤差ですよ。今に追い抜いて見せます」

「えー。小西が中西先輩と同じサイズになったら受けにくいじゃない。そのままでいいよ」

「そうだよね!BLにおいて身長差は大事なファクターだしねー」

「BL?」

佐倉と笹谷の言葉の意味がわからなかった。なんの略だ?手元のスマートフォンでググってみる。

すぐに出た。便利だな、Wikipedia。

『ボーイズラブ(和製英語)とは、日本における男性(少年)同士の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。書き手も読み手も主として異性愛女性によって担われている。』

……What??

「二葉さんはおおなか推しですけど、身長差も出てきたことですしなかおおはいかがです?いけます?」

「いけるよ!むしろリバ美味しいです!!」

ちょっと待て。二葉さんがよく言ってるおおなかって、大西と中西ってことか?!

「あ……頭おかしい……!!」

「だから深く考えるなって言っただろ」

おれの手元のスマートフォンを覗いて、中西先輩が肩に手を置いた。

生徒会長は間違ってなかった。これは確かにスルーすべき事案だ。

「おつかれさまですー!」

凍りついてるおれとは真逆の明るさで元気よく入ってくる声。当麻。

「お、トマっちゃん元気だね?!」

「えへへー。あのですね、いいことがあって!」

「なになに?」

笹谷が上機嫌の理由を訪ねる。

「レナ先輩に教えてもらったおかげで生物のテストがすごくよかったんです!現国も、あやめ先輩の言ってた問題が出て!」

「あ、それおれもだ。二葉のおかげで古文よかった」

大西先輩が言う。おれもだ。古文の成績、かつてないくらいよかった。

「ちなみに私も、物理よかったよ」

佐倉がおれを見て笑う。

「……悪いことばかりでもないよな」

「当たり前じゃない」

平田も笑った。

野球部では出来なかったこと。都々逸部だからできること。

あるのかもしれない。そんな何かが。


世界史のテストが返ってきて、古文みたいに教えを請えばよかったなと反省した。いつも通りの低空飛行。51点。

「だから歴史に学べって言っただろ」

おれを見て笑う永田先生に顔をしかめて返した。

そして今は数学。おもむろにテスト用紙の束を掲げて、栗原が壇上で嬉しそうに言う。

「テスト返すぞー。今回は学年平均42.8点、理系クラス平均64.2点だ」

「げーーーーー」

「ひどいですよ先生!なんなんですかあの演習問題!!」

容赦のない平均点にクラス中がブーイング。はっはっは、笑いながら配っていく栗原。

「大野ー、加藤ー、菊地ー、小西ー」

とんとんとん、とリズムよく配られて、おれの番。受けとる。

「よくやったな」

あれ以来はじめて声をかけられた。点数を見る。100点。

顔を上げた。栗原はもうおれの後ろの奴らにテストを渡してる。

一礼して背を向けた。よくやった。本当に?

栗原の声を反芻しながら、ほんの少し安堵していた。野球と数学以外に取り柄のない自分の一端を守れた気がして。


その日の放課後。今日は部活のない木曜日。何もないし帰るか、と廊下を歩いていると、東の声が聞こえた気がした。横を見ると第一美術室。美術部の部室。

そうだ、と思い至った。こないだの不義理を詫びなくては。

そっと扉を開けてみて、目の前の光景にフリーズした。なんだ?

「魚ちゃんー!これでどうかな?」

「もっと腰を捻ってください。左足は爪先を立てて」

「こう?」

「はい。そのまま静止で」

「魚谷、おれは?これでいい?」

「顔は心持ち下です、顎ひいて……そうです、そこで静止!」

「こっちはー?」

「影野さんは完璧です、そのままで」

「つーか筋肉痛い!ジョジョ立ちで静止つらい!」

「別の意味でも痛い!」

「……なにやってんだお前ら」

「あっ、小西」

声をかけると、東の目だけがこちらを向いた。おかしなポーズのままで。

「ちょっとデッサンのためにポージングをね」

「苦しくないのかそれ」

「大丈夫。かわいい後輩のためだから」

かわいい後輩。魚谷のことか。

「こんにちは、小西先輩」

「おー」

一応挨拶をされるも、魚谷はおれの返事なんか聞くまでもなくスケッチブックに視線を戻して一心不乱にデッサンをしている。

「で、どうしたの?」

「こないだ頼むだけ頼んで無しにしたから。悪かったな」

「いいよそんなの、すぐはるちゃんから聞いたし」

「中西からも聞いてるぞー」

変な格好のまま、芦屋さんも言う。

「つーか小西、悪いと思ってるならお前もモデルやれよ。なんなら脱げ。なんのために鍛えてんだ野球部」

「野球のためですけど……」

「その野球をやらなくなったんだから持ち腐れだろ?美術部に貢献してもいいと思う」

あ。そうか。美術部に貢献するって、その手があるのか。

「わかりました。じゃあ今度中西先輩連れてきます。イケメンの方がいいでしょうし」

「顔は関係ないぞ。大事なのは筋肉だ」

「でもイケメンの方が捗るのは事実ですね」

「なんなら都々逸部男子三人で並んでもらおうかな!」

影野が頷き、東が目を輝かせた。嫌な雲行き。後ずさる。

「えーと、じゃあまたの機会に」

「小西先輩」

いつのまにか隣にいた魚谷がおれの腕をつかんだ。

「とりあえず東さんの隣に立ってください。お手間は取らせません」

「ほら、かわいい一年が言ってるんだからさー。やってあげなよ小西」

「……マジかよ」

魚谷に言われるがまま変なポーズを取らされて、静止。そのまま十分経過。

「東、これ、貸しだからな」

「はいはーい」

明らかに適当に答えてる東。読めないな、こいつ。

まあいいか。取り引きの妙案も思い付いたし。

中西先輩生け贄計画を思って、おれは変なポーズのままちょっと笑った。


テストは全部返ってきて、もうすぐ夏休み。

正面玄関の廊下、学期末考査上位優秀者が張り出されていた。人だかりができているその場所に足を止める。

学期末考査成績優秀者十名。三年。


1. 瀬尾貴文

3. 中西憲広


見慣れた名前が連なっている。いつものことだが、相変わらず優秀な生徒会。

二年のリストには秀才の名前が並んでて、ここにも生徒会の名前が。


8. 影野翠

10. 征矢由花


美術部も。影野って頭いいんだな。

もちろんおれの名前は載らない。いつものこと。

一年の成績優秀者リストに知る名前がないことを確認して、その隣に目を向けた。おれが載るとしたらこっちだ。体力テスト結果上位十名。

三年のリストを見て驚いた。載らないと思ってた名前があったから。


1. 広丸彰

9. 中西憲広

10. 大西一志


大西先輩。肩の影響なかったのか。

だったら、と余計なことを考えそうになる脳みそが憎らしかった。体力テストに投てき種目がなかっただけだ。肩を使わなかったから、それだけだ。

振り払って、二年のリストに目をやる。上位はほぼスポーツ推薦生徒の名前だった。『南野葦太』の文字も見える。五番。そしてその左に。


7. 小西秀秋

8. 卜部博則


見慣れた名前が並んでいた。

「あ、小西に抜かれた」

隣にぬっと背の高い影が現れて呟いた。サッカー部の卜部。生徒会庶務でもある。そういえば去年は確か卜部の方が上だった。

「お前ちゃんと本気出した?」

「出したよ、当たり前だろ。手を抜いたら瀬尾さんに叱られる」

「それは恐ろしいな」

「だろ?」

瀬尾さんとはあれから一度も顔を合わせていない。必要もない。生徒会絡みのことは全部中西先輩がやってくれてる。

「しかしすごいな。学期末考査優秀者と体力テスト優秀者、どっちも載ってるの中西さんだけじゃん」

「だな」

それでイケメンなわけだから天は不平等だ。

「なあ、中西さんって弱点とかないの?」

「あー……まあ、あるんじゃん?」

「なにそれ。超聞きたい」

「じゃ、瀬尾さんの弱点教えろよ」

「それはちょっと。恐ろしいから」

「だよな」

卜部と二人で掲示板を眺めながら、弱点の無さそうな副会長の顔を思い浮かべた。中西先輩を王と呼んでいても、その王本人の指示であっても、簡単に動いてくれる人ではないと思う。中西先輩は切り札だ。簡単に使いたくない。

隣の横顔を見る。生徒会庶務。顔が広くないと勤まらない仕事。二年のときの中西先輩も人を引っ張ってきて調整することに心を砕いてた。

……やっぱりカードは多い方がいい。

「なあ、卜部」

おれの下心を知ってか知らずか、卜部はいつも通り愛想よくおれの方を見た。


リベンジ、と平田は言った。もう一回文芸部に行く、と。

「だって、こないだ何も聞けなかったじゃない。小西が逃げるから」

「一人で行ってこいよ。相手が渕崎ならお前一人でも大丈夫だろ」

「麻美ちゃん苦手なのはわかるけど、二葉さんにだって慣れたでしょ?要は回数の問題なの!」

渕崎を苦手としてることを言い当てられて黙った。別に苦手じゃない。向こうがおれを嫌いなんだろ。

「ブツブツ言わない。行くよ」

仕方なく従う。そりゃ、平田を他の部に一人で行かせるなんてことしたくはないけど。

「いらっしゃい」

渕崎はいつも通り平田を出迎えた。もちろんおれの方は見ない。

「今日はアールグレイだよ。お砂糖入れる?」

「うん!ありがとー」

「……小西は?」

「おれはいいよ。暑いし」

湯気を立てる紅茶を見てかぶりを振った。今だって半袖の背中が汗ばんでる。どちらかといえばポカリが飲みたい。

そう、と言って渕崎が背中を向けた。平田がなにか言いたげにおれを見る。

義理でももらっとけばよかったのか。でも無理したって渕崎にはすぐバレそうだ。得策とは思えない。

「あのね、麻美ちゃん。今日はお願いがあって来たの」

「なあに?」

「文芸部の活動を色々教えてもらえないかな?参考にしたくて」

「でも、小西は文芸部と絡むつもりはないって言ってたよ?」

平田が驚いたようにおれを見た。なんでそんなことを、という顔。語弊があるだろ渕崎。

「迷惑はかけない、って言っただけだろ」

「うちとはやらないって聞こえたよ」

確かにそうだしそのつもりだったけど。

渕崎はやっぱり鋭い。何も言えなくなる。

「それはおれ個人の意見だから。気に入らないなら平田にだけ話せばいい」

言って、窓の外を見た。じりじりと照りつける日差しが窓枠を焼いている。

ダメだな。うまくいく気がしない。やっぱりおれはここにいない方がいい。

「じゃ、おれ行くわ」

平田に視線を送って立ち上がった。あとは任せた、というつもりで。

「あー、あと、渕崎」

扉に向かって少し歩いたが、そうだ、と足を止めた。振り返って渕崎を見る。今度は目が合った。

「あの続き。ひとりきり、に訂正する」


跳ねる白球追う足音が

聞けぬグランド  ひとりきり


「……なんだ。やればできるんじゃん」

渕崎が静かに立ち上がった。窓際の一角に向かって声をかける。

「ふくやまー。ちょっと来て。あっくんも」

呼ばれて、向こうで話していた二人がこちらに来た。

福山は知ってる。西高一の短歌詠みだ。表彰されてるのを何度も見たことがある。

あともう一人は……一年?

「うちの短歌チームのふたり。福山桃花、高橋篤弘」

短歌チーム。そう言われて渕崎の意図を理解した。紹介してくれるってことは、つまり。

「こないだ話したでしょ?都々逸部の小西と平田はるちゃん。活動内容教えてやって」

やっぱりそうだ。塩を送ってくれる気になったのか、渕崎。

福山が渕崎の言葉にうん、と頷いた。眼鏡の奥できらりと光る目。おれを見て口を開く。

「グランドから消えてしまった白球を追った足音、遠ざかる夏」

突然言われて固まった。短歌だ。

「わー、すごい!いいですねぇ」

高橋がにこにこしながら感想を述べた。

一瞬でこんなものを詠んでしまう。確かにすごい。福山桃花。

「あっくんもどう?お題『西高野球部』だよ」

「うーん、やってみます!」

少し考えて、よし、というように口に出す。

「さよならを言えたでしょうかグランドに。それともいまだに見てるでしょうか」

「……ちょっと待て、なんなんだよ」

的確に心情を短歌にされて、なんとなく心が毛羽立った。不快。

「こんな感じ、いつもなにかしらお題出しあって作ってる。それで文芸部の季刊誌に乗せてる」

福山は悪びれずに言った。季刊誌。

「そっか、文芸部は季刊誌があるんだよね」

「うん。あとはNHK短歌とか、そういう短歌の専門誌に応募したりネットの歌会に出したり。短歌は土壌が広いから」

おれが心中をあらわにする前に平田が福山と話し始めた。そうだ、落ち着け。図星突かれたからって感情に出すな。

「高橋くんも応募してるの?」

「してますよー!桃花さんみたいにたくさんは載らないですけど」

なんだか、あくまでにこやかなその一年が犬に見えてきた。嬉しそうに尻尾振ってる毛並みのいい犬。昔うちで飼ってたゴールデンレトリバーに似てる。毛色も。

「そっか、高橋くん一年なのにすごいね」

「あ、よかったらあっくんって呼んでください。お近づきの印に!」

「あっくん?」

平田が笑った。かわいいこと言うね、と。

「はい、皆さんそう呼んでくれてるのでぜひ。小西さんも」

「……おれはいいよ」

あっくんってなんだよ、アイドルか。呼びづらいだろ。

「どっちかと言えばポチって感じだ」

思わず考えていたことが口から出た。しまった。

「ポチ?犬っぽいですか僕?」

「あー、うん」

「確かにあっくん犬っぽいわ。もふりたいわ」

静かに聞いてた渕崎が同意する。

「そうだね、もふりたいね。もふらせてー」

どうぞどうぞー、と言う高橋の頭を、福山がくしゃくしゃとなで回した。

えーと。そっとしとこう。

「じゃあ、おれ帰るわ」

「小西、逃げない」

平田にTシャツの裾をつかまれる。

「じゃあ次はお題『犬』でひとつ!」

「わー、スパルタだね短歌チーム!」

和気あいあいと話す平田を見ながら、文芸部の個性の強さをちょっと意外にも感じていた。


文芸部から持ち帰った情報は大いに役に立った。

それを元におれたちのこれからを決める話し合いをする。部員八名。さてなにをやる?

「なるほど、季刊誌か」

「はい。取り入れてみてはどうかと思って」

大西先輩に平田が提案をする。

「文芸部は大所帯なので年に四回ですけど、うちはもっと少なくてもいいと思いますし」

「確かに本にまとまるのは嬉しいですよね」

「都々逸の薄い本だね!」

佐倉と笹谷は賛成のようだ。

「小西の意見は?」

中西先輩に聞かれる。

「いいと思います。時期としては三月、先輩たちの卒業前に一年の集大成として刊行すると区切りもいいかと」

「そうだな。テキストだけで心細い部分は、一年間の活動で他の部との活動実績を作って補ってもらえるように努力するか」

「具体的には美術部の懐柔だね?!」

美術部の懐柔で思い出した。中西先輩生け贄計画。とりあえず、いざという時まで黙っておこう。

「じゃ、一年で一冊部誌を出すのを目標にする。それに向けて日々詠んでみる、ということでいいですか?」

「だな」

平田と中西先輩が同意して話が落ち着いたところで笹谷が手を上げた。

「はいはい!部員同士で見せ合ってこれが好きだーって表明するのやりたい!」

「いいね!見たい、おおなかの都々逸!!」

乗り気な二葉さんを見て笑いつつ、佐倉が質問を投げる。

「感想を言い合うってこと?」

「選評とかでもいいけど、ほら、さゆり先生の授業でやるみたいに無記名の短冊でさ!好きなのピックアップしてそれを表明するの!」

「それいいですね。あとから名前明かすのも楽しそう」

「要は歌会の形式なわけですよね」

「短歌チームみたいに題詠するのもいいよね?」

いろんな意見が出て、それが黒板にまとめられていく。いつの間にか佐倉が板書きをしてくれていた。

確かに、なんとなく気恥ずかしい気もして見せ合ったりはしてなかった。和歌を詠むなら歌会か。そりゃそうか。

「じゃあ、歌会は二週間に一度、第二と第四金曜日ってことで。ノートに書きためたものを短冊に書いて提出」

大西先輩がまとめて、おれの方を見る。

「次、どこの部と一緒にやるかという件について。小西」

何か話せ、と促される。

「基本はイベントの時ですよね。直近では体育祭、次いで文化祭」

「うーん、でもそれだけじゃつまんないよねー」

二葉さんが目を閉じて思案顔。こうしているとやっぱり美人だ。

「……一応、生徒会が企画してるイベントもいくつかある。まだ言えないけど」

「そうなの?!なかせおで悪巧みね?!」

中西先輩が生徒会事情を明かすと目が輝く。また残念な美人に逆戻り。それをスルーして大西先輩。

「でも、やっぱり一番気合い入れるべきは文化祭だろうな」

おれもそう思う。都々逸部は文化部だ。文化祭で目立たなくてどうする。

「じゃ、まず体育祭をとっかかりにして絡むのに慣れていきます?」

平田の声に一同頷く。

「一応、体育祭については案があります」

前に中西先輩と話していた案を説明した。

悪目立ちするのではと心配していた案。その懸念も付け加える。

「えー、いいじゃん!」

「そうだよ、設立一年目だよ?目立とうよここは!」

「でもその案だとそれぞれが各クラスでかなり奮闘しないといけないぞ」

「そうだよねー」

「私にできるかなぁ……」

当麻が不安そうに下を向く。一年一人じゃ荷が重いのは間違いない。が、たぶんなんとかなる。生徒会長の権限があれば。

中西先輩を見る。目が合った。わかってるよ、というように眉を上げて口を開く。

「うまくこの中の誰かと同じチームになれば問題ないし、運が悪くて無理そうならおれたちで上に話をつける」

「じゃあ、夏はその下準備に充てるか。体育祭で今の案を実現する」

「了解です部長!!」

右手をあげて敬礼のポーズを取る笹谷を笑いながら、大西先輩がおれを見た。

「夏休みの活動日はどうする?」

「今まで通り、週三。火、水、金でいいと思います。受験勉強あるでしょうから三年は自由で」

「そうするか」

部長が承諾して夏の予定も決まった。

ようやく目処がついた、と胸をなで下ろす。窓を開けると熱気が入ってきた。

じりり、と蝉が鳴く声。夏服の背中。机の上で汗をかくペットボトル。


夏が来る。

野球をする必要のない夏が。

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