番外編:もしも手に入るなら
先生、あなたは知らないでしょう?
僕が抱えた焦燥を。
その焦燥を隠しきれなくなり、ぶつけてしまってから数ヵ月。
小西は体育館で後輩たちの歌声を聞いていた。蛍の光、窓の雪。
卒業証書を受け取り、式典が終わる。涙目の同級生や後輩たちを笑い飛ばしながら、小西は目でただ一人を探していた。
栗原さゆり。焦燥をぶつけた相手。
彼の目が彼女を見つけて止まった。卒業生を惜しむ在校生を遠巻きにしていたさゆりは、小西と目が合うと背を向けて行ってしまう。
「ちょっと行ってくる」
もらった花束を隣にいた松崎に押し付け、小西は彼女の背中を追った。
「なんで逃げるんですか?」
廊下を歩くさゆりを呼び止めて歩み寄る。
「逃げてないよ。部室で待とうと思って」
「おれを?みんなを?」
さゆりは答えなかった。穏やかに微笑んで背を向ける。
第二視聴覚室に向かう後ろ姿を静かに追いかけた。幾度も眺めた背中。低いヒール。追う自分の学生服の足元が目に入る。これを着るのも最後か。
「先生、おれ、明日から生徒じゃなくなりますから。本気にしてくださいね」
視聴覚室に着くなり、小西はそう言って彼女を見据えた。言わなくては、会いに来なくては、理由なしではもう会えない。
「とりあえずアドレスと電話番号教えてください」
部員たちが来る前に。
平田は小西がどこに誰といるかわかってるはずだった。無粋な真似はしないと信じている。でも自由な部員たちのこと、いつ押し掛けてくるかは読めない。
さゆりは困ったように笑った。でも拒否する理由もない。明日から教え子ではなくなる少年の気持ちを無視することは出来なかった。
「090……」
唱えられる数字と文字列を手に入れて、小西の顔は少年らしく輝いた。
交わされるのは週に一度の短いメールだけだった。
元気ですか、今日はじめて授業に出ました。そう、頑張ってね。そんな当たり障りのないやり取り。
一ヶ月と少しが過ぎて、さゆりが新しい生徒たちを受け持ってはじめての中間試験が終わったその日。
落ち着いたのを見計らったように、小西が職員室を訪ねてきた。
「おー、小西。もう学校が恋しくなったか」
「はいはい、そうですね。先生一年の担任ですよね?どうですか今年は」
「イキがいいのいっぱいいて苦労しまくり。都々逸部にも入ってたぞ」
「あー、聞いてます」
からかう永田と雑談を交わし、栗原に挨拶をし、近況を話して、それが済んで最後にさゆりの顔を見た。
「お久しぶりです」
「まだ一ヶ月よ?」
さゆりは何事もないかのように華やかに笑って見せる。いつも通り。いつもどおり。
そうですね、と答えて彼は彼女の席の隣に丸椅子を持ってきて座り込んだ。
しばらく仕事している彼女を見守って、雑談をして、帰っていく。
月に一度のそんな訪問が何度か続いたある日。
「先生、それ終わったら飯食いに行きません?」
はじめて誘いをかけられて、さゆりは驚いた。目を丸くして小西の顔を見る。
「おごりますよ。ラーメン屋ですけど」
卒業生とラーメン屋で夕食を取る。それくらいは許されるだろう、そう考えて同意した。小西の言ったその店は学校のすぐ近くで、さゆり自身は行ったことはなかったが運動部の生徒がよく寄り道をしていることを知っていた。
「野球部の時、よくここで食ってから帰ってて」
「おれはいつもチャーシュー麺で、大西先輩は大盛り。中西先輩は味噌コーンに味たま入り」
「塩ラーメンもうまいですよ」
小西の解説をふんふんと聞いて塩ラーメンを選び、テーブル席に向かい合って座る。
「なんか、不思議です。先生と飯食ってるなんて」
「そう?部活の帰りに行ったことあったじゃない」
「二人では初めてでしょう」
部員と一緒にした食事なんて、ぎゃーぎゃーうるさくて先生のことを見ることも出来なかった。もちろん、彼らから気持ちを隠していたのもあってのことだが。
少しして運ばれてきたラーメンに手を合わせて、箸をつける。
「おいし……!」
思わず出る声。そんなさゆりを見て嬉しそうな小西。
「でしょう?」
「こんなにおいしいならもっと早く来ればよかったな。もったいないことしてた」
「じゃあ、また来ましょう」
さりげなく次の約束を匂わせて箸を進める。
都々逸部のこと。新しい部員のこと。大学のこと。さゆりの大学時代のこと。雑談は楽しく、時間はあっという間にすぎた。
「送りますよ」
店を出てすぐにそう申し出て、小西は二駅先の彼女のマンションまで着いていった。
もちろん送り狼になる度胸などなく、おとなしく送り届けるだけ。
でも、試験終わりのそれは恒例になった。
一年が経った。小西が卒業して次の四月。
相変わらず続けられる当たり障りのないメールで、サークルに入った、という内容が送られてきた。
サークル。旅行とか、テニスとか、そういう。女の子と遊ぶような?
『学生時代はいいね。思い出しちゃうな。楽しんでね!』
詳しくは聞かず、さゆりはそう返した。
いつも通り。当たり障りなく。
異変はその次の試験後にやってきた。
夕方。いつもならとっくに自分の隣に座り込んでいるはずの小西が、来ない。
「あれ?今日は小西来てないんだ」
永田に声をかけられて、忙しいんじゃないですか、と笑った。つとめて明るく、いつも通り。
もう飽きちゃったのかな。サークルが楽しくなっちゃったのかもな。本気にしろって言ったくせに、やっぱり若いなぁ。当たり前か。だって小西くんは、まだ。
別に悲しいとは思わなかった。
ただ、少し、予想どおり過ぎて残念だっただけだ。
連絡はなくても日々は過ぎていく。
気にはなったが、さゆりから連絡を取ることはなかった。
意地を張っていたわけではない。どうして来ないのかと問い詰めるような関係性ではないと思っていたからだ。積極的にどうしたいのかもわからない。
小西のことを考えないようにしようと打ち消して過ごす日々。
そして彼はやって来た。何事もなかったかのように。
「すいません、中間のあと来れなくて」
「サークルが思いの外忙しくて。学祭もあるし」
「大学生になっても文化祭って楽しいもんですね。一昨年を思い出します」
あの時の文化祭の資料を参考にしたくて。
小西はそう言ってさゆりに第二視聴覚室を開けさせた。
今日はそのために来た、とは言わなかった。言わなかったが、さゆりの顔は曇った。
小西はそれに気づかないまま、あったあった、と資料を取り出して楽しそうにめくる。
苛立った。心が曇る。
「今日はもう帰りなさいね。それ、持って帰っていいから」
それでも努めて笑顔を作る。
「私も忙しいし、いつまでも構ってあげられないし」
「……先生?」
「サークルあるなら無理しなくていいのよ?卒業したんだし、そろそろここに来るのはやめなさい」
「…………」
小西は黙った。無表情で彼女を見る。
「迷惑でしたか」
「そうじゃなくて。示しがつかないから」
「誰に?」
一歩、踏み出す。窓を背にして立つ彼女に向かって。
「生徒たちに……」
気圧されて後ずさるさゆりを、小西は追い詰めた。窓際。外から聞こえるサッカー部の声。
シャッ、とカーテンを引いた。その声が少し遠くなる。
「おれも生徒ですか」
小西の声は尖っていた。怒りと、焦りが混じったような。
「いつまで生徒扱いするんですか?」
追いつめて、逃がさないように両手で囲った。肘を折って体を近付ける。
低くはない身長で、私服で、大人びた顔で。教え子は大人になっていく。
「答えて下さい先生」
呼ばれて、さゆりは我に返った。顔を上げて見据える。
「やめなさい。ここは学校よ。こんなことしていいところじゃありません」
毅然と言い放った。教師の顔のまま。
想い人から放たれた正論に、彼は傷ついた顔をした。力なく腕を下ろす。
「……わかりました。もう来ません」
体を離してきびすを返し、第二視聴覚室を出ていく。
夕暮れ。差し込んだ西日が当たって、さゆりの影が教室に長く伸びた。
小西が来なくなって三ヶ月が経ち、夏が終わってしまった。
彼は矛盾している。生徒扱いを怒るくせに、私を先生と呼ぶ。だから私も小西くんと呼ぶ。他の呼び方ができない。
足取りは重かった。試験が終わって一息ついたはずの心踊る日が、あれから気の重い日になってしまった。
こんな日は、とコンビニに寄った。缶チューハイを何本か買う。その袋を揺らしながら帰り道を歩く。月がきれい。
自宅であるマンションの前に着いて、見慣れた姿に足を止めた。縁石に腰かけている男。彼女に気付いて立ち上がる。
「なんで……」
「学校に来るなって言われたから」
小西はばつが悪そうだった。
「つーか、我慢できなくて」
少し歩きませんか、小西はそう言って促した。いつか横切った公園まで。ほんの五分。
公園に置かれた自動販売機の前で足を止めて、ボタンを二度押した。コーヒーと紅茶。
「……ありがとう」
手渡された紅茶を持って立ち尽くす。コーヒーを開けて口をつける目の前の男に何を言えばいいのか。わからない。
「座ります?」
ベンチを指した小西に首を振る。そうですか、と彼はブランコの柵の縁に座った。さゆりを見上げる。
「家まで来てすいません。もう少し我慢できると思ったんですけど」
無理でした、と諦めにも似た声で笑う。そして、怖くてずっと聞けずにいたことを訪ねた。
「答えを聞かせてください。本当に迷惑なら……もう、来ないから」
消え入りそうな声を絞り出した。いつもまっすぐ言葉をぶつけてくる小西が、無理をして曲げた本音。
さゆりは躊躇した。
答えてしまえばもう、元には戻れない。
でも。
一緒に過ごす時間を待ちわびていたのは事実だった。
「来てくれると……嬉しい、けど」
声が震える。
「怖いの。いつか同じくらいの歳の子を好きになるかもしれないあなたが」
本気にしろと言われてからずっと考えていた。生徒でなくなった彼を、大人になっていく彼を、自分はどう思うのか。誰かのものになっても、いいのか。
答えは否だった。嫌だ。出てきそうになる涙をこらえる。
小西は明らかに驚いていた。目を丸くして彼女の顔を見る。
他の子を好きになるなんて、そんな。
「……心変わりをしないなんて無責任なことは言えないですけど」
一歩、踏み出して手を伸ばす。
「今はそんなこと想像できないくらい……好きです。先生」
彼女の頬を伝う涙をぬぐって、彼は彼女にキスをした。
帰り道。ここまで来てもなお、小西は送り狼にはならない。ただ。
「次に来たときには部屋に入れてくださいね」
そう言って笑ったのだった。
会えなかった三ヶ月のせいか、小西からのメールは頻繁になった。しかし学校には来ない。
さゆりは少しホッとしていた。学校で会うのは嫌だ。どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
飯食いにいきましょう、と誘いが来て食事をした。いつものラーメン屋ではなく、さゆりの最寄り駅のイタリアンレストラン。
パスタ大盛りで、と当たり前に言う小西を若いなぁと笑った。
先生こんな量で足りるんですか?甘いものは?
そう言い気遣う彼は優しく素直で、食事は心地よかった。
店を出て伸びをする。冷たい風が紅潮した頬をなでていく。楽しい時間に満足げなさゆりに、小西は手を上げた。
「じゃ、帰ります」
「え?送ってくれないの?」
「……送っていいんですか?」
意味がわからないというように目をしばたかせたさゆりが、少し考えて小西の真意に気付いた。笑顔が固まる。
「ほら、駄目でしょう?帰りますよおとなしく」
わかってましたし、と笑って、小西は背を向ける。が。
「待って」
さゆりがシャツの裾をつかんだ。驚いて振り返る小西。目が合う。
「駄目なのはそっちじゃないの?」
「え?」
「覚悟は出来たのかってこと」
年上の女と付き合うのがどういうことか、ちゃんと考えたのか、と。
「……そんなの」
小西は笑った。
「三年前から出来てます」
数十分後。さゆりの部屋に上がり込んだ小西は、出された茶を飲むのもそこそこに彼女をベッドに運んでいた。
まだ温かいティーポットの口から蒸気が漏れている。真面目な顔。静かな声。
「先生、手。どけて」
「こんなときに先生って……やめて。悪いことしてる気分になる」
「悪いことだから、いいらしいですよ」
「なにそれ。誰の入れ知恵?」
「中西先輩」
少し笑った小西は、そのまま彼女の白い肌に口づけた。
目を開けると天井が見えた。見慣れた風景。窓の外は薄暗く、まだ夜は明けていない。
体を起こして隣を見る。抱えていたはずの白い肌は、そこにはない。
「夢……」
がっくりとうなだれた。道理で都合がいいはずだ。
あー。やべえな。今日どんな顔して先生と話せばいいんだ。部活あるのに。
うなだれたまま悶々とする小西を尻目に、時計の針が午前四時を指した。
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