第10話 体育祭
最初の種目、男子200mと女子100mが終わった。
見る限り順当な滑り出しだった。速い奴は速い。ポイントを稼いでいく。
「白虎優勢かな、やっぱり」
「だと思います」
俊足が揃う白虎軍の陣が沸くのを小萩さんと並んで横目で見る。もちろんおれと小萩さんもポイントは取った。一位、5pt。
たったの200m。まだ足りない。体が動きたいとうずいている。夏の間中持て余した力。
「中西あっちに行ってるな」
後ろから大西先輩の声がした。グランド中央の実行委員会本部のテントの方を見ている。生徒会の面々がそこに集まっていた。
ほんとですね、と答えて顔を見合わせる。考えたことは同じ。
「偵察行ってきます」
小萩さんに告げて二人で足を向けた。100m走を終えた一年の女子がバラバラと自陣に戻っていく中を逆流する。
テントには生徒会五人と数名の実行委員、実況をしている放送部の面々がいた。テントの中で集計をしている集計係の手元、中西先輩はそれを覗き込んでいる。
「どうですか?」
後ろから見ようとすると、中西先輩はおれと大西先輩をブロックした。
「見るなよ」
「お前も見てるじゃん」
「これは生徒会特権」
「あとで矢野から聞くんだから一緒だろ」
「小西には見せたくねえの」
「なんで」
「なんでも」
押し問答している横から覗き込んで、ざっと文字を追う。
俊足ぞろいの白虎が一歩リード、少し離れて玄武と青龍がほぼ並び、最後に朱雀。その差約20pt。団体競技一種目分。
「見るなっつってんのに」
結局覗き見たおれを笑いつつ、中西先輩が机の上にある水筒から何かを紙コップに入れて飲み干した。
「なんですかそれ?」
「はちみつレモン。矢野の差し入れ」
「生徒会に?」
思わず矢野の顔を見る。
「敵に塩送ってない?」
「いえ、これも作戦です」
「作戦?」
「おいしさで気が緩みます!」
「……葉月ちゃんかわいい」
「か、かわいくないです」
征矢が真顔でコメントするのに顔を赤くする矢野。なんとなくしっかり者のイメージがあったから少し意外な気持ちでそれを眺めるが、生徒会の面々は慣れているのかこともなげにしている。
「お前も飲む?小西」
「いい。気が緩んだら困るし」
卜部が差し出すのに首を振った。喉は乾いてないし、甘いのも酸っぱいのもあんまり好きじゃない。
「ねーねー!おれどうだった?!」
またテントに誰か入ってきた。陸上部の特待生と、なぜかその後ろに当麻。
「おー、江中」
卜部がそいつの名前を呼んで記録を見る。
「お前二年男子一位みたいよ」
「えっ、ナカ先輩すごい!」
「ありがとう当麻!」
抱き付こうと両腕を広げたところで、上からガッ、と頭をつかまれる。
「何すんの卜部!」
「何すんのじゃねえよ。セクハラ禁止って何度も言ったろ」
「なんだよせっかく頑張ったのにーー」
「いいから列に戻れ。軍の規律を乱すな」
「はいはい。瀬尾キュンが言うならしょうがないね」
ぶっ、と思わず吹き出した。瀬尾キュン?あの瀬尾さんに向かって?瀬尾キュン?!
おれと一緒になって肩を震わせる大西先輩と中西先輩を見て、瀬尾さんが眉間に皺を寄せた。
「何笑ってるんだお前ら」
「いや……だって……」
「瀬尾キュンて……!!」
「いいから戻れと言ってるだろう。次は三年の競技だぞ、大将がそんなことでどうする」
そう、次は玉入れだ。序盤の団体種目。是が非でも取っておきたい。
「瀬尾キュンが言うから戻ろうぜー」
「そうだな、瀬尾キュンが言うなら仕方ないな」
「……貴様ら滅多うちにしてやる」
言いながら三人並んで玉入れの待機列に向かう。
「先輩たち張り切ってていいね!」
「気合が違いますよね!瀬尾さん頑張って欲しいです」
征矢と当麻がニコニコとそれを見送る。
「瀬尾キュンが負けるところなんか想像できないよなー。つまり白!おれたちの白!」
「そうですよねー。わたし、軍が違うのに、中西さんと瀬尾さんのことは思わず応援しちゃいます」
江中と矢野がそんな風に話すのを見ながら、おれと卜部は自陣に戻ろうとテントに背を向けた。征矢が追いついてくる。
「うらくん、お手柔らかにね?」
「いや。青には負けないよ」
「えー。広丸さんと南野くんいるのに?」
「だからだろ」
「うん」
卜部がこちらを向いて笑った。おれが卜部なら、青にだけは負けたくない。おれが黒に負けなくないように。
「もちろんお前にも負けない。覚悟しとけよ」
「そっちこそ」
「うちだって負けないよ!」
そう言って笑って、おれたちは足早に自陣に戻った。
最初の団体競技、玉入れ。出場者は三年全員。
彼らが出陣した軍の控え席は随分がらんとしていた。大将を先頭にすでに入場門の前で待機している。
「西高体育祭、第一の団体競技、三年生による玉入れを行います。選手入場!」
実況と共に音楽が流れ、大将四人が軍を率いて入場してくる。ひるがえる軍旗。
先頭は青、広丸さんの隣でガタイのいいラグビー部員が軍旗を高々と掲げている。
続いて朱雀。小萩さんを先頭に笑顔で入場。大西先輩も後ろでいつも通り笑っている。
瀬尾さんが率いる一糸乱れぬ白の行進、はためくのは白い虎。
最後に玄武、中西先輩が運動部の精鋭を従えて入場してくる。
「キャーーーー!なかにしせんぱーーいい!」
どこからともなく黄色い声援が上がる。
それぞれ位置について、停止。音楽とともに止まる。
「第一回戦、白虎軍対玄武軍。前へ!」
号令と共に中西先輩と瀬尾さんが前に出て、ごく自然に握手を交わした。何か話している。聞こえない。
後ろでは白と黒の軍団がそれぞれの色の玉を手にしている。肩を伸ばす運動部、最も効率的な軌道を考える文化部。各々準備して待機。
「勝った方が例の本のリクエスト聞くって約束、忘れてないわよね」
「忘れてない。絶対に勝つ」
友人である二葉さんと浦河さんも今日は敵だ。見合って火花を散らしている。
ピーッ。
笛が鳴って、弾ける歓声と共に黒と白の玉が一斉に宙を飛んだ。
「いーけいけ玄武、おーせおせ玄武ー!!インテリ虎など敵じゃなーい!」
「なーかにし落とせ!なーかにし落とせ!!」
両陣営の応援団から声援が飛ぶ。わああああああ、歓声とともに砂埃が舞う中、空高く飛ぶ白と黒。その中から二葉さんの声が聞こえる。
「だから違うんだよ浦ちゃん、松崎くんは攻めなの!!下剋上がおいしいの!!!」
「二葉の好みは知ってるけど、受けでも乗っかれるでしょ。これは譲れない!」
「まつこに!!」
「おおまつ!!」
浦河さんと、明らかにどうでもいいことで言い争いながら投げ合っている。
「二葉さん!入れて!浦河さんに投げるんじゃなくて!入れて!!」
佐倉が外からそれを止める。そちらに視線をやると笹谷と目が合った。
「大丈夫か玄武」
「だいじょばない!確かにおおまつかまつこにかはとても紛糾する話題だけど!!今やることじゃない!!」
もっともだ。
「ちなみに私はどちらかと言えばまつこに!!」
聞いてねえ。
「小西」
向井がおれを呼んだ。指し示した視線の先に中西先輩。かごに向かってゆっくりと玉を投げている。着実に入れてはいるが、本気であるようには見えなかった。口元に笑みさえ湛えている。
「随分余裕じゃん生徒会長。今日もあのまま行くつもりなのかな」
「……かもな」
本気で迎え討てと。言ったのに。
「私たちを油断させるためだったりして」
長瀬が言って、おれは思わずその顔を見た。その発想はなかった。向井がなるほど、と頷く。
「気を付けなきゃな。油断して勝てるような相手じゃないよなー」
「だな」
頷いた。相手がどう出てきても関係ない。
「全力で行く」
パンパン、と鳴り響く終わりの合図に玉が飛ぶのが止んだ。玉の数のカウントが始まる。
「以上、89対72!勝者白虎!!」
実況が勝敗を告げ、白の陣から歓声が上がる。くっそー!と地団駄を踏む二葉さん、それを見て笑っている中西先輩が見える。瀬尾さんは結果に浮かれることもなく、当然だという顔をしていた。
「瀬尾キュンたらクールーー」
「瀬尾キュン……」
影野が半笑いで江中の台詞を繰り返し、卜部を見る。その呼び方やめろ、と笑う卜部。
「やった、やった!」
当麻がぴょんぴょん跳ねている。松崎は隣でそれを見て笑っていた。
「続いて第二回戦を行います。朱雀軍対青龍軍、前へ!」
小萩さんと広丸さんが前に出て、こちらも握手を交わした。言葉はない。互いにサムズアップ。
くるりと背を向けて自陣へ。さあ出陣だ。
おれは立ち上がった。向井と共に自軍に向けて、声を出すよう手を上げる。
「勝利の女神の翼はひとつ!!!」
向井の声がみんなを先導する。
「我ら朱雀と共にありいいい!!!!」
一・二年全員の声がグランドに響いた。朱雀の三年生たちがこちらを見て、おー、と拳を上げる。
「こっはぎ!!こっはぎ!!!」
「ちはるさーーーーんんん!!!!」
一緒に女子の黄色い声も飛んだ。小萩さんがこちらを見て笑う。任せて、とサムズアップ。
ピーーッ、試合開始の笛が鳴って、一斉に赤い玉が飛んだ。青と入り乱れて空を舞う。
「綺麗」
内海が言った。青い空に赤が映える。
「上原さんの体操着!!上原さんの体操着!!上原さんの体操着!!」
「怖い!灯ちゃん怖い!!」
梅原さんが一心不乱に投げるのに宮下さんが突っ込んでいる。その横で。
大西先輩が、左手で玉を投げ上げていた。
入ったり、入らなかったり。それなのにやっぱり、飄々と、口元に笑みさえ浮かべて。
ぐっ、と心臓を掴まれたような気持ちになる。
気になって視線をやると、中西先輩も同じように大西先輩を見ていた。
……もしかして。ハンデのつもりで?
「こっはぎ!えっろす!」「こっはぎ!えっろす!!」
「なっ?!」
そんなおれの心の暗雲を吹き飛ばすように、青の陣からおかしな声が飛んだ。思わず手の止まる小萩さん。
「こっはぎ!えーろす!」
「こっはぎ!えーろすっ!」
広丸さんが言いながら笑い、玉を投げる。一緒に投げている芦屋さんが、陣にいる青の応援団が、一緒になって全力で野次を飛ばす。思わず朱雀軍の三年たちが爆笑してその手が止まる。
「何よ!なによ!!ひろりんめ!!!」
「ちょっと、小萩さん、手!止まってる!!」
「先輩たちーー!!ちゃんと投げてーーー!!」
赤の陣から声が飛ぶが、もう遅い。その間に開いた差は明らかで、玉の数を数えるまでもなかった。
「66対84!勝者青龍!!」
「やられた……」
思わず言葉を失った。こんな手で負けるとか。青龍め。
「早急に広丸さんの弱みを握る必要性を感じる」
「握ったところであんまり動揺しなそうだよなあの人」
手塚と二人眉間に皺を寄せた。負けた朱雀と玄武は下がり、次は白虎と青龍が戦う。前に出た瀬尾さんが冷徹に笑って広丸さんに何かを言ったが、彼はほがらかにその右手を握った。
やっぱり手強い。メンタルが強すぎる。
「只今の結果をお伝えします。92対88、勝者青龍!!」
その後行われた青龍-白虎戦は野次なしのガチでこの結果だった。玄武ばかり意識している場合ではない。
「へなちょこ朱雀ー!」
「うるさい」
「うおっ何すんだよ!」
ふざける南野に転がっていた赤い玉を投げつけて、広丸さんと並んで戻って来る小萩さんを出迎えた。まだ悔しいのかブツブツ言っている。
「ひろりんめ……」
広丸さんは隣で不思議そうな顔。
「小萩がエロいのは動かしがたい事実なんだから仕方ないだろ」
「なんだとーー!!勝ったら体育館裏に埋めてやるんだから!」
「小萩さん落ち着いて」
「なによ!小西!じゃあ青に負けてもいいって言うの?!」
「それは嫌です」
「でしょ?!」
自軍に戻り、軍の席の方を向いて拳を掲げる。
「いい?!大ムカデの応援は気合い入れて行くよ!埋めるぞ青龍!!」
「おーーー!!!」
なんか穏やかじゃねえな。
しかし、この負けはどうやら朱雀軍に火をつけたようだった。
「あんな負け方じゃ許せないもんね。今度はああはならないよ」
そう言った長瀬が、他の女子たちが立ち上がる。行って来る、と鉢巻を締め直す。
その背中は明らかに勝ちに燃えていた。
さすが、朱雀軍。女子が強い。
朱雀軍の作戦はチーム戦を取ること。序盤の重要種目のひとつである玉入れを落とした今、次の大ムカデは負けられない。
グランドには一・二年の女子が大集合していた。幾つかのチームに分かれ、それぞれ足を結んでスタンバイしている。
「行くぞ玄武ーー!!」
笹谷がムカデの先頭で声を上げる。同じ列に佐倉。
その隣には当麻のチームがいた。笹谷と佐倉ににぴょこんと頭を下げる。
「レナ先輩、あやめ先輩、お手柔らかにお願いします!」
「ダメよトマっちゃん、それはできない」
「そう!我々には手加減している余裕はないのだよ!」
優勝候補と言われているはずの玄武軍が、今はおそらく朱雀と最下位を争っている。確かに余裕はないだろう。だがそれはこちらも同じだ。
「我らすざくと!ともにありーーーぃい!!」
朱雀軍の先頭は運動部の女子がほとんどのようだった。その中の一人、スローガンを口にして拳を上げる小柄な女子が目に入る。
「あの、先頭の。バスケ部ですか」
「うん。うちの鰐口」
あの身長で、バスケ部。思わずポジションを聞く。
「ポイントガード?」
「うん、小回りきくのよー。うちの部ではドリブルの魔術師って呼ばれてる」
「なんすかそのあだ名」
「だって誰にでもパス通しちゃうんだよ!」
誇らしげに笑って、月香ー、と彼女の名前を呼んで、小萩さんは大きく手を振った。鰐口もそれに応え、笑顔で手を振り返して前を向く。
一方青龍軍では平田がチームのみんなに声をかけていた。
「うちは今余裕があるから無理しなくて大丈夫。特に麻美ちゃん、無理はしないでね」
「うん」
「そうだよふちこー!うちのチームが一位取ればいいからね!行くよ魚谷さん!」
「はい!」
全軍、準備完了。数チームごとによるレース形式。
「位置について!よーーい」
パン!
「かつらっ!」「さんしっ!」
「かつらっ!」「さんしっ!」
玄武軍から昭和の芸人の名前を連呼する掛け声が響く。なんだよそのチョイス。
「どえすっ!」「こわいっ!」
「どえすっ!」「こわいっ!」
ほぼ同時に聞こえてきた白虎軍の掛け声に一瞬息が止まった。
ちらりと白虎軍の方を見れば、瀬尾さんはあきらめたように無表情でそれを見守っている。それを尻目にゲラゲラ笑う大西先輩と中西先輩。
「なんか……いじられてる……?」
江中の呼び方といい、この掛け声といい、暴君瀬尾、みたいのを想像していたのに随分とイメージが違う。
「お前は瀬尾をなんだと思ってんだよ」
「そりゃ、怖い人だと」
「まあそれは否定しないけど」
笑いすぎて目の横にたまった涙を拭きながら中西先輩がこちらを見る。
「もちろん歓迎はしてないだろうけど、自軍が鼓舞できるなら細かいことはどうでもいいんだろ」
特に自分のことはな、と言った。
「こっはぎ!」「ちゅんちゅん!」
「こっはぎ!」「ちゅんちゅん!」
おれたちが笑っている間にもレースは進む。まず朱雀軍がコーナーを曲がって、直線。赤が一歩リード、その後ろを桂三枝を連呼するムカデが追う。
「かつらっ!」「さんしっ!」
「せいりゅう!」「せいりゅう!」
「こっはぎ!」「ちゅんちゅん!」
「どえすっ!」「こわいっ!」
掛け声と応援が混ざってカオスなグランド。歓声が響いて互いの声もよく聞こえない。祈るような気持ちで赤のムカデが進むのを見守った。先頭を走る。あと少し。あと少し。
「レナちゃんあやめちゃん!抜いちゃええーーー!!!」
「月香ーーー!!負けんな!!!」
二葉さんが、小萩さんが、声を張り上げてそれを後押しする。
追う玄武が1mほど迫ったところで、足がもつれてバタバタと倒れた。
「あああっ!!」
黒の陣から悲痛な叫び声。
それを尻目に着実に歩を進めた朱雀のムカデが、一番にゴールテープを切った。
「よっしゃーーー!!!」
乱舞する朱雀軍。誰よりも喜ぶ小萩さん。
「まだです。後続勝負」
複数のチームの合計で点数が出る。全部がゴールするまで結果はわからない。
続々とゴールしていく各軍。それでも朱雀は全チームが早めにゴールできたようだった。
「どうかな……?」
小萩さんがおれを見る。
「黒と競ってると思いますが……たぶん」
勝てたと思います、と呟いた。小萩さん以外には聞こえないように。
一位、四位、八位、十二位。二位、六位、七位、十三位。頭の中で数えたおれの計算が間違っていなければ。
「ただいまの結果をお知らせします」
おれたちはごくりと固唾を飲んだ。ここを取れなければ朱雀軍はたぶん勝てない。もしかしたらただ最下位を走るだけになるかもしれない。
「一位……朱雀軍!!」
わああああああ、と歓声が上がった。自軍の声。応援席もムカデで足がつながったままの女子たちも、一緒になって跳ねている。
おれは少しホッとしていた。望みをつないだ、と息を着く。自分が何をしたわけでもないが、じんわりと嬉しかった。
副将って。悪くない。
そして勝たなくてはいけないと思った。このあと控えている自分の競技で。
意気揚々と退場してくる朱雀軍。いえーい、と手を上げて向井とハイタッチをする長瀬。戻ってきた内海や矢野にお疲れ、と声をかける。
「千晴さーーん!!やったー!!」
鰐口が小萩さんに駆け寄ってドーンと抱きついた。
「よくやった月香!」
小萩さんも受け止めてわしゃわしゃと頭を撫でる。自然と笑顔がこぼれる朱雀軍。
「負けた……」
「あれは完敗ですね……」
隣の玄武軍の陣では、姉崎と東がしゃがみこんで落ち込んでいた。
「そもそもかけ声の面白さで負けている……!!」
「まったくです!まったくです!!」
そこかよ、とツッコミを入れる奴不在のまま、隣で笑う中西先輩が姉崎の肩をポンポンと叩いた。
「まあそう気を落とすなって。全体で二位なら悪くないだろ」
「でも……!会長率いる玄武軍の我々がこの成績では顔向けできません!!」
「なるほど。じゃあパンツ見せてくれたら許してやる」
「なんですかパンツパンツって!パンツ王って呼びますよ!」
「いいぞ。召し抱えてやる、今日からお前はパンツ大臣だ」
「ひどい!なにそれひどい!!」
中西先輩をパンツ王呼ばわりするのは姉崎くらいだろうな。
そう思いながら戻ってくる赤の群れを出迎えていると、グランドの端の青龍軍の方からキャー、と声がした。
誰かが倒れてる。その側に膝を着く平田が見えた。肩を貸して、運ぼうとしている。
席を立った。一人で何をしてるんだあいつは。
「どうした」
駆け寄って覗き込む。倒れていたのは渕崎だった。
「貧血だと思う」
「そっか」
貸せ、と手を伸ばした。抱え上げる。
「軽」
「麻美ちゃん細いから」
「ちゃんと食ってんのか?」
「…………」
「食ってないのかよ」
「大丈夫。私が近くにいる間はちゃんと見てるから。無理させたくない」
「実行委員やりながらずっと見てるなんて無理だろ。倒れてるじゃねえか」
「……うん。次からもっと気を付ける」
「いや、お前は悪くないけど。渕崎のことは渕崎がやらねえと」
言いながら二人で校舎に入り、廊下を進み、平田が開けた保健室のドアをくぐった。せんせー、貧血だってー。保健医に言ってベッドに下ろす。
保健医と平田がつい立ての向こうで渕崎を介抱している間、窓際のパイプ椅子に掛けて外に目を向ける。校庭全面に掲げられた横断幕。おれたちの都々逸の文字。
横になって少し楽になったのか、渕崎は目を開けたようだった。平田の声がする。
「麻美ちゃん!大丈夫?」
「……うん」
頷く声。目が覚めたなら大丈夫か。グランドに戻ろうと腰を浮かせる。
「小西」
が、渕崎の声がおれを引き止めた。
隙間から手を入れて、つい立てを少し開ける。横になったままの渕崎の目がおれを見た。
「はるちゃんを責めないで。悪いのは私」
「責めてない。平田のこともお前のことも」
聞いてたのかよ、と思いながら答える。
「みんな心配してるだけだろ。言うべきことはなんだ?」
「……小西に私の気持ちなんかわかんないよ」
青い顔でおれを見据える。
「その気になればなんだって出来るくせに。それなのに自分で諦めたくせに!!」
「麻美ちゃん……!」
渕崎の言葉を平田が止めた。
少し平田の方を見て、ごめん、と小さな声。おれの方は見ない。
「……戻る。無理すんなよ」
言えることなんかなかった。渕崎の本音に気付いてしまったから。
心に反して決して強くない身体を、それを歯がゆく思っていて、それなのに恵まれているおれが全てを手放したことに苛立っていたと言うなら。
おれが渕崎に言っていい言葉なんて何もない。
逃げるように保健室を後にした。平田が追ってくる。
「小西ごめん……!」
「なんでお前が謝るんだよ」
並んで歩く。いつもみたいに。
「渕崎がおれにああなのはお前を取ったからだと思ってたけど、違ったんだな」
「……許してあげてね」
「許すも何も」
自分が恵まれていることに気付いてなかったおれは、やっぱり馬鹿だ、としか思わなかった。
グランドに戻ると小萩さんがおれを見て手を上げた。
「あ、小西いた!どこ行ってたの?」
「すいません何も言わずに。保健室に行ってました、友達が倒れて」
詫びて席に戻る。グランドでは次の種目が始まる直前だった。
「さーて始まりました、毎年恒例教職員による借り物競走!もちろん軍の点数に加算されますので先生方も本気です!今年も放送部を上げて詳しく実況いたします!現場の長瀬さーん?!」
「はーい、長瀬です!こちらからは先生方にインタビューをして、それそれ何を借りに走ることになったのか皆さんにお伝えしまーす!」
スタートから30mほどの地点、長瀬のいる位置に借り物の書かれた紙が吊るされている。走者はここで紙を取り、長瀬に伝え、それを長瀬がアナウンスとして伝える。臨場感が増すのと、走者が自軍に援護を求める役割もある。
第一レースが始まった。校長、副会長の眼鏡、二年の鉢巻き、昭和生まれ。
「瀬尾ーーーーー!!!」
副会長の眼鏡、を引き当てた体育教師に追われる瀬尾さん。白の軍団がそれを必死に止めている。
「ざまあ瀬尾」
大西先輩はおれのすぐ後ろで、その様をゲラゲラ笑いながら眺めている。隣にいる小萩さんは朱雀の教師が引き当てた校長に向かって走るのに声援を送る。
「こうちょうせんせーーーい!!!」
「素敵ーーーー!!こっち向いてーーー!!」
「きゃーーーーこうちょうせんせいーーーーー!!!」
小萩さんの指示で朱雀軍から黄色い声援が飛ぶ。思わず相貌を崩した校長がまんまと捕まり、ゴールに連行されて行った。
「一位!朱雀軍ー!!」
きゃーーー、こうちょうせんせーーい、とまたも黄色い声。校長はまんざらでもないように手を上げ、席に戻っていく。
なんだか感心してしまった。いつの間にかそんな連携ができるようになってたうちの女子たちに、それをそうした張本人に。
「女子、声出てますね。さすが」
「声出しは大事よね!野球部もでしょ?」
「あー、まあ。でも広いんで声があんまり届かないし、戦略上はどっちかといえばサインの方が」
右投手の後ろを守るショートだったのに、牽制のサインなんてほとんどする必要なかったけど。牽制よりも刺す方が多かった。中西先輩の球を受ける方が。
「サインなんか全部忘れちゃったけどなー」
大西先輩が言った。ですよね、と笑う。
そんなの嘘だとわかってたけど、そう言うしかなかった。
「さあ、いよいよ最終レースです!」
どんどんレースは進んでついに最終レース。今までのレースを見る限り、朱雀は三番目くらいの成績だ。ここは取っておきたい。
「玄武軍、栗原先生!白虎軍は永田先生、朱雀軍が楓先生、最後に青龍・・・栗原さゆり先生!」
「かえでせんせーーーーー!!!」
うちの軍から歓声が湧き上がる。
「きゃーーーー永田せんせーーーーー!!!」
「さーゆーりっ!さーゆーりっ!!」
「栗原、栗原、おっとこまえーーー!!」
各軍絶叫の中、四人がスタートラインに並ぶ。足の速さだけなら間違いなく永田先生圧勝だが、これは借り物競走だ。くじ運と援護が勝敗を握る。
「楓先生の援護は全力で」
「もちろん!」
小萩さんと二人、軍の方を見て拳を上げる。
「位置について……よーい」
パン!
銃が鳴って一斉に走る。まず永田先生、楓先生と並んで栗原、その後をさゆり先生が走る。真っ先に永田先生が借り物の紙を手に取った。
「永田先生、何を引き当てましたか?」
長瀬がマイクを向ける。
「えーと……一年の体操着だってよ」
「なんと、永田先生の借り物は体操着!先生のためにひと肌脱ぐ一年はいるのか?!」
きらり、永田先生の目が光った。一直線に自軍の元に走る。
その間に楓先生、ほぼ同時に栗原が到着。
「イケメン!だって!!」
マイクを向けられた楓先生が言って、玄武軍の方を見る。
「中西くんーーーーー!!!」
「えっ」
呼ばれた中西先輩がたじろぎながら後ずさった。逃げてー!!とまわりが騒ぐが、場所が悪い。玄武軍はグランドの端、ちょうど長瀬が立つインタビュー位置の真正面だ。
「逃がさないわ!!!」
中西先輩が逃げた隣の陣にはおれたちの軍がいて、しかも。
「イケメンだってよ、光栄じゃん」
「うるせえよ。どけ!」
大西先輩が立ちはだかる。
そしてその横ではマイクを向けられた栗原の足が止まっていた。
「薄い本?ってなんだ?」
薄い本。なんだろう、教科書とか?つーか今この場に本なんてないだろうに、無茶振りにもほどがあるな。
「薄い本!!!」
なぜか拳を握って立ち上がった二葉さんがどこかに走って行く。
「キャーーー先生!やめてください!」
そうこうしていると向こうから悲鳴が聞こえた。白虎軍の中、聞き慣れた声。
「キャーじゃねえよ女子か!いいから貸せ!」
「なんで!なんで僕なんですか!」
「一番前にいたからだろ!!」
永田先生が松崎の体操服を脱がしにかかっていた。つくづく不憫だなあいつ。
「永田先生いい仕事するわ……」
浦河さんが穏やかな笑顔で見守る中、松崎から奪い取った体操服を手に永田先生は走り出した。
「さあ、最後の一人はさゆり先生!」
さゆり先生は紙を見て止まっていた。マイクを向けても答えない彼女を見て、長瀬が不思議そうに手元を覗き込む。
「さゆり先生は……?」
あ、と一瞬言葉を飲み込んだ。そして。
「野球部員……!!」
戸惑いながらグランドに響く長瀬の声。
中西先輩と、それを捕まえようとしていたおれと大西先輩が、思わず三人して顔を見合わせた。
野球部員て。そんなの。
「……大西!小西!隠れて!!」
数秒の間を置いて、小萩さんがそう叫んだ。まわりがおれたちを陣の真ん中に引きずり込んで隠す。頭下げろ!と押さえつけられて、体勢を低くするおれたち。
「なんでこんな羽目に」
誰の仕業だ、と大西先輩がぼやく声を近くで聞きながら、おれは犯人を思い描いていた。こんなことができるのは。
「中西くん……いた!」
「ダメよ、中西君は私が連れてくの!!」
逃げ遅れた中西先輩は楓先生に捕まった。
「じゃあ小西くん……大西くんも!みんなどこ行ったのー?!」
さゆり先生の声がおれたちを探す。
「マネージャーも野球部員でいいよね?!!」
「さゆり先生ーーーー!!はるちゃんがここに!!」
一番遠い青龍軍の陣から声が聞こえた。
「おおっと、ここで登場したのは平田はる!確かに元野球部員だー!!」
実況の声が聞こえる。おれたちを押さえつけていた手が離れた。頭を上げるとさゆり先生の後ろ姿が見えて、青龍軍の平田の元に走っていく。
「栗原先生、何も言わずにこれをお持ち下さい」
見ると二葉さんが栗原の前に跪いていて、うやうやしく本を差し出していた。
「なんだ……?『まつこにデラックス』??」
「これが薄い本というものです、お納め下さい」
「そうなのか、わかった」
とりあえず受け取って栗原が走って行く。
永田先生、中西先輩をつかんだ楓先生が走る後ろ、平田とさゆり先生、本を持った栗原がそれを追う。
「体操着を持って本気で走る永田先生……なんか変態感があるね」
「えっ、変態ってそんな」
「上原さんの体操着のタグか上靴の中敷きになりたい……」
宮下さんに内海が反応し、梅原さんがいつも通りの煩悩を呟いている中、小萩さんがおもむろに立ち上がった。
「永田先生のへんたーーーーいい!!!」
「へんたーーーーーーいいぃぃぃ!!!」
「はあ?!」
思わず振り向く永田先生、それでも足は止めずに真っ先にゴールテープを切った。
「一位、白虎軍ーーーー!!!」
実況が叫ぶ。小萩さんが悔しそうに席に座った。
「チッ、さすが永田先生。この程度の野次では動じないのね」
「だんだん阪神ファンみたいになってますけど大丈夫ですか」
「何よ小西、じゃあ白に負けてもいいっていうの?!」
「それは嫌です」
「でしょう?!」
なんかデジャブ感のあるやりとりをしながら、楓先生、さゆり先生、栗原の順にゴールするのを見届けた。
「二位か。悪くないよね」
「大ムカデの順位よかったし、たぶん今四軍ほぼ同率だと思います」
次の競技で午前の部は終わりだ。取れても取れなくても差がつくことは避けられた。
そう。次のストラックアウトが、取れても、取れなくても。
「勝ちに行くよ」
そんなおれの考えを読んだかのように、小萩さんがおれを見て言った。
「せっかくの無差別ストラックアウトなのに、中西がまだ本気出さないつもりでいるのなら……もらってあげようじゃない」
ね?と笑う。
そうですね、と答えた。中西先輩がどう出るかなんておれにはわからない。だからやれることをやるしかない。まさかおれにハンデなんか与えるつもりはないですよね。中西先輩。
「次の種目に移ります。大将副将集合願います」
実行委員が呼びに来る。わかった、と答えて小萩さんと二人立ち上がった。
「千晴さん!頑張って!」
「負けんなよ小西!」
鰐口が、向井が、他のみんながおれたちに声を掛ける。おー、と手を上げて背を向ける。
「小西」
大西先輩がおれを呼び止めた。
「お前疲れてくると左足の踏み込みが甘くなるから。今日はスパイクじゃねえし、足元に気を付けろよ」
「……はい」
久々に投球についてコメントされて、思わず返事が遅れた。大西先輩はニヤリと笑ってじゃあなとおれたちを見送る。
「大西の先輩らしいところ、初めて見た」
隣を歩く小萩さんが言った。
サインを忘れたなんて、やっぱり嘘だと思った。
おれだって覚えてる。全部。
大将と副将の組んで行う種目は西高体育祭の名物競技だ。ほぼ個人種目であるのに団体競技と同様のポイントが与えられる。何より勝敗が軍の士気に関わる午前の部の見せ場。ここで勝てば波に乗れる。
ずらりと並ぶ的を見据えた。各軍の的はそれぞれ色分けされていて、隣の軍のものを倒してしまうとそれは相手のポイントになる。必中のコントロール勝負。
おれたちの右隣には玄武。左隣に白虎。その隣に青龍が並ぶ。
右側を意識してしまうのは当然だった。全力で、とおれは言った。応えてくれるだろうか。
「競技時間は15分。その間に多くの的を倒し、ポイントを稼いだ軍に点が与えられます!」
実況がルールを解説し、おれたちは準備運動をする。肩を回す。少し鼓動が速い。投げるのは久しぶりだ。緊張している。
「競技開始10秒前。……5、4、3、2、1、」
ピーッ!
吹かれた始まりの合図とほぼ同時に。
パァン!
誰よりも速く右隣から放たれた白球が、乾いた音を立てて的を倒した。
一番遠くの小さな的、精度の要求される投球。例えばそう、俊足の盗塁ランナーをさす時のような。
思わず隣を見た。ぐるりと肩をまわして、悪くないな、と笑う生徒会長。
「中西め」
小萩さんが的をにらんだ。本気だ。紛れもなく。
「小西」
おれを見る大将に頷いた。負けてはいられない。
振りかぶって、同じものを狙って、振り抜いた。パァン、と音がして命中。同じ大きさの的が倒れる。
「こーにし!こーにし!!」
自軍の方から声援が聞こえる。
もう中西先輩のことは見ない。相手が本気なら気にしている暇はない。
よし、とおれを見た小萩さんは、自分もオレンジのボールを放った。きれいなシュートフォーム。放物線を描いて的を倒す。
それからはただ、夢中で白球をつかんでは投げた。おれたちから一番遠い位置で、青の蹴り上げるサッカーボールが的をなぎ倒しているのが横目に見える。
同じように蹴り上げられている白のサッカーボールは明らかに手数が少ない。それも当然、瀬尾さんは当てることはせず卜部のためにボールを並べる役に徹していた。だがさすがキーパー、ロングボールの狙いは正確。手数は少なくても着実に倒して行く。
「中西さん、あれ倒れない」
「同時に行くか。せーの」
二人で大きな的の下と上を正確に狙い抜く玄武軍。
15分間。声援の中で投げ続ける。
投球数がかさむ。コントロールが定まらなくなって来た。投げた球が逸れて白虎の的に当たってしまう。
「あ」
「大丈夫」
小萩さんが静かに言って、すぐにおれの外した的を倒した。
見届けて一度肩をまわす。滑る足元。落ち着け。じゃりじゃりとグランドを蹴って感触を確かめる。グローブがないのは落ち着かない。受ける必要がなくたって、本当は持っておきたい。
「小西!!」
大西先輩の声がした。
はっとした。左足。踏み込みが甘くなる癖。
そうだった。ぐっ、とグランドを踏みしめる。踏み込んでもう一度振り抜く。今度は滑らないように。
パアン、といい音を立てて、狙った的は綺麗に倒れた。
「よっしゃーー小西!!」
「こにしせんぱーーーい!!!」
自軍の声援を背負って休みなくボールを投げながら、こんなに応援されながら投げたのは初めてだなと思っていた。
「試合終了10秒前」
実況の声がする。一つでも多く倒そうと最後の球を振り抜く。
4、3、2、1、見守る全校生徒がカウントダウンの声を上げ、ピーッ、と試合終了の笛が鳴った。
全員がホッとしたように手を止める。肩が熱い。アイシング、と思わず平田を探そうとする自分に気付いて少し笑った。
体育祭実行委員が的の点数を集計する。ふと自軍を見ると大西先輩と目が合った。いいんじゃね、というように頷いて手を上げる。
中西先輩はどうだったろうか。負けたくないのは本当だ。でも、負けて欲しくないとも思う。野球部主将だったあの人が負けるところなんて。
「ただいまの結果を発表します」
実況がそう言ったのは、おれの心の準備ができる前だった。
「一位、82点。青龍!」
わー、と青の陣が沸いた。勝ったのは青。黒ではなく、赤でもなく。
「ひろりんめ……」
こはぎさんが隣で呟く。得意気に手を上げ、自軍の歓声に応える南野が見える。
「二位、78点……玄武!三位、72点、朱雀!四位は65点、白虎!」
三位。二位の玄武と6点差。大きな的たった一枚分。
「ちえー負けちゃった。サッカー部手強いなー」
若井が言葉に反して穏やかな顔で、悔しいと口にした。そうだなーと笑う中西先輩。
「ま、でもこれくらいなら悪くないですね」
「次で栗原に頑張ってもらおうぜ」
「それだ」
玄武軍の二人は事もなげに、和やかに笑っている。その隣でおれは。
「なんて顔してんの」
小萩さんに笑われるくらいに。
「……勝つつもりでした」
「私だってそうだよ?」
でも、と胸を張る。
「敵は強い。全力で負けたなら仕方ない。次は勝つ」
それだけ、と笑った。
小萩さんは強い。おれと違って。
そうですねと頷いて、軍のみんなの声に応えながら退場した。退場門をくぐって席に戻る間、ふと近くを歩く白の副将の顔が目に入る。
卜部は満足そうに笑ってた。負けたはずなのに。まるで結果はわかっていたとでも言うように。
「お前がやったのか」
思わず聞いていた。
「ストラックアウトも……借り物競走の『野球部員』も」
口に出しながら確信していた。それ以外に有り得ない。卜部以外にこんなことはできない。生徒会役員で、体育祭実行委員で、人望のある二年生。
なんのつもりで、なんて聞く必要はなかった。
それはきっと。中西先輩のためだ。
「だって、ほんとは野球部がここにいたはずだろ?この後だって部対抗リレーでおれたちと戦ってたはずだ」
おれたち。サッカー部と。
「それなのに誰も話題にも出さない。はじめから野球部なんかなかったみたいに」
「……もうないんだから当たり前だろ」
「それにしたって不自然すぎる。野球部にとってはそれしかないのかもしれないけど、おれはそういうのは嫌なんだよね」
こともなげに、おれたちが言えないことを言った。
「野球部員、って呼ばれた時の皆を見たか?すぐにお前らを探しただろ。お前らは、野球部は、今でもちゃんとそこにいるんだよ」
ぐっ、と心臓をつかまれたみたいな気持ちになった。目頭に何かがにじむ。
奥歯を噛んで卜部を見た。言いたいことを飲み込んで、笑った。
「中西先輩に怒られても知らねえからな」
「怒ってくれるかなぁ」
「怒られたいのかよ」
「たまにはね」
「変わってるなお前」
おれは怒られてばっかりな気がするのに。卜部はそうでもないのかもしれない、と思った。
午前最後の種目は部対抗リレーだ。軍の成績には関係ない、言ってみればエキシビションみたいな競技だ。
レースは三つのブロックに分けて行われる。概ね文化部は文化部、運動部は運動部のブロック。それなのになぜか、都々逸部は優勝候補と目されているサッカー部や陸上部と同じ最終ブロックだった。
これも卜部の差し金だろうか。そんなことを考える。
「頑張ってね!」
自然と集まる部の面々。さゆり先生もおれたちのそばに来る。
「応援頑張ります。蹴散らして来てください」
「任せてください、大声なら負けませんから!」
「わ、私も!」
佐倉、笹谷、当麻。先生も入れてたった四人の応援団。
「女子の声援があるのは新鮮だなー」
大西先輩が言う。
「今までだって一応平田がいましたよ」
「一応って何よ」
「だってお前怖い顔で見てたじゃん」
「そうだった」
くすくす笑ってゼッケンを着ける。都々逸部、と書かれた蛍光黄色。
「行くぞ」
中西先輩が握った拳をこちらに向けた。大西先輩がそれに応えて拳を合わせる。それが当たり前であるように。
おれと平田も続いた。野球部の主将だったあのときと同じ、試合前の儀式。
「なにそれ?」
「いいから」
真似しとけ、と大西先輩に促されて、二葉さんもそれにならった。
勝てるかどうかはわからない。でも。
「勝ちたいですね」
一緒に走るのは最後だ。たぶんもう、二度とない。
「ま、気楽に行こうぜ」
大西先輩がおれを見て笑った。
「出場者並んでー」
実行委員の声で待機する。
第一走、中西憲広。第二走、平田はる。第三走、二葉蛍。第四走、大西一志。
「で、第五走、小西秀秋……と。お前こっちね」
アンカーポジションに案内されて立つ。隣にはそうそうたるメンバー。各部の俊足が勢揃い。
そこにはもちろんサッカー部の俊足もいた。
「みーなみのっ!みーなみのっ!!」
校庭に響く自分の名前に手を上げて応えている。相変わらずの大応援団。
「調子乗んなよ」
うらやましいか、と笑う金髪。
「女子のいるチームで勝てると思うなよ」
サッカー部のメンツを見て嫌になった。卜部博則、広丸彰、その他も全員体力テスト上位者。バトンが軽くたって勝てるわけない。そんなことわかってる。
「お前の敵はおれらじゃないだろ」
陸上部の方を見やると、そうだったと真面目な顔になる南野。江中も手塚も俊足だ。それだけじゃない。リレーは陸上部の専売特許。毎年一位を競るのは陸上部とサッカー部。野球部は他の運動部とその下で競ってた。
どうせおれたちは勝てない。みんなそう思ってる。だからって手を抜くつもりなんかないんだ。勝てなくたって。
スタート位置に着く中西先輩を見守った。同じ気持ちであると信じてる。他のことはわからないけど、これだけは。
「位置について!よーい、」
パン!!
銃声とともに第一走者が一斉に飛び出した。
「中西せんぱーーーい!!!」
声を限りに叫ぶ、笹谷と佐倉。拳を握って見守る当麻。その隣で松崎が見ている。
応援の数はサッカー部や陸上部には及ばない。野球部の時と同じだ。あの時から変わらない、弱小部。
思わず笑った。何も変わってない。卜部の言う通りだ。
第一走から二走にバトンが渡る。中西先輩は二番目、陸上部の江中の次にバトンをつないだ。
受け取った平田が走る。決して遅くはない。それでも俊足の男子には敵わない。
「はるちゃーーーーーん!!!!」
「平田ーーーーー!!!」
二葉さんが、中西先輩が、叫ぶ。
負けんな平田。負けんな。お前は弱くない。弱くなんかない。
順位を落として、五番目。二葉さんにバトンが渡る。順位は落ちていく。それでも。
「二葉さん!!大丈夫です、大丈夫!!」
「こけんなよーー!!」
バトンの受け渡し地点で、大西先輩が笑顔で、大きく手を振る。
先頭から遅れて順位は八番目、大西先輩が二葉さんからバトンを受け取った。ぐん、と加速する。
まだ肩の稼動域は狭い。それなのに。
「大西先輩……!!」
「おおにしせんぱい!!頑張って!!!」
声を張り上げる佐倉と笹谷、その隣で当麻はもう泣いてた。次々と追い抜いて、順位を上げて、久しぶりに見る真剣な大西先輩が。
第四走者の先頭を走る広丸さん、隣を走る陸上部員との差は2m。たったそれだけ。
アンカーは200m。おれがどれだけ追い上げられるかが勝負だ。
「手塚」
目はレースに向けたまま、隣に立つ友人を呼ぶ。
「ん?」
「負けんなよ」
「お前も、だろ」
「うん」
先頭を走る広丸さんが大きくなってくる。
「広丸さーーん!!!」
南野が声を上げて呼ぶ。
「行け!!」
バトンを渡してそう叫んで、広丸さんが、陸上部員が、南野が、手塚が、おれたちの前を駆けていく。
ほんの数秒遅れて辿り着いた大西先輩から、バトンが。いつも通りの、笑顔で。
受け取って地面を蹴る。加速する。夏中持て余した力。
「小西ーーーーーー!!」
「行けーーー!!!」
「手塚ーーー!!!」
「みなみのくーーーん!!」
声に押されて走る。わああああ、歓声と怒号と、駆け抜けていく校舎と、それから、それから。
バトンが軽い。足は動く。コーナーを曲がって、距離は縮まる。
1m先にある南野の背中。その隣で揺れる手塚の腕。
ゴールが迫る。あと10m。追い付けない。追い付けない。追い付けない!!
パァンパァン、と銃が鳴ってゴールに転がり込んだ。
「一位、サッカー部ーー!!!」
実況の声が耳に響く。倒れ込んだまま目に入る空。抜けるように青い。
「っそーー、負けたーー」
おれの隣で手塚がしゃがみこんで肩を息をして、悔しそうに言った。
「小西、邪魔」
おれたちから逃げ切った金髪がその空をさえぎった。邪魔なのはお前だ。
ごろりと転がって立ち上がった。体操着に着いた砂を払う。手塚を立ち上がらせて整列。集まってくる部員たち。
「只今の競技結果をお知らせします。一位、サッカー部。二位、陸上部。三位、都々逸部」
三位。三位か。あと少しだったのに。
「すいません……追いつけませんでした」
「だっせー小西」
大西先輩が笑った。一緒になって笑う中西先輩。でも、と佐倉が言う。
「文化部で三位なんて快挙じゃないですか?今までって吹奏楽部の四位が最高ですよね?」
「ま、半分野球部員だから」
「そうだけどさー!」
当然だよ、というように笑う平田に、でもすごいじゃん、すごいよ!と笹谷が食い下がり、当麻が泣いてぐしゃぐしゃになった顔で力説する。
「そうですよ、もう、すごかったです。大西先輩すごかったし、小西先輩追いついちゃうんじゃないかって、私」
「そうだよ!勝つかと思った!!」
「うん、すごかった。でも悔しいもんだね。リレーでこんな風に思ったのははじめて」
二葉さんが言う。
「なんか……ムカつくよねサッカー部も陸上部も。スポーツ特待生ばっかり揃えやがって!!」
「わかります。ムカつきますよね」
思わず頷いた。おれたちの本音を代弁してくれた二葉さんに。
「ほんとだよ。つぶれろサッカー部」
「あームカつく。もう飯行こうぜ飯」
先輩たちはぶーぶー言いながら笑い、戻ろうぜ、と自陣に足を向けた。
午前中の競技は終わった。この後飯食って、おれたちはまた敵になる。
「平田?」
振り返ると平田がひとり足を止めてグランドを見ていた。片付けられていく都々逸部のゼッケン。呼ばれておれの方を見る。
「どうした?」
「うん……なんか、嬉しかったなって」
穏やかな声で、まっすぐ前を見て、笑ってた。
「また負けたけど。初めて体育祭で一緒に走れたから、嬉しかったよ」
おれは思わず背を向けた。背を向けて、グランドに掲げられた横断幕を見ながら、そうかよと呆れたように言った。
また目頭ににじんだそれを、見られたくなかった。
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