第4話 西高都々逸部

都々逸部なんて馬鹿げたことだと思ってた。

そんな部が作れるわけがないと。

もしかしておれは、誰かが止めてくれることを期待していたのかもしれない。


都々逸部設立に向けて野球部の部室に集まるのが日課になり、また三人で帰ることが増えた。

おれは本音を言うことはできなかった。

言うべきでないことも自覚していた。

そんなある日のこと。

「大西先輩!」

グランドを尻目に帰路に着こうとするおれたちの背中を、よく知る声が引き留めた。

「おー、松崎」

サッカー部に送り出した四人が立っていた。彼らと話すのは久しぶりだ。

「お前ら頑張ってるみたいだな。栗原のしごきにも耐えてよ」

「大丈夫ですよ。僕たちはレギュラーってわけでもなさそうですし」

「そんなことより、大西先輩の肩は大丈夫なんですか?」

「大丈夫じゃねえよ、リハビリって超痛いんだぜ。容赦のないおばちゃんだしよ」

「せめて綺麗なお姉さんならいいのに、ですね」

「お、わかってんじゃねえか」

和気あいあい。懐かしい雰囲気だ。

「でもやっぱり、先輩たちがいないとなんか物足りないですね」

「サッカー部にはノックもないし」

「大西先輩の下ネタも恋しいです」

「パシリもないですしねー」

「よしわかった。松崎、シュークリーム買ってこい」

「ええっ?!いま?!」

相変わらず可愛がられる松崎。慕われる大西先輩。

おれがサッカー部に行かないことには誰も触れない。複雑だが、今は聞かれても困る。都々逸部のことは完全に許可がおりてから公表することになってる。栗原対策だ。だから今はなにも答えられない。

「お前ら、そろそろ戻れよ。栗原に見つかったらうるせえぞ」

「はーい、じゃあまた!失礼しゃーす!」

中西先輩の声を合図に、解散。

小さくなっていく背中。

「あいつらは大丈夫そうだな」

「うん。元気にやってる」

「そうですね」

同意しながら、一抹の寂しさを噛み締めた。


平田は苦戦しているようだった。思いのほか厚い生徒会の壁。

「小西、今日せいちゃんと話すから来てきてくれない?」

そう言われた日の放課後、平田のクラスで話し合い。

「はるちゃんには言ったけど、この時期の新部設立は難しいんだよ。予算編成は全部終わってるし、ほとんどの生徒たちはもうすでに部活に入ってるし。引き抜きとかあるともめるし、生徒会も認めづらいんだ」

それが征矢の言い分だった。わからない話ではない。

「それは心配はしなくていい。部員の数は足りてるから別の部から引き抜こうなんて考えてない」

「そうであっても、都々逸部ってのは難しいよ。文芸部でやれって言うと思う。瀬尾さんが」

「瀬尾さんが……か」

つまり征矢は反対ではないってことだろうか。それなら。

「じゃ、どうすれば説得できるか知恵を貸してほしい。頼む」

頭を下げながら、なんで頑張ってるんだろうと頭の片隅で思った。

ここで諦めれば都々逸部を作らなくて済む。それなのになぜ。

「私からもお願い。せいちゃんの力を貸して」

平田が隣で頭を下げる気配がする。

平田のためか。自分のためか。

「そんなにやりたいの?」

はるちゃんのそんなところ、はじめて見た。征矢の意外そうな声。

「文芸部ならはるちゃんを歓迎してくれると思うよ?ふちこもいるんだし」

「うん。でもさ。野球部が全部なくなるのは寂しいんだ」

「……そっか」

頭を上げて二人を見る。渕崎のことは気がかりではある。大丈夫なのか、平田。

「でも正直なところ、その理由じゃ許可は出ないと思うよ。都々逸部が独立しなければ活動できないという明確な根拠がなくちゃ」

「根拠なら、なくはない」

そう言われるのは予想していた。渕崎にも言われたこと。都々逸部で何をする?

「都々逸は庶民文化なんだ。風刺、時事ネタ、情歌、駄洒落。三味線で唄ったりもする」

「……? うん」

征矢は耳を傾けてくれる。そのしぐさがやっぱりハムスターっぽい。

「そういう多面性のある文化だから、いろんな部とコラボできると思うんだ。落研と寄席やったり、吹奏楽部に吹いてもらったり」

なんなら三味線練習する、と楓先生が言ってくれたことで思い付いた案だった。

「そのためには文芸部の一部でいるより都々逸部である方が動きやすい。そう思わないか?」

言いながら隣からの視線を感じていた。平田が驚いた顔でこちらを見ている。そういえばこれは話してなかったな。言っとけばよかったか。

「なるほど、それなら文芸部とはずいぶん違う活動になるね」

「これで瀬尾さんを説得できそうか?」

「設立根拠はクリアだけど、やっぱりどんなに頑張っても一度で許可が下りることはないと思う。二度嘆願に来ることを前提に動くのがいいんじゃないかな。とりあえず初回は罵倒されてもらう方がいいと思う」

「罵倒?」

穏やかじゃない。

「瀬尾さんてそういう人なのか?」

「うん。……なんかごめん」

「いや、征矢が謝ることじゃないけど」

大西先輩たちや征矢の反応を見る限り、一筋縄ではいかない人らしい。

おれの知る瀬尾さんはいつもクールで頭良さそうな生徒会副会長だ。一度も話したことはないが。

「つまり、一度目は瀬尾さんの意見を聞いて、二度目で答えを持って行って許可をもらうってことか」

「うん。私は二度目のときに助け船を出すから。予算のこととか」

そうだった。それがあるんだった。

「そっちは大丈夫なのか?」

おれは部費のことはノータッチだったからよくわかってない。野球部のときから平田に任せっぱなし。

「それは、たぶん。野球部の部費をいったん返上して、その中からもらえば生徒会的には困らないよね?」

「うん。でも……野球部の解散が条件になるから……」

野球部の解散。やっぱりそれなのか。

わかっていてもその言葉を聞くだけで心は重くなった。

「野球部の部費、使う前でよかった。大会の遠征費とか丸々余ってるよ。ボールも新調する前で……よかった」

明らかに無理をしている声。聞いてられない。

「心配事はそれくらいか?」

さえぎるように話を変える。うなずく征矢。

「じゃ、まずは当たって砕けるか」

作戦会議終了。一時作戦、実行に移る。


三年生たちにはあえて詳細を伝えなかった。まずは出しに行って様子をみましょう、それだけ伝えて生徒会室へ乗り込んだ。

中西先輩は生徒会側に座っている。おれたちは四人。いざ。

「失礼します。新部設立の申請に来ました。二年の小西……」

「ちょっと待て」

言いかけたところを止められる。右手を広げてストップのジェスチャーをした、中西先輩の隣に座っている眼鏡の人。この人が瀬尾さんだ。

「中西。お前今日はあっちだろ」

おれたちの方にあごをしゃくる。表情ひとつ変えずに。

「いいだろ、どっちでも」

「あ?」

問答無用、というように凄まれて、しぶしぶ立ち上がる中西先輩。大西先輩の隣に立つ。

「いい眺めだな」

それを見て瀬尾さんが薄く笑った。怖い。

「し……新部設立の申請に来ました、二年の小西秀秋です。こちらは……」

気を取り直して自己紹介をし、隣にいる四人も紹介し、設立の目的、顧問、許可を得ていることなどを買いつまんで話した。ほんの五分程度。

「以上です」

締めくくって一息。沈黙。

誰も何も言わない。腕を組んで無表情のままの瀬尾さんが口を開くのを待っている。

「中西」

長く感じた静寂を破って、瀬尾さんが中西先輩を呼んだ。

「ようやく野球部も諦めて生徒会の仕事に専念するかと思えば、都々逸部だと?おれがそれにいい顔するとでも思ったのか、バカが」

罵倒。第一声からまごうことなき罵倒。中西先輩に不満があることは明らか。罵倒って、そっちにか。

「……でも、野球部よりこっちに顔出せるようになるだろ」

「そんなもの信じられん」

大西先輩とおれの顔を一瞥する。お前らがいると中西はここに来ないんだよ、とでも言うように。

なるほど、征矢の歯切れが悪かったはずだ。こうなることがわかってたから一度罵倒された方がいいと言ったのか。

チラリと盗み見ると、征矢と目があった。苦笑いしている。瀬尾さんには見えない角度で。

「だいたい部が多くて予算割りに苦労してるのは知ってるはずだろうが。何が新しい部だ。お前の頭はニワトリか」

「部を無尽蔵に増やすつもりはない。ちゃんと野球部は始末をつける。文句はないはずだ」

「文句がない、だと?」

「ありますよね。都々逸部というより……中西先輩に」

「そういうことだ」

口をはさんだおれに瀬尾さんはうなずいた。ふん、と鼻で息をつきながらも。

「でもそれは部には関係ないことです。中西先輩の個人的な問題では?」

「五人しかいないだろうが。中西が抜けたら部が作れん。お前ら野球部は何か、ギリギリの人数でスリルでも楽しんでるのか」

ムッ。野球部のことを言われると腹が立つ。

食って掛かろうとする気配を感じたのか、大西先輩がおれの肩をつかんだ。何も言えないまま制される。

「瀬尾、心配するな。野球部は毎日練習があったが、都々逸部はそうはならない。おれもリハビリがある」

「だとしても、だ。あえて新しい部を作る必要がどこにある。文芸部でやれ」

想定していた通りの意見だった。大西先輩のあとを引き取って、都々逸部が独立すべきである理由を述べる。征矢に話したそのまま、他の部と一緒に活動するという案を。

視線を感じる。平田の時と同じように、隣で先輩たち三人が驚いていた。

「でも、瀬尾さんの意見ももっともだと思います。具体的な活動と中西先輩の件、もう一度検討してみます」

それだけ言って一礼。踵を返す。

後に続く平田、それを見て察したように背を向ける大西先輩。え、もう?とためらいながらも着いてくる二葉さん。中西先輩も一緒に来るようだ。

五人で生徒会室の扉を閉め、廊下を歩き出す。無言。

「私……前言撤回するわ」

しばらくして二葉さんが沈黙を破った。いつになく神妙な顔。

「ドS攻めには萌えないと言ったけど、ドSでも受けならいいかもしれない。なかせおの誘い受けなら!あるいは!!」

「二葉さん、空気読んでください」

平田がいさめる。

「小西、あんなこと考えてたのか」

二葉さんを意に介さず、中西先輩がおれの方を見た。あんなこと。他の部と一緒に活動すること。

「はい。言ってなくてすいません」

「それはいいけど……だとしたら、本当に設立できるかもな」

今の今まで設立は難しいと思っていた。そんな声。

「そうなのか?中西」

「おー。瀬尾の反応見たか?表情変わったろ。あんなのはじめて見た」

「マジかよ。瀬尾を言いくるめるとかありえねえな」

大西先輩がしげしげとこちらを見る。

「お前ってほんといろんなこと考えるな」

「そうか、小西くんは意外と参謀肌なのね……?!おいしい!!」

なんだよ。ふたりともなんでそんなに意外そうなんだ。二葉さんはともかく。

「でも中西先輩、なんであんなに瀬尾さんに嫌われてるんですか?」

平田が聞く。

「ちょっと生徒会サボりすぎた」

ニヤリ笑って大西先輩を見る。

「そりゃ、しょーがねえな」

「だろ」

「お前なんかいなくても瀬尾ひとりでなんでもできるくせにな」

「だよな。でも野球部にはおれがいないとな」

「九人しかいないからな」

「そうじゃねえ」

バカ西コンビがじゃれ合うなか、どうするかを考えていた。中西先輩と瀬尾さんの確執。野球部の廃止。都々逸部。やるのかやらないのか。

「小西?」

平田に呼ばれて顔を上げた。

「中西先輩。瀬尾さんのこと説得できますか?」

「おれは言えることはさっき全部言ったぞ。結果は見ての通りだ。あのまま大西に話させて押せばなんとかなったかもしれないけど」

大西の言葉ならまだ聞くかもな。そんな風に言う。

確かに、瀬尾さんの心証はおれより大西先輩の方がよさそうだった。いつもふざけてる分、大西先輩の真面目な発言は信憑性があるのかもしれない。

あと、たぶん人柄だ。

なんとなく面白くなくて、憮然としたまま大西先輩の顔を見た。事も無げに飄々としている。

怪我をする前も、したあとも同じ。あんなことがあっても。

「ちょっと考えてみます」

なんだか突然面倒になって、考えるのをやめた。それだけ言って解散。

そして一週間。おれはなにもしなかった。


「ではこの設問を前に出て解いてもらう。向井」

「はい」

数学の時間。栗原に名前を呼ばれた同級生が黒板の前に立つのをぼんやり眺めていた。証明問題。不等式。

「問ノ一、僕が彼女を慕っていると仮定し事実か証明せよ」

隣の長瀬が小声で呟いた。教科書を忘れて机を寄せていたので距離が近くて耳に入る。今のリズムは。

「……都々逸?」

「うん。前にツイッターで見かけたことがあって」

首をかしげてにっこり笑った。長い髪が肩に落ちる。

「都々逸部はどうなったの?」

「しっ」

思わず唇に人差し指を当てる。いくら小声といっても、栗原の授業でこの話をするのは避けた方がいい。

事情を知らない長瀬が怪訝そうな顔をしたので、ノートの端に文字を書いた。

まだ許可がおりてない。秘密ですすめてるから。

そっか。なにか手伝う?

まだいいよ。そのうち頼むかも。

わかった。なんでも言ってね。

頼もしい申し出に、サンキュー、と唇だけで答えて前を見た。次の不等式を証明せよ。

心はあんな風に簡単に証明できない。不等であることなんて特に。

野球部=x, 都々逸部=yとしたとき、x>yは成立するか。x≧y>1, y^2>0であると証明できるか?

解の出るはずのない不等式を思い浮かべて、いつものように板書きをする栗原の顔をぼんやりと眺めた。


音沙汰がないことを不振に思ったのか、中西先輩が二年の教室まで来た。昼休みの早い時間、わざわざクラスメートに小西を呼べと伝えて呼び出す。

ちょっと来い、と言われた。気は進まなかったが、積極的に拒否するのもおかしいかとおとなしく着いていった。

「入れ」

「ここ……」

案内された教室の入り口に表示されているプレートを見上げた。第2視聴覚室。

「ここを借りるのがいいと思って」

「つまり……部室?」

「おー。いつまでも野球部の部室使うわけにいかないからな。あそこは物を書くのに向いてない」

つまり、野球部の部室を明け渡して移動する、ということ。

視線を落とした。中西先輩の顔を見ることができない。いつかこの日が来るのはわかっていた。だけど。

「おれ、本当は」

上履きの爪先が目に入る。

「野球部のままでいたいです」

空気がこわばった。沈黙。そして、少しして、口を開く気配が。

「……おれもだ」

思考が止まった。中西先輩も?野球が好きだなんて言ったこともなかったのに?

呆然と顔を上げると、そこにはいつもの顔があった。なにも変わらない。

我に返った。

今さら何を言ってるのか。もう決まったことなのに。

「すいませんでした。もう二度と言いません」

わかってて自分で決めたことだ。

「部室、ここでいいと思います。失礼します」

あまりの情けなさに、言うだけ言って背中を向けた。部屋を出ようとする。

「小西。それ大西に言えよ」

冷静な声に引き留められた。

「じゃないといつまでも吹っ切れねえぞ。こればっかりはお前、自分で言え」

「……中西先輩は、言ったんですか」

「まぁな」

なぜか苦々しげ。なにを言ったんだか。二人のことはよくわからない。

明確な返事ができないまま、頭を下げて逃げ出した。


中西先輩に何度か促されて、しぶしぶ野球部の部室に足を踏み入れた。なんだか久しぶり。

そこにはなぜか松崎がいて、大西先輩と談笑していた。

「あ、小西先輩」

「よ」

こちらを見て声をかけてくるふたり。

「おー。……サッカー部は?」

尋ねると、いたずらっぽい顔で首をすくめる松崎。

「これからです。今日は栗原先生が来ない日なんで」

「そっか。まじめにやれよ」

「やってますよー!」

笑いながら立ちあがって、おれに背を向ける。

「じゃ、そろそろ行きます。また来てもいいですか?」

尋ねられた主はニヤリと笑って返した。

「栗原に見つかるなよ」

「わかってます、気をつけます!」

失礼します、扉の前で一礼して駆けていく。

「……なにしに来たんですか、あいつ」

「ん?」

意味ありげに笑う。でも、何も言わない。

「もしかして……サッカー部大変なんですか、あいつら」

「そりゃーな。途中入部なんて肩身狭いに決まってるし、愚痴のひとつも言いたくなるだろ」

愚痴。そうか。松崎は、大西先輩を頼って。

「……ずるいなぁ」

思わずつぶやいていた。怪訝そうな顔でこちらを見る大西先輩の視線に、しまったと思いながらも何かが決壊した。口をついて出る本音。

「大西先輩はずるいです。あんなことがあってもそうでなくても人望があって、一年にも慕われて」

止まらない。

「おれが何をしても敵わない。中西先輩ですら、きっと大西先輩には」

勝てない。

この人には勝てない。

野球部の時から何度も何度も思い知っていたことだった。

おれはこの人を越えることができない。 たとえ副主将とか、部長とか、そんな肩書きで呼ばれていても。

そうだ、おれはずっと妬んでいた。あんなことがあってもずっとそのままでいられる彼を。

そして、まだ、いまだに、大西先輩を許せていない。

言葉を続けることができなかった。それ以上続けたら、もう今までと同じではいられない。

黙りこくったおれを見て、大西先輩は困ったように笑った。

「小西、あのな。悪かったと思ってる」

本当に、困ったように。

「ごめんな」

奥歯を噛んだ。涙が、出そうだ。

「だからずるいって……」

さんざん人を振り回しておいて、こんな風に謝ったりするんだ、この人は。

「おれは小西がやることならなんでも助けてやりたいと思ってるよ。だから都々逸部にも入る。それで許してくれ」

「……許しません」

顔を上げた。なんでもやるって言うなら、やってもらおうじゃないか。

「都々逸部の部長、大西先輩がやってください。そしたら考えてもいいです」

「お前な……」

「なんでも助けてくれるんでしょう?」

にやりと笑って見せると、彼は大きく目を見開いた。驚きと困惑が混じったような顔。

そしてほんの少し、考えて。

「仕方ねえな。やってやるよ」

その肩書はおれの手から彼に渡った。


部長、大西一志。

副部長、小西秀秋。

会計、平田はる。

顧問、栗原さゆり。

部設立の届け出用紙を書き直しながら、平田がおれに尋ねる。

「ねえ小西。大西先輩に何を言ったの?」

部長引き受けてくれるなんて。ありえないよ。

「別に。ちょっと泣き言いっただけ」

「あー……」

こちらを見て笑った。

「そっか。小西に泣かれたら大西先輩も引き受けるしかないよね」

「いや泣いてねえし」

「ほんとに?」

平田は鋭い。なんでも言わされそうな気がして目をそらした。

「中西先輩は殴ろうとしたって言ってたな。胸ぐらつかんだけど思い留まったって」

初耳。そんなことがあったのか。苦々しげだったのはそのせいか。

「お前も平手打ちくらいしてくれば?」

茶化してけしかけると、平田は首を振った。

「私はもういいんだ。過ぎたことだよ」

なんとなく、悲しそうに笑う。

気持ちがわかる気がした。過ぎたことなのはわかってる。でも未練はあるものだ。仕方ない。

「おれもお前も錆び刀か」

「……みんな錆びてるんだよ。たぶん、大西先輩も」

ハッとした。おれは今まで大西先輩の気持ちなんて考えてもいなかった。自分のことばかりで。

なのに平田は。

「だから誰も悪くないんだ」

大人びた顔で言う。

「お前ってさ、すごいよな」

「え?」

「なんていうか、人のことよくわかってる。野球部の監督してたときもそうだったし、今も」

「そうかな。私は小西の誰にでもストレートに意見言うのに結局思い通りに人を動かすところとかすごいと思うよ」

「なんだそりゃ。ほめてねえな」

「ほめてるよ」

笑った。いつもの平田だ。

「思い通りに……なってねえよ。おれ矛盾してるんだ。野球部のままでいたいけど、無理ならみんなといるために他のことやるしかない。でも野球部のままでいたい。ずっとぐるぐる考えてる」

「ごめんね、小西。私がやろうよって言ったから……小西は、優しいから」

「でも、おれは自分で決めたんだよ。都々逸部やるって。それなのにな」

情けない。中西先輩に二度と言わないとか言ったくせに、また平田に弱音吐いてる。

「……今も未練が断ち切れなくて、錆びた抜き身で傷がつく」

「お、都々逸」

心を詠めればいい、と言ってたさゆり先生を思い出した。心。人の心。

「傷のひとつも負わなきゃならぬ、返す刀で共に泣く」

なんとなく返してしまって、二人で顔を見合わせた。思わず吹き出す。

「話してて普通に都々逸が出てくるとかありえない!しかも自作!」

「ほんとだな。なにをナチュラルに詠んでんだか」

「つまり私たち、都々逸も好きなんじゃない?」

「うん。いつのまにか、な」

馬鹿馬鹿しい。もう考えるのはやめよう。

ここに平田がいて、あの二人がいて、頭おかしい美人もいて、それで笑えるなら十分じゃないか。

「煮詰まったらキャッチボールでもするか」

「いいね、それ」

いつものように笑った。

野球部のあの部室の、あの日々のように。


そうやって、おれは未練をしまい込んだ。

今やりたいのは何か。そんなのもう、とっくにわかってはいたのだ。

隣を見た。部長、大西一志。

「大西が部長?」

書面を見ておれたちを眺める瀬尾さんの前、また五人で並ぶ。

「おー。よろしくな」

「本気か?」

頷く。

「ま、だから、安心しろよ。中西はおれがなんとかするから」

「ほんとかよ」

明らかに前より瀬尾さんの表情はやわらいでいた。それでもなお、彼は首を縦に振ろうとはしない。

「まだ予算の問題もある。今年度の予算割りは終わってるからな。お前らにまわす分はない」

「それは、一度野球部の予算を返納しますので、そこから充てていただければ……」

平田が緊張ぎみに切り出した。いつもより小さい声。

「野球部が解散した時点で予算は生徒会のものだ。使い方はこちらで決める」

冷ややか。相手が女子でもお構いなしか。

「では、やめましょう。このまま野球部を継続します。そうしたら予算を返す必要は有りませんしね」

「なんだと……」

睨まれる。ひるまない。

「だって今のはそういう意味でしょう?」

笑いかける。空気が凍る。沈黙。少し間を置いて、征矢が口を開いた。

「瀬尾さん、中途半端に継続されるより返してもらって充当する方がいいと思います」

約束通りフォローに入ってくれた。あえて征矢の顔を見ないようにしてその声を聞く。

「都々逸部なら、野球部ほど予算は要りませんしね」

「あー、そうか。確かに遠征費とか要らないもんな。備品費くらいで済むか」

大西先輩が手を叩いた。

「お前らにとってもいい話じゃねえか、瀬尾。そんな邪険にすんなよ」

気に入らない、というようにおれを睨み続けていた瀬尾さんの視線が外れた。大西先輩を見る。

「全額はやれねえぞ」

「おー。あ、でも初年度の設立だからな?一から揃えるんだし、悪いようにはするなよ」

「それは中西次第だな。あと」

眼光鋭い視線がもう一度おれを見た。

「こいつに口の聞き方を教えておけ」

おれを指差して笑う。超怖い。

隣から大西先輩の視線を感じて、とりあえずおとなしく頭を下げておいた。納得したように頷く気配。そして。

「中西。本当にいいのか」

本当に野球部を潰していいのか。そう質問しているように聞こえた。頭を下げたまま固まる。野球部のままでいたい。おれもだ。あのときの言葉を思い出す。

「……ああ」

ややあって聞こえた中西先輩の声。頭を上げて顔を見ると、彼は思いのほか穏やかに笑っていた。

「そうか」

瀬尾さんが後ろに控えていた一年の書記に目配せをした。頷いた彼女が判子を手にする。ぺたんと押された『承認』の文字。

「生徒会長」

とんとん、と生徒会のサイン欄を指で叩く副会長。おもむろにペンを手に取り、名前を書く生徒会長。中西憲広。

「設立おめでとうございます、都々逸部の皆さん」

書記がそう言って、その書類をこちらに向けた。


もうすぐ高校野球地区予選のはじまる六月の終わり。

西高都々逸部は、ようやくはじまったのだった。

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