第47話 『よんよんまる』始動
アリーナは異様な熱気に包まれていた。とてもこれからピアノでクラシックを演奏するような雰囲気ではない。
それもその筈、あの大人気ピアノユニット『よんよんまる』のファーストコンサートである。
楽屋では詩音と響が例の真っ白と真っ黒の衣装に身を包んで待機している。世界の大舞台で場数を踏んでいる筈の詩音が、先程から落ち着かずにウロウロしているのがおかしくて、響は「詩音、ちぃと落ち着けや」と笑っている。
「しかしあれやな、詩音はそのアビなんとかってモーツァルトスタイル、よう似
「バッハの? ヘンデルの? ヴィヴァルディの?」
「同じやん」
「響だって凄く似合ってるよ。あんまりカッコ良すぎると僕が霞んじゃうから、もっと似合わなきゃいいのに」
「何言うてんねん。緊張しすぎてアタマおかしなったんちゃうか」
「なんかさ……」
「ん?」
詩音が遠くを見るような目で響を眺めている。
「どうしたんや?」
「あの時みたいだなって思ってさ」
「あの時?」
「全日本ジュニアピアノコンペティションの時の、悪魔みたいに真っ黒な子」
「俺が悪魔やったら詩音は天使やな」
「天使と悪魔は紙一重だよ。僕たちは二人で堕天使ルシフェル」
「ユニット名、変えるか?」
二人の楽屋をノックする音で、このバカバカしい会話は途切れた。入って来た人を見て、その会話は止める必要もなかったと気づく。
「調子はどう? 詩音、緊張してるんじゃない?」
「ああ、もう全然ダメだよ。わけわかんなくなってる」
「響、さっきあなたにお客さんが来たらしいの。これを渡してくれって」
「俺に?」
花音に渡された紙袋の中を覗くと、薄い菓子箱が入っていた。それを引っ張り出した響は目を見開いたまま固まった。横から詩音が覗き込む。
「何これ、八ッ橋? 黒胡麻餡だ。こんなのどこで買ったんだ?」
「ほんと、黒胡麻餡の八ッ橋なんてこの辺じゃ売って無いわよね」
響が掠れる声で呟く。
「これ……誰が持って来たんや」
「さあ? ファンからの差し入れだって、スタッフから預かったから。えっ……ちょっと、響、どうしたのよ、なんで泣いてるの?」
慌ててタオルを持って来た詩音からそれを受け取ると、響はやっとの思いで「お父さんや」と絞り出した。
『
「花音、ありがとう。ありがとうな」
「ほら、メイク崩れちゃうわよ」
花音が響をそっと抱きしめると、詩音が後ろから声を上げる。
「あ、花音ずるい、響は僕のものだからね!」
「何よ、私は昨日響のお父さんに彼女かって言われたのよ。否定しなかったんだからきっとそう思われてるわ」
「僕が許可しない!」
「響は私と詩音のどっちを選ぶのよ」
響の涙が笑いに溶けて行く。
「どっちって……そりゃ詩音やな」
「ほら、僕の勝ち!」
「酷ーい、一緒に寝た仲じゃないの」
「えええっ? いつ?」
「詩音がいじけて、私が響のところに泊まった日よ」
「待て待て、一緒には寝たけど、俺は指一本触れてへんし」
ドアをノックする音が聞こえてくる。Asの音だ。パーカッションは倍音が複雑に入り組んでいてそれを聴き取るのは非常に難しい。
「そろそろ準備お願いしまーす」
スタッフに促されて、ステージ裏の廊下を歩く。ステージに近付くにつれ、その熱気がこちらに伝わってくる。
「これ、クラシックのコンサートだよね、基本」
「そやな」
「この盛り上がり、何?」
「ホンマやな」
「緊張してきた、どうしよう、ちゃんと喋れるかな」
「世界のプリンス大路詩音が何言うてんねん。人の顔見たらナンキンやと思うたらええ」
「ナンキン?」
「カボチャや」
ステージ袖、詩音の体験したことのない空気に意識が遠のきそうになる。
「響……なんか僕、ダメかも」
「おいおいおい、詩音だけが頼りなんやで、しっかりしてや」
「ごめん、ちょっとでいいからハグして」
「わかった」
袖で抱き合っている二人の側で花音が「やっぱりあなたたちって、そういう関係だったのね」と笑っている。
「そろそろ行こか」
「うん」
ヘッドマイクを装着し、二人は袖からステージを睨んだ。
スタッフに合図を送ると、ステージに設置された巨大モニターに『よんよんまる、始動』の大文字が現われた。
客席から黄色い歓声が上がる。その中には響の母、岩崎さん、岩崎弁護士夫妻、ヤスダ電機の店長、他にもお世話になった人がたくさんいるのだろう。
そして、優しかったころの父も。
詩音が響に視線を送り、響が詩音に頷き返す。詩音は先程の緊張が嘘であったかのようにニッコリと笑っている。響もつられて笑顔になった。
「行ってらっしゃい」
花音の声に、二人は観客の待つステージへと飛び出して行った。
よんよんまる 如月芳美 @kisaragi_yoshimi
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