第46話 本番前日
コンサート前日。会場では『よんよんまる』の二人とサポートミュージシャン、照明や音響の担当者、プロデューサーなど、関係者が集まってのリハーサルが行われていた。
楽器のセッティング、立ち位置の確認、カメラの動線などの調整が入念に行われ、楽屋には衣装が揃えられている。
そんな中、詩音と響は不思議な気分でステージに立っていた。
出会ってから二十年。『憧れ』という感情だけでお互いを見つめていた二人が隅田川で再会したのは、運命の悪戯なのか、神の導きなのか。
今では隣にいる男の存在が何よりも大きくなっていることに気付く。それは姉を超え、母を超え、あらゆる問題を超え、確かな存在としてそこにある。
悪意を持ってこの関係を壊そうとする者がいるのなら、全力で受けて立とうと思える。それがたとえ『相棒の親』であっても、『音楽界の重鎮』であってもだ。
前日リハーサルを終え、後は明日の本番を残すのみとなって、彼らは会場を後にした。泣いても笑っても明日が『よんよんまる』のファーストコンサートだ。チケットは随分前に完売している。世界中のステージを経験している詩音にとっても、明日のステージへ向けての高揚感は普段とは比べ物にならず、緊張のあまり体に震えが来てしまうのを抑えきれない。
「どうしたの、寒いの?」
「武者震いだよ。明日が楽しみ過ぎて気が狂いそう」
「俺もや。じっとしとれん」
三人で笑いながら駐車場に向かう途中、誰かがこちらに歩いてくるのが見えた。その男は詩音より背が高く、肉体労働者なのだろうか、年齢の割に引き締まった体格をしているのが逆光の中でも見て取れた。
そのシルエットに、響の足が止まった。
全身の血の気が引くのを感じた。
目の前が真っ暗になり、何も見えなくなる。
どうやって立っているのか自分でもわからないくらい動揺していた。
「よぉ、響。久しぶりやな」
詩音と花音が「誰?」と目で訊いている。が、響はそれにすら答えることができない。
――何故? 何故今このタイミングでここに?
「何しに……来た」
これだけ絞り出すのが精一杯だった。それ以外にその男にかける言葉など存在しない。
「水臭いこと言いなや。親子やないか」
「あんたは他人や」
「お前の体ん中には俺の血ぃが流れてんねんで。そればっかりはどうにもならんやろ? それにお前、まだ『大神』姓を名乗っとったんやな」
「何しに来た」
響はもう一度同じ質問を繰り返した。だが、その時あろうことか花音が割り込んできたのだ。
「大神さんですね、響のお父さんの」
父は花音を上から下まで舐めるように見ると、ニヤリと笑った。
「ほー。別嬪さんやな。響の彼女か?」
「そう思っていただいても結構です」
彼女は笑顔を作ると「花音、あかん」と言う響を後ろに追いやって前に出た。
「あなたと響の間に何があったのかは私には関係ありません。その上で私はあなたにお話があります」
「なんや? 言うてみい」
花音はバッグからチケットを一枚取り出すと、それを父の前に差し出した。
「明日のファーストコンサートのチケットです。是非聴きに来ていただきたいんです。あなたは幼かった響にピアノを弾かせてあげた。ジュニアピアノコンペティションの全国大会にも彼を連れて来てくれた。そのお陰で『よんよんまる』があるんです」
花音は相手の反応を待たずに続けた。
「私にとって大神響はとてもとても大切な人です。彼に出会えたことは、私の一生の財産なんです。だから……明日はちゃんとした席で、『響が大好きだったお父さん』として、彼の音楽をあなたの耳で聴いて欲しい。少なくとも二十年前のあなたは彼の音楽というものを知っていた」
そして、ゆっくりと息を吸うと、チケットを突きつけるようにして付け加えた。
「彼のオリジナル曲に『流れ橋』というのがあるんです」
ほんの一瞬、僅かに男の表情が動いた。
そのまま暫く黙っていた父は、花音の手からチケットを受け取ると、元来た道を戻って行った。
花音はその背中に「明日、お待ちしております」と頭を下げた。
その晩、布団に潜ってからも、響は父の事を考えていた。
父は響にわざわざ会いに来た筈だ。久御山に住んでいる人間と、都内で『偶然』出くわすことなどありえない。
問題は何をしに来たのか、だ。
母と正式に離婚してから初めて会うだろう。何か脅しに来たわけでもなさそうだ。それなら一体何の用なのか。
この疑問に、花音は極めて明快に答えを出した。
彼は響の応援に駆け付けたのだ、と。
もしもそうでなかったとしても、結果的に応援させてしまえば『応援に来た』ことになる、だからそうなるようにすればいい、そう彼女は言ったのだ。
明日、父は来るだろうか。広いアリーナだ、来ていたとしてもきっとわからない。期待したところで確認は取れないのだ。
……? 期待?
――俺は父に来て欲しいのか?
混乱した思考のまま、響は眠りについた。
彼は夢を見ていた。
どこまでも遠い青空、頬を撫でて行く爽やかな風、初夏だろうか。彼はおもむろにその足元を流れている川を覗き込む。
「ほら、ちゃんと手ぇ繋いでって言うとるやろ。落ちてまうで」
優しい声。大きな手。
「おっきい桃がドンブラコって流れて来えへんの?」
「木津川はお茶しか流れて来えへんな」
お茶が流れてくるんや……川のお水が緑色になるんやろか。
「これ八ッ橋やったっけ?」
「響はほんまに八ッ橋が好きやなぁ」
確かに俺は昔から八ッ橋が好きだった。小倉餡ではなく、黒胡麻のヤツだ。
「これは『八ッ橋』やのうて『流れ橋』や。川の水がようさん流れてくると、橋も流されてまうねん」
川の水が流れる音はファ#。そうだ、木津川の音もFisだった。
……『も』? 木津川の他に何がFisだっただろうか。
断続的に流れ続けるFis。川の流れが断続的とはどういうことか。
響はバイブレーションにしていたスマホのアラームに飛び起きた。外は既に明るくなっていた。
「よし、勝負や」
彼は勢いよく布団をはねのけた。
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