光のもとで
戦いに敗れた大友皇子は、自ら首を吊った。大海人に、いや、猫に吊るされるくらいなら、と自死を選んだのかもしれぬ。
大海人は、身柄を拘束したまま近江京に送り返した大友の死を聞き、そこになだれ込んで破壊するようなことはせず、静かに東岸へ戻り、根拠地としている不破まで一度帰った。
そこで一連の戦いにおける戦功などを取りまとめ、大軍を率いる契機を作り、なおかつ卓越した戦略眼でもって戦いに大きく寄与した品治、旗挙げ当初から大海人を助けた猛将高市、瀬田の戦いで仲麻呂軍とともに我が身を矢の雨にさらして死の橋を架け、なおかつ生き残った男依ほか、多くの者を評価してそれに応じた恩賞を与えた。
それをしている間に、大津宮は勝手に立ち枯れた。大友側にありながら直接戦いには関与しなかったような者も、最終防衛線である瀬田の突破とそれに伴う軍の壊滅、そして彼らが推戴すべき大友の死を受け、なおなにごとかを為そうと思う者はいなかった。
大海人が近江京になだれこんでそれを破却してしまわなかったのは、そういう背景があるからである。
「これ以上の戦いに、意味はない」
そう、彼は史と讃良に言った。
「人は、はじめて見た。立つべきでない王の末路を。こののち、彼らは必ず王をただしく見定め、国を作ることに力を尽くすだろう。その者らまで滅ぼすのは、まさに獣のすることだ」
史が、同意を示すために頷いた。彼が思うに、王とは戦いを避ける性質を持つべきものである。それでも戦わねばならぬときというのは実際にあり、そのときは完全なる勝利でもって世を正す。そう信じている。この場合における完全なる勝利とは、まだほんとうに天地の全てを揺るがすほどのない人々に、王というものの咆哮を聴かせ、戦いの痛みを知らしめること。そして生じた歪みはただちに正され、誤った王は時間の流れの外に離脱させられるのだということを知らしめること。
それこそが、今この天地の狭間に王が立ち、それがどのような国をもたらすのかということを示すことになる。だから、大津京を破却していたずらに人を損なうことには何の意味もないのだ。
「猫とは、獣である。しかし、俺を、ただの獣と思うな」
いまだ己を猫であると言う我が夫がおかしくて、讃良は笑った。
この天地の狭間にかつてあったどの戦いよりも大きな乱れであったものだから、戦後処理についても彼らにとって前例のないものとなった。
眠る間も惜しんで、大海人は史と膝を寄せて誰をどう評し、この一連の戦いの中で見えたそれぞれの性格や能力などから適正を知り、どのような役割を与えるのかということを話し合った。
無論、それは人事のことではあるが、それが主題となった話ではない。その先にある、国の体制のことが話題の焦点である。
そのため、結局不破で年を越すこととなり、二月になった。
「讃良」
と、まだ寒い不破の朝に残る雪に目を細める讃良に向かって呼びかけた。うなじに遅れた髪が、ひとつ風に弄ばれて襟を叩いた。なにを見ているのか、讃良はしばらく残り雪に眼を残したまま、ん、と鼻を鳴らした。
「飛鳥に、帰ろう」
それを言ってはじめて、讃良は大海人を見た。その表情には喜びでも決意でもない、大海人の知らぬ色が漂っている。
「畏まりました」
讃良は、大仰に衣を鳴らして板敷に膝をつき、胸の前で両手を組んだ。
「
彼らは、二月の末、ついに飛鳥に入った。葛城がかつて見上げ、呪詛を唱えたアマカシの丘。そのふもとにある法興寺。葛城と鎌のはじめて出会った槻の広場。葛城が立ち、睨むようにして見上げていたであろう場所には、蘇我入鹿の首塚がある。
見上げるばかりであった獣は、それを見下ろすようになった。
しかし、葛城が見ていたものとは、入鹿などではない。だから、彼は、眼を下に向けてなにかを見ることはなかった。彼は、いつも、見上げていた。王となっても、なお。
葛城が見上げていたものと同じものを、大海人もまた見上げている。懐かしい踏み心地の土が、それを祝福している。
ここから、はじまった。いや、ここに人が至る前から、すでに始まっていた。ずっと、続いていた。ただ、人はそのことには気付かぬままであった。
大海人は、足を入鹿の首塚から北西に向ける。そこには、葛城が作らせた漏刻がある。都を放棄して近江に遷ってから、ここには人はおらぬようになった。しかし、それでも、水は少しずつ流れ続けていた。
建屋の中、木を組み合わせて作られた水桶にうっすらと生えた苔。それも、彼らがここにいた頃はなかったものだ。
時間とは、流れてゆく。それを、大海人は知っている。この天地の狭間の世に産まれ、産声をあげたそのときから、死に向かって、流れてゆく。その間にあるものを、生と呼ぶ。
「それを、我々は知った」
ぽつりと、漏刻の水の滴るように言った。
「史は?」
讃良は、大海人の言うのとは全く違うことを問うた。
「どこぞで、大人しくしておろう」
戦後処理として、鎌の血縁である者のうちの多くが近江方についていたとして処罰された。ゆえに、これからはじまる大海人の幕僚の中には鎌の縁者は一人もおらぬ。その流れがあるから、中臣の血に連なる史もまた政権の中心から遠ざかった。それは、史が自ら言い出したことである。
「私のみが王のそばにあれば、かどが立ちますゆえ」
新政権での立ち回りがしやすいよう、要らぬ諍いを避けるためであると史は言った。ただし、と彼は言う。
「皇太子を立てられるとき、かならず私をお呼び戻しください。その御身のそばにひそかに仕え、然るべきとき、かならず世に出ます」
父のように、常に政権の中心にあることを望まない。彼ははじめ、父を意識するあまり、気負うようなところがあり、それを大海人も讃良も危ういと思うことがあった。しかし、先の大戦を経て、なにか己の中で目の開くところがあったらしく、ひどく静かな目でそれを言った。
「わかった。かならず、そのようにしよう」
と、大海人は何も言わず、彼の言うところを容れた。
おそらく、史は、讃良の次の世のことを見ている。大海人から讃良への王権の移譲は時の流れと共に問題なく行われることは間違いない。そこに、史の才知を用いる隙間はない。だから、彼は皇太子のそばに付くことで、大海人なきあと、讃良の代となったあと、彼女からその次に立つ者への王権の移行を行うことにその力を使うべきであると考えたのだ。
それまでの間は他の中臣の血を分けた者と同じく、どこぞに隠れ住むのだろう。おそらく、その間、無数の書を読み、学び、さらに力を伸ばすつもりであろう。
彼は、若い。大海人よりも讃良よりも、自分の方が持っている時間が多いということを考え、彼らしい計算でもってこのことを思い立ったのだろう。
この世から大海人が消えても、讃良が消えても、自分はまだ存在する。獣の咆哮が呼んだ雷と雨がこの天地の間に満ちた日々のことを知る者として。それを、そのことを見ずに育った者に、継いでやらねばならない。
彼は、それをするつもりである。
大海人は、天皇として即位した。そして、国号を、日本と正式に定めた。その周囲には大臣は置かず、自らが
あの日、怒りのあまり葛城が蹴り飛ばした沓。それは大海人の足に従って、またここに戻ってきた。そして、ここから、大海人は王の道を歩いてゆく。彼がおらぬようになったあとは、おそらく、讃良が。そのあとは、また別の王が。そうして、時の流れの続く限り、ずっと続いてゆく。
葛城という一匹の獣がそれを始め、前例となった。今なお、我らはその前例に従って生きるところが大きい。
大海人は、二月二十七日、あらたな政権を支えるため飛鳥に集った無数の人を前にして、言う。
「人は、気付き、知る。振り返ることで、我が身がどこにあるのかを。それが分からぬとき、いつでも立ち止まり、過ぎ去った時のことを、己の歩んできた道を顧みればよいのだと。そうして、この先、時がどこに向かって流れてゆくのかを知る」
我らは、と彼は継いだ。
「我らは、光。たとえ夜になってそれを見失っても、かならず光とは我らを照らす。我ら一人ひとりの目の前にある者こそが、光なのだから。すなわち、己自身が光なのだから。その光の、日の
そこまで言ったとき、春が近いことを知らせる薄い色の空に、にわかに雲があらわれた。それを、大海人は、見上げた。そうすると、彼が主上と呼んだ男が若かりし頃にそうしていた姿によく似ていた。
しばし、そのまま、雲を聴いている。そうすると、風がやってきた。
そして、雨。
人々もまた、それを見上げた。降り注ぐものが己を濡らしてゆくのを感じた。
「獣は、そのことを知らぬ」
人々が、はっと顔を前に戻した。冠から滴を落とす大海人が、口の端を吊り上げるようにして笑っていた。
「ただ吠え、喰らうだけなら、獣でもできる」
彼が、かつて先帝に猫と呼ばれていたことを知る者もここには多い。それは皮肉のようでもあり、なにかあらたなことがはじまる兆しのようでもあり、その者らは背を粟立たせた。
「ここに、宣する」
雷光。そして、雷鳴。
「我こそが、王であると」
雷光すら畏れるような声が、飛鳥を揺らした。それは人の間に伝わってゆき、どよめきに、やがて歓声に変わった。
今ここに、名実ともに王が立った。それを、人は目の当たりにした。
ふと、大海人は我が立つ法興寺の広場の板縁の下に目をやった。
打ち付ける雨とはげしい雷光の中、地に平伏するあの日の己が、そこにあった。
それに、猫と名を与えてやることにした。
第二部 天の武 完
雷獣の牙 増黒 豊 @tag510
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