牙、ここに立つ

 鳰の海の西の岸を踏んだからといって、どうということはない。かつて、毎日踏んでいた土であるからだ。せいぜい、東側とは違って急峻な山並が湖に注ぐようにして迫り出しているくらいの違いしかないが、それすらも雨煙の向こうのものとなってよく分からない。

 しかし、己がその土をひとつ踏んだだけで、天地が鳴るようであった。

 いや、天地は実際に鳴っていた。雲の中で雷は唸り声を上げ、注ぐ雨は地を叩いている。そして、ずぶ濡れになりながら馬上の己を見上げてくる人は、口を大きく開けて我が魂の音を、すなわち声を立てている。


「冷えはせぬか」

 と、傍らの讃良に声をかけてやる。讃良は、唇を叩く雨のために重く濡れた髪を指でどけ、薄く笑った。

 視界を埋め尽くすのは、己に従う軍。それが途切れ、雨と土だけの世界になり、さらにその向こうに、近江方の旗が立っているのが微かに見える。

 ずっと、そばで見てきた。自らが主人と定めた葛城が世を壊し、そして創るのを。そのために、葛城のせぬことをしてきた。

 今、それは極まろうとしている。

 葛城は、これをしたことがない。白村江のときですら、彼は自ら敵の前に立ち、それを滅ぼすことはなかった。

 今、天地を埋め尽くすもの。それを見て、時間というものは葛城を置いて流れ、そして自分がそれを継いだのだという思いがこみ上げてきた。

「そなたがここにあって、よかったと思っている」

 また、傍らの讃良に声をかけた。

「わたしは、不破から別れ、伊勢あたりで過ごしていたことになされませ」

 讃良は、いたずらっぽく笑った。

「なぜだ」

 不思議そうな顔を見せると、史が進み出てきて讃良の頭の中のことを言葉にした。

「讃良さまが常に共にあり、戦いのことにさまざまな意を挟んでおられたというのは、まだ世に知られぬ方がよろしいかと」

「俺の面目も何も、あったものではないということか」

 苦笑した。たしかに、そうである。自分ひとりでは、この場に立つことすらなかった。旗を挙げたのも、讃良があったから。駅を焼いて戦いの狼煙としたのも、讃良がそうせよと言ったから。とことん戦い、国を作るために使われるべき力を持つはずの人の屍をあちこちの野に埋めてきたのも、今ここに至るために築かれた狂気の橋も、すべて、讃良を王とするため。そう思えた。

 自分がそう思っているのだから、讃良の思う通り、ここに讃良はいなかったことにする方がよい。讃良は、まだ王になれぬのだ。大友を滅ぼすだけの大義を、讃良は持たぬのだ。

 自分は、違う。葛城や鎌から、じきじきにのちの世のことを託された。あの沓を、たしかに履いた。

 だから、讃良はここにはおらぬのだ。王たるべき彼女を王にするべく、自分は王になるのだ。我が履く沓を、彼女に履かせるために。


「兵を挙げたのは、俺の名であったからこそ意味がある。そのことは、分かっている。お前を王にするため、俺は人の血を流したのだ。もし、のちの世が俺を悪王と呼ぼうとも、俺はそれを甘んじて受けよう」

 前を見つめたまま言うと、讃良は声を立てて笑った。

「そんなこと」

 あるはずがない、と。

「わたしが、あなたを創世の王として、長く長く人の心に刻みましょう。あなたは、いつの世でも、誰が王でなければならぬのかということの、となるのです」

「そうせねば、主上もまた王ではなくなる、か」

 あるべきところに王は立ち、そうでない者が立てばそれはただちに正される。その前例を、今まさに作ろうとしているのだ。そこから、あるべくしてある国というものが始まる。

「主上、だなんて。懐かしい呼び方」

 讃良は、くすくすと笑った。その声は、雨に消されてしまっている。だから、ただ目を細めて肩を震わせる姿があるのみである。

「懐かしむことはない。俺にとっては、ただひとつのものなのだ。天に星や雲は数えきれぬほどあれど、月はかならずひとつ。陽もまた同じ。どれだけ沈もうとも、かならずまた登る。それは月であり、陽でなければならず、それより他のものなど、あろうはずがない」

 葛城という凄まじい光を放つものは、地平に沈んだ。そして、これから、自分というまたべつの光が登ろうとしている。国とは、そういうもの。それを、人は知る。そうしてはじめて、人は営み、生を過ごすことができる。


 今、これから、はじまるのだ。

 その前に、この戦いを終わらせなければならない。

 讃良が、強く頷く。

 それに誘われるようにして、手にしていた矛を振り上げた。

 人のどよめきが止まった。雷と雨は、止まらずにこの天地を満たしている。

「いざ」

 史が、それを促す。それにも、頷いて答えた。

「大海人どの。いいえ──」

 我が名を呼ぶ、愛しい人の声。いや、それは、獣の、あるいはこの世でただひとつ、人を導くべきものの声。

「──王よ」

 矛を、鋭く振り下ろした。唸りを上げるそれは風を呼び、自ら吐いた息と混ざった。息には色が乗り、それがさらに自らの唇を振動させる。

「やれ。殺し尽くせ」


 高市が、品治が、生き残った男依が、王の一声で雨を斬り裂いて飛ぶ矢そのもののようになり、荒れ狂った。歩兵に泥を飛ばしながら前進させ、矢を立て続けに放たせる。

 敵陣は、それだけで動揺した。

 勝てる、と史は見た。戦いというものは勢いなのだと大陸の書にはあるが、今のこの戦いはこれまで彼の見たことのあるどの戦いよりも味方の勢いは強く、敵のそれは萎れていた。あれほどの矢を射込んで渡河を阻止しようとしていた敵が、こんどはそれが我が頭上から降ってきたと思うだけで大変な動揺を見せている。

 応射しようにも、すでに矢は瀬田の流れに洗われている無数の骸が吸い取ってしまっている。彼らの狂気の死が高市、品治の本軍とさらにその背後に控える大海人をこちら側に渡らしめ、敵から矢を奪ったのだ。

 矢をさんざんに撃ち、敵の陣を乱す。乱れきったところで、しばし、静寂。


「機だ。どちらがゆく」

 高市は、品治に馬上で話しかけた。

「それはもう」

「お前がゆくか。我が君よりじかに軍を統べることを命じられたのだ。当然だろう」

 品治は、やや肥った体を馬上で揺らし、笑った。

「いえ、いえ。この品治などを乗せて駆ければ、馬が哀れでしょうて」

 その率いる軍は最も多い。しかし兵の練度で言えば、高市の方が上。そういう具合である。品治は手柄に固執せずそれをあっさり譲ることで、で自分に要らぬ害がふりかからぬよう配慮しているのだろう。

「ここは、高市どのこそ。我らが王のその赤き旗が立ったとき、真っ先にそのもとへ参じたのは高市どのなのですぞ」

「どこまでも、いやな奴だ」

 高市は苦笑し、馬を進めた。


 並足から駆け足となり、やがて疾駆となる。雨が、蹄の飛ばす泥が、線になって後ろに流れてゆく。

 そこには、兵。数千のそれが気を一つにして、自分のあとを追っている。

 最初の敵に、ぶつかった。王は、殺し尽くせと命じた。それならば、一人も残すことなくこの地を埋める屍にしなければならない。今、長い時間をかけて人が歩んできた道の、そのひとつの標のところに澱みのようにして溜まったものを目にしている。そう思えた。

 打ち払う。矛に打たれた人が、恐怖に顔を歪めながら、嵐の日の枯れ枝のように飛んだ。それが地に再びついたとき、その者は恐怖すら感じぬようになっているのだろう。

 もう、すでに始まっている。ほんとうの国を創るということが。人を導くべき王が立つのが。一人殺すたび、そう思えた。高市が騎馬と歩兵の入り混じった数千の手勢で穿った穴を、うしろから品治の大軍が全軍突撃でもって広げてゆく。

 もう、こうなれば、あとはただ押すだけである。

 高市の視界にある誰もが、己に今まさに迫らんとする死に背を向け、声を上げながら逃げていた。

 誰一人、高市らに武器を向けようとはしない。

 彼らは、戴くべき王を誤った。人の上に立つべき者でない者がそこにあれば、すべての人が生を見失う。


 それを正す。葛城や鎌があらゆる手段でもって、さまざまな前例をこの国に生きる人にもたらしてきた。彼らができなかったことは、それを継ぐ者に遺された。

 大海人は、見ていた。己の為すべきことが、成りつつあるのを。それをする、高市や品治、そしてその旗に連なる無数の兵を。傍らの、史を。隣で薄く笑む、讃良を。

 彼らのうちの全ての瞳の中に、光がある。それを見るまでもなく、確信をもって感じることができた。それが光であると示すものこそが国であると、知ることができた。

 そして、己はそれをまた己のあとに続く者に継がなければならぬのだと思った。

 さしあたっては、讃良。彼女こそ、王なのだ。自分など、どこまでいってもあの雷雨の中で平伏するだけの猫でしかないと思っている。

 猫ならば、主と定めた者をたすけるのみ。それが、生。

 王を創るため、王となる。

 そうでない者は、ただちに時の流れの中から消し去られる。


 逃げ惑う敵を散々に追い散らかした高市軍と、それを援護する品治軍。それらは、すぐにこの西近江の野を鎮まらせた。生きて動くものは大海人の軍であることを示す赤い旗の下にある者しかない。

 野の鳥や虫ですら、この雨のために身を潜めてしまっている。

 激しさを増す雨の向こうでも分かるほどの歓声が上がり、大友軍の旗が倒れた。

 そして、赤い旗もまた動きを止めた。


 泥濘を、踏む。そこに向かって、馬を歩ませた。皆が、雨と雷光を背負って歩く大海人を仰いで見送った。隣には、讃良。史はあるところで馬を止め、じっとその姿を見送っている。

 ゆっくりと、ただ馬を歩ませた。その間も、漏刻は時が流れるのを知らしめているのだろう。

 飛沫を上げる泥の上には、もはや時間を刻むことなどなくなった屍。彼らの死を、甘美なるものとすることは誰にもできない。彼らは、あるべきでないところに王が立とうとしたがゆえにもたらされた、人の過ちなのだ。

 その前例を、のちの世の人は生まれながらにして知る。己という一個の生に時間が刻まれる間、どのようにして生きねばならぬのかを。ここに今折り重なっている屍ほど、無意味なものはないのだと。


 馬を止めた。

 雨に打たれるに任せている高市が、一人の男を引き据えている。その者は兜を失い、泥の上に両膝をついていた。

「大友どの」

 と、声をかけてやった。皇子みこ、ではなく、ましてやおおきみ、でもなく、ただ名を呼んだ。

 名を呼ばれた大友は、恨みがましい瞳を上げ、やがて口を開いた。

簒奪者さんだつしゃめ」

 大陸から輸入した言葉で、王権をかすめ取る者として大海人を罵る。

「そうしてでも、目指さねばならなかったのです」

 大海人は、大友が膝をつく同じ泥の上に降り立った。

「目指す?──なにを」

 おそらく、大友には、分からぬのだろう。彼の唯一の救いは己が凡庸であることを知っていたことではあるが、それを担ごうとする周囲に乗って立つべきでないところに立とうとしたのなら、やはり彼は今ここで大海人に見下ろされなければならない。

「あなたには、分からぬものを。そして、あなたにも見せなければならぬはずであったものを」

「我が父は、俺を王にと望んだではないか。それを覆すことの何を見よと言うのか」

 大海人は、うっすらとかぶりを振った。

「あなたの父君、そして我が主があなたに自らの後に立つよう仰せになったのは、私にそれを覆させるため。立つべきでないところに立つべきでない人が立てばどのようなことになるのか、のちの世の人に知らしめるため」

 大海人は、淡々と言った。大友は、この叔父が何を言っているのかまるで分からぬようであった。陸に上がった鮒のように、口を開けたり閉めたりしている。

「我が君」

 讃良が、声をかけてきた。そろそろ、という意味である。大海人は頷き、眉を吊り上げ、立ち上がった。

「待て」

 と、大友が叫ぶように言う。大海人はそれに答えることはなく、ただ立ち止まり、片手を挙げて、

「吊るせ」

 とのみ言った。

 彼は、獣であった。葛城と鎌ができなかった、王のおらぬようになった国に誰が立つのかという前例を、ここで示すのだ。

 泥濘を踏む沓は、もとの色が分からぬほどに汚れてしまっている。だが、それでも、確かに、彼は我が足で歩いていた。

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