雨の中の炎
「――これは」
高市は、立ち尽くしている。
「このようなことが、まことに――」
合流してきた品治が、そばに馬を進めてきて呟いた。
数千の兵がその死によって架けた橋は、騎馬隊をも渡すことができた。何万の人に踏まれても決して揺るがぬ橋となった。誰もが針鼠のように――日本においては化石の発掘などが見られるために太古の時代には生息していたものであろうが、人が歴史を紡ぐくらいの頃にはその姿を消していた。しかし東アジアには広く分布していたから、当然彼らも大陸渡来のそういう生き物のことを知っているはずである――全身に矢を突き立て、我が血を瀬田の流れに洗わせていた。
彼らは、ゆっくりと歩いた。そうすることができた。
この西岸の敵は、数万。しかし、矢はひとつも降らぬ。この地で果てた全ての者が、その矢を吸い取った。敵は仲麻呂軍を恐れて退き、怯えた構えを見せているだけである。
「仲麻呂どのは」
先に橋に取り付いて損害を被って進退もままならぬ窮地に陥った男依が、眼を沈めて静かに言った。
「わたしを救ってくれました。そして、あなたがたをこちら岸に導いた。さらに――」
振り返る。東岸には、並んで粛々と歩を進める旗がかろうじて見える。それが、はげしく地を打ち付ける雨に煙っている。大海人が、こちらを目指しているのだ。
「攻めかかるか、品治。我らが君が、こちらにたどり着くまでに、奴らを滅ぼしてくれよう」
高市が、眼を前方の敵に向けて不敵に笑う。それを、品治は制した。
「いいえ、待ちましょう。我が君がここに至るのを、ゆっくりと。敵は、どうすることもできず、それを見ているしかないのですから」
品治が目を細めた。兜から滴る雨が目に入ったのかもしれない。
仲麻呂の死体のそばに、彼らは立った。その後ろに、万を越える軍勢が。
「仲麻呂どのは」
男依が、また声を。どうしても、語りたいらしい。
「こちら岸にたどり着き、そして剣を抜き、お一人で」
彼らが踏む濡れた土には、無数の亡骸が転がっていた。死ねば、それは誰でもない。ただ骨のみを残して土に還るだけのものとなる。
古く、死とは再生と同義であった。この時代よりもさらに昔、それこそ人が縄目の模様を付けた土器を用いていた頃などは、その土器や土偶などにしばしば月をモチーフにした装飾が施されることがあった。月とは、満ち、欠けるものである。光を完全に失って死んだ月が、三日の後にまた東の空にあらわれるというのは、彼らにとって死が再生を意味することであると教えた。だから、彼らは月というものを見上げ、生と死を数えた。
のちの世では考えられぬことだが、彼らの集落の多くは、中央に墓がある。それはことごとく円形で、それ自体が月を意味していると説く学者も多い。
死とは、再び産まれること。それが、古い死生観であった。
だが、それは時間と共に変化する。そして、あるとき、それをはっきりと打ち壊した者があらわれた。
葛城。王の墓は七日のうちに造れるものとせよとか、自ら討った入鹿の墓など、その父のものと同じところに放り込んでおけとか、彼は死というものの価値をことごとく薄くした。自らの母の死も、妹の死も、もはや身体だけが別々で同じ心を持つと言っても過言ではないほど、その生を共に過ごした鎌の死すらも。
そして、彼は、己には死すら与えなかった。
死とは、ただ終わること。そこに質量も意味もない。言葉を発することもなにかを見ることもなくなった身体は、ただ腐り、土になる。それだけのこと。彼は、そう定義した。
いや、それは一面的な見方であり、じっさいのところは違う。
彼は、死というものの価値を薄めることで、生に光を当てたと言う方が納まりがよい。生きて時を刻んでこそ、人。死そのものには何の意味もなく、生きる者が死した者を思うことに意味がある。死した者を知ることは、その者の生を知ること。だから、人は、生きてゆける。葛城という男は、この国にそういう価値観を与えたのではないかと思う。
その上に立つ者が、葛城の遺した沓を履いた者がやってくるのを、静かに待っている。死という最も無意味なものを迎え、越えてはならぬその線を越えた先に行ってしまった仲麻呂を見下ろしながら。
「仲麻呂どのは」
死してもう還らぬからこそ、二度と再生することも復活することもないからこそ、男依は涙を流して仲麻呂のことを語った。
「こちら岸に至り、剣を抜き、矢が尽きた敵のところに、一人で」
死体を背負って矢を避けて進む仲麻呂軍の兵を恐れた近江方の兵は、全ての弓を渡河してくるそれに向けた。彼らの恐れと焦りが、矢をそこに集中させた。
仲麻呂は、その死の雨をかいくぐり、生きてこちら岸を踏んだのだ。しかし、それは己が決して踏んではならぬ土であると定めた。あとから渡ってくる高市の、品治の、そして大海人の軍が踏むべき土であると定めた。生きる者こそ踏むべき土であると。
それを、造ろうとした。
彼は剣を抜き、矢が尽きて矛や剣などをそれぞれ構える敵軍に、一人で突き入った。剣の林、矛の森がそこにあった。しかし、仲麻呂は風だった。風ならば、木の枝はしなり、避ける。どの剣も、どの矛も、仲麻呂を捉えることはできなかった。
そして風とは、ときに大木の幹をもなぎ倒す。そのようにして、一人、二人と屠っていった。
何人か斬ったところで、剣が折れた。そうすると落ちている矛を拾い、振り回した。その刃が曲がっても構うことはなく、ただの鉄の棒を振り回すようにして暴れ狂った。
なにか、叫んでいた。男依には、何を叫んでいたのかまでは聞き取れなかったという。しかし、彼がなにごとかを叫び、そして笑い声を上げるのが、確かに見えていた。
はっきりと、彼の肩を敵の矛が貫くのが見えた。彼はその刃を掴んで引き抜き、矛ごと奪い取ってさらに暴れ狂った。しかし、彼が傷付いて赤い血を流すのだということを知った敵は、そこから一斉に彼に打ちかかった。
何度斬られ、どこを突かれても、彼は倒れることはなかった。それどころか、なお声を張り上げ、笑い、さらに激しく死をここに積んだ。
渡河するための死の橋は細く、万の軍が渡るには細長い列となってそれをせねばならず、非常に多くの時間を費やすこととなる。いかに大海人軍が大軍であろうとも、一人、二人というような具合でこちら岸に至ったのでは、その上陸を待ち構えている者が握る矛によって次々と串刺しにされてしまうことであろう。
だから、この上陸地点の敵を打ち払わなければならなかった。それを、仲麻呂はした。
「き、鬼神じゃ」
近江方の兵の誰かが、そう彼を定義した。そうすると、何百もの兵が、同じようにして彼を見た。全身の血を雨で洗い、笑い、次々と死を積み上げる彼を。
近江方に矢を使い尽くさせた恐れが、たしかにそこにあった。それが、数百、いや数千、そして数万の兵を退かせた。今、それは雨に煙って霞むほど遠くにまで退き、ただこちらの様子を窺うだけのものとなっている。
それを、仲麻呂はした。
斃れても、なお目を見開き。折れ曲がった矛の柄だけを、しっかりと握り締めて。全身に無数の穴を作り、そこから血すらも流れぬ姿になって。彼が上陸してからどのように歩き、駆けてここまで来たのかが見て分かるような形で、近江方の死体が散らばっていた。
ざっと見て、百。それほどの死を、彼一人の武でもってここに積んだ。いや、武などというものではない、もっと別の何か。それが、数え切れぬ死を積み上げ、敵の中に恐れを芽生えさせ、あるべき王が踏むべき土をここにもたらした。
「仲麻呂どのは、あの死の橋を築きながら、兵に向かって叫んでおられました。死しても、なお光はあると。己を知る人が、それをもたらすと。だから、恐れることはないと」
男依は、
「――そうであったか。仲麻呂どの」
いつも飄々として軽口ばかり叩いている品治も、さすがに沈痛な面持ちとなっている。
「どこまでも、いけ好かぬ男だ。これほど手が付けられぬ男を、俺は知らん」
高市は、自らの足元に転がる無意味な物体を見下ろし、そう言い放った。
雨の滴が彼の頬を伝い、流れ、滴っている。
「しかと、知った。お前が、どのようにして死んだか」
それを語る男依にではなく、もうなにも語らぬようになった仲麻呂に向かって、高市は言った。彼の死を知ることで、その生の燃焼を見た。
真っ赤に血の充ちた眼を鋭く前方に上げた。そこに、仲麻呂の生命の炎が移っていた。
高市の兵と品治の兵が、全て渡河を終えた。いよいよ、大海人の軍があの死の橋にさしかかる。
その全てがこちら岸に至ったときに、始まるのだ。
遠雷。西の空が、激しく明滅する。
それを背負う王が、やってくる。
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