第183話 番外編(おまけ) お泊り

 今川流花は、とてつもなく緊張していた。

 こんなに緊張をしたのは、前期日程の合格発表を見た日以来ではないだろうか。


 いや。

 その後、両親に対して、「私を見守ってほしい」「私の意見を尊重してほしい」「いつか、私の大好きなにゃんと会って」と伝えた時以来、が、正しいのかもしれない。


「はああああああ………」


 流花は何度目かの大きなため息をつくと、腰をずらして湯船に肩までつかる。

 陶器製の、生け花に使う鉢を大きくしたような、みたこともない湯船だ。かけ流しらしく、竹の筒からは、じゃぶじゃぶとお湯が随時注ぎ込まれている。


 個室に露天風呂がついているのが、この温泉宿の目玉なのだという。

 外からの目隠しにもなる様に、竹垣で囲ってあるせいで、風呂に入ってしまえば坪庭があまり見えないのが残念だが、空は別だ。

 見上げると、大きな満月が夜空に浮かんでいた。


 なぜ、にゃんとふたりで温泉に来ているのか。


 それは、二か月前の会話までさかのぼる。

 にゃんと一緒に公園を散歩していた時、お土産をもらったのだ。

 なんでも、にゃんのお姉さん家族が日帰り温泉に行ったのだそうで、わざわざ流花にまでお土産を買ってきてくれたらしい。感謝してありがたくいただきつつも、ついこぼしたのだ。


『いいなあ。私も行ってみたい』

『どこに?』

『温泉』

 尋ねられ、口を尖らせたことまで覚えている。


『なんかね。お母さんが湯あたりしやすいんだって。だから、家族旅行とかで行ったことないの。足湯とかはしたことあるけど、温泉って入ったことないなぁ。いつか、行ってみたい』

『じゃあ、今川の誕生日プレゼントは、温泉旅行でどうだ』

 にゃんの提案に、流花は、ぱちくりと目をまたたかせたのだが。


(………来て、しまった………)


 顔の半分まで湯につかり、ぶくぶくぶくぶく、と呼気を吐き出す。

 顔が熱い。

 なにも温泉のせいばかりじゃないだろう。


 初めて、にゃんとお泊りで旅行に来てしまったのだ。


 正直、日中はすこぶる楽しかった。

 近隣の美術館を堪能した後、レンタル着物をふたりで借りて、写真を撮ったり、温泉街を随分歩き回った。

 気分は修学旅行だ。

 高校卒業以降、例の感染症の関係で、大学はずっとオンラインだし、ソーシャルディスタンスだ、なんだで、せっかく入ったボランティアサークルでも、活動はいまだに制限されている。バイトをするにしても、大学生は敬遠され、親からもあまりいい顔をされなかった。

 なので。

 感染者数も劇的に減り、おっかなびっくりながらも、経済や旅行関係が徐々に動き出した今は、チャンスでもあった。


『外泊の許可が出た』

 ほっとしたように、にゃんが言ったことも決定打になった。

 にゃんが警察官になってから、外出や外泊に制限や許可が必要になったのだ。

特に、感染症が猛威を振るう頃は、「誰に会うのか」「何人で会うのか」など、かなり厳しく指導されるようになったらしい。


 高校3年生から正式に交際を始め、卒業をしたらもっと自由にいろいろ遊べるようになるのかと思いきや。

 感染症の蔓延により、外食や日帰り旅行などもってのほか。なんなら、部外者とは極力会うな、という雰囲気が常にあった。

 ましてや、『お泊り』など、想像もできない。

 それなのに。

 幸運にも、許可が出た。


 もう、これは行け、という天命だろう、と思いながらも、流石に両親に『にゃんと一泊旅行に行ってきます』とは言えない。


 姉の流奈にだけ告げると、両親のことは任せておけ、と胸を張って言われた。その後、

『いいじゃーん。露天風呂付の個室。うひひひひ』

 意味ありげに笑うから、顔から火が出るかと思った。ぽこぽこと、姉を叩いていると、

『でも、織田君。社会人だなー。金もってんなー』

 流花の手から逃れながら、そんなことを言われ、慌てた。


(やっぱ、ここ、たかいよねー……)


 湯に映る満月をすくい上げる。

 さらさらとしたお湯の効能は、美肌と血行促進だそうだ。なんでも、飲めば便秘にも効く、と仲居さんが誇らしげに語っていた。

 にゃんからは、『誕生日のプレゼント』と言われて、値段もなにも聞いていないが、絶対高い。

『私も、ときどき短期のバイトしてるから』

 出す、というのに、にゃんは『今川より稼いでる』と言って、受け取ろうとしない。


(誕生日だし……、で、いいんだろうか)

 と、思うと同時に、この個室風呂から出た後のことを考えあわせて、なんだかもう、頭が回らなくなってきた。


(……お互い、もう、二十歳なんだし。お、大人だしっ。そ、そそそそそそんなことしても、ぜんぜん大丈夫)

 湯にのぼせたのか。それとも勝手に〝そんなこと〟を想像して、頭に血が上っているのか、耳鳴りまでしてきた。


(よ、よし……っ)

 気合を入れて、湯船から出た。正直、なんの気合なのかわからない。

 吹き抜ける風は感じるが、身体に熱がこもったままだ。


「うー……。暑い……」

 掛け湯を、限りなく水に近い温度にしてみたものの、思考は、ぼう、っとしたままだ。

 暗くて視界が悪いのか、それとも、のぼせのせいなのか。

 さっきから、酔っぱらったような状態で、流花は宿に備え付けの浴衣を身に着けた。


(部屋に戻ったら……)

 きっと冷房が効いている。

 しばらくその風にあたっていたら、のぼせも消えるだろう。

 そう思って、客室に続く障子に手をかける。


(だけど……、にゃんが、いるわけで……)

 どきり、と心臓が大きく拍を打ち、顔が一気に熱くなる。


 さっき。

 風呂に入る前のことだ。

 食事を終えて、ふたりでネットの映画を観ていて……。

 この俳優さん、あのひとだよね、とか。

 映像きれー、撮影地どこだろ、とか話していたのに。

 ふと、会話が途切れた時。

 目が合って。

 キスをして。

 そのキスが、とても長くて。

 今みたいに、のぼせたようになったから。

『ちょ……、ちょっと、お風呂行ってくる!』

 慌てふためいて、客室を飛び出したものの。


(よく考えたら、そういうことをするから、先にお風呂に行きたい、って言ったような流れじゃないのーっ)


 思い返した途端、さらに身体中の熱が上がる。耳の奥では、やけに早い鼓動がドラムのように鳴っていた。


「……今川?」

 障子の向こうから、訝し気なにゃんの声が聞こえる。

「あ……」

 はい、と答えようとしたのか。うん、と言おうとしたのか。

 ぼん、と、何かが鳴った気がした後、流花は気を失った。


♧♧♧


 流花の意識が浮上してきたのは、ぶいいいいいいん、という機械が作動する音のせいだった。

 ついでに、右手首に圧迫感がある。

(ん?)

 目を開けると、見慣れない天井が視界に入ってきた。


「よかった……、今川、大丈夫か」

 顔を覗き込んできたのは、にゃんだ。本当に、ほっとしているらしい。肩を落として、胡座をかく。


「あれ……?」

 仰向けに寝転がったまま、首を左右に振ってみる。

 どうやら、客室の。

 布団の上に寝かされているらしい。

 首の後ろと両脇には保冷剤が挟まれていて、さっきから、ういいいいいいん、と音を立てながら右手首を締めあげているのは、簡易の血圧計だ。


「障子開けたら、いきなりぶっ倒れるから……」

 にゃんは苦笑いをすると、測定を終えた血圧計の表示に目を走らせ、「正常」と告げる。


「なんか、やけに長いなと思ったりはしたんだけど……。うちの姉貴も風呂長いしな、とおもって声かけなかったんだ」

 どうやら、のぼせてそのまま、倒れたらしい。

「ご、ごめんっ」

 がばりと上半身を起こすと、脇に挟まれた保冷剤と一緒に、体温計まで布団に落ちた。


「いや、剣道でクーリングは慣れてるから」

 真顔で言われたが、なんか違う。


「え!? 血圧計とか保冷剤とかどうしたの!?」

 手首に血圧計を巻いたまま、流花は尋ねた。ついでに部屋の時計を見る。もう、深夜二時半だ。


「フロントで借りてきた。倒れた直後は、八度七分とかで焦った」

 布団の上に転がる体温計をつまみ上げ、にゃんは「正常」と、また告げる。


「救急車呼ぶかどうするか、めちゃくちゃ悩んだけど……」

「ひいいいい」


 おもわず顔を覆った。

 危うく、彼氏と初めてのお泊りで、救急車を要請されるところだった。


「無事でよかった」

「ごめんっ! ほんっと、ごめんっ!」

 両手を合わせてひたすら謝っていたら、「いや、あの」と、にゃんが言葉を挟む。


「俺の方こそ……。ごめん」

「へ?」

 そっと顔を起こすと、正座したにゃんが神妙な面持ちでこちらを見ていた。


「なんか、強引に一泊旅行に誘ったみたいになってて……。悪かった」

 ぺこりと頭を下げられるから、流花は膝立ちになって首を横に振った。


「悪くないっ。全然悪くないっ。私がダメダメなのっ。勝手に緊張して、勝手にいろいろ妄想して、勝手にその……」

 言いながら、どんどん顔が熱くなってくる。首を横に振った拍子に手も動いたからだろう。何故だか、また血圧計が作動しはじめ、うぃいいいいん、と手首を締めあげる。


「にゃんと一緒に旅行できて……、嬉しくて……」

 目が合う。

 申し訳なさそうに下がっていたにゃんの眉が上がり、微笑まれてどきりとした。


「おれも。今川と一日一緒にいられて、めちゃくちゃ嬉しかった」


 ぼん、と顔から火が噴きそうなほど頬が熱い。

 気づけば布団にへたりこんでいて、にゃんが慌てて額に手を当てる。


「お前、また熱……っ。っていうか、血圧、高っ!!」

「ご、ごめん……。ちょっと、横に……」


「クーリング、クーリング!」

「心臓、ばくばく言ってる……」


「深呼吸しろ、とにかく」

「もう少ししたら、大丈夫だから。にゃん、その……、どうぞ、あの……。お風呂に」


「いや、だからほらっ。また、血圧……っ。なにも考えるな! お花畑とか思い浮かべとけっ」


 結局。

 はじめての一泊旅行は。

 にゃんに看病してもらうだけで終わったのだった。

 

 了

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