四月 - 放課後の旋律2

 二組の教室の中から聞こえる、美しい旋律。

 そのメロディの持つ、まるで目に見えるかのような色彩。

 虹色に輝く音の泡が教室の中にギッシリと詰まっていて、扉や天窓の隙間からぷくぷくと零れ出ながら空気を振動させている――扉を開けたらそれが一気に溢れだして、溺れてしまうようなイメージが湧く。

 だが、良太を硬直させ、扉を開くことを躊躇させている原因は、ほかにあった。

 漏れ聞こえる、まさにその歌声。

 名前も知らない楽器のような、遠い異国の言葉のような……。

 決して忘れられない、その響き。


 心臓が早鐘を打つ。良太には不思議な確信があった。何度も深呼吸をくり返し、意を決して教室の扉に震える手をかける。

 この扉を開けたら、中にいるのは。

 いつかの海で聴いたあの少女と同じ声、その主は。

 ガラリと扉を引いて、逆光に浮かぶ輪郭を見る。

「……仁野、さん」

 良太は声の震えを必死に堪え、その背中に呼びかけた。

 窓の外を見ていた仁野が、声をかけられてゆっくりと振り返ると、肩からさらりと銀糸が流れ落ち――同時に、空気を震わせていた旋律のきらめきが消えた。

 見つめ合うことしばし。仁野の唇が、確かめるようにゆっくりと動いた。

「…………清水……良太?」

 ……え、呼び捨て? てゆうかフルネーム?

 予想外の反応にカクンと拍子が抜け、良太は思わず目を瞬かせる。当の仁野は目を見開いて、少し昂揚したような表情で良太を見返している。

「よ、よう。……悪い、驚かせたか?」

 良太は自身の狼狽を悟られないよう、努めて平静さを装った声を出した。そんな良太に、仁野は黙ったまま小さくうなずく。

「財布を失くしてさ……もしかしたら教室かなと思って、探しに戻ってきたんだ」

 なぜか言い訳じみたことを言いながら、良太はそろそろと自分の座席に近づいていった。迂闊な行動をしたら、仁野を怯えさせてしまうような気がしたのだ。野生動物を目の前にしたら、こんな気分だろうか。などと、良太は益体もないことを考える。

 ところが当の仁野が、

「財布」

 何かを確認するようにそうつぶやくと、パッと良太の元へ走り寄ってきた。かえって良太のほうが驚いてしまい、思わず少し後退る。そこへ仁野の手がすっと差し出された。

「財布って、これでしょうか?」

 その手にあったのは、使い込まれた革の長財布。

「お、おぉぉ! そう、これ! サンキュ、仁野さん!」

 良太は仁野の手から財布を受け取ると、はぁっと安堵の息を吐いた。

「よかったぁ……教室で見つからなかったらどうしようかと……」

 そう言いつつ、中を確かめようとする。が、その行為はまるで仁野を疑っているように映るのではないかとふと思い至り、手を止めた。

「あの、さ。俺のだとは思うんだけど、一応中身確認していいか?」

 良太がそう言って断ると、仁野はにっこりと笑ってうなずいた。

「もちろんです! それ、私の席と清水良太さんの席の間に落ちていたんです」

 なぜ敬語。そしてなぜまたフルネーム。

 浮かび上がる疑問を横に置いて中を検めると、やはりそれは良太のものだった。

「ん、間違いない。教室で落としたんだろうと思って探しに戻ってきたんだけど、仁野さんが拾ってくれてて助かったよ。ありがとな」

「どういたしまして。明日お渡しすれば良いかと思っていたのですけど」

 ――ん? 

「明日?」

 それはつまり?

「ちょい待ち……仁野さん、これが俺のだって気付いてた?」

「はい! 落ちてきたときに、私の足に当たりましたから。きっと前の座席の……清水良太さんの持ち物だろうと」

「えええええ!?」

 良太は思わず大声を上げた。衝動的に仁野に掴みかかりそうになるのを辛うじて堪え、声を抑えて問いかける。

「ちょっ……と、それならどうして、そのときに言ってくれなかったんだ???」

「えっ、えっ? はい、あの、ええと……落ちてきたのは生徒手帳配布の最中で……私が拾い上げたときには、清水良太さんはもうお帰りになられるご様子で、あの、お友達の方々と教室を出て行かれるところでしたので、お邪魔をしてはいけないかと……思い……」

 わたわたと、しかしやたらに丁寧な言い回しで説明する仁野を見て、がっくりと良太は項垂れた。釣られるように、仁野もしゅんと縮こまってしまう。

「 ……ごめんなさい。すぐにお声をかけたほうが良かったのですね」

「いや、まあ、ちゃんと拾って持っててくれたんだし……いいよ」

 ふー、と、盛大なため息が良太の口から漏れた。

 仁野が常識はずれなのは、どうやら外見だけではないらしい。その口調もさることながら、「帰り際に引き止めてしまっては迷惑だ」と本気で考えたであろうことは、仁野の態度からうかがい知れた。

「仁野……さん、あのな」

「はい」

「基本的に、財布はないとめちゃくちゃに困るもんなんだよ。どんなときであっても」

「はい」

「財布がなければ飯も食えない、バスにも乗れない。それを証拠に、俺は一度下校したにも関わらず、財布を探してここまで戻ってきた」

「……はい」

 真面目くさって当たり前のことを語る良太の言葉に、仁野もいちいち神妙にうなずく。

「だから、だ。今後もし、誰かが財布を落とす場面に仁野さんが出くわしたら、一も二もなく呼び止めて、持ち主に教えてやったほうがいい。そいつはきっと、泣いて喜ぶ」

「はい、わかりました!」

 傍から見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ない会話だったが、仁野は瞳をキラキラと輝かせて、さも有り難い講義を受けたかのように満足気な顔をしていた。そんな仁野の様子を見て、良太はやれやれと息をつく。初見から仁野に対して抱いていた畏れにも似た気持ちが、どこかへ霧散していくようだった。

「あー、それから。俺に敬語は使わなくていいよ。俺につーか、その調子だと、誰にでも使ってんだろうけど。少なくとも同じクラスのやつらには、タメ口でいいんじゃないか」

「タメ口」

「おぉ。ま、敬語が癖みたいなやつもいるから、仁野……がそうだってんなら、別にいいけどさ。でも、そう。フルネーム呼びは、なんつかこう……やめて?」

 慣れない〝さん付け〟をついに諦め、ついでに違和感の塊だった呼称を指摘する。そこで仁野はひょい、と首を傾げた。

「なんとお呼びすればよろしい……か?」

 口をついて出かけた敬語を堪えたのだろう、ロボットのような口ぶりで仁野が問いかけたそのときだった。勢い良く、教室の扉が開いた

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