海の碧、空の青

あの夏の日 - 1

 海の中から見上げる空が好きだ。

 水面から射す光。柔らかに揺らぐ線も、描き出される無数の円も、それが波で砕ける様も、ただただ美しい。じっと見つめていると、自分と水との境が曖昧になり、すうっと海のあおに溶けていくような気持ちになれる。

 それは、海で泳ぐ楽しみのひとつだった。波間にめがけてトプンと身を投げ出し、光と遊ぶように泳ぐ。海中から水面を目指して、空と光を見上げながら、ゆらゆらと浮かんでいく――ただそれだけの遊びを、幾度となく繰り返した。

 海水浴客で賑わう浜から少し離れたこの辺りでは、観光産業が主流とはいえ、オフシーズンの海は人もまばらだ。正式に海開きが宣言されるまでは、ダイバーが乗ったボートや釣り船が、のんびりと湾内を往来している。そういった船舶を操舵しているのは、だいたいが誰それの父親だの祖父だので、子どもたちが岸から少し離れた小島や岩場で遊び回っているのを見かけても、大人たちは特に咎めることもなかった。

 そういう環境で育ったからか、海に対する畏怖はともかく、海に潜ることを怖いと思ったことはなかった。友だちと速さを競って、一斉にブイを目指して泳ぎ出すなんてしょっちゅうだったし、素潜りで魚を追いかけることだって、その街の子どもたちにとってはごく当たり前のことだったからだ。

 学校から帰ったら、真っ先に海へ向かって駆け出していく。日常生活の延長線上にある遊び場が、まさに目の前の海だった。

 しかし、だからこそ、あのときの体験は――鮮烈に、記憶に残っている。


 * * *


  夏休みが始まってしばらく経った、ある日のことだった。いつもどおり、友人たちと浜から少し離れた小島に来ていた。岸からの距離がほどよく、ちょうど上陸しやすい岩場もある。地元の子どもたちはもちろん、釣り人やダイバーたちにとっても拠点となる場所だが、観光客が増える季節でも、この辺りは地元の子どもたちの縄張りといった様子だった。

 皆思い思いに、島の外周を泳いだり、シュノーケリングで魚を追ったりしている。そんな中、友人とひとしきり泳いだあと、またひとり海に潜ったときだった。

 ォオー……ン……。

 獣の咆哮のようなものが、聞こえた気がした。薄気味悪く感じながら水中で身体を起こしたそのとき。今度は、低く重い唸り声が、ハッキリとした音量で耳に届いた。

 ルゥゥウォオーン……!

 心臓がドクンとはねる。

 一体どこから? 生き物の鳴き声? 船の汽笛などとは明らかに違う、海の中でも地上でも、これまで聞いたことのない音だ。周りの友達にも聞こえてるだろうか――そんなことを考えながら周囲を見回して、ふと気付く。同じように海に潜って遊んでいたはずの友人たちの姿が、どこにも見えない。どこにも、誰一人。


 ――え?


 いつの間にか、海の中にいるのは、自分ただ一人だった。そうして、その海は、いまだかつて見たこともないほどに深く、暗い。

 どうして? 背筋が、まるでなで上げられたように、ぞわりと総毛立つ。みんなどこだ? 唸り声は衝撃波のように水中を伝って、皮膚を震えさせ続けている。先に浜に戻ったのだろうか? 自分も早く、戻らなきゃ。気持ちは焦るが、手足のほうが硬直して、思うように動かない。息がドンドン苦しくなる。


 ――助けて。


 狙われている、と思った。何故だか分からない。強大な意志を持った、この海に住まう何かが、自分に狙いを定めているのだと。溺れかかっている、という事実よりも、その『何か』が、どういうわけだか自分に対して激昂している、あるいは敵意を抱いているという恐怖のほうが、強く自分を支配している。ただただ、怖かった。

 そしてその恐怖から逃れる術も、動かない身体に鞭を打つ方法も、この海の中には、ない。なかった。

 助けて。助けて。恐怖に震えたまま、

(もうダメだ……!) 

 全てを諦めるようにギュッと目を閉じ、止め続けていた息を勢いよく吐き出した、そのとき。

『良かった、間に合った!』

 得体の知れない何かの唸り声が耳に届くよりも鮮明に、その声は流れ込んできた。

 柔らかく、両の手で頬を包まれている。驚いて見開いた目の前には、にっこりと微笑む少女の顔。蒼く、青い。顔も髪も、海と同じ色の。まるで海に溶けたかのような……真っ青な少女が、眼前にいた。

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