あの夏の日 - 2
唐突な邂逅に、思わず自分の置かれている状況を忘れて呆けてしまう。
『落ち着いて、ゆっくり、深呼吸して』
落ち着いて? 深呼吸? さっぱり訳が分からず、しばらく頭の中で少女の言葉を反芻する。と同時に、驚きのあまり口や鼻腔がすっかり開いてしまっていることに気付いて、慌てて口を押さえて息を止めた。どう考えても手遅れなのだが、混乱しきっている頭では、もう何がなんだか分からなかった。そんな自分を見て、少女はにっこりと微笑む。
身体のほうはまだ小刻みに震えていて、でも顔だけが少女によって支えられ、真っ直ぐその視線の先に据えられていた。頬を包む両手は、そっと添えられているだけのようなのに、頭を動かすどころか目をそらすことも出来ない。
とうとう苦しくなり、観念して口から大きく息を吐いた。ごぼっと海水が弾け、その反動で、思い切り息を吸ってしまう。すると、大量に飲み込むと思われた海水の代わりに、そこにあるはずのない空気が流れ込んできた。
「っ……!?」
息が、できるのだ。ふわりと身体が浮かぶような感覚があった。水が、軽い。
一体何がどうなっているのだろう、と、追いつかない思考を余所に、身体は無我夢中で呼吸を続けていた。
『大丈夫。あせらないで。ゆっくり、ね』
少女の声は、それが水中で発せられているとは思えないくらい、くっきりと伝わってくる。実際のところ、少女の口からこぼれているのは『音』だった。まるで知らない楽器が鳴っているような――あるいは、どこかの国の言葉で歌っているような。その不思議な旋律が水を震わせ、泡がポコポコと音を立てると同時に、『意味』が直接頭に響いてくる。
ふと気付くと、笑みをたたえ、じっとこちらを見つめる少女の瞳の奥に、海面の遥か上空から射しこむ陽の光が透けていた。大好きな、海の中の光。
よくよく見れば、少女の身体はほぼ透明で、その形の良い鼻梁や輪郭は、陰影によって浮かび上がっているのだとわかった。
もしかしたら幽霊なのかな、と、ぼんやり思う。あまりの非現実感に、そういう意味での恐怖や不安が消し飛んでいたのかもしれない。だがそれにしては、頬を支える少女の両手の感触はあまりにも鮮やかで、ここが海の中であることを忘れるほどに、あたたかいものだった。
そんな少女の顔かたちを見つめながら、少し年上だろうか、などと考える。どこか大人びた、穏やかなその表情は、見知った同級生の誰のものとも似ていない。何か心の奥を見透かされそうな、でもそれが決して不快ではない、真っ直ぐな眼差し。
呼吸を整えながら取り留めのないことを考えていると、少女がこちらの瞳を覗き込んできた。
『怖かったね――でも、もう大丈夫。ちゃんと戻れるから』
不思議な確信に満ちた言葉が、さっきまで震えていた体と心に染みこんでくる。素直にうなずくと、少女も安堵したのか、同じようにうなずいてみせた。
『ん。さっきのは……心配しなくてもいいと思う。遠いから』
そう言って、少女は遠方を見渡すように少し視線を巡らせた。さっきの、というのは、あの唸り声のことだろうか。あれはなんだったのかとも思うが、目の前にいる少女だって、全く得体が知れない。考えようによっては、ただ唸り声が聞こえるより、よっぽど怖い現象に遭遇しているのかもしれなかった。
それでも少女から発せられる声は、怯えきっていた身体に、優しく心地良く響く。この少女によって自分は救われたのだという実感が、全身に満ちていた。
『私が手を離したら、もうこんな風に息はできなくなるから、気をつけてね』
そう言うと、少女はふいに顔を寄せ、そっと額を合わせてきた。思わぬ行動にドキリとしたが、身じろぎもできず、そこから伝わる温もりをただじっと受け入れる。
少女はしばらくそうしていたが、やがて名残を惜しむかのようにゆっくりと元の体勢に戻り、問いかけてきた。
『準備はいい?』
大きく息を吸い込み、力強くうなずく。ふわりと、頬から少女の手が離れた。
と、同時に、少女の身体がまるで潮流に押し流されるかのように、急激な勢いで遠ざかっていった。思わず伸ばした手が、虚しく水を掻く。
『私は、大丈夫だから』
小さくなっていく声。だが今度こそ動揺している暇はなかった。少女の言うとおり、海水が慣れ親しんだ水の重みを取り戻している。
意を決して身体を翻し、岸を目指して泳ぎだした。
『忘れな……いて……し……』
聞こえなくなっていく声に、胸が締め付けられた。もしかしたらあの少女は今まで、ずっとひとりで、この海を漂っていたのではないだろうか。本当はこんなふうに、人と触れ合うことなどできない存在なのではないか。
馬鹿げた妄想だとは思う。でも、それでも、せめて自分もこの水の中で声を発することができれば。がむしゃらに波を掻きながら、そんなことを考える。ありがとう、と、ちゃんと伝えられたなら良かった。きっともう、二度と会えないのだ。
――忘れるもんか。
柔らかな音色のように響く声も、じっとこちらを見つめる瞳も。
この額に灯ったぬくもりも。
顔をあげた波間から、大勢の人が岸辺に集まっているのが見えた。海上にも、いくつもボートが浮かんでいる。皆が探してくれているのだろう。潮に流されたのか、最初に遊んでいた小島からはずいぶん離れてしまっていた。
ひたすらに、岸を目指して泳ぐ。泳ぎながら、もしかしたら、自分はいま泣いているのかもしれない、と思った。
程なく、近くまで来たボートに引き上げられた。甲板に上がった途端、口からごぼっと水を吐く。全身が鉛に変じてしまったかというほど身体を重く感じ、すぐに甲板に倒れこんでしまった。頭上からがんばったな、もう大丈夫だと声が聞こえたが、返事をする気力もなく、ただ、空の青を見上げていた。
ボートが岸に着くと、抱えられて降ろされた。岸で待っていた人たちが口々に声をかけてくれる。が、朦朧としていて、誰になんと言われているのかよくわからない。
クラスの友人たちがいるのか。その向こうから駆け寄ってくるのは母親だろうか。みんな、随分心配してくれていたんだろう。ごめんなさい。もう大丈夫だから。ありがとう。息をするだけでもいっぱいいっぱいの疲労感の中でも、言わなければいけないと思う言葉が山のようにあった――はずだったのだが。
気力を振り絞って開いた口から出たのは、自分でも思いがけないものだった。
「どこかで、地震があったんだって……でも心配ないって、遠いから……」
その言葉を、真に受けた大人たちがその場にいただろうか。自分だって、なぜそんなことを口走ったのかわからなかった。だがまさにその時間、何千キロも離れた海底で起きた地震がニュースで報道されていたことを、あとになって知った。
* * *
病院で目を覚ましてから、一度だけ、母親に自分を助けてくれた少女のことを尋ねてみたことがある。だが母親はもちろん、学校の友人たちも、自分を探してくれた人たちも、誰ひとりとして彼女を知っている、あるいは見たという人はいなかった。実際のところ、その話を信じてくれた人すらいなかったのかもしれない。
命を救ってくれた少女。なぜ、あの恐ろしくひとりきりだった海の中で、自分は彼女に出会うことができたのだろう。
そんなことを、今もぼんやりと考え続けている。
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