アレ(解決編)


 躙り寄って来るにつれ、その痛々しい姿は鮮明になっていく。あからさまに恐怖を植え付けようとするその風貌は、かえって滑稽にすら見えた。


「ねぇ、聞いてるの注汲つぐみ君」


 訝しげな表情で俺を睨む月叢つきむらの方がずっと恐ろしいのだと知っている。どうしてこんなに怒気を孕んでいるのかはわからないけど、それくらいの事は勉強のできない俺でも知っているのだ。

 確か古典の教科書に書いてあった気がするし。


「聞いてるよ、聞いてる。どうしようかね、走って逃げる?」


「それでうまくいった試しがあるのならどうぞ」


 無いんだよなぁ……。


「呼んで! 呼んで! 名前、呼んで!」


 会話をかき消すほどの音量は耳を塞ごうとも止む事はない。この状況で平然とした顔ができる月叢つきむらはなんと言うか……流石である。


「ほら、本人はあぁ言っているわ」


「そう言われてもさ……」


「呼んであげれば良いじゃない?」


 呼ぶなと言ったり呼べと言ったり忙しいお人である。


「つき……すさみ、なんか怒ってる?」


 ここで苗字ではなく名前を呼ぶに切り替えた俺の判断力を評価していただきたい。虫の居所が良くない彼女のご機嫌とりのためである。カッコ悪い。

 いやいや、なんにしてもこのファインプレー、好プレー珍プレー大賞にノミネートされてもおかしくはない。もちろん珍プレーの方だよ。


「いえ別に。少なくとも、にはなんの感情も持ち合わせていないわ」


 いやーん、怒ってるじゃん……聞くんじゃなかった。

 こいつの言う『いえ別に』は、得てしてその意味を持っていた事がない。無感動で無表情で無機質に見えて、実はなかなかにわかりやすいのである、月叢つきむら すさみと言うこの人は。


「アレじゃない! 私はアレじゃない!」


 少女の幽霊は怒号とともに口を裂いた。耳鳴りのする方向には何もいない。眼前で吠えるその姿と叫び声の境は歪で、どうにも慣れそうにない。

 月叢つきむらの言葉に反応した事は明白だ。あからさまな敵意を隠すこともなく、少女はまるで泣き声のように思いを震わせる。


「アレはお前だ! お前だ! 私はアレじゃない、私の名前は……!」


 少女は確かに殺意を抱いていた。その禍々しい感情はつま先から、指先から、耳まで裂けた口の端から、そして声から溢れ出ている。


 みるみるうちに姿が更におぞましく変わっていく。

 でもそれは、俺達にとってはなんの意味もないことだった。弱い犬がよく吠えるように、凶悪を体現すればするほど、その内に秘めた力が脆弱なものであることを表すなんて、これも経験から知り得ることだった。


 だから、幽霊らしい幽霊は怪物の姿をしているよりも、まるで生きた人の姿をしている方がよっぽど恐ろしいものなのだ。側からは気付けないような、そして美しい姿をした幽霊こそ、俺には恐ろしい。


「私の名前は、私の名前は、名前は!」


 まさに月叢つきむらの胸元を抉ろうと伸ばされた手を視界の端に映したのと同じ時、俺の体は意図せず動いていた。


「ファイナルパンチ!」


 拳は空を切る感触だけ残して、少女がチリになる有様を眺めていた。醜い姿が光に包まれる光景は、とても悲しい最後だった。


「……ごめんな」


 仕方がないのだ。

 人に危害を加えるのなら、俺はこうする他ない。

 月叢つきむらが俺にとって大切な存在である事は疑いようがない。でもきっと、隣に立っていたのが彼女じゃなくても同じことをしていただろう。

 俺にとって、幽霊よりも生きた人間の方が守るべきものなのだから。


「名前を呼んで」


 最後の言葉だった。

 結局彼女は名もなき幽霊のまま此の世を去る。送り届ける方法が、こんな乱暴なものでごめん。


「ファイナルパンチ……いくらなんでもダサすぎない?」



 いや、今はそんなの触れるところじゃなくない?

 必死に切なげなモノローグを綴っていたところがかえってめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。

 それに格好良いだろうが、ファイナルパンチ。終わりにしちゃうんだぞ?


「終わってるのはあなたのネーミングセンスじゃないかしら?」


 地の文を読むな。


「……相変わらず不思議ね。幽霊を暴力で解決するなんて」


 念仏や儀式なんていらない。

 格好良く、俺の行いを正当化して言うなら正義のヒーローが悪を断つのと同じように、俺は人ならざるものを殴ったりだとか蹴ったりだとか、そうやって祓う事ができた。そうやって生きてきた。


 こんな事ができる人間が他にいるのだろうか。でもこれは誇りにもなりやしない、くだらない方法なのだと自らを蔑む。

 そんな俺をわかっているからこそ、月叢つきむらは悲しい顔をするのだ。


「毎度のことだけれど、焚きつけるような真似をしてごめんなさい」


 月叢つきむらはその役目を担っている。

 幽霊相手にでも罪悪感を抱かずにはいられない俺の側で、祓わざるを得ないような、どうしようもない状況を作り上げるのが彼女の役割だった。

 死者が、あらざる者が視界に蠢くことの苦痛を知っているからこそ、彼女はその役割を担っている。


 そして、その役割に月叢つきむら自身がどういった思いを抱いているのかも俺は知っている。

 きっと、幸せな気持ちなんて存在しないのだと。


「いや、良いよ。いつもありがとう……すさみ


 だから俺はその優しさに甘えることにしている。

 痛みや悲しみは人と分け合っても軽くはならないけれど、同じ苦しみを知る人がいるだけで心は軽くなるのだと言い聞かせて、その役目を彼女に押し付けていた。


「でも、いつになく挑発的だったよな。本当はなんか怒ってたんだろ?」


 あんまりしんみりしても仕方がない。俺たちのした事が誰かの為に繋がると信じて、また笑う事を許してほしい。


 それが俺と月叢つきむらのルールだった。


「それは、デートを邪魔されたら誰だって気分が悪いでしょう?」


 デートと言うより尋問に近かった気がするけど。

 なんなら、あの名もなき幽霊に俺は助けられたと言っても過言ではない。まぁ、焼け石に水程度の助け舟だったけど。絶賛大炎上である。


「でも、安心した。あなたがあの子の名前を呼びでもしたらどうしようかと思ったもの」


「そんな危ない橋は渡らねぇよ」


 暴力ではなくて、他に解決できる方法があればとはいつも思っているけれど、何よりも自分とすさみの安全が第一だ。

 これでとり殺されたら目も当てらんないし。


「あたしの名前はなかなか呼んでくれないくせに、見ず知らずの女の名前なんて呼ばれたら……嫉妬で狂っちゃうわ」


 そんなことで嫉妬してどうする。


 すさみと話しているとどうも調子が狂う。

 いつの間にか忘れてしまいそうになる。


 好きだなんて言われると、思わせぶりなそぶりを見せられると、そんなこと心配したってしょうがないのにソワソワしてしまうのだ。


 すさみだって、生きとし生けるものではないのに。



おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る