アレ(遭遇編)


 月叢つきむらは饒舌だった。


「まさかこんな時間まで居残りを食らうなんて……本当に注汲つぐみ君はアレよね。巻き込まれるあたしの身にもなって欲しいわ」


「昼休みにちょっかいかけてきたお前にも責任があると思うんだけど」


 校門をくぐる頃には夕陽は青く溶けて空に広がっていた。部活動生もひとしきり汗を流し、疲れた体を引きずって帰路に着いた後だ。


 昼休みに自学の時間を蔑ろにしたお陰様、物の見事に数学教諭のお怒りを買い、居残りプリントに勤しんでいた次第である。

 だから、こうして下校時刻が大幅に遅れた事の責任の一端は月叢つきむらにもあると言って良いだろう。

 まぁ、普段から勉強しとけば良いじゃんかって指摘もないことはないし、居残りの決定打が俺の居眠りだった事は棚に上げておくにしても。


「どうしてあなたは勉強が出来ないの?」


「出来ないわけじゃない、やれば出来るんだ」


「いつやるの?」


「やろうとしてたじゃん……」


「あまり人の事を悪くは言いたくないんだけれど」


「な、なら言わないでお願い! わかってるから!」


「なら言わないわ」


「あ、言わないんだ……」


 それはそれで拍子抜けだ。しかもちょっとショック。いや、別に罵られたいとかそんな趣味があるわけじゃないよ?


「あたし、あなたが望むことはなんだってしてあげたいのよ」


 どこまでの信憑性がこの言の葉にはあるんだろう。まずは俺の望みがなんなのかを考える練習をしろ。毎朝素振りしろ。


「あ、そうそう本題に入りたいんだけれど、良い?」


 マイペースさに暇が無い少女である。


「俺は入りたくないなぁ……」


「知った事じゃありません」


 あぁ、前言撤退早過ぎ。どうか前言くん達にはお国のために背中を見せずに戦って欲しいものである。


「人のことを『アレ』だの『コレ』だの、やれ『お前』だのと呼称する事の如何について熱く議論しない?」


「まぁ……うん、言いたいことはわかる」


「あたしはきちんと『注汲つぐみ君』って呼んでいるのに、アレなあなたはちっとも答えてくれないじゃない?」


「アレなあなたって言ってんぞ」


「名前って、とても大事なものだと思うの」


 聞く耳を持っていない。

 どこかに起き忘れてきたんだろうか。駅の落し物ボックスを見て帰る事にしよう。


月叢つきむらは……」


 押し付けがましく構えるは赤いミサンガ。暗闇でもその鮮色が眩しく見えるから不思議だ。

 彼女の言わんとすること、それはこのミサンガに込められた願いについてである。


「……すさみさんは、どうしてそんなに名前にこだわるんですが?」


「急によそよそしくなったのは何故?」


 勘弁してくれ。

 込められた願いは『名前で呼んで欲しい』と言う事。その場しのぎのやりとりでは満足できなかったらしく、常から『すさみ』と呼称することを迫られている今日この頃。

 これ、何ハラスメントになるんだろ? ネムハラ? うわぁ、快眠できそうな名前ですね。


 なんにしろ、年頃の俺にこれ以上高いハードルを用意するな。さっさと体育倉庫にでもしまっててくれよ。


「呼び捨てにしてくれたら嬉しいな」


 もはやハードルでもないその高さ。

 誰だ! グラウンドに棒高跳びのバーを出しっぱなしにした奴は! ぶん殴るぞ!


「……すさみは、なんでそんなに名前で呼ばれたがるんだよ?」


「わかってるくせに」


 その意味合いを理解することは容易いだろう。しかし、容易であるが故に受け止めることが難しい事もある。

 月叢つきむらの笑顔には、期待だとか不安だとかそういったわかりやすいものではない感情が込められていることを俺は知っている。


注汲つぐみ君、あたしはあなたとお喋りして、触れ合って、笑顔でいる、名前を呼んでもらえるこの時だけが、本物なんだと思っているわ」


「そうだね、そうだね」


 相槌を打ったのは俺じゃない。

 縫い針で書き殴ったかのようなか細く、耳障りでどこまでも残る声だった。


「わたしもわたしもわたしも、呼んで呼んで、わたしも呼んで名前で呼んで、欲しい」


 その声は立ち止まる二人の間で木霊した。

 先ほどまでのはにかみ笑顔を何処へ捨てたのか、険しい表情の月叢つきむらは言う。


「……どうしましょう、注汲つぐみ君。迂闊だったわ。まさかがこんな近くにいたなんて」


「いや、俺も全然気が付かなかった。おあいこだな」


「呼んで呼んで呼んで」


 月叢つきむらも、ソレをと呼ぶ事に戸惑いなど無い。

 生きとし生けるものでは無い、簡単な言葉にしてしまうなら『幽霊』と呼ばれるこの存在は、きっと世界には必要のないものなのだと、月叢つきむらはそう思っている。


「呼んで、呼んで、呼んで……」


 無視していればすぐに消える。それは幼い頃からの経験で学んだ事だった。

 幽霊が見えるなんて力は特技でも個性でもなんでもなく、ただ煩わしさの種に過ぎないと悟ったのは随分と昔のことだったけれど、この力のおかげで月叢つきむらと出会うことができたことくらいは良い出来事なのだと思いたい。

 ……良い出来事なのだろうか?


「さっさと帰ろう。相手にするだけ時間の無駄だ」


「それは少し不味いんじゃないかしら?」


 彼女の白い指が暗闇の先を差す。

 朧な影は縁取られたようにくっきりと空間を抜き取り、そこにはズタズタに割かれたセーラー服をまとった少女が立って何やら叫んでいた。

 おかしな事に、その服の裂け目から彼女の肌が露出する事もなく、ただ暗闇が透けて見えるだけ。そして、彼女の声は俺たちの耳元でより一層悲愴さを増して行く。


「呼んで呼んでよ! 呼んで欲しい、呼んで! 呼んで! 名前! 名前名前名前」


「……まさか、素直に名前を呼んであげるわけでもないでしょう?」


 当たり前のことを聞くな。なんてったって、俺は彼女の名前を知らないんだから。

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