アレ

アレ(日常編)


「ねぇ注汲つぐみ君、相談事があるのだけれど」


 教科書と参考書を交互に見ながら鉛筆をカリカリやっていると、月叢つきむらは弁当箱を鞄に仕舞い込みながらそう言った。


「悪い、五限目の数学の予習をしてるからまた今度にしてくれ」


 先日、あまりにも授業への理解が足りていないという不条理な理由からこっぴどく叱られたせいで、俺は似合わない授業外学習に勤しむハメになっていた。

 まぁ、直前になってやるなって話ではあるんだけど、家に帰った後や休日に好き好んで机に向かう高校生なんて一体どこにいるというのか。

 ……え? だいたいみんなそうなの? 嘘だぁ。


 目線をシャープペンシルの先に据えたままの俺に、頭上から透き通った声が降りてくる。


「時間はとらせないわ。そうね、昼休み中には終わるから」


 黒板の上にかけられた時計に目をやると、午後のチャイムが鳴るまであと二十分を切っていた。そのまま月叢つきむらの表情をちらりと覗き見るに、わざとらしく神妙な面持ちが伺える。

 しかし俺は知っているのだ。こんな顔をしている時ほど、彼女はタチが悪いのだと。

 それになにが時間はとらせないだ、結構長尺じゃねぇか。貴重な休み時間を費消してたまるか。


「なるほど……俺が予習に使う時間はなくなるわけだな。丁重にお断りします」


 日頃から何かとちょっかいをかけてくる月叢つきむらには、常々参っている。いつもいつも恥をかかされたばかりで、いつか仕返しをしてやりたいくらいだ。

 こいつの後ろの席を陣取ってしまったのが運の尽きである。恨むなら自分の名字を恨むしかない。


「そんなに素っ気なくしなくても良いでしょう。それに、低調なのはあなたの成績だけで十分じゃないかしら?」


 失礼過ぎんだろ。

 今こいつ、俺に頼みごとをしてるんじゃなかったっけ? 何がどうしてけなされにゃならんのだ。


「もう怒った、絶対に聞かん。それに俺の成績は別に悪くない」


「お願い、一刻を争うの。そんなくだらないジョークに付き合っている暇はないわ」


「色々と謝れ」


 くだらなくもジョークでもない。確かに勉強は得意じゃないし宿題もよく忘れるし授業中も居眠りばかりして怒られているけど、別に成績は悪くないわ! ……説得力無いね。どうせ赤点ばっかりで通知表は燃えるゴミの男だよ俺は。


「今日一緒に帰らない?」


 うわ、聞いてないのに話し始めた。これだから嫌なんだよ、人の都合を考えないからなぁ月叢つきむらは。

 どこが一刻を争うだ。放課後の予定の確認じゃねぇか。


「嫌だよ」


「えぇっ……!? ど、どうして!?」


 そんなに驚くことか?

 自分の胸に手を当てて、常日頃の俺に対する振る舞いを思い返してみろ。いや、その必要もないか、今この瞬間の己を客観的に見てくれれば事足りるんだから。


「どうしてあなたに拒否権があると思ったの……!?」


「何に対して驚いてんだよ!」


 そういうところだよ! あるわ、俺にも一人で帰る権利くらい!


「美少女に下校デートを誘われて、あまつさえそれを断るなんて……さては注汲つぐみ君、アレなのね」


「人を何度も代名詞で表現するな」


「美少女ってところは否定しないのね」


 ニヤニヤしながら頬杖をつく月叢つきむら。あぁ、腹立たしいことこの上ない。


「一緒に帰ってどうすんだよ? またあの古本屋にでも行くつもりか?」


「あ、それも良いわね。今日は雪鳴ゆきなりさんがいる日だし」


 シフトすら把握してるとは……一体どんな間柄なんだ。まぁ、仲良きことは美しきことかな。

 先立った古本屋とは、月叢つきむらの行きつけの店である『かなえ書店』のことであり、雪鳴ゆきなりさんとはそこの美人店員さんである、

 取り扱う商品は古書だけでなく様々だと月叢つきむらから聞かされていた。どうせなら、頭が良くなる薬とかテストで百点が取れる鉛筆とか置いてないかなぁ。


「でも、それとは別に用事というか……相談事があるの」


 とっくに止まったペンを指先で回しながら、相変わらず深刻そうに微笑む彼女の目元を見つめた。

 また相談かよ。

 相談事をしたいっていう相談事をされるのは初めてだな。


「なんだよ、ついでだから今言えよ」


「え、良いの? お勉強の邪魔にならないかしら?」


「もうなっとるわ!」


 ただでさえ邪魔ばかりしてくるんだから、放課後のひと時くらい何としてでも死守しなければ。

 今のうちに悩みを解決してやれば、それ即ち帰り道を一緒にする必要はないということだ。


 この際、俺が彼女の相談に乗り気であるような外形が作出されている点については置いておくとして、その腑に落ちなさと引き換えにしてでも未来を掴み取らなければならない。


「じゃあお言葉に甘えて……」


 都合の悪いツッコミが聞こえない仕様になっているらしい。月叢つきむら悪怯わるびれる素ぶり一つ見せず、目尻から影を払った。

 こいつ悩みとかないんだろうなぁ、どうせ相談ってのも嘘だろ。


「これ」


 めくられたセーラー服の袖。細く白い手首が露わになるとともに、そこから色鮮やかなアクセサリーが顔を覗かせる。

 一瞬で月叢つきむらの意図するところが知れた。同時に言葉につまり、今度は彼女の瞳に視線を動かす。


 バッチリと目があってしまった。

 この時にしてやっと、月叢つきむらの挙動に見え隠れしていた感情が『不満』だとか『怒り』といった赤黒いモノだと悟る。


「このミサンガを着けて以来、注汲つぐみ君が名前を呼んでくれなくなったのよ」


 ……何て相談事をしてくれるんだ。

 とりあえず口をパクパクしていると、丁度鳴り始めた始業のチャイムに救われた。


 月叢つきむらはと言うと、いつものように不敵な笑みを口元に走らせながら黒板へと向きなおる。


「じゃあ放課後楽しみにしているわ……注汲つぐみ君」


 こんなに休み時間の終わりを嬉しく思ったことがあっただろうか。そして、放課のチャイムを待ち遠しく思わない日があっただろうか。

 結局勉強なんてする時間はなかった俺だったけれど、この数学の時間が永遠に続けば良いと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る