償う

「ルーシー」

 心の声ではなく、喉から発せられる掠れた声で、伸はその名を呼んだ。

「何してるんだ」

 深く、沈んだ、いつもの声。それが、開け放った扉から差し込むハロゲンの光を背負っている。


「おいおい、ずいぶん早いじゃねぇかよ」

 男が、ルーシーの方を見失った。他の三人も、それに倣い、ゆっくりとルーシーの方に歩いてゆく。

「誰だ?お前」

 ルーシーの表情は、変わらない。その代わり、男の表情が、変わった。


「随分な言い草じゃねえか。おい。こっちは、お前のせいで、人生ぶち壊しだぜ」

「知ったことじゃない。伸を離せ」

「お前に、ができたとはな。よかったじゃねえか」

「友達じゃない」

 ルーシーは、言い切った。

「そいつは──」

 全く表情は変わらない。開け放った扉に、手をかけた。そして、ゆっくりと閉じる。

 だ、と伸は思った。

「──俺を裁ける人間だ」

 友達ではなく、ルーシーを裁ける人間。何のことか、伸には分からない。


 扉が閉じられ、ルーシーが光を背負うのをやめた。そうすると、この薄暗い空間にとても相応しい姿があらわれた。

 薄い生地の黒いジャケットに、黒のネクタイ。スラックスも黒。


「お前、生きていたんだな。なんで、すぐに復讐しに来なかった?」

 男は、多弁である。ルーシーは、答えない。もしかしたら、本当にこの男のことを覚えていないのだろうか。そんなことが、あるのか。弟を殺し、自分も殺されかけた相手のことを、覚えていないなどということが。


「だから、お前、誰なんだよ」

「ふざけんな!」

 男の声が荒くなった。

「西尾裕太だよ。お前が忘れても、俺は一生お前を恨むぜ、光太郎」

 光太郎。それが、ルーシーのほんとうの名なのか。それこそ、どうでもいいことである。かつての名を呼ばれて、ルーシーの表情が、少し変わった。


「光太郎は、既に死んでいる」

 ルーシーが、歩きだした。

 三人の男が、ポケットから刃物を取り出した。

 ルーシーは、気にする素振りがないどころか、それを見もしない。


 三人の男が、ルーシーに向かって駆け出す。

 ルーシーは、なおも歩く。

 一人が突き出した刃物を、体を斜めに開いてかわし、手首を捻って奪う。

 それを、容赦なく胸に突き立てる。

 引き抜き、振り向きざま、思い切り横に薙ぐ。

 もう一人の男が、喉をぱっくりと開き、鮮血を撒き散らしながら倒れる。


 怯んだ様子の三人目。

 向けてくる刃物を、腰を捻らないまま横足で蹴って飛ばした。

 その足が地に付き、体重がかかる。

 かけた体重をもとに戻す勢いを乗せ、腹に突き刺す。

 手首を返し、傷を広げる。


「みっつ」

 一人目の男は、もう動かない。二人目の男は、倒れたまま、息をしようともがいている。三人目の男は、膝をつき、自分の腹からとめどもなく溢れ出てくる鮮血に驚き、叫び声を上げている。三人とも、助からない。

 それを、数えたのだ。


「てめえ、マジかよ」

 西尾と名乗ったルーシーの昔馴染みは、明らかに驚いている。これほどまでに簡単に人を殺せる人間がいるということを、想像したことがないのだろう。

「お前が、光太郎の弟を殺し、光太郎と共に河に棄てた」

「お前が、俺の人生をめちゃくちゃにし、俺の新しい人生で世話になった奴も殺した」

 ルーシーは、自らのことを他人のように言った。いや、彼の中では、それは自分のことではないのかもしれない。


 西尾は、完全な逆恨みである。しかし、どのような形であろうと、恨みは恨みである。

「光太郎の恨みを、俺は、買ったのさ。対価は──」

 西尾にそれを説明する必要がないことに気付いたのか、ルーシーは言葉を切った。

 その代わり、別のことを言った。


「あんた、恨みを、買っているな」


 ルーシーの手には、光が握られている。

 西尾はお守りのように握りしめた拳銃を、ルーシーに向けた。

 ルーシーは気にせず、そのまま歩く。


 革靴がコンクリートを踏む音が、残響となり、消えては現れる。

 まるで、鼓動のように。

 西尾が何か叫んでいる。

 銃声。

 ルーシーには、当たらない。

 二人が、重なる。

 西尾が、ルーシーに縋りつくようにして、崩れた。

 ルーシーは笑わず、ただそれを数えた。



「伸」

 ルーシーが、椅子に縛られたままの伸の方に歩いてきた。

「何やってるんだ」

 大丈夫か、とは言わない。これが、ルーシーに出来る精一杯のことなのかもしれない。

「よく、来てくれたな、ルーシー」

 顔の形が分からぬまでに殴られ、身体のあちこちが骨折しているらしい。

「お前の部屋に行ったら、パソコンにGPSの画面が写っていた」

「どうやって、こんなに早く」

「タクシーに乗った」

 伸は、不思議なことに、ちょっと嬉しかった。自分のために、急いで駆け付けてくれた気がしたのだ。

「ルーシー、ありがとう」

 ルーシーは、答えない。どうやら、彼が伸のもとに来たのは、善意や優しさではないらしい。


「なあ、ルーシー」

 縄を切ってもらって身体が自由になった伸は、どうにかして立ち上がろうと、四つん這いになった。やっぱり、それは祈りに似ていた。

「さっき、あんたが言ったこと」

 ルーシーは、倒れた西尾の側に転がった拳銃を手に取った。

「俺が、あんたを裁くって」

「それが、どうした」

「どういう意味だよ」


 伸は、少し涙ぐんでいる。その意味を、彼は理解している。探しても探しても、伸の姉を殺した者は、見つからないのだ。きっと、この先も、一生見つかることはないだろう。

 なぜなら、伸は、既に、それを見つけていたからだ。


 そのを、ルーシーは端的に言い換えた。

「お前の恨みを、俺は買っている」

 拳銃の弾倉を外し、中に弾丸が入っていることを確かめ、再び装填し、伸の方に投げた。

 そのまま、沈黙。


 福田明良の、ルーシーの生きる目的は、自分をあるべき所に戻すこと。あのとき死んだ、光太郎に戻ること。そのための、その世界に続く階段を、彼は恨みを積み上げて作っていたのか。自ら踏みしめるその一段一段を、数えながら。自らが作り出した恨みが、やがて己のもとに返ってくることを信じて。

 自らそれを選ぶのではなく、人の手で送り出されることを期待して。


 それが推測でなく事実であるかどうかは、ルーシーにしか分からない。彼のようなフィクションめいた境遇に置かれたとき、人が何を思うのか、誰にも分からない。

 だが、伸が拳銃を手に取るのを見つめるルーシーの表情は、満ち足りていた。


 その銃口が、自分の方に向くのを、待っている。

 彼は、その目的を、果たした。

 彼の恨みは、今夜、晴らされる。


 蛾が一匹、薄っぺらい明かりに向かって、飛んでは離れ、飛んでは離れを繰り返している。

 その蛾は、どこから来て、どこへ行き、どのようにして死ぬのか、誰も知らない。

 これは、それに似ている。


 その羽が蛍光灯にぶつかる音が、微かにしている。

 あとは、伸の荒い呼吸の音。転がる四つの身体からは、既に生命の音はしなくなっている。

 それらの音のある、静寂。

 伸の指。引き金にかかる。

 力をこめて。

 呼吸。なお、荒くなる。

 とても描きやすい表情をしているが、その表情に名前はない。

 静寂。

 なお続く。



「──できない」

 伸は、拳銃を下ろし、四つん這いに戻った。

「いや、しない」

 伸の声には、力があった。

「たとえ、俺の姉貴を殺したのがあんただったとしても、いや、あんただからこそ、俺は、あんたを殺さない」


 ルーシーは、答えない。伸の言葉の続きを待っている。

「生きろ、ルーシー。あんたの積み上げたもの全てを背負って。俺も、そうする」

「生きろ、だと」

「そうだ。生きろ。生きて、償え」

「何を言っている。俺は、とっくに死んでいるんだ」

「いいや。あんたは、生きている。逃げるな、臆病者め。生きるんだよ、ルーシー。全てを失い、恨みだけが心に残っているだけの悲しい人間でも、生きるんだよ。そして、償え」

「法や、行いで、人の罪を償うことはできない」

「ほんとうに出来ないかどうか、やってみろ。それが、あんたの責任だ」


 伸は、握ったままの拳銃を放り捨てた。

 ルーシーの目が、それを追った。

 そのちょうど真上、先程の蛾が、まだ蛍光灯に向かって飛び続けている。

 伸が、片足を引きずりながら、歩きだす。

 ルーシーは、前を見たまま。


 すれ違って、通りすぎた。

 伸が、扉に手をかける。

 傷ついた身体には、それはあまりにも重かった。

 全身を襲う痛みで気絶しそうになりながら、伸は扉を開いた。

 ハロゲンの明かりが眼を刺し、伸はちょっと手をかざし、影を作った。


 振り返ると、ルーシーの背中。

 光に照らされて、真っ黒く浮かんでいた。

「伸」

 その背中が言った。

「俺は、どうすればいい」

 伸は、光の方を向き、答えた。

「知るか。自分で、考えろ」

 そして、足を引きずったまま、光の中に消えていった。



 赤い回転灯。警察がその倉庫の中に入ったときには、四人の男の死体と、蛾が一匹。それ以外に、誰の姿もなかった。

 伸は、ルーシーに生きろと言った。生きて、償えと。その方法は、自分で考えろと。

 ただ自らを、あの止まってしまった時間へ戻したくて、恨みを数え、積み上げてきたルーシーにとって、それは最も残酷な報復であるのかもしれない。


 結局のところ、彼は、何者でもなかった。

 何者かになる前にその時間は進むことをやめてしまい、そこに、ただ彼は戻ろうとしていたのだろう。

 思えば、彼は、いつも影の中にいた。

 そしてその背には、光を背負って。

 自分が進めば進むほど、光からは遠ざかり、その影は長く伸びる。


 ルーシーは笑わず、ただ数える。

 自らの、足音を。



 完

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ルーシーは笑わず、ただ数える 増黒 豊 @tag510

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