みっつ 恨み、買います
祈りが届く
また、伸のことである。
以前、男に襲われてから、夜道を歩くのが怖くなっていた。
ルーシーのことも、あのことがあってから、少し見方が変わってしまっている。
もし、伸が男に何かを喋ってしまっていたならば、ルーシーは、その手に握ったもので、どうするつもりだったのだろうか。
まさか、滅多なことはないだろうが、怖いものは怖い。
それに、ルーシーの言ったことも気になる。ルーシーが既に死んでいるとは、どういうことなのか。無論、何かの比喩だろうとは思う。しかし、自分を死んだものと思い定め、ただひたすらに人の恨みを買い取り、対象を殺し続けるとは、よほどのことがあったのであろう。
季節は変わって、夏。
日付が変わろうとしてもなお蒸し暑い空気が真っ黒なアスファルトから立ち上り、伸のくたびれたシャツを濡らしている。
その濡れた闇に、また、伸以外の気配。
今度は、数が多い。
なんとなく、伸は、相手が誰なのか察している。普通の人間では、ルーシーは探り当てられない。依頼をしてくる者は、たまたま、ルーシーを見つけて接触をしてくるか、以前の利用客の紹介だ。
確か去年の秋ごろだったか、ルーシーは一人の男を殺した。それが、暴力団組員であった。金のトラブルで殺された者の遺族の恨みを、買い取ったのだ。彼らは報復のため、組織的にルーシーが何者であるのか探ってはいるが、特定はできず、伸に接触を取ろうとしてきたのであろう。
この日は、ルーシーはいない。葬儀に出ていて、伸のところには寄る予定がないのだ。
だから、伸は、一人でこの状況を何とかしなければならなかった。以前に伸を尾けた者はルーシーが殺したから、恨みはより深いことだろう。
あんたの恨み、買ってやるよ。
ルーシーは人の恨みを晴らすことで、別の誰かの恨みを、文字通り買っているのだ。
これをずっと続けていけば、この世の恨みは、全てルーシーのもとへ集まるのかもしれない。まさかそんな馬鹿なことはあり得ぬとは思うが、ルーシーが数えるのは、もしかして、晴らした恨みの数ではなく、自らが買った恨みの数なのかもしれない。
それを凝り固め、結晶化させ、出来上がる何かを、ルーシーは求めているのかもしれない。彼がいつも言う、あの言葉。それは、金銭を対価に買い取るということではなく、言葉そのまま、恨みを買う、という宣言を、まだ見ぬ誰かに向けて行っているようにも思える。
人は追い詰められると、案外、どうでもよいことをぐるぐると考えたりする。眼の前の公園の暗がりからも男の影が現れ、こちらに歩いてくるのに気付いた伸の頭の中とは、このようなものであった。
伸は、わざと前にも後ろにも気付かぬふりをし、ポケットからスマートフォンを取り出し、操作をした。これで、伸の家のパソコンに、スマートフォンが壊れぬ限り、GPS情報が送信され続ける。
その作業を終えて、伸は初めて足を止めた。
「沢村伸二か」
前に立つ二つの影のうちの一つが、伸のフルネームを呼んだ。
後ろの気配も、いつの間にか二つの影になっていた。
伸の名を呼んだ一人が、ゆっくり近づいてくる。顔がにっこりと笑っているのが、闇の中でも分かった。そして、伸の間近で足を止め、腹に固いものを突きつけ、耳元で囁いた。
「一緒に来い。ドライブしよう」
そのまま、伸は、停めてあったバンに乗せられ、目隠しをされた。
「少し、話そうじゃないか、沢村君」
男の声は、落ち着いている。
「ルーシーっていうのか。ネット上で、時々名前が出ているんだが、お前、ルーシーの身内だな?」
伸は、恐怖に顔を歪ませながら、首を横に振った。その頭に、また黒く光る固いものが押し当てられた。男はいきなり大声を上げ、何かを叫んでいるが、何を言っているのかは分からない。
車は、そのまま走り続けている。目隠しをされている伸は、どこに向かっているのか分からない。ただ、ETCの端末の反応と音声があったから、高速に乗ったことは分かった。
頭の中で、テレビドラマでよく見るような、埠頭の倉庫のようなところに連れ込まれることを思い描いた。
──見つけてくれ。
──見つけてくれ、ルーシー。
あの死神のような男のことを、これほどまでに頼りに思ったことはない。ルーシーは、身体も細く、力も強くはなさそうだが、恐らくこの四人の男全員を相手にしてもなお勝てるだろう。心の構造が、普通の人間ではないのだ。
ふつう、どのような格闘の達人でも、歴戦の兵士でも、相手に対峙するとき、心が緊張状態になる。それを、慣れや訓練により、別のものに変換したりするのだ。
ルーシーには、おそらく、緊張も恐れもない。ただ歩き、相手に近付き、刺す。
また、首を絞め落とすという行為は、慣れぬ者が行おうとすれば、大変に苦労する。ルーシーは、相手の体重が首にかかるような絞め方や姿勢を、自然と身に付けているらしい。
銃を使うときも、そうだ。落ち着いていれば、銃とは案外、狙ったところに
ルーシーは、そういう意味では、十分に死神であった。彼が死神ならば、優秀である。
だが、そのルーシーも、伸の危機に未然に対応することはできない。だから、伸は、心の中でルーシーの名を叫ぶしかないのだ。
これは、もはや、祈りである。
祈りとは、神仏に対して行うもの。
では、ルーシーは、やはり死神なのか。
たぶん、違う。
彼は、ただの人である。それも、ひどく破綻した。だから、伸のこの祈りは、そもそも聞き届けてくれる者がないのだ。
それでも、伸は、恐怖に怯え、痛みに震えながら、ルーシーの名を呼び続けた。
何度殴られたり、強い言葉で恫喝されたか分からない。
馬鹿馬鹿しい話だが、伸は眠くなっていた。
そして、このようなとき、人とは眠くなるものなのか。と冷静にそれを観察する癖があることを知った。
車が、停まった。
「降りろ」
引きずられるようにして、下ろされた。はじめに飛び込んできたのは、波の音。乗車していた時間は永遠のようにも思えたが、思い返せば恐らく一時間も経ってはいないだろう。とすれば、ここは、東京湾か。
やっぱり、テレビドラマと同じだ。こういう連中は、ほんとうにこういう場所にアジトを構えているのか、と鮮やかな驚きを感じた。
鉄の扉を引く、重い音。
尻を蹴られ、伸は転がるようにして屋内に踊り込んだ。蒸し暑さに、ひやりとした空気が交じるのを感じたところで、椅子に座らされ、身体を縛られ、そして目隠しを外された。口を塞がれていたわけではないのに、薄暗い蛍光灯の灯りが眼に入った瞬間、深いため息が出た。
見回すと、やはりドラマで見るような倉庫である。
男達の人体は、三人はどう見てもただのチンピラ風。一人はましなものを着ていて、この男が首領格なのだということを観察した。
「ドライブ、楽しかったろ」
声と口ぶりで、この男が闇の中で伸に拳銃を突き付け、車内で伸にさんざん暴行を加えた者であることを知った。風景はテレビドラマそのものであるが、
「最高のドライブだったね」
と言い、血の混じった唾を吐き捨てるような真似は、伸にはできなかった。恐怖と苦痛に歪んだ顔で、曖昧に笑わせただけである。
「笑ってんじゃねぇ!」
男の足が、伸の顎を捉えた。それを、スローモーションのように感じた。
天地が逆転し、伸は椅子ごと横倒しになった。
眼の前に、白い物体が転がった。歯である。折れたらしい。
「ルーシーとは、
男は、やはりテレビドラマのように、聞きもしないことを語りだした。
「あいつとは、昔馴染みでな」
伸のはじめの予想は、外れた。ルーシーを特定できず、伸にちょっかいをかけてきたと思ったが、違う。
この男は、初めから、ルーシーを知っていたのだ。となれば、狙いはルーシーではなく、伸そのものであったと考えられる。そして、テレビドラマの例に倣えば、このような場合、伸は殺される。
だから、男は聞きもしないことを語るのだ。テレビドラマでは、そうなっている。
自分の置かれたフィクションのような状況を、フィクションに置き換えて考えた。
「ずっと、死んだと思ってたよ。あいつの弟の死体しか出てないけどな」
「弟?」
伸は、声を発することで、遠退く意識を現世に繋ぎ止めた。
「なんだ、お前、仲良しなのに知らないのか」
「ルーシーのことは、何も、知らない」
「そうか。あいつは、変な奴だったよ。家が金持ちだったけどな、中学のときに事故か何かで親が死んで、ちょっと可哀想だったな。だけど、あいつ、ビビリだから、ちょっと脅せば、すぐ金を出すんだ。だから、よく小遣いをもらってた」
男は、その光景を思い返すような顔をして語っている。他の三人の男は、へらへらと笑っているだけだ。
「ところがさ、弟が突っ掛かってきやがってな。確か柔道部か何かで、あいつと違って体もでかかった。だから、俺は、しょうがなく、何人かで弟をシメたんだ」
袋叩きにしたらしい。よくあることである。
「そしたらよ、お前。あいつが、血相変えて飛んできやがった。弱いくせにな。勿論、返り討ちにしたよ。そしたら、すぐに、あいつ動かなくなっちまってな。しょうがないから、河に捨てたよ。弟と一緒に」
「お前、それでも人間か」
どうすることもできないが、伸の腹のある部分から、怒りがこみ上げてくる。そうだ、ちょうど、蹴られたり殴られたりして、一番痛い部分である。
「大変だったんだぜ。当たり前みたいに、捕まった。少年院行きさ。おかげで、この年になっても、こんな仕事しかできない。仕事で世話になった奴を殺したのがあいつだったと知ったときは、驚いたな。神様って、いるんだぜ。俺を見放したけど、ちゃんと、チャンスを与えてくれたんだ。俺の恨みを晴らすチャンスをさ」
「お前、マジでそう思ってるのか」
伸は、惨めな姿勢のまま言った。
「そうさ。調べて、写真を見て、一発で分かったよ。どこで戸籍を買ったのか、名前まで変えてさ。福田明良?取って付けたような名前だよな」
「お前のしてることは、逆恨みだろう」
伸は、暴力を恐れるあまり、おかしくなってしまったのかもしれない。無抵抗の体勢のまま、この暴力的な男に悪態をつき始めたのだ。
「神様が、聞いてあきれるぜ。チャンス?馬鹿じゃねえの。お前に与えられてるのは、チャンスなんかじゃないさ」
伸の腹に、男のつま先。
──そうだ、そこを、もっと蹴れ。
──そこが、一番痛い。
──もっと怒りをよこせ。
──そうすれば、この恐怖から解放される。
「殺すなら、殺してみやがれ。あいにく、人の死なんか、うんざりするほどに見てる。今さら怖くなんかないや」
「じゃあ、何だって言うんだよ、クソ野郎」
何度も、男は伸を蹴りつけた。その度、伸の口から、赤い色をした恐怖が噴き出た。もっと出ろ。全部、出しきってしまえ。そう思った。
「お前に神様が与えるのは、生きる価値のないお前を、誰かの代わりに裁くことさ」
伸は、無理にでも笑おうとした。
彼は、このような自分に、初めて出会った。
やっぱり、テレビドラマではないか。
そういえば、カメラはどこだろう。
役者とは、苦労が尽きないものだ。
これほどまでに苦痛を与えられ、演技をしなければならないとは。
こんなことなら、役者になんかならず、普通に大学に通っていればよかった。
伸の思考は、もはや壊れかけている。
ありもしない妄想が、現実になった。
彼の置かれている状況が、そもそも現実離れし過ぎているのだ。
そうだ、ドラマの脚本では、ここで、入り口の扉が開いて、自分を助けに来る者が現れるはずだ。
そう思って、彼は扉の方を見た。
扉は、動かない。
──ああ、そうか。
──俺は、怖くて、痛くて、おかしくなってしまったんだ。
──なんだよ、ドラマって。馬鹿じゃねえの。
そう冷静に思う自分も、どこかにいた。
その伸が、それを見た。
重い、重い扉が、開いた。伸を現実からテレビドラマの世界に閉じ込めた、あの扉が。
そして、彼が最も求めた者の声がした。
「伸。何してるんだ」
薄暗く、冷たく、湿気ていて、臭い空間に、その声は響いた。
伸の祈りは、届いた。
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