金、貸して候
渋谷は、一人一人の顔を見回して、言う。
「これで、北条も、俺たちの仲間になった。九州は、官兵衛が、よくやってくれた」
官兵衛は、憮然としながら、頭を下げた。歴史があらぬ方向に曲がることで、彼の思い描いていた帰り方が、見えなくなってしまったのだから無理はない。
「なぁ、みんな」
渋谷は、言った。
「みんな、楽しいか?」
一同は、きょとんとしている。
「俺は、楽しい」
渋谷が笑うと、皆も笑った。
「なんていうか、こんなにも、一生懸命、何かをしたことなんて、なかった」
「何を仰せか」
正則が、でかい声で言った。
「殿下は、いつも、持てる力の全てを使い、ものごとに当たって来られました」
「正則」
「このところ、お人が変わられたようで、はじめ戸惑いもしましたが、しかし、
正則は、渋谷と伊万里が転移者であることは知らぬ。伊万里が女であることは知っているが。
「ありがとよ。でも、お前が言う俺は秀吉じゃなくて、秀吉は、俺じゃないんだ」
「よく、分かりませぬ」
「だろうな」
渋谷は、力なく笑った。
「そんなこと、ありゃあせん」
寧である。
「おみゃあさんは、どこまでも、優しいお人。どこまでも、人を思い、自らを盾にして人を助け、人の幸せを、願えるお人じゃ」
寧の眼は、潤んでいる。
「それを、わたしらは、よーう知っとる。なんという名で呼ばれようが、おみゃあさんがおみゃあさんであることに、変わりはにゃあ」
寧は、渋谷が、もう、行こうとしていることに、気付いているのだ。振り返るような眼をしている。
「だから、楽しかったなも」
その眼が、そう言った。
「寧、ありがとう」
伊万里も、胸に何かが上がってきて、心が揺さぶられるのを感じた。
「殿下」
清正が、言った。
「この天下は、間もなく、殿下のものとなりましょう。この清正、殿下のお側で、それを見れることが、何より嬉しうござるぞ」
他の者も、口々に、笑って、楽しい気持ちを吐き出し、大広間は、笑顔でいっぱいになった。
伊万里が、うっ、と呻き声を上げて、俯いた。涙をこらえることが出来なくなったのだ。
「吉継」
渋谷は、一人無表情で座っている吉継に、声をかけた。
「ありがとな」
吉継は、畳に拳をつけ、頭を下げたまま、動かなくなった。その表情の変化を、渋谷に見られたくないのかもしれない。
「ここで、俺の仕事は、たぶん、一区切りなのかな。皆、この後も、俺を助けて、天下のために、力を尽くしてくれよ」
自分がいなくなった後のことを言っている、と、何人かは思った。
「なんだろ、たぶん、こういうとき、あんまりペラペラ喋るの、よくないことなんだろうな」
渋谷は、苦笑した。なんのために、皆を集めたのか、もうひとつ判然としない。
「それで、お召しの意図は」
官兵衛が、それについて言った。渋谷は、きょとんとして官兵衛を見た。
「なにも。ただ、お前らの顔を見て、声を聞きたかっただけさ」
「この先、殿下に、何が待つのか、お分かりか」
「おい、官兵衛。折角いい気分になってるんだ。やめろよな」
渋谷は、苦笑した。
「ご無礼を」
それきり、官兵衛は、何も言わなくなった。
渋谷は、もう一度、皆の顔を見回した。
官兵衛と、俯いたままで顔の分からぬ吉継以外は、誰もが、にこやかに笑っている。茶々も、笑っている。
あぁ、この笑顔は、俺がもたらしたのだ、と渋谷は心底実感した。
願わくば、この笑顔が人に伝わってゆき、天下の全ての人が、笑えればいい。
戦いにより、親や近しい人を亡くし、誰かを恨むことなく。
理不尽な悲しみに、耐えることなく。
辛いときは、側にいる者が、そっと肩を抱き、声をかけてくれる。
自分の側にいる者が困っていたら、そっと助けてやれる。
それで、また皆で、笑える。
そんな世が、続けばいい。
渋谷一人の力で、渋谷は自分の役目を全うしたのではないことくらい、彼はよく分かっている。
だからこそ、今、笑っているのだ。
さよならは、いらない。
ただ、笑い合えれば、それでよかった。
どういうわけか、言葉が、頭の中に浮かんできた。
和歌など、全く分からぬ。それでも、自分の口から、言葉が、きらきらと光りながら、こぼれてゆくように感じた。
「露と落ち、露と消えにし我が身かな」
一同、ぎょっとした。これでは、まるで、辞世のようではないか。
渋谷は、立ち上がった。ゆっくり、眼を閉じて、賤ヶ岳からの三年弱を、甦らせた。
それらは、全て、今この大坂城の広間で笑っている皆の顔に繋がった。
「浪速のことも、夢のまた夢、か。なんだろ、これ」
その言葉の意味が、渋谷ははっきりとは分からない。しかし、何故か、自分自身のことがすごくよく表されているような気はしている。
「まぁいいや」
ぱっと笑って、襖に手をかけた。
「行くわ」
開いた先の廊下は、陽の光で満たされていた。
「とにかく、ありがとな」
伊万里。渋谷のあとを、追った。
「渋谷」
「伊万里か」
渋谷の、自室。
「帰れるのかな」
「わからない」
呆然と、二人で座った。名前の分からない鳥の声が一つ、通りすぎた。
「おい」
室外から、声がかかった。
「お前達、とんでもないことをしてくれたな」
襖を開いて現れたのは、官兵衛である。
「官兵衛。悪いな。なんか、お前の思ってた感じと、違うっぽくて」
「よくも、そんな他人事のように」
官兵衛は、額の痣を歪めて笑った。
「お前達、消えてしまうのかもしれぬのだぞ」
「それは、嫌よ」
伊万里が、言った。
「でも、わたしたち、そんなことにはならないって、信じてるの」
「信じる?」
「だって、先のことなんて、誰にも分からないじゃない。わたしたちは、確かに、未来から来たわ。でも、わたしたちは、予言者じゃない。誰もが、自分の明日に怯えながら、夢見ているのよ」
「悟ったようなことを」
「ええ。利休は、もとの利休に戻ったわ。とすれば、利休としてこちらに来ていたあの人が消えてしまうっていうのは、おかしくない?」
「確かに、もとの利休が帰ってきたなら、あの男一人分、割に合わぬな」
「だから、きっと、もとの所へ帰ったのよ」
「都合のいい解釈だな」
「あら。悲観するより、ずっとましよ」
「お前達は、強いな」
官兵衛の眼が、緩んだ。
「俺は、いつも、何かに怯えている。俺はな、かつて大学で、歴史の研究をしながら、学生達に講義をする身だった。その頃も、毎日、怯えていた。興味も無く、ただ単位を取り、卒業し、就職するために俺の前に座る学生ども。彼らの眼に晒されるのが、怖かった。歴史には、人の素晴らしさと、愚かしさが、凝縮されているのだ。それを知れば、きっと、悩めるとき、先人達が敷いた前例をなぞることで、道は開けるのに。俺の前に座る若者どもは、そのことにすら、興味がないらしい。何も恐れず、何も喜ばず。それは、いつしか、俺自身になっていたのだ」
官兵衛が、部屋の外の空に、眼をやった。先ほどの鳥の声が、また通りすぎて行った。
「鳴かせてみしょう、ほととぎす、か。上手いことを言うものだ」
官兵衛は立ち上がった。
「俺は、まだ戻らぬ。俺自身が、俺を得ていないのだからな。こちらで、俺は、黒田官兵衛として、自らの力で、何かを成し遂げる。自分が、自分であると、思えるその日まで」
もしかしたら、自分が、世界の中のどこに立っているのか分からなくなったとき、歴史に、呼ばれるのかもしれぬ。なんとなく、そんなことを伊万里は考えた。
「ひどく迷惑な奴だったが、俺は、決して、お前達が嫌いではなかった」
官兵衛は、立ち去ろうとした。
「元気でな、いまちゃん」
一度振り返り、そう言って、また痣を歪めた。
夜まで、伊万里と渋谷は、部屋で何をするでもなく過ごした。
なんだか、ひどく疲れている。
どちらからともなく、畳の上に、ごろりと横になった。
ふと、まぶしくて、眼を開けた。
河の音。それに、何だか臭い。
全身が、冷たい。
濡れている。
渋谷は、跳ね起きた。
「うわ、伊万里!」
クラクションの音。イヤホンをしながら、ジョギングをする人。自転車。リードのついた犬。
「戻って、きた?」
伊万里も、眼を覚ました。二人とも、戦国時代の服のままである。
「うそ、やだ、ほんとに!?戻ってきたの!?渋谷」
「どうやら、そうらしい」
「やった!やったわね、渋谷!」
二人がいるのは、紛れもなく、隅田川の河川敷。
見上げれば、吾妻橋。その赤い欄干の脇で、もみ合う二人。
「おい、伊万里、あれ」
渋谷は伊万里の手を引いて、橋の上の歩道まで急いで駆け上がった。
取っ組み合う、見慣れた二人。
二人は、子犬のようにじゃれ合い、やがて、身を滑らし、一人が一人を落ちぬよう、支えた。
「落ちんじゃねぇ!刑事を隅田川に落としちゃ、ムショ行きだろうが!」
「馬鹿、あんたはどのみち、ムショ行きよ!」
渋谷と伊万里は、眼を見合わせた。にんまりと、二人で笑う。
手を繋いだまま、二人は駆けた。
欄干から身を乗り出し、必死で手を伸ばして一人を支えるパーカーの背中を、二人は強く押した。
「行ってこい!」
そのあと、腹が千切れるかと思うくらい、笑った。
渋谷と伊万里が戻ってきたのは、あの日、あのとき。
その今が、どこに続いてゆくのかは、誰にも分からぬ。
歴史は矛盾に満ちていて、その矛盾を、絶えず埋め、修正し続けているらしい。
それは、きっと、そこに居る全ての人が、矛盾に満ちながら、その矛盾を埋め、修正し、生きているからであろう。
二人は、自らの矛盾を、自分と、自分を知る者の力で埋めたのだ。
そしてそれは、この先もずっと続いてゆく。
少なくとも、二人は、今、笑っているから、それでよいのだろう。
ふと、伊万里が言った。
「服、どうしよう」
びしょ濡れになった戦国時代の衣装を着た二人を、道行く人が異様な眼で見ている。
「買うしかねぇだろ」
「財布は?」
「ねぇよ、んなもん」
「どうすんのよ、馬鹿!」
「知るか!何とかしやがれ!」
「あんた、金貸しでしょ!何とかしなさいよ!」
渋谷は、また笑った。
「じゃあ、事務所来いよ」
「え」
「なんなら、金、貸してやろうか」
「一万円だけだからね!法定金利で!」
金、貸して候 完
金、貸して候 増黒 豊 @tag510
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