焼身自殺-4
「あれ、おはようございます」
部屋を出て階段を降りた先で、ツツウラと彰良は丁度雑居ビルの前を通りがかったウイと鉢合わせた。彼女も驚いたらしい、少しだけ肩を跳ねさせて、黒い制服の襟の上で髪の毛先が跳ねる。
「おはようございます」
「ウイ君もおはよう、これから朝ご飯?」
「ご飯というより、休憩ですかね」
ツツウラが首を傾げてウイを指差した気配に、彰良は彼が示した先を見る。
黒い袖から覗く華奢な手には、つい数分前にも見たマークが印字された白いレジ袋が握られていた。
「何だ、言ってくれたら俺一緒に買ってきたのに。俺もさっき買って戻ってきたばっかりなんだよ、入れ違いかぁ」
「いえ、遠慮しておきます。ツツウラさんこの間メロンパンと間違えてコロッケパン買ってきたじゃないですか」
緩く弧を描く唇と穏やかな声音。しかし明らかな棘と怒りを含んで、ウイは肩を竦める。
何をどうしたら、見た目もジャンルも値段も違うであろう商品を間違えられるのやら。彰良は横目でツツウラの顔を見る。相手の機嫌を伺うような引きつった笑みで、唸りとも思案とも取れない声を漏らしたツツウラが頭を掻く。
「や、あーっと……それは……いや、俺何回も謝っただろ?」
「あ、そうだ」
拗ねたように俯く同業者にはもうそれ以上何も言わず、ウイは閃いたようにレジ袋にもう片方の手を入れる。
「これ、よかったら彰良君にあげるよ」
外に出る少し前、ツツウラが口にしたものと同じ台詞と共にウイが手を出す。
膨らんだ袋は小さな掌の上で収まりきらず、彼女の手を完全に隠していた。内側に少々の水滴を付着させ、商品名の斜め上辺りに何かのキャンペーンのシールが貼られたそれもまた、彰良には見覚えがあった。
「シュークリーム食べられる?」
「あ、はい……今でも食えるかどうかは置いといて、ですけど」
答えながら、シュークリームの袋を受け取る。やはりこれも自社製品だ、大きさの割に中のクリームの量が少ないと、女性従業員がぼやいていたことを彰良はふと思い出す。
別に甘いものに抵抗もないし苦手でもないが、問題は食えるかどうかだ。飲めたなら食事もできるだろうとは思うが、まだ自分一人で判断できるほどこの世界の理解を深めてはいない。
「食べてみたら? 何かあったら俺が何とかするからさ」
ツツウラに促されて、彰良は袋の縁に指をかけた。そのまま破ろうとして手を止める。
「……今から仕事、ですよね。これ部屋に置いてきます」
「歩きながら食べたら? 誰が見てるわけでもないし、私達も他の社員も気にしないよ」
返事を聞くより早く踵を返しかけて、どこか楽しげなウイの声に制止される。傍目には真面目な女学生然として見える彼女がそんなことを言うというのは、妙な違和感と不思議さがあった。
細い肩とレジ袋とを揺らして笑うウイに合わせて、ツツウラも頷いて微笑む。
「まあ、仕事終わった後のお楽しみにって気持ちは分かるけどね。……それじゃあ、俺達はもう行くから、ウイ君も今日一日頑張って」
「ありがとうございます。あまり彰良君に無理させないでくださいよ」
「ああうん、大丈夫大丈夫――彰良君、行こうか」
ウイとツツウラの双方が、軽く上げた手を振り合ってから互いに背を向けた。また歩き始めたウイの背中に頭を下げてから、彰良もツツウラの隣に着く。
今まで通り二人で並んで歩きながら、貰ったばかりのシュークリームの袋に目を落とす。クリームたっぷり! という謳い文句が商品名のロゴの下に記されていて、この袋をデザインした誰かはどんな思いでこんな言葉をくっつけたのだろうかと考える。
自分に歩調を合わせてくれているらしい、ツツウラの足音は緩やかで、自分の足音と重なっていた。
懐かしい商品を一通り眺め終えて、彰良は顔を上げる。
「今日の仕事って、ツツウラさんは何かあるんですか?」
「そうだなぁ……いつも通り、情報の整理でもしようかな。あとは、こうしてのんびり歩いてはぐれてるニンゲンがいたら対応するくらい」
彰良の問いに答えたツツウラが、遠くを見渡すように首を動かした。
「それが自殺者だったら、彰良君の出番だけどね」
「……違ったら、ツツウラさんの仕事になるんですね」
「俺のっていうか……まあ、そうか。担当者に引き渡すのは俺の仕事かな」
敢えて言わないのか、それとも訊いていないから言わないだけなのか定かではないが、彰良はこの段になって尚彼等の厳密な仕事内容は聞かされていない。それでもいつも通りという言葉から、基本的な業務は今ツツウラが語った通りなのだろうと推測する。
思っていたより力技というか場当たり的というか、何というか。何らかのシステムや概念に任せていないという点では取りこぼさず確認できる利点はあるのかもしれないが、人智の外に在る割には原始的なやり方だ。
まあ、だからこそ自分がまだここに居られるわけだし、そんなものか。一人で納得して、彰良はシュークリームの袋を開ける。
僅かばかり体が――主に腹の奥が重くなるような感覚に彰良は一瞬息を詰めた。まさか洋菓子一つにここまで緊張するなんて、と内心自嘲して、まだ冷蔵時の冷たさを残すシュークリームを取り出す。
大丈夫だ、何かあったらツツウラが何とかしてくれる。歩き続ける彼に知られぬよう、小さく頷く。
「そんなわけで、誰か見つかるまでは正直暇だし、何か質問とかあったら答えるよ。彰良君もずっと歩いてるだけじゃ暇でしょ?」
取り出したシュークリームの少しふやけた生地に歯を立てるより先に言われて、彰良は片方の手にある空袋を見た。
先程の彼がそうしていたように周囲を見回して、首を傾げる。
「じゃあ、これ……ゴミ箱とかどこか近場にあります?」
ゴミをずっと持ち歩くわけにもいかない、そう思って尋ねてみたが、返事はなかった。
「……ツツウラさん?」
普段なら、すぐ答えられないことにも答えられないなりに何らかの形で返す筈のツツウラが沈黙していることに、彰良は隣を見る。
そこに居る筈の、自分よりも背が高い立ち姿が消えていた。
それを理解して、彼の姿を探すべく視線を巡らせようとして、次の言葉を紡ごうとして、そして彰良のあらゆる反応よりも早く、重い袋が落ちるような音が数秒の沈黙を裂いた。
真後ろから聞こえたそれに、弾かれるように振り返る。
彰良の数歩程後ろで、ツツウラが膝をついていた。
「ツツウラさん?」
繰り返して彼の名を呼んだ声は、どことなく間抜けていた。何か気になるものか思い出したことでもあったのかと、彰良はそばに屈む。
片手で口元を覆ったツツウラが、項垂れたまま目だけで彰良を見上げた。
「彰良、君」
自らの手が塞ぐ向こうで、消え入りそうな程弱々しい声がした。
「ヤバい、……これ、俺じゃダメ、だ」
「ツツウラさん、どうし」
「ウイ君……ウイ君ならまだ、遠い、から、彰良君、ウイ君に――」
その先は、悍ましささえ伴う水音で聞こえなかった。
何とか彰良を捉えていた視線が外れ、ツツウラが苦しげに体を折った。微かな呻きと共に彼が屈む地面が黒く染まる。
アスファルトを黒く濡らした色は、口を押さえるツツウラ自身の手から垂れ落ちていた。さながら血のような粘度の糸が引いて、それが途切れるが早いかツツウラの強張った痩躯が震えて、指と手の隙間から再び黒いそれが吐き出される。
ごぼりと水が沸くような音と共にツツウラが咳き込み、地面に当たって弾けた黒い雫が彰良のエプロンの裾を染めた。
びしゃ、と水が弾ける音と、墨汁を零したような色――彰良はどちらにも覚えがあった。それは自分が陥った“症状”で、死者である自分に起きた現象だ。自分が自死を思い出すことで外部に“湧き出る”ものだ。
本来、生と死という概念のない彼等が出す筈のないものだ。
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