服薬自殺-6
幾重にも重なり合った機械音。金属と金属が擦れ合いながら重厚な塊を加速させる音を、彰良はまだ覚えていた。自分のかつての職場はこの発生源に特に近しかったから。
電車だ。駅で一度停まったあと、再び線路の上を辿り始めた電車の音だ。
彰良は、初めてこの場に足を踏み入れたときのように瞬きを繰り返す。
そうすれば、こんなナイター照明を幾つも束ねてまとめて一方向に照射したような馬鹿げた眩しさでも、そこそこ目を開けられるくらいには慣れることが出来た。
「何だ、アレ」
ただ一人、この場を把握しきれていない凛太郎が呟く。
稼働し始めた“駅”に照らされた彼の顔は、病人さながらに色が抜け落ちていた。それは死にかけたせいか、それとも生来のものか、この状況にようやく狼狽を覚えたのか――あるいはその全てなのか。ただ視界の端で確認できただけの彰良には判別できなかった。
「――“輪廻”……」
彰良は自分でも意識せず、眼前の光景を指す言葉を零していた。
人の営みと生活のない彼岸の夜を白く染め上げる、無人駅の稼働。きっと夜だから気がつかなかっただけで、この駅の周囲にはちゃんと線路が張り巡らされているのだろう。しかし、本来であれば自分も乗るべきである音の出所たる電車の姿は、彰良の位置からは見えなかった。
「そう、これが輪廻」
「死んだ魂がまた現世に生まれる為の」
「そう」
「……死んだ人間が、また次の人生に向かう為の」
「そうだね」
彰良のうわ言に等しい声に、ウイは“輪廻”を見据えたままで小さく頷いた。
それから、未だ呆けている凛太郎に微笑みかける。
「ごめんなさい、凛太郎さんまで巻き込んで見せるつもりはなかったんですけど……」
後にまだ続きがありそうな響きを残したまま、ウイの台詞はそこで終わる。
途切れた言葉の残滓を、途切れない轟音が上書きして搔き消していく。耳慣れた電車の音が少々遠くなった頃、凛太郎が大きく息を吐く気配がした。
「……あれが、君らが言う輪廻ってやつ?」
「はい。ヒトの認識とは、もしかしたら違うかもしれないんですけど」
「成る程。……輪廻って言うからには、環状線か……」
最後は独り言のようだった。己の口の中で解釈を完結させた凛太郎が肩を竦める。
「僕は、あれには乗れないのかぁ」
諦めたような微笑が、彼の口元を彩っていた。
剣吞さを失った眼差しとその表情と、竦めた肩を落とした立ち姿は、どこにでもいる少し物憂げな若者そのものだった。自分が死ねないことを教えられた瞬間に消されてしまった激情の火は、一片の燻りさえ窺えない。
よかったですねという付け焼き刃の慰めが、彼の耳に届く前にウイによって消されたことに、彰良は今更ながら安堵する。
「……まぁ、今回は失敗でもいいか。面白いもんも見れたし」
屈託なく笑った凛太郎が、後ろに倒れ込むようにベンチに腰掛けた。
遠ざかった摩擦音の反響が小さくなるに連れて、駅の敷地内全てを照らし出していた光が徐々に治まっていく。とはいっても、ただでさえ強烈な明かりだ。時間になった瞬間の発光よりマシなだけで相変わらずこの近辺だけが明るいことに変わりはない。
「あの、“下界”の無用な混乱を避ける為にも、あちらに戻った後この事はあまり話さないでくださいね?」
「あぁ、うん、分かった分かった」
分かってない。この生返事は絶対に分かっていないときの口ぶりだ。人がそういう適当な言い方をするのは、大体分かっていないときだ。
「……本当に分かってます?」
「分かってるよ」
ウイの懸念を引き継ぐように念を押してみるが、凛太郎は面倒臭そうに片手を振るだけだった。
「っていうか、どうせしばらくは言う暇もないだろうし。言えるようになった頃には忘れてると思うわ」
「……どういうことですか?」
「そんままの意味だけど? あっち帰ったら絶対病院だろうし、言ったところで自殺未遂者の幻覚扱いされるだけだよ。言う意味なさすぎ」
聞き返した詳細な答えに、彰良はそこでようやく、彼が決行した自殺方法を聞いていないことを思い出した。
採った方法だけではない。何故死のうと思ったのかの動機も何も彰良は知らない。凛太郎の気迫と午前二時の“輪廻”に気を取られて失念していた。恐らくはウイも。
一度関わって、生死に首を突っ込んで言葉を交わして止めようとした以上、何も知らずにいるのは逆におかしい気がした。
「……あの、凛太郎さん、あなたは」
「あー、それね」
どうやって死のうとしたんですか。あるいは、どうしてそんなに死にたいんですか。
どちらを先に問おうとしたのか、彰良自身も分からない内に、凛太郎が背もたれに預けていた背を少しだけ浮かせた。
「オーバードーズ。分かる?」
「薬の過剰摂取……」
「それ。僕、首吊るのも飛び込むのも君みたいに飛び降りるのもなんか面倒くさくてさぁ」
凛太郎は、頭を抱えるように髪を掻き乱す。冷静になったことでの羞恥を抑える為の照れ隠しなのか自嘲なのか、手を下さないままで喉奥で笑う。
「薬ならその点面倒くさくはないだろと思って、取り敢えず手に入るだけ集めて酒で飲んだんだよなぁ。……あれじゃ死ねないか」
「……このご時世、よくそんな死ぬ確率が一番低いような方法選べましたね……」
薬で死ねると囁かれていた時代はもうとっくに終わっている。過剰服薬による自殺での代表格といえば睡眠薬だろうが、それだって今一般人が入手出来るものでは千錠万錠と飲んだとしても死ねはしない。らしい。
体質や薬の種類や偶然という要素が絡み合って運が良ければ息を引き取ることも可能だろうが、僅かでもしくじろうものなら後に待つのは後遺症と胃洗浄だ。
だというのに、怠惰さ一つでその方法を選ぶのは、ある意味愚行とさえ思えた。
「僕は疲れてるんだよ。君みたいに屋上まで上がってフェンス乗り越えて一思いに飛び込む根性なんてない」
「……疲れてるって、それが自殺の理由ですか?」
いちいち投身自殺の一件を仄めかす凛太郎に、彰良は敢えて何も言わずに質問だけ投げる。
食ってかかるのも恥ずかしいし、反応したら負けだという変な意地もある。何より、引きずられて反応して、まだ記憶に新しいあの痛みに触れることが嫌だった。
受け流されたことに気分を害した様子もなく、凛太郎が頷く。
「そうだよ。僕は疲れてるし疲れたんだ」
「何に、そこまで」
「何だっていいだろ――っていうか、明確に“何に”っていうのはないからなぁ……」
目を伏せた凛太郎が、自分の頭を掻いてそのまま乗せていた手を下ろし、口元に触れた。
「仕事とか、人間関係とか、暗黙の了解とか、外に出るのにまともな格好しなきゃいけないとか、お腹空いたり眠かったら能動的に対処しないとどうにもならないとか。何かそういう、生きること全部に付随することにうんざりしてたんだよ」
口の動きを隠していた手が離され、少し開いた膝の間でもう片方の手に触れて指が組まれる。伏せられていた瞳が、彰良を捉える。
「君もそうだろ。……覚えはあるだろ」
妙に落ち着き払った凛太郎の声は、子供を諭す大人のような響きでもって彰良の鼓膜を揺らした。
人生に、そして生活に絡まるありとあらゆるものは、物質的なものだったり精神的感覚的なものだったりする。家族。友人。好きな食べ物。嗜好品。会社或いは学校。趣味。大切な人から言われる言葉。自分の中に生まれた“何か”の感覚、喜怒哀楽。
普段なら生きる理由として機能するそれらは、時に死ぬ理由――大体の場合は憂鬱さや絶望に姿を変え得る。そして気分転換や時間の経過や何か別の対処法である程度薄れて、また生きる理由に戻る。
人生を人生たらしめるものが反転して元に戻らなかったとき、元に戻しようもなかったときに、人は自ら死んでいくのだ。
彰良もそうだった。凛太郎が死因に選んだものに、もしかしたら彼さえ掴みあぐねているその感覚の片鱗に、覚えがあった。
言葉で同意するより早く、彰良は小さく、しかし確かに首を縦に振った。
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