服薬自殺-7
「そっか」
目を細めた凛太郎が破顔した――その輪郭が、ぼんやりと滲んだ。
自らの体の線が揺らいでいるのに、凛太郎も気づいたのだろう。ころころと変わる表情が、今度はまた驚きに変わっていた。
前回の女子生徒とは違う。進んで帰ろうとしたわけではなく、時間切れだ。彼はもうここにはいられない。
彰良は、今まで黙って自分と彼の会話を聞いてくれていたウイに目配せする。
「……凛太郎さん、お時間です」
「……死ねなかったんじゃ、しょうがないか」
ウイの通告に、凛太郎が名残惜しげに嘆息した。
「お元気で」
「あぁ、そうだね、また日を改めて来るよ」
「出来ることなら、ヒトの寿命は全うしてくださいね。彰良君の為にも」
「仕事を増やすなって?」
「そうですよ。あなたが来たら、俺の仕事が増えるんで」
彰良は冗談めかして言ってやる。自分も味わったあの鬱屈とした世界で自然に死ぬまで生きろと言うのはやはりいい気分ではなかったが、本来ここに来る筈のなかった人間だ。なら、今は死ぬべきではない。
声を上げて笑った凛太郎の体が色を失っていく。上げた片手が別れの為に軽く振られて、その末端が周囲に溶けるように消える。
「じゃあ、そのときまでさよならー」
「……さよなら」
「さようなら、凛太郎さん」
各々のさよならが合図だったように、彼の姿が急速に透けていった。
彼の全てがここから失せてしまう前にと、彰良はウイとほぼ同時に別れを返す。
「――あぁー、胃洗浄されんのやだなぁ……」
月ヶ瀬凛太郎の最後の言葉は、そんな露骨に嫌悪だった。
彼の色の白い肌も、着ていた黒いシャツも、怒りも楽しさも同じくらいの大きさで見せる表情も、全てが瞬く間に“あちら側”に帰っていく。
一度深呼吸を繰り返す程度の時間で、辺りは訪れたときと同様の静寂を取り戻した。もう、あの騒々しい電車の音も聞こえない。
「彰良君、大丈夫?」
凛太郎が座っていたベンチに目を向けたままだった彰良は、ウイに袖を引かれる感覚に我に返った。
「ああ、大丈夫です」
「色々重なっちゃったね、お疲れ様。私が言うのもおかしいけど……」
「大丈夫ですよ」
繰り返して、彰良はほっと息を吐いた。
ひとまず自殺者の対応という自分の業務はこれで終わりだ。予想外というか想像以上というか、とにかく今まで思ってもみなかった相手だったから疲労はあるが。
「……それにしてもツツウラさん、彰良君にこんなことさせてるの……」
「……いや、前はこんなじゃなかったので多分今回が異例なだけです。俺もああいう人は初めてですし」
独り言かもしれないが、そう答えておく。言っておかないと、またウイとツツウラの間に無用な争いが起きかねない。
ああいう性質の人間と接触して、こうも長く言葉を交わしたのは初めてだ。今は勿論、生きていた頃だって凛太郎のような奇矯な人物とは無縁だった。
「まあ、そうだよね。そうであってほしいな、私もああいうヒトと会ったのは初めてだし」
「そうなんですか?」
「少なくともここの担当の私はね。もしかしたら、他の地域だといるかも」
地域差か何かだろうか。それにしても、凛太郎の奇特さは群を抜いているような気もするが――いや、まだ自殺者達とそう多く出会っていない自分が考えることでもないか。彰良は思考を切り替えるように、駅に目を向けた。
人工の光で満ちた物言わぬ駅舎は、稼働する瞬間の強烈な白光と、魂を運んでいく轟音などすっかり忘れ去ったかのようにそこに佇んでいた。
「また今度、案内するね。落ち着いて見られるように」
「……今日だけでいいですよ。大体分かりました」
彰良は緩く頭を振る。ここがどんな場所で、何を司っているのかはあの状況でも十分理解できた。それと合わせて、どうしてウイがわざわざ自分だけを連れてきたのかも彰良は何となく察していた。
彼女は自分にあの瞬間を、死した人々が再び生を受けるべく旅立つあの瞬間を見せることで、本当にこの世界に居残るのかと再び問いたかったのだろう。一度受け入れた手前、見るだけ見せるだけと言った手前促すことはしないにしても、自分がやっぱり乗りますと掌を返したら、彼女はすぐにでも対処してくれるつもりだったのだろう。
もし本当にこの憶測通りだったとしても、彰良の答えは変わらない。本来あの電車に乗るべき身でも、自分自身がまだ乗るべきではないと感じている。
だから、敢えて何かウイに言うことはしない。そしてウイも、それ以上彰良を追求しようとはしなかった。
「……生きること全部に付随することに嫌気が差してしまうって、寂しいね」
代わりに漏らされたのは、先程までこの場に座っていた彼が語った理由だった。
一度口を噤んだウイが少し俯いて肩を落として、垂れる髪の毛の向こうで目を伏せる。
「初めて知ったよ。私、死んだヒトとああいう風に話すことってそうそうなかったから」
現世と人間の生き死にに関わる存在で、しかも仕事熱心で人間に対して好意的な感情を抱く彼女のことだ。今の世の中は自分が想像していた以上に陰鬱なのだという事実は、随分と衝撃だったのだろう。
「彰良君も、そうだったの?」
「……まあ、」
「だから死んじゃったの?」
「……俺の場合、ずっとうんざりしてて死にたかったっていうよりは、衝動なんですけどね」
自分を見上げてくるウイの悲しげな目を見返すことが出来ず、彰良は自嘲と冗談を混ぜた笑みで顔を背ける。
衝動。確かに、宙に向かって踏み出したのは一時の感情に任せてだ。しかしそれは、その選択肢を選べるだけの土壌は既にその時にはあったということで、だとしたらただの衝動的なものではないのかもしれない。凛太郎の言う感覚に覚えがあったように、その嫌気は衝動として最後の理性を破るべく、ずっと自分の中で萌芽を待っていたのかもしれない。
ウイに説明する為の次の足がかりを選びかねて、彰良は自分の胸元で傾いている名札を指先で整える。
「……だから、ヒトは自分から死んでしまうんだね」
今度こそ、それは独り言だった。一人で何かしらの答えを得たらしいウイは彰良を見ることもやめて、体の前で自らの片手をもう片方の手で包むように握っていた。
だから人は自分から死ぬ。憂鬱さと嫌気と諦念という膿を出すことが出来ない人間が、出すことを許されない人間が死んでいく。そして膿を生む傷は人間が同族と関わる上で相互的に付け合うもので、傷は基本的にいずれは癒えるものだ。傷痕がこびりついたとしても、そこが血と毒を出すことはなくなる。それが不可能になったとき、また人は自ら死んでいく。
自死という選択肢を自らに課す人間の瞳に映る世界というのは、そういうものだ。
自分達が“下界”と呼ぶ世界に満ちる陰鬱さの末端に触れたウイが身動ぐまで、彰良も無言のまま立ち尽くしていた。
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