自死生命迷惑論

咳屋キエル

プロローグ



 米田彰良よねだあきらは、その日、遺書の一つも残さずに自殺した。

 決行場所は、家の近所にあるマンションの屋上。やたらと階数が多くて背が高い以外、何も知らない建物だ。勿論自分の住居ではないし、知人友人の類が住んでいるわけでもない――いや、もしかしたら住んでいたかもしれない。職場の人間か、あるいは学生時代の同級生か誰かが住んでいたのかもしれない。世間とは案外狭いものだから。

 とはいえ、死んでしまった以上はそれももう確かめようのないことだった。

 同時に、死を選んだ以上、そんなことを考える意識も霧散する筈だった。

 しかし、彰良は自分が死んだことを理解していた。飛び降りて死んだことを知っていた。

 それはつまり、自我を保っていると言える。

 生きているわけではない。生きているわけがない。ビルに換算して七階・八階、純粋な高度で言えば二十メートル以上の高さから飛び降りて、まともな意識を保っていられるわけがない。

 何より、自らがもう生きていないのだと示すものは、彰良の目の前にあった。というか、居た。


「――何で、死ぬんだよ」


 彰良の目の前には、弱々しい声で訴える見知らぬ男が居た。

 歳はせいぜい、二十代半ばか。黒いスーツを着込んだ姿は、今から営業に向かうサラリーマンにも、葬儀に向かう喪服姿の遺族にも見える。

 男は今にも泣き出しそうな顔で、彰良を見つめていた。

 ひどく悲しんでいる様子だった。端正な顔立ちを歪めて、次に何と言おうかと必死に言葉を探しているような、切羽詰まったような、何とも言えない表情をしていた。

 しかし彰良は、彼のような男を知らない。親戚にはこんなにスーツが似合う若者はいないし、知人にもいない。友人もいない。何者かという以前に、悲しまれる理由が分からなかった。

 男から少しだけ、視線を外す。彼は、生真面目そうに背筋を伸ばして立っていた。そしてその姿を見る自分の視界から、彰良は自分が立っているらしいことを今更ながらに悟る。


「――あの、俺」


 自然と、生きている時と遜色なく声が出た。

 死んだんですよね、と、男の言葉を反芻すべく、彰良は息を吸う。何故、体を失って尚呼吸という生命活動を行えるのかは不思議だが、ものを考えられている時点で今更なので放っておく。


「俺、死ん」

「何で死ぬんだよ!」


 言いかけたとき、男が唐突に声を荒げた。

 びく、と思わず肩が跳ねる。どうやら体の感覚もあるらしい。まあ、自分は今突っ立っているようだし当たり前か。彰良はどことなく場違いなことを思う。

 彰良はもう一度、男の顔を見た。

 顔を歪めて、眉を顰めて、歯噛みしている。細められた目が、自分を見つめている――否。睨んでいる。

 そこでようやく、彰良は男の顔を歪ませている感情が何たるかを知った。


「何でだよ! 何で死ぬんだよ! くそっ、自殺なんてしなくてもいいだろ! ふざけるなよ!」


 一度怒鳴ったことで箍が外れたのか。男は矢継ぎ早に、怒りに任せて吐き捨てた。

 その言い分に、腹が立たなかったわけではない。死を選ぶには相応の理由があって、そして自ら命を絶つ行為は主に、想像以上の恐怖を衝動で捻じ伏せて行われる。

 その全てを無視した発言に、苛立ちが湧かない筈もなかった。それを抑え込んでいるのは、怒りや苛立ち以上の戸惑いだ。

 一体誰なのか。何で自分は自分としてまだ自分を保っていられるのか。そしてここはどこなのか。どうしてそんなことを言われなきゃいけないのか。彰良の中で、疑問はこの順に並んでいる。

 だが、未だに「何で死ぬんだ」「死ぬなよ」と男が繰り返しているせいで、その疑念を言葉にすることは叶わなかった。

 ひとまず、相手が落ち着くまで言わせておこう。彰良は決める。無意識に導き出したその結論は、自分が生前よく行っていたことだった。

 そのまま、しばらく。体感時間的には十分以内。


「何で……何で、だよ、どうして……どうして……」


 流石に叫び疲れたらしく、男の声が目に見えて勢いと覇気を失っていく。

 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返して、がっくりと項垂れる。

 そろそろ話してもいいだろうか。彰良は、男の頭部に視線を落とした。


「……あの」

「くそぉ!!」


 まだだった。

 男は一際強く絶叫してから、勢いよく顔を上げる。

 明確な怒りでもって彰良を睨む男は、一度大きく息を吸って、そして言った。


「何で死ぬんだよ! 今日こそ定時で帰れると思ったのに、これじゃまた残業じゃないか!!」


 それは最早、悲鳴に等しい訴えだった。

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