首吊自殺-6

「……それでもどうにもならないな、って思ったら、今度こそ死んだらいい。その時には俺も帰したりしない。帰させない」


 本心からの言葉だった。打てる限りの手を打って、それでもどうにもならず死んだなら、もう自分はツツウラに残業させてでもそのまま死なせてやろうと思っていた。

 事態が上手くいかなかった時の為の、死の確約。いつでも死ねる約束。それはきっと、死を視野に入れた人間にとっては何よりも安心できる要素の筈だ。

 仁美が、喉の奥から吐き出すように嗚咽を漏らした。肯定さえ口に出せぬままに何度も頷いて、彰良に怒りをぶつけた時とは違う涙を必死に拭う。

 彰良はその肩を叩こうと手を伸ばしかけて、すんでのところで止める。

 自分は彼女とは違い完全に死に切った人間だ。そんな“死者”がまだ生者としての可能性に溢れた仁美に不用意に触れたら、どうなるか分からない。

 だから、彰良は伸ばした手を下ろしてから「それじゃあ」と自分の中ではかなり努力して、明るい声を出した。


「どう帰るのか俺もよく分からないけど、もう少し生きようって思えるなら、多分戻れるよ。ここはそういう場所らしいから」


 肉体を失って尚、睡眠を取れたように。きっと仁美自身が、生命を意識出来れば戻れるだろう。現世の肉体の生存本能も相まって。

 こくこくと首を振る仁美が一度だけ鼻をすすって、まだ溢れ出る涙で潤む目で彰良を見た。


「……あの、米田さん、で……いいですか?」

「合ってる」


 よかった、と嗚咽混じりに呟く仁美が、寝間着の袖で乱暴に目元を拭った。


「ありがとう、ございます」

「いいよ」

「……またもし私が来ちゃっら、ごめんなさい」

「いいよ」


 彰良が頷いて、仁美が頷いて、それを互いに二度繰り返す。

 彼女の謝罪を聞き入れて短く肯定したとき、彰良は彼女の輪郭が揺れるのを見た。

 絵の具を水に落としたときのように、時間が経った虹が消えるように。もしくは、それこそ霊体がすっと姿を消すように。立っていた少女の姿が薄れていく。その様は、ある意味では夢にも似ていた。

 彰良の目の前から仁美の姿が完全に消えるまで、そう時間はかからなかった。ただ、彼女が足元に落とした涙の跡が数滴分、アスファルトに染み付いていた。

 彰良は、自分が初めて請け負った相手が戻っていく全てを見届けて、音もなく長い息を吐いた。

 これで終わったのかという思いが、安堵か郷愁かそれとも全く別の感情か何かを孕んで、ぼんやりと彰良を包んでいた。

 彼女はあちらで目が覚めた後、ここでの話を覚えているだろうか。死に損なってしまったと嘆くだけに終わってしまわないだろうか。そんな心配だけが、少しだけ胸にある。

 いや、自分のことなんて忘れていてもいい。ここの存在も忘れていていい。ただ、話したばかりの約束と安堵だけでも残っていてくれたらそれでいい。


「――お疲れ様、彰良君」


 いつからそこにいたのか、隣に立っていたツツウラに肩を叩かれ、彰良は我に帰る。


「大丈夫だよ、ちゃんと帰ってる、時間的にも何の問題ないから、もうあの子のことは心配要らないんじゃないかな。あとは“下界”で解決してくれるよ」

「……だと、いいんですけどね」


 妙に長い話し声に、妙に安心する。

 ツツウラに答えたこともまた本心だった。本当にそうだといい。現世の問題は現世で解決して、救済してくれればいい。願わくは、彼女がもう死を選ぶことがないくらいに。

 その核となる感情が同情か共感かは分からないが、彰良は心の底から、まるで祈りにも等しく考えていた。


「それにしても、彰良君すごいね、初めての相手なのにあんなにスムーズに帰せるなんて」

「正直、最初は頭抱えましたよ。俺が一番安心してます」

「俺も安心したよ、これで今日も残業なしで帰れる……この後誰も来なきゃだけど、まあ、流石に何度も俺と彰良君が会うことはないでしょ、広いから」


 嬉しそうに笑ったかと思えば困り顔になって、それを振り払うようにまた笑う。ころころと変わるツツウラの表情を見るのが随分久しぶりに感じて、彰良は口元を緩める。

 彰良自身としても、今日はこれ以上自殺者と接触するのは避けたかった。次もその次も今回のように上手くいくとは限らないし、何より、ひどく疲れていた。余程、気を張っていたらしい。

 足元から這い上がって背と肩を重くするような重苦しい疲労に、彰良は手の甲で額を拭う。手を見てから、汗が滲んでいないことに気づいた。死んでいる訳だし、当たり前だ。


「――本当に、何で死ぬんだろうね」

「……何がですか?」


 ツツウラが唐突に、そんな言葉を口にした。もしかしたら独り言だったのかもしれないが、何となく声音に問いかけの気配を感じて、彰良は首を傾げる。

 それは昨日この世界に来た自分への問いであり、先程自分が帰した青瀬仁美にも向けられた問いだ。そして、どちらの場合でも問いの意図はツツウラの残業に帰結する。何で死ぬんだ、また残業になるじゃないか、と。

 だが、今回の響きは今までとは違っていた。


「何で、自分から死ぬんだろうね。どうせいつかは必ず死ぬのに、わざわざ自殺なんてする意味が分からないんだよなぁ」


 生と死の埒外に存在しているからこそ理解が及ばない次元への、純粋な疑問。

 意味が分からない、という言葉には、人間に判断できる悪意は一切混じっていない。本気で分からないし知らないという響きがそこにあった。

 それを“わざわざ自殺した”自分の目の前で言うのか。彰良はそう返してやろうとして止める。彼は本当に、悪意なんて芥子粒程も持っていない。

 死を理解できぬ幼児が、どうして人は死ぬのかと言っているのと同じことだ。

 うーん、と悩んでいるツツウラの顔を見上げてから、彰良は首を横に振った。


「……何でですかね」


 本当に、何でだろう。

 わざわざ死を早めて選んだ身でも、ツツウラの疑問を解消できる答えは見つからない。

 じゃあ、どうして自分は死んだのだろう。答えられないくらいなのに。


「うーん……まあ、いいや。俺としては仕事が無駄に増えなきゃそれでいいや、よく分からないものは分からないし……」


 まあいいや、と軽く流して笑んだいつも通りのツツウラが、今の彰良の目にはどことなく冷酷に見えた。

 ただの恐怖か、畏怖か。ぞく、と彰良の背筋に悪寒が走る。

 人間に近い振る舞いと高次元らしからぬ感情の機微で隠されがちだが、彼は人間ではない。人よりも上の存在だとしても、彼は人間の思考を知らないし理解できない。それこそ、次元が違うからだ。

 今更、今まで片鱗ほどしか認識していなかった事実を理解する。

 彰良の考えていることなど知らぬまま、ツツウラは軽く伸びをしてから黒いスーツの襟を正した。


「じゃあ、また行こうか。話の途中だったしね」


 言いながら、ツツウラが歩き出す。数歩進んで、肩越しに振り返って、首を傾げる。

 今行きます、と言って歩き出そうとするが、しばらく同じ体勢で立ち竦んでいた彰良の足は少し震えるだけだった。縫い付けられたように踏み出せないまま、彰良はツツウラを見る。


「行こう」


 彰良の視線に答えるように、ツツウラがそっと手を差し出した。

 普通の若い男の細い掌。人間と何ら変わらない、ただ温度が抜け落ちた手を差し伸べられて、彰良はおずおずと手を伸ばす。

 何で昨日は考えもしなかったことに、こうも囚われているのだろう。怖がる要素はどこにもない筈なのに、こうも怖気づいているのだろう。

 雑念を振り払うように、彰良はツツウラの手に自分の手を重ねた。

 軽く手を引かれて、反射的に一歩踏み出す。そしてもう一歩歩いてから、ツツウラが温度のない手を離した。


「歩ける?」

「……歩きます」


 彰良はぎこちなく頷いて、ざり、と音を立てて地面を踏む。

 踏み締めた足が地平から離れる頃には、もう悪寒も何も消えていた。息を吐いて、彰良はツツウラの隣に並ぶ。

 通り過ぎたアスファルトの上では、自分が初めて帰した少女の涙がまだ乾ききらずに残っていた。

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